2020年08月29日

明治を学ぶ17

明治14(1881)年3月、ハワイ王国第7代国王カラカウアが来日。
当時のハワイはまだ独立国で歴史上日本を訪れた初外国の国家元首であった。

ハワイも沖縄同様に外国(アメリカ・イギリス・フランス・中国)の圧力にさらされていた。
この頃アメリカは帝国主義の下、本土からハワイへやってきて安い労働力で搾取していた。日本はというと明治元年より移民が始まり後年ではあるが明治23年にはハワイ総人口の40%が日本移民となるまでに増えていたそう。

来日の目的はと言うと、国の存亡をかけハワイ国王はアメリカではなく同じ島国の日本と共に生きたいと考えたのだ。
日本は丁重におもてなしをして歌舞伎なども見せたそうだ。そして明治天皇と会談をした。
その中でハワイから提案された一つが王位継承者のカイウラニ王女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮依仁親王)との縁組だった。これってかなりの決意でしょ。こんなにハワイから好かれていたんですね。

国が固まっていないこの時の日本はアメリカとの衝突を恐れ縁組は実現しなかった。その後の王国は来日の12年後、アメリカに政権を奪われ「ハワイ王国」という国家は無くなった。前回の君が代のとこに書いたけどこういう事なんだよね。続いてきた国家元首系統が変わると、いわゆる王朝が変われば国はまた違うものと見なされるって事。日本の場合女系天皇が誕生した時点で王朝が変わってしまう。別の国になってしまう。ここの危機意識多くの日本人が持っていないから何度も言いたい。

現在のハワイはご存じのようにアメリカの1州で、過去にこんなラブコール貰っても一緒になれなかったけど多くの日本人が親近感を持って観光で訪れているのが救いではある。


維新三傑亡き残った明治政府を一度ここで整理しておこう。

太政大臣 三条実美(さんじょう さねとみ)
左大臣 有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)
右大臣 岩倉具視

参議 大隈重信(肥前)・伊藤博文(長州)・井上馨(長州)・大木喬任(肥前)・寺島宗則(薩摩)・山縣有朋(長州)・黒田清隆(薩摩)・西郷従道(薩摩)・川村純義(薩摩)・山田顕義(長州)

維新三傑が国の土台を作ったが憲法も国会なく、例えるならまだ建物が立っていない状態の日本。

明治14年3月、大隈重信は有栖川宮熾仁親王を通じて明治天皇に早期国会開設の意見書を提出。
内容
・本年中に憲法を制定。
・明治16年に国会を開設。
・イギリス流の議院内閣制の実施。
この急進的な意見書は参議の他のメンバーには相談せず秘密裏に出したものだった。3か月後伊藤博文らはその提出を知り驚き対立が始まる。

急進的(急速)―大隈重信(肥前)。自由民権運動活動家、板垣退助や福沢諭吉ら応援。

漸進的(ゆっくり)―伊藤博文(長州)。岩倉や井上ら薩長系参議も同じ考え。
・国会開設をゆっくり進める。
・天皇の大権を確立する国家組織を主張。

明治14年7月、北海道開拓使官有物払い下げ事件。
10年間で国費1400万円をかけた開拓事業の官有物を開拓使長官だった黒田清隆(薩摩・幕末牛深へ来ていた)は同じ薩摩・五代友厚(才助・幕末牛深へ来ていた)へ38万円(しかも30年無利子ローン)で払い下げを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となった事件。(最近で言うモリカケ問題みたいなやつ。)

各地で政府批判と国会でこういう問題を議論しないといけないと国会開設要求運動が加速する。

7月21日、払い下げを閣議で議論。有栖川宮、大隈ら反対するも伊藤らは払い下げ決定。

7月30日、明治天皇東北北海道巡幸へ出発。有栖川宮・大隈・大木らが付き添う。
8月、世論沸騰させ政府を大隈が乗っ取ろうとしていると考え(政権争い)、大隈陰謀説を伊藤・井上・西郷らを中心に言い出す。

10月、三条・岩倉と薩長系参議が話し合い。

10月11日、天皇巡幸後すぐ御前会議。大隈大木は呼ばれず。
この御前会議では大隈らの追放、北海道開拓使官有物払い下げの中止、10年後に国会開設を決定した。

11日深夜伊藤・西郷は大隈邸を訪れ辞表の提出を求め、大隈辞任。大隈派の官僚も一斉追放した。
世間の政府批判の鎮静化を図り薩長の権力体制を固める目的だった。
これを「明治14年の政変」と言う。

明治14年10月12日、国会開設の勅諭を発布。

簡単に言うと、これまでの流れを1枚目で言って2枚目からが本題。
・明治23年を期して議員を召し国会を開設する。
・その組織や権限は明治天皇自ら定めて公布する。
・もし早期開設を煽り国の安定を害すれば罰する。と言う内容。

10年後の国会開設が決まり自由民権家たちが動き出す。
10月18日、板垣退助は政党「自由党」を結成。
主権在民・一院制議会・普通選挙。フランス民権思想の影響。

明治15年4月16日、大隈重信は政党「立憲改進党」を結成。
立憲君主制・二院制議会・(年齢や税金額による)制限選挙。イギリス流。

「自由」という言葉がブームになり、各地で政治演説会が開かれ多くの国民が参加するようになる。
ちな「Liberty」という英語を「自由」と訳したのも福沢諭吉。

明治14年4月6日、岐阜県の演説会場で遊説中の板垣退助が自由民権運動へ反対する小学校教員から襲撃を受ける。これを岐阜事件という。「板垣死すとも自由は死せず」の由来となったのがこの事件である。


明治15年1月、軍人の精神教育の基本「軍人勅諭」を公布。
明治11年の竹橋事件から警戒され、軍隊の中にも自由民権運動が広がっていくのを恐れた陸軍卿の山縣有朋が軍人の引き締めを行う目的で主導。これが昭和の終戦に至るまで活用された。
内容。
・天皇が軍の最高統率者であることを強調。
「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の5か条。
・上官の命令は天皇の命令。
・軍人が政治に関与すべきではない。
・軍人の命は羽毛よりも軽いと覚悟せよ。

この頃の経済はと言うと西南戦争で大量の不換紙幣(政府が発行した金や銀と交換できない紙幣)が発行されたことにより激しいインフレが起こり米が高騰し農民が困窮していた。

明治15年10月。大蔵卿松方正義により日本初の中央銀行である日本銀行設立

不換紙幣の回収を行いインフレが収まるも行きすぎてデフレになり再度農民は困窮した。まだ日本の経済学はお子様で発展途上だった。ちなこの大蔵卿松方正義の息子が松方幸次郎で初代川崎造船所社長で絵画の世界では印象派のクロードモネやルノワールの絵画を買って日本に持ってきてくれたいわゆる松方コレクションの人で有名である。

明治15年11月、国会開設へ向け自由党板垣退助と後藤象二郎は海外へ憲法を学びに行く。
政府の斡旋で財閥三井が外遊の費用を用意したことにより党内が分裂。立憲改進党も批判し関係が悪化し対立していく。
これは結果から伊藤ら政府が仕組んだ陰謀だと言われているがその後はまた次回へ。















  

Posted by hirok○ at 07:49Comments(0)明治~