2021年09月05日

蒙古襲来絵詞ー河野通有について




蒙古襲来絵詞は松橋に住んでいた江戸幕府の御家人・竹崎季長が元寇襲来時の活躍を描かせたものである。あまりにも有名な絵巻物だったのですが、つい先日国宝に指定され、国宝ではなかったの?と驚かれた方も多いと思います。

竹崎季長が甲佐神社へ奉納し、その後名和氏、大矢野氏を経て宮内庁へ寄贈されたそう。おそらく国宝になってなかったのは江戸時代に模写制作されたものが多く、天草の大矢野氏が所有していた時代に加筆の形跡が見られていたためであろう。

上の画像はその絵詞の一部分で、九州大学の解説では『志賀島の合戦で軍功をたてた伊予国御家人河野通有(こうの・みちあり)が、屋敷を訪れた季長に戦闘の様子を語っている場面。ちなみに、通有は烏帽子(えぼし)を着けていないが、河野家では合戦の最中に烏帽子を着けないことが慣わしであったらしい。』と書いてある。

この絵巻物については私も個人的に調べていて、全てではないがこの画像の部分の大まかな意味は分かるのですが、正確に何と書いてあるのか知りたいと思い調べたものを私のまとめメモとして書き残そうと思う。

この絵の中の注釈(文字)部分を解読したい。


正直この画像ではかなり厳しいので江戸時代に模写されたものをさらに模写され九州大学に保存されてるものも総合して見てみた。



『みちありがいえには
合戦落居をせさる間
はえはうしをききる
よしこれを申

いよのかわの六らうみちあり
生年三十二このひたたれはへいけの
かつせんの時みちのぶのかはの四郎
源氏の御方ににまいりし時きたりし
ひたたれなり』

この絵詞の他の文章の文字と比較したりしてこういうふうに私には読めた。
昔の文章ってなんでこんなに伝わりにくい文章なんだろうね。
これをもう少しわかりやすくする。

『みちあり(通有)がいえ(家)には
合戦落居をせさる間
はえはうし(烏帽子)をき(着)きる
よしこれを申

いよ(伊予)のかはの(河野)六らう(六郎)みちあり(通有)
生年三十二このひたたれ(直垂)はへいけ(平家)の
かつせん(合戦)の時みちのぶ(通信)のかはの(河野)四郎
源氏の御方ににまいり(参り)し時き(着)たりし
ひたたれ(直垂)なり』

もっとわかりやすく。
『通有の河野家では
合戦が落居しない間は
烏帽子を着けないと言っていた

伊予(現愛媛)の河野六郎通有は
このとき生年三十二で着ている直垂は
平家との戦い(源平合戦)で活躍した先祖の河野四郎通信が
源氏の味方に参上した時着けていた
直垂である。』

意味はいろんなところで書いてあったけど原文にはどう書いてあるのか興味があったので個人的にすっきりしました。

これやって気が付いたんやけどさ、河野の読み方さ、九大の解説に書いてあった『こうの』じゃなくて『かわの』じゃね?
原文には『かはの』って書いてあるんやけど。『こうの』って読むなら『かうの』って書いてあるはずなんよね。
吾妻鏡には『川野』って書いてあるのもあるし、これを『こうの』読みは厳しくないか?
『かわの』だと思うわ。元寇から日本を守った河野通有は『かわのみちあり』だった。全国のかわのさんに朗報と言える。
これもずっと疑問だったんだよね。
  


Posted by hirok○ at 10:01Comments(0)その他