2020年08月30日

明治を学ぶ18

明治16(1883)年7月20日、公家出身者として維新三傑と共に明治政府を支えた岩倉具視がガンで病死。

11月28日、欧米諸国との不平等条約改正に向けての切り札・欧化政策として鹿鳴館が作られる。文明開化の象徴と言われる。

外務卿井上馨主導の元、総工費18万円現在価値で36億円をかけた国賓をもてなす迎賓館だった。
当時の西欧では外交と社交が深く結びついており、円滑な外交交渉を行うには社交場が不可欠で日本が文明国であることを広く諸外国に示す目的で作った。

連日繰り広げられる舞踏会や演奏会に庶民や国粋主義者から批判の声が出はじめ、本来の目的だった条約改正も上手くいかず明治20年に井上馨は外務大臣を辞任。それと共に鹿鳴館時代は終わった。

8月、伊藤博文ヨーロッパ憲法調査から帰国。
ドイツに習い国会を二院制にしたいと考える。衆議院は選挙で選ぶとしてもう一つは貴族院を作ろうとした。

17年7月20日、貴族院を作る為「華族令」施行。
華族に5段階の爵位を設けた。内容詳しく覚える必要はないと思いますが一応メモ書きしておきます。
上から順に「公爵」「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」。

公爵―明治維新を成し遂げた大名や公家と徳川本家。(三条家、島津家、毛利家など)
侯爵―三条家以外の公家、徳川御三家。15万石以上の大名、琉球藩王、知藩事。(大久保家、木戸家など)
伯爵―大臣家、徳川御三卿、5万石以上の大名。(伊藤、板垣、大隈など)
子爵―堂上家、大名の分家など。
男爵―維新後に公家や大名になったもの。功績をあげた軍人など。

公爵と侯爵は25歳以上全員。伯爵子爵男爵は各1/5以内が議員になれた(義務)。
この華族は議員になれるだけではなく特権が与えられた。
・皇族との結婚が出来る。
・子弟は学習院へ無試験で入学できる。
・華族継続の為の資金援助を受けられるなど。

前回の最後に書いていたように、自由党板垣退助と後藤象二郎が海外へ憲法を学びに行った時の費用を政府の斡旋で用意したことにより党内が統制が聞かない状態になり分裂。さらにデフレのあおりを受け活動資金も窮迫。
明治17年10月29日、自由党解散。板垣退助の影響力がかなり低下した。

10月31日、物価が5年で1/7に下落。デフレで苦しむ農民が旧自由党員指導の下「秩父困民党」を結成。1万人が集結し政府に税率の引き下げを訴え大規模な一揆を起こす。これを秩父事件と言う。政府は警察で抑えきれず軍隊を派遣鎮圧。死刑7名4000名処罰。

一方、立憲改進党の大隈も党運営が立ち行かなくなり離党。事実上活動停止になり板垣、大隈の指導者のいなくなった自由民権運動は衰退していく。

国内は景気も悪く一揆も起こり自由民権運動も下火。そんななか朝鮮で日本も関係する問題が起こる。
明治15年7月、朝鮮の内乱時に日本の公使館が襲撃された壬午事変(じんごじへん)をきっかけに日本は朝鮮に軍が駐留して公使館守らせていた。

明治17年12月4日、親日派の金玉均(きんぎょくきん)が政権を持つ閔妃(みんぴ)打倒を企てクーデター・甲申事変(こうしんじへん)を起こす。なんとこのクーデターに日本公使館を守っていた軍が協力していて王宮を占拠したのだ。しかし朝鮮は清に援軍を要請。清に鎮圧され失敗に終わった。
この金玉均には福沢諭吉も一生懸命援助をしていて、日本と朝鮮と清は一丸となり近代化を目指し欧米列強に対抗すべきと唱えていた。だがクーデターが失敗に終わり福沢は朝鮮に絶望し怒りの感情を持つようになる。

明治18年3月16日、福沢諭吉「脱亜論」発表。日本と朝鮮と清が一丸となり欧米と対抗する考えを捨てると言った。諭吉さん結構過激w

4月18日、日清間で天津条約締結。
・日清両国は朝鮮半島から完全に撤兵。
・以後、お互い朝鮮半島に出兵するときは事前通告を義務付けた。(清は朝鮮が属国であることを理由にした出兵が不可になった)このことは日本にとって外交的勝利だった。

この一連の争いで山縣有朋を中心に将来的な清との戦争を見据えるようになり。これより10年がかりの軍拡計画が練られる。

あれ?諭吉さんあなたの考えが戦争に発展してんじゃないの?「天は人の上に~」とか言うからさ、てっきり平和主義なのかと思いきやこりゃイメージ逆転やで。やで。

国内政治に戻り一回現状整理。
16年に右大臣岩倉死去。太政大臣三条と左大臣有栖川宮は事実上引退状態。その下の参議は無力化になっていた。この状態を回避するとともに、再度薩長政権の確立を目指した制度がこちら。
明治18年12月22日、内閣制度誕生
伊藤博文が初代内閣総理大臣になる。
各省(内閣)を取りまとめるのが総理大臣(1人)現在に近い。
初代内閣。
外務-井上馨(長州)
内務-山縣有朋(長州)
司法-山田顕義(長州)
大蔵-松方正義(薩摩)
陸軍-大山巌(薩摩)
海軍-西郷従道(薩摩)
文部-森有礼(薩摩)
農商務-谷干城(土佐)
逓信-榎本武揚(幕臣)

この割合でわかるように明治維新で血を流したのは薩長でありその地位は譲らないとの固い意志が見える。実はこれ現代まで続いてるとまでは言いませんが安倍晋三さんが残念ながらお辞めになるタイムリーなので書くと、安倍さんも長州。安倍さんまで全98代総理まで述べで数えるとなんと長州は総理を20人も輩出している。このことからもわかるように今学んでる明治時代が基礎になって僕らは今生きている。


このお札は昭和のものだから多く現存してて僕も10枚程度持っています。この伊藤博文が初代総理でそして時代はようやく待ち望んだ国会が開設されそう!ということでそのお話はまた次回に。



  

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2020年08月29日

明治を学ぶ17

明治14(1881)年3月、ハワイ王国第7代国王カラカウアが来日。
当時のハワイはまだ独立国で歴史上日本を訪れた初外国の国家元首であった。

ハワイも沖縄同様に外国(アメリカ・イギリス・フランス・中国)の圧力にさらされていた。
この頃アメリカは帝国主義の下、本土からハワイへやってきて安い労働力で搾取していた。日本はというと明治元年より移民が始まり後年ではあるが明治23年にはハワイ総人口の40%が日本移民となるまでに増えていたそう。

来日の目的はと言うと、国の存亡をかけハワイ国王はアメリカではなく同じ島国の日本と共に生きたいと考えたのだ。
日本は丁重におもてなしをして歌舞伎なども見せたそうだ。そして明治天皇と会談をした。
その中でハワイから提案された一つが王位継承者のカイウラニ王女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮依仁親王)との縁組だった。これってかなりの決意でしょ。こんなにハワイから好かれていたんですね。

国が固まっていないこの時の日本はアメリカとの衝突を恐れ縁組は実現しなかった。その後の王国は来日の12年後、アメリカに政権を奪われ「ハワイ王国」という国家は無くなった。前回の君が代のとこに書いたけどこういう事なんだよね。続いてきた国家元首系統が変わると、いわゆる王朝が変われば国はまた違うものと見なされるって事。日本の場合女系天皇が誕生した時点で王朝が変わってしまう。別の国になってしまう。ここの危機意識多くの日本人が持っていないから何度も言いたい。

現在のハワイはご存じのようにアメリカの1州で、過去にこんなラブコール貰っても一緒になれなかったけど多くの日本人が親近感を持って観光で訪れているのが救いではある。


維新三傑亡き残った明治政府を一度ここで整理しておこう。

太政大臣 三条実美(さんじょう さねとみ)
左大臣 有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)
右大臣 岩倉具視

参議 大隈重信(肥前)・伊藤博文(長州)・井上馨(長州)・大木喬任(肥前)・寺島宗則(薩摩)・山縣有朋(長州)・黒田清隆(薩摩)・西郷従道(薩摩)・川村純義(薩摩)・山田顕義(長州)

維新三傑が国の土台を作ったが憲法も国会なく、例えるならまだ建物が立っていない状態の日本。

明治14年3月、大隈重信は有栖川宮熾仁親王を通じて明治天皇に早期国会開設の意見書を提出。
内容
・本年中に憲法を制定。
・明治16年に国会を開設。
・イギリス流の議院内閣制の実施。
この急進的な意見書は参議の他のメンバーには相談せず秘密裏に出したものだった。3か月後伊藤博文らはその提出を知り驚き対立が始まる。

急進的(急速)―大隈重信(肥前)。自由民権運動活動家、板垣退助や福沢諭吉ら応援。

漸進的(ゆっくり)―伊藤博文(長州)。岩倉や井上ら薩長系参議も同じ考え。
・国会開設をゆっくり進める。
・天皇の大権を確立する国家組織を主張。

明治14年7月、北海道開拓使官有物払い下げ事件。
10年間で国費1400万円をかけた開拓事業の官有物を開拓使長官だった黒田清隆(薩摩・幕末牛深へ来ていた)は同じ薩摩・五代友厚(才助・幕末牛深へ来ていた)へ38万円(しかも30年無利子ローン)で払い下げを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となった事件。(最近で言うモリカケ問題みたいなやつ。)

各地で政府批判と国会でこういう問題を議論しないといけないと国会開設要求運動が加速する。

7月21日、払い下げを閣議で議論。有栖川宮、大隈ら反対するも伊藤らは払い下げ決定。

7月30日、明治天皇東北北海道巡幸へ出発。有栖川宮・大隈・大木らが付き添う。
8月、世論沸騰させ政府を大隈が乗っ取ろうとしていると考え(政権争い)、大隈陰謀説を伊藤・井上・西郷らを中心に言い出す。

10月、三条・岩倉と薩長系参議が話し合い。

10月11日、天皇巡幸後すぐ御前会議。大隈大木は呼ばれず。
この御前会議では大隈らの追放、北海道開拓使官有物払い下げの中止、10年後に国会開設を決定した。

11日深夜伊藤・西郷は大隈邸を訪れ辞表の提出を求め、大隈辞任。大隈派の官僚も一斉追放した。
世間の政府批判の鎮静化を図り薩長の権力体制を固める目的だった。
これを「明治14年の政変」と言う。

明治14年10月12日、国会開設の勅諭を発布。

簡単に言うと、これまでの流れを1枚目で言って2枚目からが本題。
・明治23年を期して議員を召し国会を開設する。
・その組織や権限は明治天皇自ら定めて公布する。
・もし早期開設を煽り国の安定を害すれば罰する。と言う内容。

10年後の国会開設が決まり自由民権家たちが動き出す。
10月18日、板垣退助は政党「自由党」を結成。
主権在民・一院制議会・普通選挙。フランス民権思想の影響。

明治15年4月16日、大隈重信は政党「立憲改進党」を結成。
立憲君主制・二院制議会・(年齢や税金額による)制限選挙。イギリス流。

「自由」という言葉がブームになり、各地で政治演説会が開かれ多くの国民が参加するようになる。
ちな「Liberty」という英語を「自由」と訳したのも福沢諭吉。

明治14年4月6日、岐阜県の演説会場で遊説中の板垣退助が自由民権運動へ反対する小学校教員から襲撃を受ける。これを岐阜事件という。「板垣死すとも自由は死せず」の由来となったのがこの事件である。


明治15年1月、軍人の精神教育の基本「軍人勅諭」を公布。
明治11年の竹橋事件から警戒され、軍隊の中にも自由民権運動が広がっていくのを恐れた陸軍卿の山縣有朋が軍人の引き締めを行う目的で主導。これが昭和の終戦に至るまで活用された。
内容。
・天皇が軍の最高統率者であることを強調。
「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の5か条。
・上官の命令は天皇の命令。
・軍人が政治に関与すべきではない。
・軍人の命は羽毛よりも軽いと覚悟せよ。

この頃の経済はと言うと西南戦争で大量の不換紙幣(政府が発行した金や銀と交換できない紙幣)が発行されたことにより激しいインフレが起こり米が高騰し農民が困窮していた。

明治15年10月。大蔵卿松方正義により日本初の中央銀行である日本銀行設立

不換紙幣の回収を行いインフレが収まるも行きすぎてデフレになり再度農民は困窮した。まだ日本の経済学はお子様で発展途上だった。ちなこの大蔵卿松方正義の息子が松方幸次郎で初代川崎造船所社長で絵画の世界では印象派のクロードモネやルノワールの絵画を買って日本に持ってきてくれたいわゆる松方コレクションの人で有名である。

明治15年11月、国会開設へ向け自由党板垣退助と後藤象二郎は海外へ憲法を学びに行く。
政府の斡旋で財閥三井が外遊の費用を用意したことにより党内が分裂。立憲改進党も批判し関係が悪化し対立していく。
これは結果から伊藤ら政府が仕組んだ陰謀だと言われているがその後はまた次回へ。















  

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2020年08月28日

明治を学ぶ16

明治7年に琉球の日本帰属が国際的に承認され確定したと以前書いたが、この頃1つの藩として扱われていたがまだ琉球には国王がいてかつての国の機構が残っていた。

明治12年4月4日、琉球藩廃止、沖縄県設置。いわゆる琉球処分が行われ琉球王朝は消滅となる。
明治政府は琉球藩の尚泰しょうたい(国王)に清との断交を命令したが拒否。このままでは琉球を失う可能性があるということで3月27日に警察官と軍隊を送り首里城を占拠。尚泰を東京へ連行。国王不在となり琉球消滅。

ここの沖縄の人々の感情は難しいところありますが、このとき琉球がなくなるのは悲しかったとは思うが国王は日本の一つの藩として扱ってくれるのは喜んでいたと子孫が語り継いでいる。
琉球が明治政府と戦える軍事力持ってたら独立国のままだったわけで。これでもわかるように国を維持するには軍事力が必要だって事が結論なんだよな。ほんとに今の日本の平和は9条が守っているのか。自衛隊はいらないのか。普通に考えればわかると思うんだけどな。

明治12年6月4日、東京招魂社の格上げを行い「靖国神社」に改称。
明治天皇が命名。「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」
国を靖(安)んずるという意味を込めた。

明治12年コレラが大流行。

当時は原因不明で治療法もなく、(虎列刺)コレラを虎の化け物と例え恐れた。
死者数 10万人。(西南戦争両軍合算死者1万4000人よりけた違いに多い)
コレラきっかけで下水道の必要性が高まり明治17年日本初の下水道が完成する。

立っては消えを繰り返していた自由民権運動は西南戦争後に再燃する。
不平士族だけではなく地租改正で税金を納めるようになった農民も運動に参加を始める。

明治13年、国会期成同盟結成。
片岡健吉・河野広中が国会開設請願書を提出したが元老院却下。

明治13年11月3日、赤坂仮皇居で君が代初演奏。宮内省で作曲を検討。雅楽師の林廣守が作曲。
実は現在の君が代以前にも明治2年に君が代はイギリス人により作曲されたものがあるが日本らしくないとの事で定着しなかった。↓こちら


明治21年、各国に「日本礼式」として伝えられる。

平成11年、国旗国歌法で国歌として制定。
これにより教育基本法で「国を愛する態度を養う」が追加され、学習指導要領に「国歌君が代を斉唱できるように指導すること。」明記。音楽の教科書には君が代が載っていないと認可が下りないようになる。

もう少し掘り下げますか。
日本国 国歌『君が代』

君が代は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

五七五七七となっており、元は詠み人知らずの和歌である。
この和歌が最初に記載されているのは延喜5(905)年の古今和歌集であり千年以上前のものとなっている。

実は古今和歌集に記載されているものは「君が代は」のところが「我が君は」となっていて冒頭が違う。

長和2(1013)年、和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)にも同じ和歌が紹介されており、そちらの冒頭は「君が代は」になっている。古今和歌集より100数年の間に時代と共に変わっていったと思われるが、100年後も歌われる歌ということはそれはかなりの認知度だったと思われる。だってさ今想像してみ、今より100年前の歌謡曲トップ10ですら1曲もみんなわかんないでしょ?軍歌かなんかなかな?聞いても知らないと思う。

歌詞について。
もともとの古今和歌集には「祝い」の欄に記載されている。
冒頭の「君」とは自分より目上の人、親だったり祖父母だったり先生だったりしたのだと思う。だが国歌として歌う時は違う。もちろんこの場合の「君」とは単なる目上の人ではなく「天皇陛下」の事である。

「君が代は」はつまり「天皇陛下が生きていらっしゃるこの時代が」

「千代にやちよに」この場合の代(よ)とは一人の人が生きている時代の事で千代とは千人分の生きる長い間、また八千人の生きる長い間陛下には長生きしていただきたいと願うという意味である。

「さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」は小石が成長して大きな岩となり、それに苔がはえるまでの意味で、限りない悠久の年月を表現したものである。
さざれ石はいろんな神社を参拝されてる方はたくさんご覧になられたことがあると思います。
ここでは伊勢神宮のさざれ石を載せておきます。


千年以上前に作られた歌を国歌としている国は他にはなく日本の歴史がこれにも表れている。もっとわかりやすくこの歌詞をまとめると天皇陛下がいらっしゃる間日本国は続くという解釈になる。これがまさしく象徴と言う意味である。
だから逆にその先を考える。いわゆる後継ぎがいなくなったら日本は無くなるという事だ。そしてその天皇となる条件とは何かを考える。女性宮家を作ってそこから天皇が出ていいのか。女性天皇でいいのか。秋篠宮悠仁親王に男子を授からなかったときどうするのかしっかり考えてないといけない。もし男系天皇のいない日本になったら呼び名は同じ日本かもしれないが2680年続いてきた今の日本とは別の新しい国家元首の国という事になってしまうのだから。

ちなみに知らない人がいるかもしれないので書くと、天皇陛下長生きしてくださいっていう歌詞なんだからいろんな国家行事で君が代が歌われるとき天皇陛下はお歌いになられません。自分で自分長生きしてって言うのおかしいからです。


  

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2020年08月17日

明治を学ぶ15

前回は西南戦争まで学びました。

これまで明治維新をおこなってきた西郷木戸大久保維新三傑と呼びます。

そのうち二人がこの世を去った。西郷さんは今あるものすべて西欧化していくのには疑問を持っていた。蒸気機関鉄道が開通した時も便利にはなるが、それまで活躍していた飛脚や途中の宿場町の人々の仕事が無くなってしまう危機感を人一倍感じていて反対していた。その人たちも守りたかったんだなって思う。新しく海外から鉄砲が入って刀で切り合う時代じゃなくなってきた。自分たちの明治維新を戦って支えてくれたのは武士じゃないか。新しいものを入れすぎて武士の存在意義を失わせてはならないって強く感じていたんだろうな。その思いは伝わってくる。ほんとに残念に思います。

この内戦までは動乱期で、これから先が明治維新の本当の幕開けだと言われたりもしています。いわば明治維新第二幕とでも言いましょうか。

大久保利通は国内行政を取り仕切る内務省のトップ内務卿として、殖産行政、警察行政を担当。地方行政も監督指導する強大な権力を持つようになった。

明治11(1878)年3月11日、地方の体制等改正の儀を提案。
内容。
府県・町村議会を設置。
地方自治を認める。
地方税を制定。

そんな矢先。
明治11年5月14日、旧加賀藩(石川県)士族6名により大久保利通暗殺された。紀尾井坂の変が起こる。


5月14日早朝、大久保は友人であった福島県令(知事)山吉盛典の帰県の挨拶を受けている。そのとき大久保は三十年計画について述べていた。これは明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として戊辰戦争や士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期として、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べた。 その後明治天皇に謁見するため、馬車で赤坂皇居へ向かった。午前8時30分ごろ紀尾井町において暗殺犯6名に襲撃され命を失った。

不平を持っていた加賀藩士族6名は斬奸状(ざんかんじょう・悪者を斬る理由を書いた書状)を持っていた。
理由。
国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。(自由民権運動)
法令を出してもすぐ変更が激しく、また官吏の登用にコネが使われている。
不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。
国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
外国との条約改正をせず、国威を貶めている。

この後6名は自首。国事犯として裁判にかけられ判決後即日斬罪(ざんざい、首切)された。
東京では盛大に大久保の葬儀が行われたが、鹿児島県には遺骨を拒否された結果、東京都港区の青山霊園に埋葬されている。
尚、襲撃された際に乗っていた馬車が、大久保家により永代供養のため五流尊瀧院(倉敷)に奉納されている。


明治維新第二幕始まったと同時に大久保は亡くなってしまった。

明治11年7月22日、大久保が生前提案していたものが法案となり地方三新法が公布される。
郡区町村編制法(地方自治)、府県会規則(初の選挙制度)、地方税規則(地方税の設置)の3つを言う。

各府県に議会を設置し初めて選挙が行われることになった。
選挙権は地租5円以上納付した満20歳以上の男子。記名投票。
被選挙権は地租10円以上納付した満25歳以上の男子。

選挙権は全人口の1%だった。全員に選挙権が無かったのには理由がある。
この考えの基礎になったのは孟子の「恒産なくして恒心なし」という言葉で、経済的な安定が無ければ道義心や良識を持つことができないという考え方によるものだった。

明治11年8月23日、西南戦争で活躍した近衛砲兵大隊を中心とした反乱、竹橋(たけばし)事件が起こる。
西南戦争の恩賞がない事への不満を天皇に直訴。上官を殺害されたがすぐ鎮圧した。
この事件後、軍がこのままではいけないという事で軍の引き締めが行われ、軍人訓戒憲兵隊が設置された。


明治11年12月5日、陸軍省内にあった参謀本部を独立させた。天皇の直轄組織に。
軍政(人事・予算は陸軍省)と軍令(作戦命令は参謀本部)を切り離した。行政が作戦に意見を言えない制度を目指した。初代参謀本部長に山縣有朋。

山縣有朋は長州出身であったため長州出身の軍人を優先して徴用していく。長州閥(ばつ)のはじまり。
その後の統帥権(軍隊の指揮権)の独立へ向かっていく。


  

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2020年08月07日

明治を学ぶ14

明治6年の政変で下野した西郷隆盛は故郷薩摩(鹿児島)へ戻った。
同じく東京にいた薩摩士族も薩摩(鹿児島)へ。

明治7年、西郷隆盛「私学校」設立。本校分校合わせて12有り県内すべての郷内に設立。生徒数約2000人。
銃や大砲の打ち方を教える軍事訓練がメインで士官養成学校だった。

西郷が作ったこの学校の綱領が残っている。
「一、道を同じうし、義相協(かな)うを以って暗に集合せり。故にこの理(ことわり)を益々研究して、道義においては一身を顧みず、必ず踏み行うべきこと。
1、王(天皇)を尊び、民を憐れむは学問の本旨。しからばこの天理を極め、人民の義務にのぞみては、一向(ひたすら)難に当たり一同の義を相立つべきこと。」

この教育理念に西郷さんの考え方が集約されていると思う。この言葉を純粋にとらえるか、またここから深読みをして鹿児島に新しい政治組織を作ろうとしているのか解釈によってまた違うものとなる。この学校の生徒たちが政治集団化していく。

鹿児島の「正副区長」「県庁の役人」「警察官」など私学校の生徒で独占された。新政府の言うことを聞かないで独立国のような振る舞いをしていた。もちろん新政府が警戒しないわけがない。

明治10年1月政府木戸孝允(長州)が火薬什器の製作所を鹿児島に置いておくのは危険。大阪へ移すべしと言ったことにより薩摩士族が激怒。
私学校生徒約20名が火薬庫を襲撃

火薬庫襲撃事件を聞いた西郷は「ちょしもた」と叫んで急いで私学校へ戻ります。これで反政府なのがばれたとでも思ってしまったのでしょうか。

明治10年2月3日、明治政府の密偵20余名が私学校の生徒に捕らえられる。
持っていた電信文書に「ボウズヲシサツセヨ」と書いてあった。シサツとは視察か刺殺かはわからないが西郷側はこれを政府が西郷を暗殺しようとしていると解釈。挙兵する正当な理由になった。

明治10年2月14日、西郷軍鹿児島を出発。このときの大義名分は「明治政府に西郷暗殺計画の次第を問いただすために東京へ行く」事だった。西郷自身は私学校の生徒たちの暴発を止めれず行動を共にすることになった。

一方政府側、大久保利通は2月16日「西郷の心を知るものは自分以外にはいない。西郷と会って説得すれば私学校生徒を抑えられるだろう」と言って会いに行こうとしたが伊藤博文らが反対。

明治10年2月19日、鹿児島県暴徒征討発令。ここで西郷軍は正式に政府軍の敵賊軍となった。ここからが西南戦争と呼ばれる。

西郷軍が最初に向かったのは九州新政府軍の拠点「熊本鎮台司令部」があった熊本城だった。
同2月19日、熊本城内で火災が起こり、大小天守閣が焼失した。この火災の原因は今もって不明であるが関係していないと思うほうが無理がある。

2月22日、西郷軍熊本城包囲総攻撃。
西郷軍士族約1万3千人に対し新政府軍は徴兵による平民約3千人だった。
兵器については西郷軍小銃1万2千挺(ちょう)。弾薬は製造所を破壊され増産できない。大砲60門。
新政府軍小銃4万5千挺。1日20万発を製造。外国より1700万発輸入。大砲209門。
このときの武器調達の為に政府は国家予算の80%を使った。これを抑えれば国内は安定すると信じていた最後の戦いだった。

圧倒的兵器力により熊本城は陥落せず。

3月最大の激戦「田原坂の戦い」となる。
17日間の死闘。両軍死者合わせて3500人。

このとき後に総理となる犬養毅が新聞記者として政府軍(官軍)側抜刀隊に帯同して前線にいた。
記事によると西郷軍13人と対峙。抜刀隊の中に旧会津藩士がいて直ちにその13人を斬ったそうだ。その会津藩士大声で叫ぶ「戊辰の復讐、戊辰の復讐」と。

新政府軍と戦って敗れた会津藩士。今度は政府軍となり賊軍となった西郷軍を斬る。
田原坂でも新政府軍が勝った。

5月26日、木戸孝允(幕末牛深へ来ていた)43歳で病死。「西郷、もう大概にせんか!」と言い残す。

新政府軍はますます勢いを増して西郷軍を追い詰めていく。南下しながら各地で戦いは続く中、
8月21日、大久保利通上野公園で「内国勧業博覧会」開催。富国の為殖産興業の見本市を行った。
もうこの辺りでは勝ちを確信していたのでしょう。

9月1日、西郷隆盛追い詰められ鹿児島入り。包囲され城山に籠る。
24日、西郷切腹。別府晋介が介錯した後その場で自らも切腹。ここで7か月に及ぶ西南戦争が終結した。

西郷軍約3万人、戦死者約5000人。
新政府軍約6万人、戦死者約6800人。

かつての盟友で戦うというのはちょっと勉強したぐらいの僕では察するに余りある。ここのそれぞれの想いって言うのは辛すぎて受け止めきれない。ただ西郷軍が勝ってもまた違う日本になってたし、この戦争が無ければ今の日本の民主主義はない。武士がまだいて俺も刀でチャンバラやってたかもな。西郷さんが今でも慕われている理由がわかった気がしているが大久保利通の評価が低すぎてないかなって思った。お札にもなってないよね?おかしくね?ここまでの明治維新は大久保がやったことの方が多い。この大久保利通の想い人が牛深にいた。牛深ハイヤちゃんマップにも書いてあるし、ここにちょっと書いてる。次は大久保の銅像を牛深に作ったほうがいいと思った。←はいこれ俺が最初に言ったからな。将来実現させましょう。

  

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2020年08月07日

明治を学ぶ13

明治政府樹立以来、鎖国をしていた朝鮮に何度も開国、国交を求めてきたがそのたびに拒まれていました。

明治8年、征韓論は明治6年の政変で一旦治まってはいたが、軍内では必ずしもそうではなかった。

欧米列強は朝鮮を開国させようと日本に圧力をかけていた。そして日本は地理的なことからすぐ隣の朝鮮を清・露の防衛線にし敵ではない存在にしたかった。

膠着した協議を有利に進展させるため、測量や航路研究を名目とし、朝鮮近海に軍艦を派遣して軍事的威圧を加える案が提出されたが、より譲歩的なものに修正可決された。しかし5月「雲揚」6月「第二丁卯(だいにていぼう)」の2隻の軍艦が朝鮮沿岸へと極秘裏に派遣されることになった。 ここでは大きな外交問題は起こらず測量を終え一旦長崎へ帰港。

9月に入って雲揚は改めて清国までの航路研究を命じられて出港。航行の途中、9月20日に朝鮮首府漢城に近い月尾島沿いに投錨。飲料水の欠乏により探水のため小舟を下ろして江華島に接近したところ島に設置されていた砲台から砲撃を受けて交戦状態となった。 先に攻撃してきたのは朝鮮で日本側は正当防衛の面目が立った。国旗を掲げ、ただちに反撃砲撃を開始し江華島砲台を破壊。どうして砲撃を行ったのか尋問するために永宗城島の要塞を占領した。これを江華島事件という。


明治9(1876)年1月、黒田清隆(幕末牛深へ来ていた)を特命全権大使とする交渉団が江華府へと派遣されると、朝鮮政府は開化派を交渉に先立つ応接の使者に派遣するなど日本側に多大な配慮を示す対応を見せた。黒田は攻撃を受けた場合の対応等も予め指示されていたが、開戦回避という一点において日朝両政府の意図は合致していたといえる。

明治9年2月26日、 黒田清隆は江華府で日朝修好条規を締結。
幕末に日本が欧米と結ばされたような不平等条約を李氏朝鮮と結んだ。自分たちがやられて嫌だったことを朝鮮でやったってことだ。だがこれは批判には値しない。明治維新で海外視察をして学んで欧米列強の真似をしただけでこの時点ではまだ欧米との不平等条約は破棄されていない。日本も生き残るのに必死だった。

条約内容。
釜山・仁川・元山の開港。
日本の領事裁判権。
関税免除。
朝鮮を独立国と認め、清の宗主権を否定。
(これには事前に江華島事件の責任追及で清に対して「宗主国を名乗るのであれば事件の責任を取れ」と主張したところ清は、「朝鮮は清の属国ではあるが、独自の内政・外交を行っているので、朝鮮に対しては責任を取れない」と返答したため「朝鮮が清朝の冊封(さくほう・君臣関係)から独立した国家主権を有する独立国であること」を明記した。これも沖縄を日本領と確定したときと同じだね。)


明治9年3月28日、政府は士族の解体を目指し廃刀令を公布。刀の携帯を禁止した。さらに士族の給料を廃止。
あれ?一回断髪令のときに別名散髪脱刀令って言ってなかった?と思うでしょう。あのとき髪は自由だよっていう条例だと書いたと思うけどこれは刀も同じ。士族は必ずしも刀持たなくていいよ、自由だよって意味。もちろんこの時に刀廃止にしたかったんだけど士族の反乱が怖くて段階的に廃止に持っていこうとしていたって事。徴兵令も完成していたし武士はもういりませんって通告だった。
まぁさすがに今回武士の魂である刀を禁止されては黙っちゃいないよね。士族の我慢限界不満爆発。全国各地で反乱が勃発。

明治9年10月24日 熊本『神風連(しんぷうれん)の乱』
10月27日 福岡『秋月の乱』
10月28日 山口『萩の乱』
全て政府軍数日で鎮圧。逆に政府軍の実践経験にもなり実力を示す形になった。

残った不平士族は続々と西郷隆盛の元へ集まってくる。士族最後の砦でした。
そして7か月続くあの西南戦争へと続くのですが、それはまた次回。  

Posted by hirok○ at 16:07Comments(0)明治~

2020年08月06日

明治を学ぶ12

前回の記事で南の沖縄は日本領土として確定しました。
残るは北です。明治を学ぶ4の日露和親条約で一度確定しているように思えますが樺太が混在しているので、ロシアが先に開発を本格化してきたことにより樺太で日露両国の紛争が頻発していた。ロシア南下政策は不凍港(一年中凍らない港)獲得として当時最大の目標だった。
明治7(1874)年10月屯田兵制度開始。

北海道を外国に奪われないようにするのと同時に開拓(農業)する目的、そして未だくすぶる働き口を失っていた士族を派遣することにより不満のはけ口に全国から兵を派遣設けた。

明治8年5月7日、駐露全権公使・榎本武揚が交渉し樺太・千島交換条約を調印。

あれ?榎本武揚って新政府軍に反旗を翻し新選組が壊滅した函館戦争(五稜郭の戦い)で反政府軍を指揮してたよね?敗戦後投獄されてたはず。調べてみると函館戦争で新政府軍を参謀として指揮していた黒田清隆は榎本の才能を評価していたそうで、福沢諭吉らと共に助命活動を行ったそう。明治5年特赦により出獄、放免となり黒田が開拓次官を務めていた開拓使になっていて、その後みるみるうちに昇進していた。ほんと能力優れていたんだね。

そして条約の内容。
樺太をロシア領にそして千島列島を日本領へ交換するというそのままの内容。なのですがこことても難しいところ。


当時日本に広大な樺太を統治する財政的軍事的余裕はなかった。そこでイギリスが「千島列島なら周囲が海なので防衛しやすい」と助言をしたことによりこの案で条約締結を目指した。実のところイギリスの腹積もりは地図を見てもわかるようにロシアの太平洋進出を懸念し千島列島で日本を盾にして封じ込めを目論んでのことだった。

そして現在にも繋がる大事な大事な北方四島のとこ覚えておいて。
私はこのことは何度でも言うよ。千島樺太交換条約とは言うが交換とは持っている物をお互い引き換えにするから交換と言うもので、すでに持っている北方四島はもちろんこの交換条約に含まれていません。何が言いたいんだよって言われる方がいるかもしれません。だからもっとはっきり言うよ。
この条約の千島列島とは北方四島を含んでいないものを千島列島と呼んでいます。お分かりいただけますでしょうか。
日本語で千島列島と聞くと島が連なっているところ全部を思ってしまいますが、ここは違うのです。ここの解釈を日本人でも間違ってしまうのでこの認識をしっかり統一したいのです。ちなみにこれはもちろん私が個人で言っているのではなく日本政府一貫した公式見解です。これがなぜ重要なのかは後の条約に関係してくるのでまたその時に。


明治8年征韓論で西郷と板垣を、台湾出兵で木戸を失い国内政局は不安定なままだった。
1月~2月大久保は板垣木戸を呼び戻そうと伊藤博文や井上馨を仲介役に大阪の料亭「加賀伊」で説得を重ねる。これを大阪会議と言います。西郷は呼ばなかった。

明治8年2月22日、板垣退助旧愛国公党の同志に再結集を呼びかけ愛国社設立。
初の全国的な政党だったが板垣が参議に戻ることに波紋が広がり一時愛国社自然消滅。

大阪会議で大久保は憲法に基づいた政治体制に向かうことを約束。木戸・板垣は政界復帰に合意。
明治8年4月14日、漸次立憲政体樹立の詔(ぜんじりっけんせいたいのみことのり)を発布。
五箇条の御誓文の趣旨を拡充して憲法に基づいた政治体制に徐々に向かうという約束を天皇に宣言して貰った。

これにより立法機関である元老院、現在の最高裁判所にあたる大審院が設けられ、東京に府県長官を集め行う地方官会議の実施が決まった。
事前に大阪会議で木戸が書いたメモが残っている。

上から天皇陛下、内閣太政大臣参議、右から元老院、大審院、行政、下がって地方官。
このときに三権分立を考えていたんだね。何もない時代だよすごいわほんと。

政府批判の新聞報道が活発化していた。
明治8年6月28日、讒謗律(ざんぼうりつ)新聞紙条例を発布。
言論や文書を取り締まった。当時の言論人は賊軍出身者が多かった為だと言われている。
薩長土肥が軍事で政権を獲ったように負けた幕府軍会津藩・弘前藩などは言論で政府と対抗しようとしてたんですね。

前回書いていたジャーナリズムの基礎と言われている福沢諭吉の「明六雑誌」も廃刊に追い込まれた。


国の発展のため官制(営)工場や官制(営)会社をたくさん作っていたが後に政府はこれを民間へ譲ります。
この払い下げには薩長出身者への払い下げが多いとか格安だったとか問題点があったが産業を拡大するにはある程度仕方がないところもあった。
経営者は政府要人とのパイプを強くしていきこの辺りを基礎にして後に財閥となる「三井」「三菱」「住友」「安田」が大きくなっていく。

明治8年9月朝鮮と国交を結ぼうとしていた問題はまだ続いていた中、大問題が起きる。というところから次回にします。









  

Posted by hirok○ at 22:39Comments(0)明治~

2020年08月04日

明治を学ぶ11

征韓論で大久保たちに負け下野した板垣たちは「言論」で政府に対抗しようとします。

明治7年1月「愛国公党」を結成。
中心メンバーは前参議だった板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平ら。

明治7(1874)年1月17日『民選議員設立建白書』を当時の立法機関の左院へ提出。

内容「私共が謹んで現在政権がどこにあるかを考えてみますのに、上は天皇にもなく、下は人民にもなくただ官僚に独占されています。」という現況の書き出し。
以後簡単にまとめると、支配者が独断で思いのままに事を決する専制政治を批判し、民主的な議会(国会)の開設を望むものだった。
自由民権運動の始まりだった。

政府はこの民選議員設立建白書を却下した。
しかし新聞にその内容が掲載され知識人をはじめ広く知られるようになり、国会開設の機運が高まってくる。

板垣らが「言論」で政府に対抗したのに対し、「武力」によって対抗するものが現れる。
明治7年1月14日元土佐藩士族が東京赤坂で岩倉具視を襲撃、負傷。政府に反対する者への当たりは厳しく、犯人は三日後に全員捕まり処刑された。これは襲撃された場所が赤坂の喰違い坂で起こったので喰違の変と呼ばれている。

明治7年2月さらに武力による抵抗は強まり、旧肥前藩士族約3000人が佐賀城を占拠。これを佐賀の乱という。
そのリーダーは江藤新平だったが本人は武力で対抗したいとは思ってなかったそう、不平士族がリーダーを必要とした為担いだのだった。
2月1日、旧肥前藩士族が佐賀城占拠準備。
2月10日、大久保自ら約5000の鎮圧軍を東京から佐賀へ。
2月16日、旧肥前藩士族佐賀城攻撃。18日占拠。
2月19日、政府軍佐賀城攻撃。数で圧倒政府軍優勢。
2月23日、江藤新平佐賀脱出。
2月28日、佐賀の乱終結。

3月上旬、江藤新平は鹿児島の西郷隆盛を訪ね決起を促すが西郷は動かず。

3月末、江藤新平は板垣たちの地元旧土佐へ行くが政府軍に逮捕される。
4月13日、江藤新平処刑後さらし首に。(大久保のかなりの怒りが伺える。)

言論による反政府運動もさらに加速。
明治7年3月、森有礼、西周(にしあまね)、福沢諭吉らが啓蒙雑誌「明六雑誌」を発行。
政治制度、男女同権、死刑廃止論など政治・経済・外交・言語・宗教・教育などの欧米思想の紹介・普及目的。
これがジャーナリズムの基礎となる。


明治7年4月、板垣退助は愛国公党解散後、旧土佐藩士族を集め「立志社」を結成。
天賦人権(人間は生まれながらに自由かつ平等で、降伏を追及する権利を持つ)を掲げ、国会開設・憲法制定・言論の自由などを求めた。自由民権運動の中心になっていった。

明治7年5月、大久保台湾出兵を決める。
発端は明治4年、宮古島島民遭難事件という台湾に漂流した琉球人54人が台湾先住民に殺された事件による報復。
朝鮮出兵には反対していた大久保が台湾に出兵させたのには理由が二つ。
・不平士族の不満をそらす事。いわゆるガス抜き。(木戸は征韓論と同じだと出兵に反対、辞表提出。)
・琉球は琉球王国として江戸時代薩摩藩と清国両方に属していたのを日本の領土だと外国に確定させたかった。

日本政府は、宮古島島民遭難事件に対し台湾を統治していた清に厳重に抗議したが、原住民は国家統治の及ばない者であるという清朝からの返事があり、これにより台湾出兵を正当化し行った。征韓論時の朝鮮の場合その先に清との開戦が見えていたが台湾には清との開戦は予想されなかったのも大きい。

5月22日、西郷隆盛の弟、西郷従道(つぐみち)が約3000の兵で台湾上陸。
6月5日、琉球人を殺害したパイワン族を制圧。

明治7年9月14日、大久保自ら清と戦後交渉で北京へ。台湾(地方)で戦い相手の中心(北京)へ乗り込む。この辺りは幕末日本が欧米にやられた強国のやり方をマネて見せたのだろう。数々の失敗を経てしたたかになったと思う。
清国は即時撤兵を要求。日本は交渉が妥結しない場合開戦も辞せずと伝えた。(開戦する気があったかどうかはわからない。)

10月27日、清は日本の出兵を認め、賠償金50万両(現在価値150億円)を獲得

結果、琉球の日本帰属が国際的に承認され確定
すげぇ。かっくいいってなるなこれ。大きな賭けをして勝ったって事、大久保まじすごくない?これ一人で考えたらしいよ。

というところで今回はここまで。今の日本が形になっていくのがわかる。改めて歴史って大事だなって思う、ほんとに。
  

Posted by hirok○ at 22:17Comments(0)明治~