2015年03月25日

一枚の絵から始まる冒険活劇-第二章-

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

前回からの更新に随分期間が空いてしまいました。忘れていたわけではないです、きちんと裏では準備をしておりました。

当初の予定では前回までが「遠見番所」について。今回から本格的に「御番所」について投稿していこうと思っておりました。その流れで実際の古文書を公開しながらどんなことが起こっていたのか説明していこうとしておりましたが、またこの説明が長くなりすぎるし難しすぎるのです。

これはブログで公開しても伝わらないと試行錯誤しておりました。
完全に一人よがりになってしまうと思いまして、郷土史家の方と度重なる打ち合わせをさせていただいた結果、方向が決まりました。後半その郷土史家の方の言葉を掲載いたします。その前にまず、私の方から事前にお伝えして置かなければならないことがあります。

ブログ内で公開していく文章、その他イラスト、絵などについて郷土史家の方が何十年も掛けて研究した知的財産でございますので断りなく保存・転載することを一切お断りさせて頂きます。ただ牛深の歴史を知る上でこれから掲載説明していくものは今までの牛深には無く大変意義があるものだということは間違いないので、もっと詳しくお知りになりたいとかもっと鮮明に資料を見たいまたは公開したいなど思われる方がいらっしゃる場合はお問い合わせください。自分の故郷に興味を持って頂くことが最大の目的でございますので、ご要望にお応え出来るように対応をその都度検討いたします。

記事を書くにあたってお話を聞いただけではなく私も裏取りを行い可能であるかぎり掲載前に正確性を求めますが、全てを確認できることは不可能に近いので一旦掲載した記事について後ほど正確な情報がわかった場合、その記事の掲載見合わせや訂正変更を予告なく行う場合が予想されます。事前にその点をご理解いただいて読んでいただきたいと思います。

意味がわからないところなどございましたらコメント欄ででもお伝え頂けたら追記説明させていただこうと思いますのでお気軽にどうぞ。

それではお待ちかね、私も最後までいくのが楽しみ。『連載:牛深御番所てんこ盛り』新章、始まります。


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『一枚の絵』序にかえて   牛深在住郷土史家筆

 長崎旅行の際、県立長崎図書館を尋ねたことがある。その頃、長崎とは違い余り歴史のことを聞いたことがない牛深の江戸時代はどうだったのだろうと思っていて、長崎には牛深の歴史に関連する、色々な資料を見つけることができるかも知れないと感じていた。

 その時に同図書館の展示室を閲覧した。長崎は古くから外国に開け、中国のこと、キリシタンのこと、長崎へ行って働いた人の話、その他、長崎の近くにありながら牛深へも影響を齎(もたら)したのではないか、展示室は相当に興味深いものであった。

 最初に目に付いたものは「諸官公営絵図(しょかんこうえいえず)」の表札である。回りには資料が沢山あり、殆(ほとん)どウィンドーは長崎の歴史で満たされているようだった。絵図あり近世文書(古文書)があって、最後の列に「牛深御番所」の文字があった。
 絵図の表札は「牛深御番所」、或いは「牛深見張御番所」の文字であったかも知れないそのうちのどちらかである。
 その時、矢張り「あった!!」と思い、その発見に驚き、これは面白いと感じて、さてどうしたものかと戸惑った。

 会場の展示全部を見て廻り、「牛深」の文字のある資料は他には一点もなかった。

 同館の受付で牛深の者であることを告げると年輩の男性の方に対応された。現在資料庫が建設中で未整理のものであるが、別室でご覧戴けるので、そちらへと案内された。

 この時、一枚の絵を示され、瞬間的にこの絵を模写したいと思い、その旨を告げて、三時から翌日の午前中までかかった。鉛筆で形ばかりに描いて色合いを記憶して、そのままに持帰って牛深で完成した。

 ところで、今回今までに書きだめていた絵について説明を加えることにして、同時に牛深の郷土史の話をすることで、大変であるがその話をhirok氏に書きとり纏(まと)めて貰いたいと思い、そのようにしてみました。

 絵の全部を提供することにして、hirok氏が他に活用することも自由である約束をいたしました。

 さらに「一枚の絵」の序文をはじめ、口頭説明の話言葉であることを断りして、御理解いただきたい思いです。

--------------------郷土史家筆ここまで------------------------
 ここにいう「一枚の絵」を模写されたものが右下の写真小窓部分。全体の絵が郷土史家の方の画風に再度改められたものです。(クリックにて拡大)

※右下原画は作者不詳。寛政11年(西暦1799年)4月以降の作。

江戸時代の牛深で写真のない時代の牛深の歴史絵が存在していたのが嬉しい。絵として見るだけでなく特に歴史絵として実際の場所と照らしあわせて細くみる事が面白い。次回はこの絵の説明から入っていく訳ですが提供受けた絵は全40作あり最低でもこれから40回の連載になります。牛深の歴史は薄っぺらくない。これだけの歴史が牛深では大事にされていない。天草検定にも一言も書かれていないのはおかしい。

この絵を模写されたのが1988年でこれから長い長い一人の郷土史家の方の物語は始まりました。

比較のため現在の牛深同場所を見るのがわかりやすいと思いますので国土地理院が出している3Dマップデータより拝借し地図内に追記致します。(クリックにて拡大)



海岸線は現在多くの場所が埋め立てられ変わっております。江戸時代の絵には下須島(3Dマップ下の島)は描かれておりませんが省略されていて、無かったという意味ではありません。空を飛ぶ技術が無い時代こんな絵を描いた絵師の想像力は凄いですね。何度も言いますが江戸時代あの徳川幕府の時代ですよ。大河ドラマなどで身近に感じてる方多いはず、その時代牛深には色鮮やかな人の営みが確かにあった。

私は絵の提供、お話共に大変有り難く思っており、とても感謝の気持を伝えても伝えきれるはずもありません。
その気持を毎回の連載に込めますのでどうか最後までお付き合いのほどよろしくお願いいたします。




  
タグ :牛深御番所


Posted by hirok○ at 03:00Comments(0)牛深御番所御番所第二章

2014年12月04日

現代遠見番所最前線その4

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

遠見番所について4回目。

遠見番所最前線1回目の記事は国際的立場からの遠見番所設置。→1回目
2回目はキリスト教を排除する目的からの遠見番所設置。→2回目
3回目と4回目の今回は貿易方法からの抜け荷監視目的からの遠見番所、牛深御番所設置。→3回目

江戸時代の長崎貿易方法を簡潔にまとめています。

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海舶互市新例(1715年 - 1857年)
新井白石が金銀の海外流出量を調べ江戸幕府に報告。その量が多すぎた為国内の金銀埋蔵量が枯渇してしまうと危惧し海舶互市新例(正徳新例)を制定。定高を超える積み荷を代物替のみでの決済を公式に認めた。

中国は海禁を解いている。
でもまだまだ国内は絶賛鎖国中w
長崎以外での貿易は禁止。
1698年長崎会所(貿易機関)設立。

でも天草でも貿易やってたじゃん。もちろん牛深もやってたじゃん!
これが密貿易。当時の言葉で言えば『抜け荷』ということです。

1790年貿易半減令が出される。貿易額の制限に平行して幕府による貿易統制に力が増す。
ここで来ますよ。江戸幕府は長崎貿易の秩序を守らせる目的のため抜荷の取り締まりを厳しくする必要があった。
天草でのこの抜け荷の監視目的での最重要拠点が
1799年設置『牛深御番所』だったのだ。

ついにキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

この辺りはもっと詳しく特筆すべきことがありますので御番所の記事でまとめます、今回はおおまかな流れだけ。後日に記載いたします。

その後1857年欧米列強の圧力により安政五カ国条約が結ばれる。
ここで日本の開国。鎖国の終わりである。関税自主権がないなどのこの不平等条約を結んだことにより公武(朝廷と幕府)間の緊張がいっきに高まり、安政の大獄や桜田門外の変などの事件に発展する。

そしてそれが明治維新になるのです。
遠見番所と牛深御番所はその明治維新により役目を終えた。


少し難しくなりすぎたかもしれません。わかりづらくて申し訳ありませんが設置された流れはこんなかんじだったのです。天草のちっさな町牛深で起こった出来事ではありません。日本の国家事業だったのだ。

今回の現代遠見番所最前線全4回わかりづれーよ!って言う方の為に言いたいこと。

一言でまとめます!

『天草遠見番所、牛深御番所は江戸徳川幕府と共に生きた!』

という事。伝わってるかなぁ?心配。
それではまた次回まで。



  


Posted by hirok○ at 02:50Comments(0)牛深御番所

2014年10月29日

その名は牛深御番所!

こんにちわ!

はじめましての人ははじめまして!



第一回ということでこのブログでの第一目標を書いておきます。



『牛深御番所の認識を高めること』です。



もちろん現時点では私も全く知識がありません。

私自身勉強していく過程を公開することによりご説明ができるかなと思っています。



牛深においてこの『牛深御番所』のことはほとんど知られておらず、なんとなく遠見番所は知られている感じは受けますが、それはその他の天草地域にも遠見番所がある為であるためだろうなと思っている。



その認識度合いからすると遠見番所の方が重要だから覚えられている?!と印象を受ける人が多いでしょう。ですがその内容を知っていくと、御番所と遠見番所は重要度が全く違い御番所はとても重要だったという事がわかる。おそらくその御番所が一部でも現存するなら文化庁指定史跡になることは間違いなかったでしょう。わかりやすく言うと国の重要文化財だってことです。



そしてその認識の低さの理由に旧牛深市にはいわゆる市の歴史を編纂した『牛深市史』が無かった事が大きいと思う。市民が自分の住んでいるところの歴史を気軽に学ぶことが出来なかったことは旧市の担当者だった方々もみなさん残念でならないと仰っている。



個人的には牛深といえば『御番所』ってなるぐらいの素材でもあると信じている。

昨年から天草検定が開催されていますが、この検定テキストには現在牛深御番所なんて言葉は一言も載っていない。こういうところにも載ることが当たり前になる未来を夢見て勉強して公開していきます。



なに分江戸時代のことになるので表現が難しく伝わりにくい事が多いと予想されます。できるだけわかりやすく書く予定ではありますが、わからねーよとか意味がわかんないなど気軽に言ってもらって構いません。



ご質問には私がわからなくても郷土史家の方々にお聞きして改めてご説明させていただこうと思っておりますので根気よく読んでいただけたらなぁと思っております。

それでは始まります。





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天草初代代官鈴木重成は、江戸幕府による主導のもと異国船対策として遠見番制度を設けました。

(遠見番所のその細かい背景はまた別の機会に書きます、今回は触りだけに留めます)



寛永18年(西暦1641年、以降4桁の数字は西暦)富岡、大江崎、魚貫崎に遠見番所(見晴らしの良い所から海を監視するもの)が設置され、萬時3年(1660)に高浜村大野崎、亨保2年(1717)に崎津とともに増設されたものが牛深遠見番所です。



その遠見番所があった現遠見山(銀杏山)の中腹には中継地点として中番所がありました。現在中番所跡ということで展望できる建物がございますが正確にはその場所ではなかったとのことで、水道山から頂上へ向かう道路整備のためその場所は無くなってしまったとの事。(中番所についても後日詳細記事書きます)



そして寛政11年(1799)4月22日現在の船津地先(現在のAコープ、Aコープより以前は漁業組合)に長崎奉行直轄『牛深御番所』正式名が新設された。



まず第一回目なのでこの名称についてである。

歴史書や現在の歴史説明板には『牛深湊御番所』や『牛深湊見張御番所』などと表記されていたりします。海彩館での表記もそうなっている。これらは当時より牛深を単に牛深と言うより、港としての牛深が良く知られていたためわかりやすく唱えた愛称のようなものだっただろうとのこと。



ここでその時代の公式文書をお見せします。







この文書は俵物(今回省略これも後日記載します)に関する世話役への呼出状である。

いやぁ、それにしても文字が美しすぎる。芸術品として眺めたい古文書である。



黄色で囲った部分『牛深御番所』と書いてあるのがわかると思います。これが公式で使われていた名称です。



最後の個人名の世話役のところを見ても久玉村中原新吾と書いてあり、牛深が久玉村だったというのが改めて分かる面白い。関連→牛深第七景



享和2年(1802)にはその世話役が牛深村庄屋長岡惣左衛門嬉七郎と他の文章に見えている事により上の文章は御番所新設初期の頃のものと推定できる。





というところで第一回目は終わりにしたいと思います。いやぁやはり伝わりにくくなってますね。説明不足で申し訳ありません。少しずつ説明を増やしていきたいと思いますので次回もまたお付き合いくださいませ。



  


Posted by hirok○ at 05:16Comments(2)牛深御番所