2021年04月26日

女性天皇について学びたい(第四回)

今回の女性天皇は第41代持統天皇ですが、女性天皇に関係してないけど39代から40代の皇位継承問題についても重要なことなので記録しておく。

古代においての皇位継承は現代の様に皇室典範などはないのではっきりした決まりはない。けれどある程度の原則はあった。
まず天皇の息子よりも天皇の弟が優先される傾向にあった。そして母親の家格(皇族か豪族か)、大王としての器、世代、年齢などでしばしば継承判定された。

大化の改新により大王の歴史は天皇として大きく転換期を迎え、38代天智天皇はこれまでにない強い権力を保持するようになっていた。
頂点に上り詰めた天智天皇は即位後、すぐに皇位継承の大きな問題に直面した。

天智天皇と皇后(倭姫王)の間に子供がいなかった。しかし天智天皇と地方豪族の娘の間には大友皇子(おおとものみこ)という男子がいた。
皇后との間に子(男女どちらでも)がいたとしたら、おそらくその子が継承したであろうが、天智天皇には同両親の弟がいた。
先述したように母親の家格のところで、大友皇子は劣ってしまう。

この場合は傾向で言うと通常、天智天皇の弟が即位すると思われる。
少し難解になってしまいますが詳細に書きます。

当初、天智天皇は通常通り天智天皇の弟である大海人(おおしあま)皇子を皇太弟として次の天皇に決めていた。
しかし自分が采女(うねめ・天皇や皇后に近侍し、食事など身の回りの庶事を専門に行う女官のこと。)の伊賀宅子媛(いがのやかこのいらつめ)に産ませた大友皇子が聡明だったので、愛情がうつり、671年政治的実権のある太政大臣(おおまつりごとおおえのきみ)を与えてしまった。天智天皇は、このことより原則父子間の直系継承に変更しようとしていたと見られる。
このことは大海人皇子の位置を危うくするものであり、大きく禍根を残すこととなった。

その数か月後天智天皇は病にかかり臥せた際に皇太弟を呼び事後を託したが、皇太弟はこれを固辞。天智天皇の皇后である倭姫王(男系女子)に天皇になってもらい、大友皇子に摂政させ、皇太弟は出家すると申し出た。天智天皇もこの申し出を受けたので皇太弟は髪を剃り吉野へ向かったとされる。

皇位継承で身内が争ってはいけないと先手を打った天智天皇。その意思を尊重して見せた皇太弟(大海人皇子)の様に一見すると見える。

「日本書紀」に詳しくこの辺りは書いてあるのだがこの「日本書紀」は後年に40代天武(てんむ)天皇となる大海人皇子が編纂を命じたものであり、自身の正当性を説明する意志が働いた事により事実と違う可能性がある。

天智天皇と大海人皇子は兄弟間で同じ女性を取り合った経緯もある。万葉歌人として豊麗な作品を残した才人女性をめぐり不和であった。
「日本書紀」には、出家し吉野に向かう大海人皇子の姿を見て重臣たちは「虎に翼をつけて放したようなものだ」と記している。天皇を諦めたわけではないのが隠しきれていないうえその「日本書紀」では大友皇子を天皇として認めていない。

現在、天智天皇の後の大友皇子が即位したかどうかの歴史認識は決着している。
大海人皇子、大友皇子の漢詩が共に残っており、天智天皇崩御後大友皇子が政務の任に当たったことは確定している。さらに平安以降の書物でも大友皇子を天皇と認めているものが多数あり、明治三年になり、明治天皇はこれに弘文天皇という号を送り歴代に加えられた。これが国の公式見解である。

第39代弘文(こうぶん)天皇。
父親 天智天皇
母親 伊賀宅子娘
男系男子。

671年即位後すぐ大友皇子と大海人皇子はそれぞれ戦争準備に取り掛かり672年、国内の戦争ではかつてない大規模な衝突が起きた。
これが壬申の乱である。叔父と甥が皇位を巡って一か月争い、叔父の大海人皇子に軍配は上がった。弘文(大友皇子)天皇は自害し、大海人皇子は天武天皇となった。

第40代天武天皇。
父親 舒明天皇
母親 皇極天皇

何度も出てる舒明天皇の子であるので男系男子。天智天皇(中大兄皇子)の弟である。

681年天武天皇は「古事記」「日本書紀」の編纂を命じた。ここも大事ですけど他で書いている事もありここでは省略します。
天武天皇の御代、外交は比較的落ち着いていて何の問題もなく過ぎ、国内首都の建設を構想し候補地を選んでいる中、病にかかり実現を見ず崩御された。

女性天皇について学びたい(第四回)

第41代持統(じとう)天皇。
父親 天智天皇
母親 蘇我遠智娘

天智天皇の娘であり男系女子。天武天皇の皇后。三方四代目の女帝。

壬申の乱は彼女にとっては異母弟と夫の争いで、夫と共に行動しよく夫を助けたようである。
持統天皇治世では694年奈良県橿原に大規模な首都である藤原京が完成した。

天武天皇との間には男子、草壁皇子(くさかべのみこ)がいたが幼く病弱だっため称制(代わりに成務を採る)を行い。後年次の天皇につけようとしていたが、草壁皇子はいよいよ体が悪くなり若くして薨去なされた。その草壁皇子にも幼い男子がいて、名を軽皇子(かるのみこ)と言った。

持統天皇は孫の軽皇子の15歳成長を待ち697年譲位し、軽皇子は文武天皇になった。
持統天皇は太上天皇(だじょうてんのう)と称した。我が国における「太上天皇」という称号の始まりである。現在の上皇陛下の上皇とはこの太上天皇の略称である。

第42代文武(もんむ)天皇。
父親 草壁皇子
母親 阿陪皇女

父親の草壁皇子は天武天皇持統天皇の男子であるので男系男子。

というところで、四代目の女性天皇の皇位継承を学びました。今回の持統天皇は自分の子を天皇に即位させるために称制を行ったりしてはいるが、幼い後継者が成長するとすぐに譲位をして渡していることがわかった。



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