2021年04月29日

女性天皇について学びたい(第五回)

今回は5代目の女性天皇である第43代元明天皇を学びます。
ここも難しく複雑なので一つ一つ把握しながら纏めます。
第42代文武天皇の皇位継承からです。

文武天皇(軽皇子)は草壁皇子の子であり、母親は持統天皇の妹である阿陪皇女であったので成長を待って皇位を譲られた。
即位は15歳であったため、持統上皇がかなり補佐をしたとされている。上皇が崩御された後は数人の大臣や草壁皇子の弟たちが補佐をして政治が行われた。

文武天皇には皇后はなく、藤原不比等の娘の宮子(みやこ)が夫人となり大宝元(701)年に首(おびと)皇子を生んだ。
慶雲4(707)年、文武天皇も若くして25歳で崩御された。

皇子が幼少であるため、祖母つまり草壁皇子の妃である阿陪皇女が天皇になり元明天皇となった。



第43代元明天皇
父親 天智天皇
母親 蘇我姪娘

天智天皇の娘であるので男系女子。持統天皇の妹。文武天皇の母親、草壁皇子の妃であった。
子から親への皇位継承というのはこれまで先例がないが、これは文武天皇の母の資格で即位したのではなく、天智天皇の子の資格で即位をしたとある。しかもこれまでの女性天皇は全て元皇后であったが、今回は元皇太子妃ということで皇后に劣る為、亡き草壁皇子を天皇と同格にすることで、その妃である元明天皇の地位を上げる措置がなされた。そして平城京遷都が行われたのである。またこの御代に古事記が完成した。

和銅七(714)年に首皇子は14歳になり元服をし皇太子となった。
先述したようにこの首皇子は藤原不比等の娘の子である。首皇子に即位させることで不比等は天皇の祖父となりより強い権力を手にする。ただ、同時期に天武天皇の孫で、文武天皇の従兄弟に当たる長屋王(ながやおう)がいて、しかも血統としては嫡流に近く、適齢で政治力もあった。
藤原氏はこの長屋王の即位を阻まなければならなかった。更なる中継ぎを要したのである。

翌年、縁起の良い亀(左目が白、右目が赤、甲羅には北斗七星、腹には紅白の斑点が八の字を形成)が献上されたことをうけ、元明天皇は譲位して上皇となり、草壁皇子と元明天皇の間に生まれた氷高皇女(ひだかのひめみこ)が即位され元正天皇となった。




第44代元正(げんしょう)天皇
父親 草壁皇子(天皇格)
母親 元明天皇

女帝が初めて二代続いたのである。女帝の娘が即位したため、一見すると男系継承が途切れたように見える。
しかしこの元正天皇は元明天皇(女帝)の娘で即位したのではなく、草壁皇子(天皇格)そしてその父である天武天皇の男系女子で皇位を受け継いでいた。

この中継ぎをしなくても首皇子が即位できれば良かったのかもしれないがその後確実に首皇子へ継承させるための藤原氏の強い意志の表れだとされている。

この元正天皇の御代に日本書紀が完成した。

霊亀二(716)年首皇子は不比等の娘である光明子(こうみょうし)を妃に迎えた。養老二(718)年阿倍内親王(あべのみめみこ)を出産。

養老七(723)年、再び縁起のいい亀が献上され、翌年年号を「神亀(じんき)」と改元し元正天皇は譲位、上皇となり24歳の首皇子が第45代聖武(しょうむ)天皇となった。
これにより藤原氏はさらに政権の中での影響力を最大限に発揮していくこととなるが、政権を支えてきた長屋王との対立が深まっていく。

というところで今回はおしまいです。
今で言うところの皇位継承順位というはっきりしたものはなく、逆にあえてはっきりさせないことで皇位継承を権力者の考えるとおりに行えるようにしていたように見受けられる。特に今回は今までにない新たな継承をしているように思えるが、条件として考えられているものは例外なくやはり男系継承ということだけだった。次回へ続く。







  

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2021年04月26日

女性天皇について学びたい(第四回)

今回の女性天皇は第41代持統天皇ですが、女性天皇に関係してないけど39代から40代の皇位継承問題についても重要なことなので記録しておく。

古代においての皇位継承は現代の様に皇室典範などはないのではっきりした決まりはない。けれどある程度の原則はあった。
まず天皇の息子よりも天皇の弟が優先される傾向にあった。そして母親の家格(皇族か豪族か)、大王としての器、世代、年齢などでしばしば継承判定された。

大化の改新により大王の歴史は天皇として大きく転換期を迎え、38代天智天皇はこれまでにない強い権力を保持するようになっていた。
頂点に上り詰めた天智天皇は即位後、すぐに皇位継承の大きな問題に直面した。

天智天皇と皇后(倭姫王)の間に子供がいなかった。しかし天智天皇と地方豪族の娘の間には大友皇子(おおとものみこ)という男子がいた。
皇后との間に子(男女どちらでも)がいたとしたら、おそらくその子が継承したであろうが、天智天皇には同両親の弟がいた。
先述したように母親の家格のところで、大友皇子は劣ってしまう。

この場合は傾向で言うと通常、天智天皇の弟が即位すると思われる。
少し難解になってしまいますが詳細に書きます。

当初、天智天皇は通常通り天智天皇の弟である大海人(おおしあま)皇子を皇太弟として次の天皇に決めていた。
しかし自分が采女(うねめ・天皇や皇后に近侍し、食事など身の回りの庶事を専門に行う女官のこと。)の伊賀宅子媛(いがのやかこのいらつめ)に産ませた大友皇子が聡明だったので、愛情がうつり、671年政治的実権のある太政大臣(おおまつりごとおおえのきみ)を与えてしまった。天智天皇は、このことより原則父子間の直系継承に変更しようとしていたと見られる。
このことは大海人皇子の位置を危うくするものであり、大きく禍根を残すこととなった。

その数か月後天智天皇は病にかかり臥せた際に皇太弟を呼び事後を託したが、皇太弟はこれを固辞。天智天皇の皇后である倭姫王(男系女子)に天皇になってもらい、大友皇子に摂政させ、皇太弟は出家すると申し出た。天智天皇もこの申し出を受けたので皇太弟は髪を剃り吉野へ向かったとされる。

皇位継承で身内が争ってはいけないと先手を打った天智天皇。その意思を尊重して見せた皇太弟(大海人皇子)の様に一見すると見える。

「日本書紀」に詳しくこの辺りは書いてあるのだがこの「日本書紀」は後年に40代天武(てんむ)天皇となる大海人皇子が編纂を命じたものであり、自身の正当性を説明する意志が働いた事により事実と違う可能性がある。

天智天皇と大海人皇子は兄弟間で同じ女性を取り合った経緯もある。万葉歌人として豊麗な作品を残した才人女性をめぐり不和であった。
「日本書紀」には、出家し吉野に向かう大海人皇子の姿を見て重臣たちは「虎に翼をつけて放したようなものだ」と記している。天皇を諦めたわけではないのが隠しきれていないうえその「日本書紀」では大友皇子を天皇として認めていない。

現在、天智天皇の後の大友皇子が即位したかどうかの歴史認識は決着している。
大海人皇子、大友皇子の漢詩が共に残っており、天智天皇崩御後大友皇子が政務の任に当たったことは確定している。さらに平安以降の書物でも大友皇子を天皇と認めているものが多数あり、明治三年になり、明治天皇はこれに弘文天皇という号を送り歴代に加えられた。これが国の公式見解である。

第39代弘文(こうぶん)天皇。
父親 天智天皇
母親 伊賀宅子娘
男系男子。

671年即位後すぐ大友皇子と大海人皇子はそれぞれ戦争準備に取り掛かり672年、国内の戦争ではかつてない大規模な衝突が起きた。
これが壬申の乱である。叔父と甥が皇位を巡って一か月争い、叔父の大海人皇子に軍配は上がった。弘文(大友皇子)天皇は自害し、大海人皇子は天武天皇となった。

第40代天武天皇。
父親 舒明天皇
母親 皇極天皇

何度も出てる舒明天皇の子であるので男系男子。天智天皇(中大兄皇子)の弟である。

681年天武天皇は「古事記」「日本書紀」の編纂を命じた。ここも大事ですけど他で書いている事もありここでは省略します。
天武天皇の御代、外交は比較的落ち着いていて何の問題もなく過ぎ、国内首都の建設を構想し候補地を選んでいる中、病にかかり実現を見ず崩御された。



第41代持統(じとう)天皇。
父親 天智天皇
母親 蘇我遠智娘

天智天皇の娘であり男系女子。天武天皇の皇后。三方四代目の女帝。

壬申の乱は彼女にとっては異母弟と夫の争いで、夫と共に行動しよく夫を助けたようである。
持統天皇治世では694年奈良県橿原に大規模な首都である藤原京が完成した。

天武天皇との間には男子、草壁皇子(くさかべのみこ)がいたが幼く病弱だっため称制(代わりに成務を採る)を行い。後年次の天皇につけようとしていたが、草壁皇子はいよいよ体が悪くなり若くして薨去なされた。その草壁皇子にも幼い男子がいて、名を軽皇子(かるのみこ)と言った。

持統天皇は孫の軽皇子の15歳成長を待ち697年譲位し、軽皇子は文武天皇になった。
持統天皇は太上天皇(だじょうてんのう)と称した。我が国における「太上天皇」という称号の始まりである。現在の上皇陛下の上皇とはこの太上天皇の略称である。

第42代文武(もんむ)天皇。
父親 草壁皇子
母親 阿陪皇女

父親の草壁皇子は天武天皇持統天皇の男子であるので男系男子。

というところで、四代目の女性天皇の皇位継承を学びました。今回の持統天皇は自分の子を天皇に即位させるために称制を行ったりしてはいるが、幼い後継者が成長するとすぐに譲位をして渡していることがわかった。

  

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2021年04月25日

女性天皇について学びたい(第三回)

前回は「大化」という年号を立て我が国初めて年号が成立した瞬間のお話でした。

この年号という制度はもともと当時先進国だった中国文化で、中国は前漢の武帝時代より始まるとされている。この時代中国の周辺国は中国に朝貢していたこともあり中国の年号を用いたが日本だけは独自の年号を用いることを原則としたことを特筆しておく。

これは日本民族の独立的気概を表していて、「大化」という年号の意味は「国民全般に世の中が大きく変わるだろう」という指示を与えるものだった。

ちなみにこの辺り大事だから女性天皇に関係ないけど書いておきます。

大化元(645)年7月、高句麗の使いが来たのに対し「明神御宇日本天皇(あらみかみあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」という名前で詔を伝えた。初めて内外において「天皇」と使われた記録である。後の大宝元(701)年で外国に対してこの称号が使われると規定された。

さらに「日本(やまと)」という国号が使われたのもここが始めて。それまでは中国人は「倭(わ)」と言い国民は「やまと」と言っていたが、倭という文字が侮辱したものであることを日本人は知っていて聖徳太子が「日出処(ひいづるところ)」と称したものを言い換えたものが日のもと「日本」である。

この時代に我が国の国家的自覚は大きく湧き始めた。唐(中国)に劣らない立派な国にしたいと希望に満ち溢れている。


話を皇位継承に戻す。
孝徳天皇の次の皇位継承は歴史認定が分かれるところで、譲位か崩御により皇位継承がされるか分かれる。
改新により次々と改革が進められる中、孝徳天皇と中大兄皇子との間に溝が生じ、政権が分裂し始めた。

中大兄皇子が遷都の希望を天皇に出したところ認められなかった。すると中大兄皇子は先代皇極天皇を奉じて勝手に大和へ移り、孝徳天皇は退位したと言った記録になっている。孝徳天皇の皇后までも中大兄皇子と共に大和へ移ったというから本当に退位したのかもしれないが確定はされていない。退位したとすると皇極天皇に続き2例目の譲位となる。

退位してないとしても崩御すると践祚は行われるわけで、次は皇太子である中大兄皇子が即位するのは当然であったがこのとき中大兄皇子は即位しなかった。

理由は現在もまだ明らかになっていないが、改新が終わっておらず、中大兄皇子はまだ政治の実務を中心で行いたかったのか、また外交関係で不穏な空気が予測されていたためか考えられている。

そして実際は、皇極天皇の再祚となった。日本の再祚の初例である。女性天皇である皇極天皇は譲位をしたことによって後に再び即位できる重祚の道も開いた。このことはそれまで後継者を群臣たちの合議によってきめられていた地位を天皇が自ら退位することで後継者を選べるという天皇の自立性も確立したと言える。




第35代皇極天皇は即位して
第37代斉明(さいめい)天皇となった。
父親 茅淳王(ちぬおう)
母親 吉備姫王(きびひめおう)

もちろん皇極天皇と同じなので男系女子。

この時代いよいよ外交が騒がしくなってきた。
新羅が大きくなり唐と連合して百済が滅ぼされた。新羅連合軍が日本に侵攻してくるのを想定し、九州に防人(さきもり)を置いて、女性でありまた高齢であったのにも関わらず661年に斉明天皇は自ら博多へ参じ備えた。

しかしその数か月後には崩御されてしまった。

崩御された後、今度こそ皇太子である中大兄皇子だと思われたが、またしても即位しなかった。
新羅連合軍の日本侵攻に対する対策を天皇空席のまま君主として政令を発し続けた。

百済滅亡後新羅連合軍は高句麗を攻めた。その次は日本に来ると思い、日本は高句麗と結び援軍を送るが日本軍もまた敗退してしまう。
これが白村江の戦いである。私の先祖もこの戦いには参戦し捕虜となった後命からがら抜け出し帰国した経緯がある。

新羅連合軍はこの高句麗での戦いで疲弊し、その後日本を攻めることはなかった。

中大兄皇子は667年に再び国内整備のため南滋賀へ遷都。668年やっと7年の空席後即位式を挙げ天智天皇となった。

第38代天智(てんぢ)天皇
父親 舒明天皇
母親 皇極天皇

中大兄皇子は何度も出てきているのでもうわかっていると思いますが、紛うことなき男系男子。

という所で今回はおしまい。日本の大事なところだいぶ出てきましたね。
次回の女性天皇は第41代持統天皇となります。





  

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2021年04月24日

女性天皇について学びたい(第二回)

今回は我が国二人目の女性天皇である第35代皇極(こうぎょく)天皇の即位部分を学ぶ。



皇極天皇の一つ前
第34代舒明(じょめい)天皇については前回の推古天皇後の皇位継承に記載。

第35第皇極天皇
父親 茅淳王(ちぬおう)
母親 吉備姫王(きびひめおう)

父親の茅淳王の系図。


皇極天皇(宝皇女・たからのひめみこ)は舒明天皇の男兄弟の子供で男系女性であり、さらに舒明天皇と結婚をしている。ここもまた先代は異母兄弟の子供と結婚することで血統を近いものにしている。男系女子。

舒明天皇の子である開別(ひらかすわけ)皇子。別名・中大兄(なかのおおえの)皇子が少年であって若すぎたたため即位したとされる。
ここで関係してくるのが蘇我氏に対する配慮である。

舒明天皇は皇后(皇極天皇)以外にも男子がいて、夫人は蘇我馬子の娘だった。先に天皇の男子がいて、蘇我蝦夷の甥たが皇后の子ではないので正嫡ではなかった。後から産まれた中大兄皇子を即位させると崇峻天皇のように暗殺されてしまうと思ったのでしょう、ここでも女性が間に入ることで関係性を保ったのだった。

しかしこれに乗じ、蘇我蝦夷の子である蘇我入鹿(そがのいるか)が父に代わり執権を握ろうと台頭してくる。

前回推古天皇の所で書いた次の候補者・田村皇子と山背大兄王がいて、一度は選ばれなかった山背大兄王の存在が入鹿は邪魔になってくる。

643年、入鹿はついに斑鳩(いかるが)宮に兵を使わし山背大兄王を攻めさせた。大兄王は一旦生駒山にのがれたが、側近からは東国へ逃れて再挙することを勧められる。大兄王は民に苦しみを与えることになるとこれを採用しなかった。そして再度斑鳩宮に帰り、そこでその子弟妃妾一族ともにみな自害した。

ここ、悲しすぎるでしょ。思い出して。山背大兄王は推古天皇の孫、厩戸皇子(聖徳太子)の子である。現代にも伝わる偉大な太子の子孫は入鹿の暴挙によって全て亡くなってしまった。これは我が国史における大きな悲劇の一つであるのは間違いない。

だってさ、今聖徳太子の末裔がいたら確実に総理にはなるやろし、東大も首席で圧倒的に卒業するレベルの知能だったろうしその後の日本はさらにいい国だったかもしれないのだから。

もちろんね、この時代の人達もさこれには大きなショックを受けて、父の蝦夷までもさすがに入鹿バッシングをしたと記録されている。

そして出てくるのが歴史の授業で誰でも習った中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、舒明天皇の子である中大兄皇子と接触し勧誘。645年共同で入鹿を斬り付け殺害した。入鹿が暗殺されると蝦夷は翌日入鹿の屍を前にして、邸宅に火をかけ自害。これは乙巳(いっし)の変と呼ばれ、皇位継承と政変が関係しているのでクーデターとなっている。

乙巳の変より日本の体制が変わっていくこの出来事があの有名な大化の改新である。

学校教育で天皇の事教えてくれてなかったからさ、大化の改新って言葉だけ覚えてて中身わかりづらかったよね。ここでも学校でしっかり古事記の内容教えるべきだなぁって再度思う。戦前みたいに神話から皇位継承しっかり教えるべきだよね。ちなみに蝦夷が邸宅に火を放ったことで天皇記と国紀という書物が失われたという。現存していれば古事記より古い日本の国史書物だった事は言うまでもない。ここまで含めて蘇我氏は日本において悪く書かれることが多い。


第36代孝徳天皇
父親 茅淳王(ちぬおう)
母親 吉備姫王(きびひめおう)

父母でわかるように皇極天皇と父母が同じ。孝徳天皇は皇極天皇の弟である。男系男子。
ここでも男系女性天皇は一代限りで男系男子に戻した。

男系男子ではもともと皇極天皇と舒明天皇の子である中大兄皇子と古人大兄(ふるひとのおおえ)どちらかが即位するはずだったが、古人大兄は蘇我馬子の孫であったため大化の改新後暗殺を恐れたのか出家して隠退した。

皇極天皇が退位したことにより初の譲位が行われたという事になる。皇極天皇の弟が天皇になることで間を置き中大兄皇子は皇太子になった。中大兄皇子が若かった為ともいわている。聖徳太子に習い皇太子として政治の中心に立ち内大臣(うちおおみ)と加えて側近として右大臣左大臣(みぎ・ひだりのおおきみ)という役職を作りサポートさせると決め、一同は大槻の樹の下に集まって天神地祇に誓いを立て君臣協力して公明正大な政治を行うことを約束し、ここに「大化」という年号を立てた。これが我が国初めて年号が成立した瞬間である。


省略したくても大事なこと多くて長くなってしまう。実は次も皇極天皇(女性)が重祚(再び即位)するのでこの続きはまた次回。





  

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2021年04月20日

女性天皇について学びたい(第一回)

明治を学ぶが10月で更新止まってると改めて見て時間の速さに驚いた。

何故更新が止まってしまったのかというと、自分の家系の先祖系図が書かれた古い巻物が手元に来て、その解読にかかりっきりだったからで、そちらはようやく先日一冊の本へ纏めることができました。これは先月末に兄が結婚したのでその時に二人へのプレゼントといたしまして用意した次第です。

その際、巻物調べるためにいろんな古文書や解説本を読みまくったのですが、僕の氏は皇室への厚い尊敬心が家の伝統心情となっていて、皇室と常に一体であるという思い入れが家系の特徴であると書いてあった。

こういうものを読む以前から不思議とそのような感情が僕にはあり、その血が紛れもなく流れていることを実感して嬉しく思った。

そんな中、ツイッターで女性天皇女系天皇について書いておられる方がいて、(女性、女系の違いを知っている前提で話を進めます)ふと女系って普通に議論してるけど女系って言葉自体がおかしくね?って思った。

女系って言うことはだよ、母親を遡ればすべて同じ母親になるって事やろ?現在いるどの皇族でもそれは不可能じゃん。これを女系天皇って言うの?女系天皇って不可能なのに議論に含めるの?こんな単純なことに気が付かなくて女系天皇反対って言ってる人も大声で女系天皇って言ってるおかしい状態。

もう一度言うよ。女系天皇って、そもそもそんな言葉自体が男女平等議論以前にありえないって事。

今まで考えてたつもりの僕も気が付かなかった。考え足りてないと反省。
これをきっかけで、もっと本格的に女性天皇について学んでみようと思い、定価50000円もする天皇大鑑を中古で購入した。菊の御門の入ったそれはもう立派な装丁で歴代天皇の肖像画もあり、事績も大変分厚いので読むのに大変時間を要しますが自分の日記記録としてここに書き、ゆっくり学ばせていただこうと思っております。明治を学ぶはこの後に再開します。

という事で始まり。まず皇位継承図から。女性天皇にピンクの色を載せてます。


系図でわかるように女性の天皇が即位されたのは10代。うち2代は「重祚(ちょうそ)」(一度譲位した天皇が再び即位すること)なので、実質8人である。初めての女性天皇は誰でも知っている推古天皇だ。

初回は我が国初の女性天皇である推古天皇の即位部分を学ぶ。


推古天皇の一つ前
第32代は崇峻(すしゅん)天皇。
父親 欽明天皇
母親 蘇我小姉君(おあねのきみ)

蘇我馬子の甥に当たる。
あるとき崇峻天皇のところに猪を献じたものがあった。天皇はそれを指して、「そのうちに自分の嫌いな奴をこの猪を斬るように切ってしまいたい」とおっしゃられたことを聞いた馬子は自分の事と思い、腹臣の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて崇峻天皇を殺させた。

第33代推古天皇。
父親 欽明天皇
母親 蘇我堅塩媛(きたしひめ)

男系(父方を遡ると神武天皇にたどり着く)の女性天皇である。

蘇我馬子の姪。
大変美人で18歳にして異母兄の敏達天皇の皇后になった。
この時代同母の結婚は厳しく禁じられていたが異母兄弟での結婚は普通に行われていた、もしくはあえて近い血縁関係を保とうとする考え方があったのかもしれない。26~29代もまた継体、安閑、宣化、欽明と近い血縁の皇后を迎えている。

崇峻天皇が殺され、皇位が空いたときに群臣がそろって即位を望んだが、幾たびも辞退された。しかし最後には承諾し33代推古天皇になった。実質権力を持って居た蘇我馬子の力が働いたものとみられている。しかし先代を斬らせた馬子があからさまに政治の表に立つわけにはいかずここで登場するのが31代用明天皇の男子、厩戸皇子(聖徳太子)である。その厩戸皇子に摂政をさせた。

今回は女性天皇についてなので厩戸皇子についての事績は省きます。

即位させた理由としては、政治紛争が続いていたので、中立的な女性を立て社会情勢を緩和し、慕われている推古天皇によって国民の結合を深めようとしたのだと推測されている。

現代社会において、女性に対して飯炊き女というと、女性蔑視だなどと非難を受けることもあるだろう。ここで推古天皇にまつわるお話。
推古天皇は諡名(おくりな)を豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)と言い、現代でいう所の飯炊き女である。

意味合いとしては、推古天皇は毎日早朝に起きご飯を炊き、それを神前に供える事を主たる任務としていた。この飛鳥時代にすでに主婦という考えがあり、長らくやってきたことは神事であり、現在の認識に誤解して含まれる誰にでもできるとか雑用などのような意味は含まれていなかった。事実伊勢の斎宮は皇族女性が現在も務められている。

順当にいけば摂政を務めた厩戸皇子は推古天皇崩御後に天皇になるはずでしたが、厩戸皇子が先に薨去され馬子が天皇を助けて政治をとったようである。

それから数年後75歳という当時ではすこぶる長命を全うされ推古天皇はお隠れになった。

第34代舒明(じょめい)天皇。
父親 押坂彦人大兄皇子
母親 糠手姫皇女

父親の押坂彦人大兄皇子のまたその父親は敏達天皇、母親は広姫であるので男系男子という事になる。
先に書いたように推古天皇より先に厩戸皇子が亡くなったので、後継者問題がここでも起こった。

推古天皇の夫であった敏達天皇の子、押坂彦人(おさかのひこひと)大兄皇子の子である田村皇子と厩戸皇子の子の山背大兄王(やましろのおおえのみこ)が候補者であったが、推古天皇が臨終間際この二人を呼び出し、「よく考えて謹んで行動しなさい」と微妙に判断しづらいことをおっしゃったままこの世を去ったので、大臣である蘇我蝦夷(そがのえみし)が中心となって推古天皇の言葉を検討した結果、田村皇子が選ばれ第34代舒明天皇即位となった。

ただこれは山背大兄王にとっては残念なことで、蘇我氏との軋轢になっていくのだがそれはまた次のお話。

初代女性天皇である推古天皇継承についてはこのような流れだった。
結論としては推古天皇は男系の女性天皇であり、後継者においては候補も含め男系の男子のみであった。しかもこの時代何人も異母兄弟で結婚していて血のつながりを特に重要視していたことがわかった。

  

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