2021年05月03日

女性天皇について学びたい(第八回)最終回

前回までに我が国における女性天皇(女帝)10代8人の即位経緯を学んだので、今回まとめ考察を行う。

まず書いておかなければならないのは、現代の我が国の議会制民主主義または現行憲法下での天皇は、学んできた女性天皇たちの取り巻く環境とは全く異なるものであるという事である。

現在の憲法第4条で規定してあるように、現在の天皇は政治的権能を有しないとある。ゆえに国政に関わるものに、現在の上皇陛下はじめ皇族の方々は十分に考慮され発言されない。それは憲法を公布する側がそれを守らなければ公布される国民は誰も守らなくなるからだ。
この点を先に記述し過去の女性天皇についてまとめる。

初代女性天皇、推古天皇
欽明天皇の子であり男系女子で敏達天皇の皇后。
権力者蘇我馬子の意思。
摂政は用明天皇の男子、厩戸皇子(聖徳太子)で推古天皇より先に薨去。
推古天皇は崩御されるまで天皇。次天皇は推古天皇と敏達天皇の男子の男子(孫)。
中継ぎの形で即位しているがまだ譲位という前例が無いので譲位をしていない。このことと摂政がいることにより推古天皇は政治的権能を有していない。

2代女性天皇、皇極天皇
舒明天皇の異母兄弟の子であり男系女子で舒明天皇の皇后。
舒明天皇と皇極天皇の子である中大兄皇子が幼少だった事と、権力者蘇我氏への配慮のため中継ぎで即位。
摂政は中大兄皇子。
ここで初めての譲位。皇極天皇の弟が即位。譲位する時期を自分たちで決めることにより天皇と摂政は時期天皇の希望を通せるようになった。以降政治的権能を有してると言える。

3代女性天皇、斉明天皇
皇極天皇と同一人物なので男系女子。重祚。
次期中大兄皇子はまだ政治の実務を行いたかったのと外国情勢により即位せず、再度中継ぎで皇極天皇が即位し斉明天皇となった。
崩御されるまで天皇。後、中大兄皇子が即位。中継ぎであった。

4代女性天皇、持統天皇
天智天皇の子であり男系女子。天武天皇の皇后。
天武天皇と持統天皇の間に皇子がいて病弱だったため代行の形で即位し、その皇子がなくなるとそのまた子(孫)が育つのを待ち譲位した。中継ぎであった。

5代女性天皇、元明天皇
天智天皇の子であり男系女子。草壁皇子(天皇格)の妃(皇后格)。
先代の皇子が幼少であるため中継ぎ。権力者藤原氏の意思。中継ぎであった。

6代女性天皇、元正天皇
草壁皇子(天皇格)と元明天皇の子であるので男系女子。独身、子供なし。
権力者藤原氏の意思。
元正天皇は譲位し文武天皇と藤原宮子の子である首皇子が即位。中継ぎであった。

7代女性天皇、孝謙天皇 初の女性皇太子。
聖武天皇の子であるので男系女子。独身、子供なし。
孝謙天皇は譲位し舎人親王の皇子である大炊王が即位。中継ぎであった。

8代女性天皇、称徳天皇
孝謙天皇と同一人物なので男系女子。重祚。独身、子供なし。
称徳天皇に子供がいなかったことによる政権争いに巻き込まれ先帝を廃位し再び即位。
崩御されるまで天皇。後、白壁王が即位。天武系から天智系へ皇位が移った。近親に男系男子がいなかったことで、後継者が見つかるまでの中継ぎだったとも言える。

9代女性天皇、明正天皇
後水尾天皇の子であるので男系女子。母は徳川和子。約900年ぶりの女性天皇。
権力者徳川幕府の意思。後水尾天皇の院政。
明正天皇は譲位し、異母弟が即位。中継ぎであった。

10代女性天皇、後櫻町天皇
櫻町天皇の子であるので男系女子。皇子が5歳であったため中継ぎで即位。
明和7(1771)年後桃園天皇に譲位。
我が国における最後の女性天皇である。

上記以外の例は無いのでこれより、現代において女性天皇の実現について考えてみる。
女系についての議論は第一回に書いたように母親辿ってもどこの天皇にも行きつかないので天皇において女系という言葉自体が存在するはずがないので女系議論は終了。

次に先例から見る女性天皇になった条件。
男系女子。父親または祖父が天皇。一見すると男系女子であれば皇位継承できるように思える。愛子さまが天皇になってもおかしくはないと。

しかしそれに次の条件が加わる。皇后または皇太子妃以外が即位した場合は皇太子になった後結婚せず、さらに子供もいない。逆を言えば結婚させてもらえず、子供も作ってはならないという事だ。これは女性天皇の結婚相手が皇族以外であれば王朝交代が行われてしまうためである。同じ理由で女性宮家の創設も無理。そして次の天皇が幼少などの理由により中継ぎで即位し、加えて後継者が育つと主に譲位している。これにより譲位と言う概念が生まれた。

ここで愛子さまが天皇になる為の条件を考えてみる。
1、天皇または皇太子と結婚をするという案。ぎりぎり悠仁親王と結婚する可能性が0ではないのでこれだったら可能性はあるっていえばある。
2、天皇または皇太子と結婚をしない場合、結婚もできなければ子供も作ってはならない。これを強要するのは現代では民意が得られるわけがない。完全に無理なので可能性は0。

さらに1または2をクリアしたとしても次の天皇が幼少などの理由がなければならない。次の天皇は秋篠宮皇嗣殿下であり幼少ではない。その次の悠仁親王は現在14歳になられ、愛子さまの19歳と5歳の差しかない。現時点では中継ぎ要件も難しいように思える。
しかし将来、悠仁親王に皇子が生まれ、さらに悠仁親王が薨去された場合を考えると中継ぎ要件を満たしているようには思える。この場合ももれなく天皇または皇太子と結婚しているか、それが出来ない場合は結婚もしていなければ子供もいないという条件が付けられる。

この中継ぎ要件を満たし愛子女性天皇が即位たとしよう。しかし今度は譲位の問題が出てくる。譲位をすることで後継者の指名をすることになり政治的権力の行使に当たる問題が起きる。譲位ができないでその崩御されるまで時間が過ぎると、その時には男系男子が全くいなくなっていて手遅れになる可能性も想定しないといけない。

そしてさらに考えないといけないのは、これだけ難しい条件をクリアして愛子さまが女性天皇になっても皇室の後継者不足の問題は何も変わらないのである。

これが現時点で考えられる愛子さま女性天皇擁立論となる。

皇位継承についてはっきりと明文化されたのは明治の旧皇室典範からである。
もちろんその時も女性天皇についてはかなりの時間かけて議論されている。
帝国憲法や教育勅語を作った我が熊本の大天才である井上毅は帝国憲法を作る際に古事記や日本書紀をはじめありとあらゆる国史を読みこみ日本とはどういう国であるのか答えを出した。

その井上毅は明治18年女性も皇位継承できるという「皇室規制」という法案に対し、女性は皇位を継承できないとする旨の「謹具意見」を伊藤博文に提出。これが受け入れられ、現在まで続いているということを記録しておく。


女性天皇とは直接は関係ないが、後継者不足問題をどうするのがいいのか私も意見を言う必要があると思うので書いておく。
これまでも皇統断絶の危機は何度もあったがそのたびに乗り越えてきた。
特に皇位継承に関しては過去2000年の人達の意見でそうしてきた歴史があり、初代神武天皇より続いてきた男系継承を現代を生きる私たちの意見だけで変更しては絶対ならない。なのでまず何と言ってもその過去の事例に習うのが一番いいと思う。

ただし、私は現在悠仁親王殿下がいらっしゃるので、悠仁親王に皇子が恵まれなかったときまで対応を先延ばしにしていいと思う。
悠仁親王にたくさんの皇子生まれる可能性とかもあるしさ。

しかしそれでは無責任だって思われてしまうかもしれないので、最後に過去の事例に習う案を2つ出して今回の結論とする。

1つは、GHQに取り潰された旧宮家の復帰。これって前例がないように思えるけど、一旦臣籍降下した後、皇籍に復帰した例は4つある。
また皇族ではない者(天皇の子孫でも皇族ではない者もいた)でも男系の血の近いものを親王宣下して皇族になった事例もある。
この案でも民意が得られないかな?過去にあった事例なんやけど難しいようなら次2つ目。

現在の宮家で相続者のいない、または不在となってしまう宮家に、男系男子で継承されている旧宮家から適任者を養子に迎え親王宣下する。この事例も多数ある。この養子は男子一人でも良ければ、男系継承していてすでに結婚している夫婦でも良い。その養子に皇位継承がダメでも将来、その養子から男子が生まれたら、その男子に皇位継承権を認めるならどうだろう。

どちらにしろ皇室典範は改正しないといけないが、一度限りの特例法でも良い。
図で書くとこうなる。これしかないように思えるが、何度も言うがそれは悠仁親王に男子が生まれなかった場合への予備案である。

  

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2021年05月02日

女性天皇について学びたい(第七回)

前回までは6~8世紀の間に集中して起きた女性天皇だった。
これからは17~18世紀とだいぶ間が空いての女性天皇、残す2例である。

第109代明正天皇が女性天皇であるのでその先代の第108代後水尾(ごみずのお)天皇から。

時代は江戸幕府徳川の時代。
第108代後水尾(ごみずのお)天皇
父親後陽成天皇
母親近衛前子

後陽成天皇の第三皇子であるので男系男子。

慶長16(1611)年後陽成天皇譲位、践祚し後水尾天皇が即位。

元和6(1620)年幕府の強い圧力により将軍徳川秀忠の娘である源和子を皇后として迎え入れた。
徳川家が天皇の外戚となることは家康の一つの夢だった。

後水尾天皇は皇后含め7名の女性との間に19皇子と17皇女の子宝に恵まれた。これより109代~112代天皇まではいずれも後水尾天皇の皇子女であり、その間51年の長きに渡って太上天皇となり院政を行った。

寛永4(1627)年、高位高徳の僧に着用が許される紫色の法衣を朝廷が勅許することが一つの収入減であったのだが、それを幕府の許可なく授けてはいけないと幕府は規定。しかしその後も後水尾天皇は慣例通り幕府の許可なく勅許を与えていたのを知った幕府はその勅許を取り消し紫衣を取り上げた。

これに朝廷は強く反発し、激怒した後水尾天皇は寛永6(1629)年に譲位を決行し、幼少の興子(おきこ)内親王を践祚させた。幕府に対して大きく不快感を表した。譲位当日公家たちも参内することを命じられるも譲位の事を知らされておらず、武家伝奏一人だけで摂家にすら知らされていなかった。極めて異例なことであった。幕府の意向を無視して行った譲位は幕府への抵抗を示す目的だった。



第109代明正(めいしょう)天皇
父親 後水尾天皇
母親 徳川和子

男系女子。称徳天皇以来約900年ぶりの女帝である。
在位当時の将軍徳川家光の姪にあたり、徳川家綱の母方の従姉。
生母は徳川和子であり徳川将軍待望の天皇になった。しかし和子が生んだ二人の皇子若くしてすでに亡くなっていたため、その後続くことはなかった。
即位したとき明正天皇はまだ5歳で天皇としての責任を果たせるはずもなく、実際は後水尾上皇の強い影響力の元、摂家らの責任の下政治が進められた。

後水尾天皇は寛永20(1643)年、明正天皇の異母弟に譲位させ後光明天皇が践祚した。

第110代後光明天皇
父親 後水尾天皇
母親 園光子(壬生院)
男系男子。

再び徳川の血をひかない天皇となり、ここに後水尾上皇の意地を垣間見ることができる。その後江戸時代を通して徳川氏の血をひく天皇は存在しない。

そして次の女性天皇は第117代後櫻町(ごさくらまち)天皇になるので第116代桃園天皇から。

第116代桃園天皇
父親 桜町天皇
母親 藤原定子
男系男子。
延享4年(1747年)、父桜町天皇の譲りを受けて即位。

宝暦12年(1762年)、22歳で崩御。 異母妹智子(としこ)が桃園天皇遺詔を受けて践祚した。



第117代後櫻町(ごさくらまち)天皇
父親 桜町天皇
母親 藤原舎子(皇太后)
男系女子。
桃園天皇崩御後、23歳で即位。我が国における最後の女性天皇である。
これは桃園天皇の皇子である英仁親王がまだ5歳であったのでその成長までの中継ぎであった。
明和7(1771)年譲位し、英仁親王が即位し第118代後桃園天皇となった。これ以降現代まで女性天皇はいない。

第118代後桃園天皇
父親 桃園天皇
母親 藤原富子
男系男子。

我が国における女性天皇(女帝)は10代8人これで以上である。
次回はまとめ感想、考察を行う予定。おそらく次回が最終回となります。  

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2021年05月01日

女性天皇について学びたい(第六回)

第45代聖武(しょうむ)天皇

父親文武天皇
母親藤原宮子

文武天皇の子であるので、男系男子。
妃は藤原不比等の娘である光明子。

奈良時代の政権を順にまとめると、藤原不比等、長屋王、藤原四子(不比等の四人の子)、橘諸兄(たちばなのもろえ)、藤原仲麻呂、弓削道鏡、藤原百川である。藤原氏とそれ以外の氏が交互に続く。そして次の平安時代になると摂関政治の幕開け藤原氏が最盛期を迎えることとなる。

聖武天皇即位後、長屋王(天武天皇の孫)は左大臣となるが、聖武天皇(首皇子)が即位したことで、長屋王が天皇になる資格は持って居ても実現には遠いものとなった。系図参照。


長屋王と藤原氏との対立は自然な流れであった。聖武天皇の即位時に皇后と書かず妃と上記したのには理由があり、光明子の立后に長屋王は反対し対立が激化した。
藤原氏は神別氏族であり皇別氏族ではなかったので皇后を出す事の出来ない家格であったとある。前例がないため自身が皇族である長屋王が反対するのも当たり前ではある。

ここで光明子について整理する。
光明子は藤原不比等の娘で安宿媛(あすかべひめ)と言う。その母は不比等の後妻で県犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)と言う。橘三千代ははじめ美努王(みめおう)に嫁いで葛城王を生んだが、後に不比等の後妻となり安宿媛を生んだ。
美努王は敏達天皇の後裔とされている。葛城王は左大臣となり母方の姓を名乗り橘諸兄となる。その異父妹が光明子である。

神亀4(727)年聖武天皇と光明子の間に皇子が生まれ基王(もといおう)と名付けられた。そして誕生よりわずか33日で基王を皇太子とした。しかし皇太子は生後1年で落命。聖武天皇は大変悲しんだ。
長屋王が呪い殺したという噂がたち、官吏が密告(真実はわからない)を行い長屋王は謀反の嫌疑をかけられた。藤原四子の一人らが長屋王を邸宅を包囲し、弁解の余地も与えられぬまま長屋王は妻子共に自害した。長屋王の変という。
そして藤原氏に政権が集まり光明子は皇后となった。

このことにより藤原氏の権力は皇別氏族から皇后を立てるという皇室の伝統を曲げるほど強力なものだったという事が分かる。

皇太子の基王が没した後、皇太子に立てられたのは安倍皇女(あべのひめみこ)聖武天皇と光明子の娘だった。
女性が皇太子になるのは後にも先にも例がない。

聖武天皇には二番目の皇子の安積(あさか)親王がいたため、安倍皇女を中継ぎとし次に安積親王に継承させるつもりだったと思われる。
ところが安積親王までも若くしてこの世を去り、聖武天皇の皇子は一人もいなくなってしまった。

しかも聖武天皇の父である文武天皇にも他に皇子はなく、それは草壁皇子系統の断絶を意味した。そうなると四代前天武天皇まで遡り擁立するほかなかった。

政権の混乱期で、権力闘争と反乱が繰り返され、疫病や凶作が重なった。凶事が起きるたびに聖武天皇は一身に責任を感じ、仏教の力を借りて難局を乗りきろうとしたと伝えられる。東大寺を立て大仏の建立を命じた。

天平勝宝元(749)年に聖武天皇は天皇として初めて出家し譲位を行った。皇位を受け継いだのは皇太子であった安倍内親王。七代六人目となる女性天皇の誕生であった。


第46代孝謙(こうけん)天皇
父親 聖武天皇
母親 光明皇后

男系女子。独身。子供なし。

聖武天皇の命により建立された東大寺の大仏は孝謙天皇御代に完成し開眼式を行った。天皇が出家して仏に仕える身となり、仏の偉大さが広まるようになり以降、神仏習合が加速していった。

天平勝宝八(756)年聖武天皇崩御されるに際し、中務卿道祖王(なかつかさきょうふなどおう)を指定され皇太子に立てられた。これには橘諸兄の後援があったと思われている。道祖王の父は新田部親王で、そのまた父は天武天皇なので男系男子。
しかし、翌年諸兄が亡くなるとすぐ道祖王は行動が皇太子にふさわしくないとして皇太子を廃された。

次に孝謙天皇は舎人(とねり)親王の皇子である大炊王(おおいおう)を皇太子とした。

天平宝時2(758)年孝謙天皇は2年で譲位し上皇となり、大炊王が即位。第47代淳仁天皇が誕生した。

第47代淳仁(じゅんにん)天皇
父親 舎人親王
母親 当麻山背
舎人親王の父は天武天皇であるので男系男子。天武天皇の孫。
淳仁天皇は続日本記においては廃帝とある。それは次のとおりである。

淳仁天皇は藤原仲麻呂(不比等の孫)ともとより親密で、仲麻呂の子の未亡人を淳仁天皇の妃とし淳仁天皇と仲麻呂は共に住んでいた。
淳仁天皇の治世で仲麻呂は大出世し政治を自由に操った。

天平宝時5(761)年孝謙上皇は病気を治してくれた弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という僧侶と親密になると、次第に淳仁天皇と仲麻呂の政治と対立し始める。

仲麻呂が天皇を介して上皇をいさめたことにより上皇は激怒し出家する。さらに対立が深まった。

仲麻呂は新天皇擁立の謀反を企み戦争の準備を始めたが、上皇に察知され討伐の兵が向けられ一族は殺害された。これを恵美押勝(えみおしかつ)の乱という。

淳仁天皇は廃位して捕らえられ、淡路へ流された。廃位されたため太上天皇(上皇)の号を送られることはなく淡路廃帝と称され、明治の御代で淳仁とおくり名された。

天平宝時8(764)年孝謙上皇自ら復位して再び天皇となった。



第48代称徳(しょうとく)天皇
(孝謙天皇に同じ)
父親 聖武天皇
母親 光明皇后

男系女子。独身。子供なし。
八代目の女帝、皇極天皇が重祚して以来、109年ぶりの重祚となった。また上皇が天皇を廃位するのも初めての事だった。

称徳天皇が再び即位したことで、政治的立場を強めたのは道鏡であった。
天皇は道鏡を天平神護元(765)年に太政大臣禅師とし天平神護2(766)年には法王とした。女帝と法王の共治体制となると、道鏡は自らが天皇になる野望を抱くようになった。

大分県の宇佐八幡宮の神職らと道鏡の弟らが共謀し神託として「道鏡を天皇へ」という奏上をしたことにより、宇佐八幡宮神託事件が起こる。天皇はこれに関与したものは捕らえさせ流罪に、また道教には皇位を継がせない旨の詔を発した。

皇族ではない者が天皇になろうとまでしたのは、やはり称徳天皇に子供がいないことで、それはさらに天武系の子孫がいなかったという事が明白だった。その為称徳天皇が子供を作ると男系継承が崩れると考え、即位後は結婚もせず子供も作らなかった。もしくは子供を作れない年齢だったから即位できたとも考えられる。

神護景雲4(770)年称徳天皇は病床で白壁王を皇位継承に指名し52歳で崩御された。

白壁王はその年62歳という高齢で天皇に即位し光仁天皇となった。

第49代光仁(こうにん)天皇
父親 志貴皇子(しきのみこ)
母親 紀橡姫(きのとちひめ)

志貴皇子の父は天智天皇なので男系男子。
ここで系図を出す。

第48代称徳天皇は独身であり子供もいなかったので、天武系から天智系へ皇位が移った。

光仁天皇(白壁王)は天智天皇の孫でありながら、天武系の聖武天皇の娘、孝謙天皇の異母姉である井上内親王を妻とし、間に他戸親王を儲けていた。
白壁王と井上内親王の両系統の繋がりがあったため、この皇位継承が実現できたと思われる。

先祖を同じくする二つの系統が争うことなく、しかも断絶の危機にあった皇統の皇位継承を成し遂げた。

6~8世紀における10代8人の女性天皇は以上だ。
ここまでの感想は、政権を掌握したい皇族が権力闘争を行ったため、また同じように蘇我氏や藤原氏といった有力豪族の娘が皇室に入りその氏族が権力闘争を行ったため、次期天皇の流れを決めるために女性天皇で中継ぎするケースが、推古天皇、斉明天皇、称徳天皇。

天皇が若くして崩御。継がせたい親王が幼いために皇后が代理で繋ぐケース、皇極天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇。

特筆すること。
孝謙天皇(称徳天皇)以外の女性天皇は元々皇后であり、後継者にはその皇后と天皇の子、またはその孫にしたいという権力者の意思により即位している。
女性で皇太子となったのは一人孝謙天皇。これも権力者の意向で次の天皇の流れを決めるため後継者を繋ぐ目的で皇太子になった。その為、女性天皇になってから結婚をしておらず、子供もいない。

これらからわかることは皇位継承のため内乱が起こりやすく、女性天皇が即位することでそれをできるだけ避け、後継ぎを指名し譲位をするようになり皇太子の制度が出来ていった。皇位継承順位と言う制度はまだない。途絶えてもおかしくない時代に皇統を守ったこの女性天皇たちの存在は大きいと感じた。

そしてもれなくこの女性天皇になる条件であるのは男系女子(父親先祖を遡ると神武天皇)であった。

女性天皇の残る2例は17~18世紀だ。つづく。  

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2021年04月29日

女性天皇について学びたい(第五回)

今回は5代目の女性天皇である第43代元明天皇を学びます。
ここも難しく複雑なので一つ一つ把握しながら纏めます。
第42代文武天皇の皇位継承からです。

文武天皇(軽皇子)は草壁皇子の子であり、母親は持統天皇の妹である阿陪皇女であったので成長を待って皇位を譲られた。
即位は15歳であったため、持統上皇がかなり補佐をしたとされている。上皇が崩御された後は数人の大臣や草壁皇子の弟たちが補佐をして政治が行われた。

文武天皇には皇后はなく、藤原不比等の娘の宮子(みやこ)が夫人となり大宝元(701)年に首(おびと)皇子を生んだ。
慶雲4(707)年、文武天皇も若くして25歳で崩御された。

皇子が幼少であるため、祖母つまり草壁皇子の妃である阿陪皇女が天皇になり元明天皇となった。



第43代元明天皇
父親 天智天皇
母親 蘇我姪娘

天智天皇の娘であるので男系女子。持統天皇の妹。文武天皇の母親、草壁皇子の妃であった。
子から親への皇位継承というのはこれまで先例がないが、これは文武天皇の母の資格で即位したのではなく、天智天皇の子の資格で即位をしたとある。しかもこれまでの女性天皇は全て元皇后であったが、今回は元皇太子妃ということで皇后に劣る為、亡き草壁皇子を天皇と同格にすることで、その妃である元明天皇の地位を上げる措置がなされた。そして平城京遷都が行われたのである。またこの御代に古事記が完成した。

和銅七(714)年に首皇子は14歳になり元服をし皇太子となった。
先述したようにこの首皇子は藤原不比等の娘の子である。首皇子に即位させることで不比等は天皇の祖父となりより強い権力を手にする。ただ、同時期に天武天皇の孫で、文武天皇の従兄弟に当たる長屋王(ながやおう)がいて、しかも血統としては嫡流に近く、適齢で政治力もあった。
藤原氏はこの長屋王の即位を阻まなければならなかった。更なる中継ぎを要したのである。

翌年、縁起の良い亀(左目が白、右目が赤、甲羅には北斗七星、腹には紅白の斑点が八の字を形成)が献上されたことをうけ、元明天皇は譲位して上皇となり、草壁皇子と元明天皇の間に生まれた氷高皇女(ひだかのひめみこ)が即位され元正天皇となった。




第44代元正(げんしょう)天皇
父親 草壁皇子(天皇格)
母親 元明天皇

女帝が初めて二代続いたのである。女帝の娘が即位したため、一見すると男系継承が途切れたように見える。
しかしこの元正天皇は元明天皇(女帝)の娘で即位したのではなく、草壁皇子(天皇格)そしてその父である天武天皇の男系女子で皇位を受け継いでいた。

この中継ぎをしなくても首皇子が即位できれば良かったのかもしれないがその後確実に首皇子へ継承させるための藤原氏の強い意志の表れだとされている。

この元正天皇の御代に日本書紀が完成した。

霊亀二(716)年首皇子は不比等の娘である光明子(こうみょうし)を妃に迎えた。養老二(718)年阿倍内親王(あべのみめみこ)を出産。

養老七(723)年、再び縁起のいい亀が献上され、翌年年号を「神亀(じんき)」と改元し元正天皇は譲位、上皇となり24歳の首皇子が第45代聖武(しょうむ)天皇となった。
これにより藤原氏はさらに政権の中での影響力を最大限に発揮していくこととなるが、政権を支えてきた長屋王との対立が深まっていく。

というところで今回はおしまいです。
今で言うところの皇位継承順位というはっきりしたものはなく、逆にあえてはっきりさせないことで皇位継承を権力者の考えるとおりに行えるようにしていたように見受けられる。特に今回は今までにない新たな継承をしているように思えるが、条件として考えられているものは例外なくやはり男系継承ということだけだった。次回へ続く。







  

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2021年04月26日

女性天皇について学びたい(第四回)

今回の女性天皇は第41代持統天皇ですが、女性天皇に関係してないけど39代から40代の皇位継承問題についても重要なことなので記録しておく。

古代においての皇位継承は現代の様に皇室典範などはないのではっきりした決まりはない。けれどある程度の原則はあった。
まず天皇の息子よりも天皇の弟が優先される傾向にあった。そして母親の家格(皇族か豪族か)、大王としての器、世代、年齢などでしばしば継承判定された。

大化の改新により大王の歴史は天皇として大きく転換期を迎え、38代天智天皇はこれまでにない強い権力を保持するようになっていた。
頂点に上り詰めた天智天皇は即位後、すぐに皇位継承の大きな問題に直面した。

天智天皇と皇后(倭姫王)の間に子供がいなかった。しかし天智天皇と地方豪族の娘の間には大友皇子(おおとものみこ)という男子がいた。
皇后との間に子(男女どちらでも)がいたとしたら、おそらくその子が継承したであろうが、天智天皇には同両親の弟がいた。
先述したように母親の家格のところで、大友皇子は劣ってしまう。

この場合は傾向で言うと通常、天智天皇の弟が即位すると思われる。
少し難解になってしまいますが詳細に書きます。

当初、天智天皇は通常通り天智天皇の弟である大海人(おおしあま)皇子を皇太弟として次の天皇に決めていた。
しかし自分が采女(うねめ・天皇や皇后に近侍し、食事など身の回りの庶事を専門に行う女官のこと。)の伊賀宅子媛(いがのやかこのいらつめ)に産ませた大友皇子が聡明だったので、愛情がうつり、671年政治的実権のある太政大臣(おおまつりごとおおえのきみ)を与えてしまった。天智天皇は、このことより原則父子間の直系継承に変更しようとしていたと見られる。
このことは大海人皇子の位置を危うくするものであり、大きく禍根を残すこととなった。

その数か月後天智天皇は病にかかり臥せた際に皇太弟を呼び事後を託したが、皇太弟はこれを固辞。天智天皇の皇后である倭姫王(男系女子)に天皇になってもらい、大友皇子に摂政させ、皇太弟は出家すると申し出た。天智天皇もこの申し出を受けたので皇太弟は髪を剃り吉野へ向かったとされる。

皇位継承で身内が争ってはいけないと先手を打った天智天皇。その意思を尊重して見せた皇太弟(大海人皇子)の様に一見すると見える。

「日本書紀」に詳しくこの辺りは書いてあるのだがこの「日本書紀」は後年に40代天武(てんむ)天皇となる大海人皇子が編纂を命じたものであり、自身の正当性を説明する意志が働いた事により事実と違う可能性がある。

天智天皇と大海人皇子は兄弟間で同じ女性を取り合った経緯もある。万葉歌人として豊麗な作品を残した才人女性をめぐり不和であった。
「日本書紀」には、出家し吉野に向かう大海人皇子の姿を見て重臣たちは「虎に翼をつけて放したようなものだ」と記している。天皇を諦めたわけではないのが隠しきれていないうえその「日本書紀」では大友皇子を天皇として認めていない。

現在、天智天皇の後の大友皇子が即位したかどうかの歴史認識は決着している。
大海人皇子、大友皇子の漢詩が共に残っており、天智天皇崩御後大友皇子が政務の任に当たったことは確定している。さらに平安以降の書物でも大友皇子を天皇と認めているものが多数あり、明治三年になり、明治天皇はこれに弘文天皇という号を送り歴代に加えられた。これが国の公式見解である。

第39代弘文(こうぶん)天皇。
父親 天智天皇
母親 伊賀宅子娘
男系男子。

671年即位後すぐ大友皇子と大海人皇子はそれぞれ戦争準備に取り掛かり672年、国内の戦争ではかつてない大規模な衝突が起きた。
これが壬申の乱である。叔父と甥が皇位を巡って一か月争い、叔父の大海人皇子に軍配は上がった。弘文(大友皇子)天皇は自害し、大海人皇子は天武天皇となった。

第40代天武天皇。
父親 舒明天皇
母親 皇極天皇

何度も出てる舒明天皇の子であるので男系男子。天智天皇(中大兄皇子)の弟である。

681年天武天皇は「古事記」「日本書紀」の編纂を命じた。ここも大事ですけど他で書いている事もありここでは省略します。
天武天皇の御代、外交は比較的落ち着いていて何の問題もなく過ぎ、国内首都の建設を構想し候補地を選んでいる中、病にかかり実現を見ず崩御された。



第41代持統(じとう)天皇。
父親 天智天皇
母親 蘇我遠智娘

天智天皇の娘であり男系女子。天武天皇の皇后。三方四代目の女帝。

壬申の乱は彼女にとっては異母弟と夫の争いで、夫と共に行動しよく夫を助けたようである。
持統天皇治世では694年奈良県橿原に大規模な首都である藤原京が完成した。

天武天皇との間には男子、草壁皇子(くさかべのみこ)がいたが幼く病弱だっため称制(代わりに成務を採る)を行い。後年次の天皇につけようとしていたが、草壁皇子はいよいよ体が悪くなり若くして薨去なされた。その草壁皇子にも幼い男子がいて、名を軽皇子(かるのみこ)と言った。

持統天皇は孫の軽皇子の15歳成長を待ち697年譲位し、軽皇子は文武天皇になった。
持統天皇は太上天皇(だじょうてんのう)と称した。我が国における「太上天皇」という称号の始まりである。現在の上皇陛下の上皇とはこの太上天皇の略称である。

第42代文武(もんむ)天皇。
父親 草壁皇子
母親 阿陪皇女

父親の草壁皇子は天武天皇持統天皇の男子であるので男系男子。

というところで、四代目の女性天皇の皇位継承を学びました。今回の持統天皇は自分の子を天皇に即位させるために称制を行ったりしてはいるが、幼い後継者が成長するとすぐに譲位をして渡していることがわかった。

  

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2021年04月25日

女性天皇について学びたい(第三回)

前回は「大化」という年号を立て我が国初めて年号が成立した瞬間のお話でした。

この年号という制度はもともと当時先進国だった中国文化で、中国は前漢の武帝時代より始まるとされている。この時代中国の周辺国は中国に朝貢していたこともあり中国の年号を用いたが日本だけは独自の年号を用いることを原則としたことを特筆しておく。

これは日本民族の独立的気概を表していて、「大化」という年号の意味は「国民全般に世の中が大きく変わるだろう」という指示を与えるものだった。

ちなみにこの辺り大事だから女性天皇に関係ないけど書いておきます。

大化元(645)年7月、高句麗の使いが来たのに対し「明神御宇日本天皇(あらみかみあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」という名前で詔を伝えた。初めて内外において「天皇」と使われた記録である。後の大宝元(701)年で外国に対してこの称号が使われると規定された。

さらに「日本(やまと)」という国号が使われたのもここが始めて。それまでは中国人は「倭(わ)」と言い国民は「やまと」と言っていたが、倭という文字が侮辱したものであることを日本人は知っていて聖徳太子が「日出処(ひいづるところ)」と称したものを言い換えたものが日のもと「日本」である。

この時代に我が国の国家的自覚は大きく湧き始めた。唐(中国)に劣らない立派な国にしたいと希望に満ち溢れている。


話を皇位継承に戻す。
孝徳天皇の次の皇位継承は歴史認定が分かれるところで、譲位か崩御により皇位継承がされるか分かれる。
改新により次々と改革が進められる中、孝徳天皇と中大兄皇子との間に溝が生じ、政権が分裂し始めた。

中大兄皇子が遷都の希望を天皇に出したところ認められなかった。すると中大兄皇子は先代皇極天皇を奉じて勝手に大和へ移り、孝徳天皇は退位したと言った記録になっている。孝徳天皇の皇后までも中大兄皇子と共に大和へ移ったというから本当に退位したのかもしれないが確定はされていない。退位したとすると皇極天皇に続き2例目の譲位となる。

退位してないとしても崩御すると践祚は行われるわけで、次は皇太子である中大兄皇子が即位するのは当然であったがこのとき中大兄皇子は即位しなかった。

理由は現在もまだ明らかになっていないが、改新が終わっておらず、中大兄皇子はまだ政治の実務を中心で行いたかったのか、また外交関係で不穏な空気が予測されていたためか考えられている。

そして実際は、皇極天皇の再祚となった。日本の再祚の初例である。女性天皇である皇極天皇は譲位をしたことによって後に再び即位できる重祚の道も開いた。このことはそれまで後継者を群臣たちの合議によってきめられていた地位を天皇が自ら退位することで後継者を選べるという天皇の自立性も確立したと言える。




第35代皇極天皇は即位して
第37代斉明(さいめい)天皇となった。
父親 茅淳王(ちぬおう)
母親 吉備姫王(きびひめおう)

もちろん皇極天皇と同じなので男系女子。

この時代いよいよ外交が騒がしくなってきた。
新羅が大きくなり唐と連合して百済が滅ぼされた。新羅連合軍が日本に侵攻してくるのを想定し、九州に防人(さきもり)を置いて、女性でありまた高齢であったのにも関わらず661年に斉明天皇は自ら博多へ参じ備えた。

しかしその数か月後には崩御されてしまった。

崩御された後、今度こそ皇太子である中大兄皇子だと思われたが、またしても即位しなかった。
新羅連合軍の日本侵攻に対する対策を天皇空席のまま君主として政令を発し続けた。

百済滅亡後新羅連合軍は高句麗を攻めた。その次は日本に来ると思い、日本は高句麗と結び援軍を送るが日本軍もまた敗退してしまう。
これが白村江の戦いである。私の先祖もこの戦いには参戦し捕虜となった後命からがら抜け出し帰国した経緯がある。

新羅連合軍はこの高句麗での戦いで疲弊し、その後日本を攻めることはなかった。

中大兄皇子は667年に再び国内整備のため南滋賀へ遷都。668年やっと7年の空席後即位式を挙げ天智天皇となった。

第38代天智(てんぢ)天皇
父親 舒明天皇
母親 皇極天皇

中大兄皇子は何度も出てきているのでもうわかっていると思いますが、紛うことなき男系男子。

という所で今回はおしまい。日本の大事なところだいぶ出てきましたね。
次回の女性天皇は第41代持統天皇となります。





  

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2021年04月24日

女性天皇について学びたい(第二回)

今回は我が国二人目の女性天皇である第35代皇極(こうぎょく)天皇の即位部分を学ぶ。



皇極天皇の一つ前
第34代舒明(じょめい)天皇については前回の推古天皇後の皇位継承に記載。

第35第皇極天皇
父親 茅淳王(ちぬおう)
母親 吉備姫王(きびひめおう)

父親の茅淳王の系図。


皇極天皇(宝皇女・たからのひめみこ)は舒明天皇の男兄弟の子供で男系女性であり、さらに舒明天皇と結婚をしている。ここもまた先代は異母兄弟の子供と結婚することで血統を近いものにしている。男系女子。

舒明天皇の子である開別(ひらかすわけ)皇子。別名・中大兄(なかのおおえの)皇子が少年であって若すぎたたため即位したとされる。
ここで関係してくるのが蘇我氏に対する配慮である。

舒明天皇は皇后(皇極天皇)以外にも男子がいて、夫人は蘇我馬子の娘だった。先に天皇の男子がいて、蘇我蝦夷の甥たが皇后の子ではないので正嫡ではなかった。後から産まれた中大兄皇子を即位させると崇峻天皇のように暗殺されてしまうと思ったのでしょう、ここでも女性が間に入ることで関係性を保ったのだった。

しかしこれに乗じ、蘇我蝦夷の子である蘇我入鹿(そがのいるか)が父に代わり執権を握ろうと台頭してくる。

前回推古天皇の所で書いた次の候補者・田村皇子と山背大兄王がいて、一度は選ばれなかった山背大兄王の存在が入鹿は邪魔になってくる。

643年、入鹿はついに斑鳩(いかるが)宮に兵を使わし山背大兄王を攻めさせた。大兄王は一旦生駒山にのがれたが、側近からは東国へ逃れて再挙することを勧められる。大兄王は民に苦しみを与えることになるとこれを採用しなかった。そして再度斑鳩宮に帰り、そこでその子弟妃妾一族ともにみな自害した。

ここ、悲しすぎるでしょ。思い出して。山背大兄王は推古天皇の孫、厩戸皇子(聖徳太子)の子である。現代にも伝わる偉大な太子の子孫は入鹿の暴挙によって全て亡くなってしまった。これは我が国史における大きな悲劇の一つであるのは間違いない。

だってさ、今聖徳太子の末裔がいたら確実に総理にはなるやろし、東大も首席で圧倒的に卒業するレベルの知能だったろうしその後の日本はさらにいい国だったかもしれないのだから。

もちろんね、この時代の人達もさこれには大きなショックを受けて、父の蝦夷までもさすがに入鹿バッシングをしたと記録されている。

そして出てくるのが歴史の授業で誰でも習った中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、舒明天皇の子である中大兄皇子と接触し勧誘。645年共同で入鹿を斬り付け殺害した。入鹿が暗殺されると蝦夷は翌日入鹿の屍を前にして、邸宅に火をかけ自害。これは乙巳(いっし)の変と呼ばれ、皇位継承と政変が関係しているのでクーデターとなっている。

乙巳の変より日本の体制が変わっていくこの出来事があの有名な大化の改新である。

学校教育で天皇の事教えてくれてなかったからさ、大化の改新って言葉だけ覚えてて中身わかりづらかったよね。ここでも学校でしっかり古事記の内容教えるべきだなぁって再度思う。戦前みたいに神話から皇位継承しっかり教えるべきだよね。ちなみに蝦夷が邸宅に火を放ったことで天皇記と国紀という書物が失われたという。現存していれば古事記より古い日本の国史書物だった事は言うまでもない。ここまで含めて蘇我氏は日本において悪く書かれることが多い。


第36代孝徳天皇
父親 茅淳王(ちぬおう)
母親 吉備姫王(きびひめおう)

父母でわかるように皇極天皇と父母が同じ。孝徳天皇は皇極天皇の弟である。男系男子。
ここでも男系女性天皇は一代限りで男系男子に戻した。

男系男子ではもともと皇極天皇と舒明天皇の子である中大兄皇子と古人大兄(ふるひとのおおえ)どちらかが即位するはずだったが、古人大兄は蘇我馬子の孫であったため大化の改新後暗殺を恐れたのか出家して隠退した。

皇極天皇が退位したことにより初の譲位が行われたという事になる。皇極天皇の弟が天皇になることで間を置き中大兄皇子は皇太子になった。中大兄皇子が若かった為ともいわている。聖徳太子に習い皇太子として政治の中心に立ち内大臣(うちおおみ)と加えて側近として右大臣左大臣(みぎ・ひだりのおおきみ)という役職を作りサポートさせると決め、一同は大槻の樹の下に集まって天神地祇に誓いを立て君臣協力して公明正大な政治を行うことを約束し、ここに「大化」という年号を立てた。これが我が国初めて年号が成立した瞬間である。


省略したくても大事なこと多くて長くなってしまう。実は次も皇極天皇(女性)が重祚(再び即位)するのでこの続きはまた次回。





  

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2021年04月20日

女性天皇について学びたい(第一回)

明治を学ぶが10月で更新止まってると改めて見て時間の速さに驚いた。

何故更新が止まってしまったのかというと、自分の家系の先祖系図が書かれた古い巻物が手元に来て、その解読にかかりっきりだったからで、そちらはようやく先日一冊の本へ纏めることができました。これは先月末に兄が結婚したのでその時に二人へのプレゼントといたしまして用意した次第です。

その際、巻物調べるためにいろんな古文書や解説本を読みまくったのですが、僕の氏は皇室への厚い尊敬心が家の伝統心情となっていて、皇室と常に一体であるという思い入れが家系の特徴であると書いてあった。

こういうものを読む以前から不思議とそのような感情が僕にはあり、その血が紛れもなく流れていることを実感して嬉しく思った。

そんな中、ツイッターで女性天皇女系天皇について書いておられる方がいて、(女性、女系の違いを知っている前提で話を進めます)ふと女系って普通に議論してるけど女系って言葉自体がおかしくね?って思った。

女系って言うことはだよ、母親を遡ればすべて同じ母親になるって事やろ?現在いるどの皇族でもそれは不可能じゃん。これを女系天皇って言うの?女系天皇って不可能なのに議論に含めるの?こんな単純なことに気が付かなくて女系天皇反対って言ってる人も大声で女系天皇って言ってるおかしい状態。

もう一度言うよ。女系天皇って、そもそもそんな言葉自体が男女平等議論以前にありえないって事。

今まで考えてたつもりの僕も気が付かなかった。考え足りてないと反省。
これをきっかけで、もっと本格的に女性天皇について学んでみようと思い、定価50000円もする天皇大鑑を中古で購入した。菊の御門の入ったそれはもう立派な装丁で歴代天皇の肖像画もあり、事績も大変分厚いので読むのに大変時間を要しますが自分の日記記録としてここに書き、ゆっくり学ばせていただこうと思っております。明治を学ぶはこの後に再開します。

という事で始まり。まず皇位継承図から。女性天皇にピンクの色を載せてます。


系図でわかるように女性の天皇が即位されたのは10代。うち2代は「重祚(ちょうそ)」(一度譲位した天皇が再び即位すること)なので、実質8人である。初めての女性天皇は誰でも知っている推古天皇だ。

初回は我が国初の女性天皇である推古天皇の即位部分を学ぶ。


推古天皇の一つ前
第32代は崇峻(すしゅん)天皇。
父親 欽明天皇
母親 蘇我小姉君(おあねのきみ)

蘇我馬子の甥に当たる。
あるとき崇峻天皇のところに猪を献じたものがあった。天皇はそれを指して、「そのうちに自分の嫌いな奴をこの猪を斬るように切ってしまいたい」とおっしゃられたことを聞いた馬子は自分の事と思い、腹臣の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて崇峻天皇を殺させた。

第33代推古天皇。
父親 欽明天皇
母親 蘇我堅塩媛(きたしひめ)

男系(父方を遡ると神武天皇にたどり着く)の女性天皇である。

蘇我馬子の姪。
大変美人で18歳にして異母兄の敏達天皇の皇后になった。
この時代同母の結婚は厳しく禁じられていたが異母兄弟での結婚は普通に行われていた、もしくはあえて近い血縁関係を保とうとする考え方があったのかもしれない。26~29代もまた継体、安閑、宣化、欽明と近い血縁の皇后を迎えている。

崇峻天皇が殺され、皇位が空いたときに群臣がそろって即位を望んだが、幾たびも辞退された。しかし最後には承諾し33代推古天皇になった。実質権力を持って居た蘇我馬子の力が働いたものとみられている。しかし先代を斬らせた馬子があからさまに政治の表に立つわけにはいかずここで登場するのが31代用明天皇の男子、厩戸皇子(聖徳太子)である。その厩戸皇子に摂政をさせた。

今回は女性天皇についてなので厩戸皇子についての事績は省きます。

即位させた理由としては、政治紛争が続いていたので、中立的な女性を立て社会情勢を緩和し、慕われている推古天皇によって国民の結合を深めようとしたのだと推測されている。

現代社会において、女性に対して飯炊き女というと、女性蔑視だなどと非難を受けることもあるだろう。ここで推古天皇にまつわるお話。
推古天皇は諡名(おくりな)を豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)と言い、現代でいう所の飯炊き女である。

意味合いとしては、推古天皇は毎日早朝に起きご飯を炊き、それを神前に供える事を主たる任務としていた。この飛鳥時代にすでに主婦という考えがあり、長らくやってきたことは神事であり、現在の認識に誤解して含まれる誰にでもできるとか雑用などのような意味は含まれていなかった。事実伊勢の斎宮は皇族女性が現在も務められている。

順当にいけば摂政を務めた厩戸皇子は推古天皇崩御後に天皇になるはずでしたが、厩戸皇子が先に薨去され馬子が天皇を助けて政治をとったようである。

それから数年後75歳という当時ではすこぶる長命を全うされ推古天皇はお隠れになった。

第34代舒明(じょめい)天皇。
父親 押坂彦人大兄皇子
母親 糠手姫皇女

父親の押坂彦人大兄皇子のまたその父親は敏達天皇、母親は広姫であるので男系男子という事になる。
先に書いたように推古天皇より先に厩戸皇子が亡くなったので、後継者問題がここでも起こった。

推古天皇の夫であった敏達天皇の子、押坂彦人(おさかのひこひと)大兄皇子の子である田村皇子と厩戸皇子の子の山背大兄王(やましろのおおえのみこ)が候補者であったが、推古天皇が臨終間際この二人を呼び出し、「よく考えて謹んで行動しなさい」と微妙に判断しづらいことをおっしゃったままこの世を去ったので、大臣である蘇我蝦夷(そがのえみし)が中心となって推古天皇の言葉を検討した結果、田村皇子が選ばれ第34代舒明天皇即位となった。

ただこれは山背大兄王にとっては残念なことで、蘇我氏との軋轢になっていくのだがそれはまた次のお話。

初代女性天皇である推古天皇継承についてはこのような流れだった。
結論としては推古天皇は男系の女性天皇であり、後継者においては候補も含め男系の男子のみであった。しかもこの時代何人も異母兄弟で結婚していて血のつながりを特に重要視していたことがわかった。

  

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