2020年09月29日

明治を学ぶ25

明治24(1891)年5月11日、大津事件
大国ロシアの皇太子のちのロシア皇帝ニコライ2世)が来日するとなり、不平等条約改正もしたい日本は国賓として皇族が出迎え、祝砲を上げ、特別車両、街道整備や飾りなど並外れた歓迎をする。
そういう状況の中、ロシア皇太子は滋賀県庁を出た直後に護衛巡査津田三蔵に頭を切り付けられ、重傷を負いました。通常なら戦争に発展する。皇太子は滋賀県庁で応急手当を受けたのち、京都で治療を受けることとなった。日本は、国際問題を恐れ、ただちに痛惜の念を表す勅語(天皇陛下の言葉)を発したほか、事件発生の翌日には明治天皇自ら京都で皇太子に面会するなどして、ロシアの対日感情が悪化しないよう配慮した。結果ロシアからの報復や賠償要求がなかった。

山縣辞職後の総理は大蔵大臣だった松方正義(薩摩)が4代総理を引き継いだ。
事件後の津田三蔵の処分について内閣と大審院(現在の最高裁判所)が対立。
内閣は「皇室に対する罪」を適用し「極刑」を望む。しかし5月27日に行われた裁判での判決は皇室に対する罪は不当(日本の皇室に適応する罪で拡大解釈になる)と反対し、一般謀殺未遂罪を適用。「無期懲役」の判決が下った。

行政の干渉を受けながらも司法の独立を守り、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。

日本政府内では外務大臣(青木周蔵)と内務大臣(西郷従道)が責任を負って辞職し、司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任した。 その結果、元勲級(維新功績)の閣僚が1人もいなくなり、薩長出身者が全閣僚の半数を割るなど、内閣はいつ倒れてもおかしくない状況になった。

全焼した国会議事堂(第一次仮議事堂)ですが新しく第二次仮議事堂としてが4月28日に着工。昼夜兼行の作業で第一次仮議事堂の跡地に再建され、同年10月30日に竣工した。

明治24年11月26日、第二回帝国議会開会。
この時の議席整理しておきます。
定数300人に対し
吏党(与党)、大成会52人、無所属51人、合計103議席
民党(野党)、自由党(板垣)92人、改進党(大隈)44人、自由倶楽部25人、巴倶楽部17人、合計178議席。
またしても与党が少ないねじれ国会。

民党が前内閣が約束した「政費(軍事費)節減」の公約を果たさずに海軍予算の拡張を行おうとする政府を批判した。これに激怒した海軍大臣樺山資紀がいわゆる「蛮勇演説」を行って衆議院は空転。

蛮勇演説「あなたたちは薩長政府がどうのと反発しているが、日本が今ここまで立派な国になれたのは誰のおかげなのだ」

松方総理は12月25日に初めての衆議院解散を決断した。

明治25年2月15日、第二回衆議院議員選挙

選挙権は直接国税15円以上(現在価値60~70万円)納めた25歳以上の男子。
有権者は約43万5千人(全人口の1.1%)

どうしても過半数を取りたかった政府側は内務大臣、品川弥二郎(長州)と白根専一同次官が中心となって大規模な選挙干渉(各都道府県知事に連絡し警察が民党候補者をの選挙活動を暴力により妨害)を行った。民党関係者を中心に死者25名負傷者388名を出した。

選挙結果は吏党137議席、民党132議席。その他31議席。与党は過半数をまたしても取れなかった。
松方は同年5月の第3回帝国議会でこの選挙干渉の責任を追及され、閉会後に内閣総辞職した。

明治25年8月8日、第二次伊藤博文内閣発足。
あれだけ拒んでいた伊藤が再度総理になったという事はまたいろいろと危機的状況が続いているという事でしょう。

明治25年2月11日、陸軍少佐福島安正がシベリア単騎横断(馬による)ドイツ、ベルリンより出発。
26年6月12日ロシア、ウラジオストク到着。総日数488日、全工程約14000キロ。
目的は表向き冒険旅行だとしていたが、実はロシアとの戦争を控えた偵察だった。
偵察内容はシベリア鉄道の建設状態、地形国情の実地調査、ロシアの軍備、配置されている部隊数など。

日本もだいぶ外国から植民地として狙われるのを警戒していますね。その辺りからまた次回。

  

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2020年09月19日

明治を学ぶ24

明治23(1890)年11月7日、日本初の洋風ホテル「帝国ホテル」開業。
井上馨が渋沢栄一を説得して作らせた。

11月11日、12階高層建築物、浅草「凌雲閣」開業。
電動エレベーター設置。

12月、東京横浜間電話サービス開通。

11月24日、国会議事堂完成。

ドイツから建築家を呼ぶ。第一次仮議事堂と呼ばれる。

11月25日、第一回帝国議会
ここでやっと近代国家として最も必要だった国会が始まる。
貴族院開設時定数251人。内閣が選出、天皇が任命。(詳しくは明治を学ぶ18
衆議院開設時定数300人。国民の公選、任期4年。(詳しくは明治を学ぶ22
この時点の国の機関の関係図。

第一回帝国議会の議題は国のお金の配分を考える「年度予算審議」だった。
ここで少し確認をしておこう。
この時の総理は山縣有朋だったので軍隊を重視している。そして国会内の数では衆議院(野党)が多いねじれ国会。
彼の施政方針演説はこうだ。簡単に訳す。
「幕府が鎖港政策をとって300年平和に過ごしてきた一方、我が国が300年進化を遅らせたことは残念で仕方ない。明治維新により我々が短期間でその負債を償還する努力をしてまいりました。しかし未だその半分です。最後まで力を同じ方向へ向けて共に頑張りましょう。
さて今回提出した予算についてですが、歳出の大部分を占めるのは陸海軍経費です。今現時点で再急務とするのは行政及地方の制度を整へ運用を広め、農工商を発展させ国の力を養成することが最も必要だと思います。これで国内は治まります。これと同時に独立国家を維持するためには国外の事も目を向け国の勢力を伸ばす必要があります。これが独立政府のなすべきことだと思います。
独立国家自衛の道には2つあり、第一に主権線を守護すること。第二に利益線を保護することである。主権線とは国の境界域の事で利益線とは主権線の安全を確保するのに密着関係のある区域の事である。おおよその国も主権線利益線を持たない国はありません。独立を守るためには主権線を守るだけでは十分ではなく利益線の保護も重要である。これは一朝一夕でできることではなく時間と労力がかかることであります。この趣旨に基づき巨額の金額を陸海軍経費に充てることをご理解いただき賛同してくださることを信じて疑いません。」

主権線と利益線の言葉の意味は山縣が説明していますが、具体的に書くと主権線は千島列島、北方四島、沖縄含む日本列島の事。利益線は朝鮮半島(現在の韓国と北朝鮮)と台湾のことです。

ねじれ国会ということで90日間の攻防が続きます。
民党(野党)は減税を要求。政府費用節減、地租軽減、民力休養(国民は激動についていくのに必死で休ませたい)が必要で予算案の1割以上削減を要求している。

明治24年1月20日、国会会期中漏電を起こし仮議事堂は全焼。このため貴族院議場を華族会館(旧鹿鳴館)、後に帝国ホテルへ移し、衆議院議場を東京女学館(旧工部大学校)へ移して会期続行。

3月7日、どちらも譲らない攻防は続きますが、山縣は解散をちらつかせたり、自由党の一部を買収してなんとか予算案を通す。第一回帝国議会閉会。
議会終了後伊藤博文(貴族院議長)が「天皇陛下万歳!」と叫ぶ。その他の議員も唱和した
天皇陛下の国の議会が無事終わったことを喜んでいるのである。
これが今でも衆議院の解散時に万歳をすることに繋がっている。なんで解散して議員首になるのに万歳するんだ?ってわからない人がたくさんいますが、解散してシンプルに今期の国会終わったね、議員として役目を果たせた万歳って意味だと思います。

5月6日、「議会に自信がない」と山縣有朋辞職

5月11日、国会終わって2か月、ロシアの皇太子が日本へやってくる・・・が!またしても大荒れの予感というところで続きは次回へ。  

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2020年09月10日

明治を学ぶ23

明治23(1890)年10月30日、教育ニ関スル勅語(教育勅語)発布。

1回目の衆議院議員選挙はいわゆる野党である「民党」が勝利。明治政府(与党)はこれ以上自由民権思想(自由や権利を主張する西欧思想)の拡大を恐れていた。明治天皇の側近元田永孚(もとだながさね・肥後)と井上毅(肥後・法制局長官)が起草。勅語ということは天皇が与えた言葉という意味で誰に与えたのかと言えば、山縣総理と芳川文部大臣へ与えたものだという形式をとった。御名御璽(ぎょめいぎょじ・天皇自筆書名と捺印)のあるものが帝国大学ほか直轄学校へ配られた。

この教育勅語は今も生きているのか生きていないのか問題についての私の意見は最後に記述する。まず、熊本の偉大な先人が起草したその中身へ。(原文では難しすぎるので文部省全文通訳より。)

「朕がおもふに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦(むつ)び合い、朋友互に信義を以って交り、へりくだって気随気儘(きずいきまま)の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまに々々天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かやうにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなほさず、汝らの祖先ののこした美風をはつきりあらはすことになる。
 ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがひ守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。」

さらに訳す。
「私が思うには、皇室の御祖先が我が国をおはじめになるにあたって、その規模がまことに広大で、かついつまでも動かないようになされたこと、御祖先はまた御身をお修めになり、臣民をおいつくしみになって、万世に渡って御手本をおのこしになった。私の臣民は忠を尽くし親に孝を尽すことを心掛け、臣民すべてが皆心を一つにして、代々この美風を作り上げてきた。以上のことが我が国体の優れたところであり、我が国の教育の基づく所もまたここにある。」

さらに続いて陛下が臣民に対して話しかけるように親しげにお呼びかけになり、私たちが常に守るべき道をおさとしくださっている。

あななたち臣民は父母に孝行を尽くし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互にむつまじくし、朋友には信義をもって交わらなければならなりません。誰に対しても身を慎んで無礼の挙動なく、常に自分を引きしめて気ままにせず、しかも世間の人に仁愛を及ぼすことが大切であります。また学問を修め業務を習って、知識才能を進め、徳ある有為の人となり、進んで公共の利益を増進し、世間に有用な業務を興すことが大切であります。また常に皇室典範・大日本帝国憲法をはじめ、その他の法令を守り、もし国に事変が起こったら、勇気を奮い一身をささげて、皇国のために尽くさなければならなりません。このようにして代々続いてきた皇祖神の命のままに天地と共に極まりない皇位の御盛運を助けるのが務であります。
なお以上の道をよく実行する者は、私の忠良な臣民であるばかりでなく、我等の祖先がのこした美風を表す者である。」
「これまで示した道は、私が新たに決めたものものではなく、皇祖皇宗の御子孫も一般の臣民も共に守るべきものである。またこの道はいにしえも今も変りがなく、かつ国の内外を問わずどこでも行われ得るものである。私はあななたたち臣民と共にこの遺訓を守り、それを実行することを切に願っている。 」

熊本の先人が残した言葉はなんと素晴らしい文章でありますか。教育勅語の石碑は阿蘇神社でも見たことありますがいろんな神社に置いてあると思います。ここでは熊本の先人ということで私も毎年初詣させていただいている熊本県護国神社の教育勅語石碑を載せておきます。

さすが、ここでは両先生のことまでしっかり残してあります。
他で見ない貴重な文章なのでこの両先生の説明文おさらい含め転載しておきます。
「井上毅先生は肥後藩士で儒学、国学を学び特に文筆に長していた。明治2年上京して司法省に入り、大久保利通、岩倉具視に重用され、有能な官僚として活躍した。特に枢密院書記官として大日本帝国憲法の制定に尽力し、法制局長官として侍講元田永孚先生と共に教育勅語の起草に心血を注ぎ、その後文部大臣となり輝く功績を遺している」
「元田永孚先生は肥後藩実学派の俊英であり、横井小楠に師事し、明治4年大久保利通に推挙されて宮内出仕となり、明治天皇の侍講、宮中顧問官、枢密院顧問官等に任ぜられ、明治天皇の御信任ことのほか厚く、聖旨により教育に関する勅語案文の起草に当り井上毅先生と共に心血を注ぎ世界普遍の道徳律を完成したのである。」

熊本先人の偉業をしっかり熊本で大事にしているのはとても嬉しい。
ということで調べてたら石碑のある場所載ってるじゃん。えーこんだけしかないの?

ちょっと待て、椿大神社は昨年普通に俺お参り行ってたじゃん。当時の写真を探した。

原文の横にこれがあった。教育勅語難しいって人はこれだけでもいいじゃない。いい石碑ですね。
今度大阪城公園の石碑も見に行くか。

話を本筋へ戻す。
この教育勅語はみなさん現在も生きているか生きていないかどちらだと思われますか?日本人の多くがもう有効でない(失効している)または重んじてはいけないまで思ってる方がいると思います。
昭和23(1948)年)敗戦後GHQにより圧力を受け、衆議院における「教育勅語等排除に関する決議」および参議院における「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって失効確認が決議されたから。

ここで発布時を思い返してもらいたい。「天皇が与えた言葉という意味で誰に与えたのかと言えば、山縣総理と芳川文部大臣へ与えたものだという形式をとった」と書いた。画像も載せたようにそこには御名御璽(天皇自筆書名と捺印)のみ。勅令(詔書)や法令時には御名御璽以外に天皇と臣民一緒に遵守するという意味から摂政や内閣、または大臣の署名捺印も必要である。
しかしこれにはない。それじゃあなぜ敗戦後国会で決議されたのか。それがこれ。

左側に記載されている大正12(1923)年11月10日に大正天皇の名と摂政宮名で国民精神作興ニ関スル詔書(こくみんせいしんさくこうにかんするしょうしょ)として教育勅語を踏襲したものが発布されたからである。

お分かりいただけたであろうか。この詔書(左側)が廃止になっただけで教育勅語(右側)は、明治天皇がお伝えになられた言葉で廃止になっていない。というか明治天皇は伝えただけで、個人的言葉なのだから命令でもなんでもなく、ましてや法律でもないので国会で廃止することなんかできるわけがなかった。ゆえに教育勅語は今も生きている

だから僕も大声で言う。
私はこれから先も教育ニ関スル勅語をいつも心に留め大事にして、この道を体得実践できるように努めていきたいと思います。


  

Posted by hirok○ at 08:19Comments(0)明治~

2020年09月07日

明治を学ぶ22

鹿鳴館のところ(明治を学ぶ18)で明治20(1887)年9月井上馨が外務大臣を辞した。
明治21年4月、2代黒田内閣誕生(明治を学ぶ19)。このとき大隈重信が外務大臣就任。第一の目的だった条約改正の任にあたるが、
妥協案としてまたしても「外国人裁判官の任用」の条項が含まれていたことが明らかになると、もちろん大騒動となった。一旦解体したはずの自由民権運動が今度は板垣退助を擁して再燃し、政府内からも山縣有朋・後藤象二郎・伊藤博文・井上馨らが妥協案に反対する意志を示した為、条約改正交渉は中断に追い込まれた。
明治22年10月18日、馬車で外相官邸に入ろうとした大隈に爆烈弾を投げつけ、大隈が右脚切断の重傷を負うという大隈遭難事件が発生した。
10月25日、黒田内閣は総辞職を提出。天皇は大隈以外の辞職を認めたが大隈だけは退けた。これには大隈遭難事件により総辞職となったのでテロには屈しないという意思表示もあったという。
黒田内閣で言うと大日本帝国憲法公布の日(2月11日)に帝国大学令(明治を学ぶ19)など教育法令を作ってきた森有礼もまた国粋主義者により刺され死亡している。

明治22年12月24日、第3代内閣総理大臣に山縣有朋(長州)就任。大隈は入閣せず。
山縣有朋について少し振り返る。
戊辰戦争に従軍、陸軍卿になり徴兵令制定、西南戦争総指揮内務卿、初代伊藤内閣の内務相

現在では「日本陸軍の祖」と呼ばれる。

思想は超然主義(ちょうぜんしゅぎ・内閣は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張)だった為、実は国会開設には向いていなかったがしぶしぶ総理を引き受けていた。

明治23年5月12日、山縣有朋は伊藤博文を訪ねる。このとき伊藤は憲法を作ってもう役目は終えたと一切の国政に関与していなかった。
山縣「激職に堪えざる、其の一職を伊藤に委(まか)せん」と言ったそうだ。総理を代わってくれって事だ。
だが伊藤はこれを断った。

5月13日、明治天皇は山縣の議を受けるように勅語を出すも5月15日伊藤固辞する手紙を出す。
明治天皇と伊藤博文の信頼関係はとても強かった。にもかかわらず天皇陛下の命令を拒否する。普通ならあり得ない。それには明治天皇が納得するだけの理由が手紙に書いてあったそうだ。おそらくこれからもっと大きな国難(戦争)が訪れるでしょう、敗戦し国が0になっても1から再度作り上げる、そういうときこそ私の力をお使いください。天皇陛下私を信じて・・・みたいな事だと想像する。伊藤は目の前だけではなくその先をいつも俯瞰して見ることのできた政治家だったんだぁ。

明治23(1890)年7月1日、第一回衆議院議員選挙

選挙権は直接国税15円以上(現在の60~70万円)払っている25歳以上の男子

有権者数約45万人(全人口の1.1%)。

投票率93.91%(日本の総選挙史上最高値

大金を納めた人にしか選挙権がないというのは地方議会の選挙でも書いたように(明治を学ぶ15)孟子の「恒産なくして恒心なし」という考え方から来ている。決して差別意識からではなかった。

議員数300人選挙結果。


民党(今でいう野党・自由民権系)
立憲自由党(板垣) 130人
立憲改進党(大隈) 41人  計171議席(過半数超)

吏党(りとう・今でいう与党・政府派)
大政会 79人
国民自由党 5人
無所属 45人    計129議席

野党が勝ってしまって初回で逆転このままではねじれ国会になってしまう。第一回帝国議会は5か月後に控え山縣内閣は危ういものとなった。

明治政府はこれ以上自由や権利を主張する思想が広がらないように対策を練る。
そこで発布されるのが「教育勅語」だ。これもまた大テーマになるので次回にまとめます。






  

Posted by hirok○ at 08:05Comments(0)明治~

2020年09月06日

明治を学ぶ21

明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法と同時に発布されたのが皇室典範
伊藤博文が明治十五年ヨーロッパに赴いた際オーストリアの学者から作成を助言され作成した。
全62条からなり、皇位継承の順位や皇族の範囲などを定める。

大日本帝国憲法と皇室典範、実質的に二つの最高法典が存在した事になるが、『大日本帝国憲法』の冒頭に、『皇室典範』と『大日本帝国憲法』制定に就いての告文(こうもん:同日朝憲法公布前、天皇が賢所に報告する文章)がしたためられており、その文中に於いて、『皇室典範』は『大日本帝国憲法』よりも上位に位置付けられている。

第一章 皇位継承では、継承の順序を定め、庶系庶出(正室以外の系統出)の継承権も認め、皇嗣(こうし・皇位継承権第一位の皇族)心身の不治の重患または重大の事故あるときは皇族会議および枢密顧問に諮詢して継承の順序を換えることを得とした。
第二章 践祚(せんそ・天皇の地位を受け継ぐ事)即位では、天皇崩ずるときは皇嗣すなわち践祚し祖宗(歴代天皇)の神器を承(いをう)くとし、即位の礼および大嘗祭は京都で行うとし、また一世一元の制をとるとした。
第三章 成年立后立太子では、天皇および皇太子皇太孫の成年は満十八年とした。
第四章 敬称は、陛下と殿下を用いる。
第五章 摂政では、天皇未成年のときと、皇族会議および枢密顧問の議を経て天皇親政不能と決したときは摂政を置くとし、成年の皇太子以下の摂政の資格順序を決めた。
第六章 太傅(たいふ・未成年の時にその保育の任に当たった職)、第七章皇族では皇族の範囲を定め、皇族の婚嫁は勅許により、皇族は養子をすることができぬとした。
第八章 世伝御料(せでんごりょう・皇室の世襲財産で、土地・物件などの分割・譲与が許されないもの)、第九章皇室経費、第十章皇族訴訟及懲戒、第十一章皇族会議とした。第十二章補則では、典範を改正増補するときは皇族会議および枢密顧問に諮詢して勅定すとし、臣民の公議に付さないことにした。

皇室典範は皇室自らその家法を条定するものなり。故にこれを臣民に公布するものにあらず(伊藤憲法義解より)。として臣民には知らされなかった。


特に重要
女性宮家・女系天皇・女性天皇の違いを理解している人の少ない事。理解していないのになんとなく女性に天皇なる資格ないのは平等じゃないとか思って女性が天皇なってもいいんじゃね?って賛成する人僕の身近でも多すぎ問題。

女性宮家とは天皇の娘が皇族以外と結婚して子供を男女関係なく産んでその子が皇位を継承する家のこと。もっと簡単に言ったら子供からしたらお母さんは天皇家の血を継いでるけど、父親は天皇家の血を継いでいない。子供のお母さん(女系)を遡ると初代神武天皇にたどり着くがお父さん(男系)を遡っても初代神武天皇に行きつかないから天皇家から見て女系と言われる。その子供が天皇になったら女系天皇。
女性天皇は天皇の娘が天皇に即位すること。もしその女性天皇が結婚して子供を産んでその子が天皇になることがあったら上の女性宮家になるので女系天皇となり天皇家男系の血は継承できなくなる。

今回ねこの第一章皇位継承第一条のみ超詳しく解説するわ。

第一条 大日本帝国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子これを継承す

この明治の皇室典範草案では女系の継承権を認め、庶出の子女は皇族として待遇しないことにしていた。しかし憲法も作った井上毅(肥後)は古事記、日本書紀をはじめとする国史に関する膨大な書物を読み込んでいた。その井上毅が女系の継承は祖宗の大憲に反するとの意見を提出した。そこで帝室典則案では女系の継承をやめ、皇庶子孫の継承を認めた。

まずここ、女系の継承は祖宗の大憲に反するってとこ。これまで天皇家は千年以上男系継承をしてきたからそれまでの天皇の決まりに反するって。千年以上続いてきたのに1,2年で考えて勝手に変えていいの?って意見。そこで伊藤博文もハッとするんでしょうね。いや待てよ、気が付いたらこれが一番大事じゃね?って。131年前にもう女系天皇議論されて答えは出てたんやで。いつまでこの問題引きずっとんねん。男系の血が最重要という事で「庶出の子女は皇族として待遇しないこと」についても同様、正室ではなくても男系の血がある子孫に継承を認めた

ここまでだとただの男尊女卑でなんの理屈も通っていない感情論って言われてる。たぶんね、ここで止まってさ、男女平等の時代女性天皇でもいいんじゃね?って思ってる人が多いんだと思う。

いや、止まってないよって人が次に言う事。聖徳太子時代の推古天皇って女性じゃんか!だったらいいだろ!だ。
確かにその時代は推古天皇含めのべ6人女性天皇がいました。時代背景として権力闘争の煽りを受けていて、次期の男系の天皇が決まらず、女性天皇で中継ぎするケース、 天皇が若くして崩御、皇位継承権1位の親王が幼いために皇后が代理でつなぐケース。親王が生まれるまで女性天皇が中継ぎしたケースがあった。しかし実はこれらすべて男系の女性天皇だった。女系天皇は一人も存在しなかったということだ。

これに染色体遺伝学的理論を加える。
人間は一組の性染色体を持っている。性染色体は女でXXで、男でXYという状態。女の性染色体は対になっているので生殖細胞がつくられる際に交差が起きる。ところが男の性染色体であるXとYは、対になっていないため交差が起こらない。よってYは父から息子へまるまる一本、ほとんど変化することなく受け継がれる。
女性が中継ぎとして天皇の座につくことはあっても男系でつないできたのでこのY染色体は神武天皇と同じY染色体なのだ。実はこのY染色体を千数百年ずっと守ってきたという事になる。

ここまで来たら女系天皇はだめだとはっきりわかるはず。しかし現状を見てみると皇位継承できるのは秋篠宮文仁親王殿下と悠仁親王殿下と84歳の常陸宮殿下のわずか3名。将来悠仁親王殿下に万が一何かがあった場合やご結婚されて子供が女性だけだった場合どうするのか?って不安。このこと自体考えるのはご存命されているのに不敬だっていうのも自分の中にもあるけど考えないで途絶える方がまずいので考えている。

まずよく言われている現天皇陛下の娘、敬宮愛子内親王殿下が天皇になる。これね確かに男系の女性天皇ではあるけど、そのまま行ったらその子供に皇位継承権が付与されてしまうので女系の天皇が生まれてしまいます。なので女性天皇自体に反対です。もしも、仮にだよ、もちろん認めないけど、男系女性天皇を認めるなら同時に一代限りで男系男性に戻すとか中継ぎ条件を入れるべきだと思う。ここまで言ってる人じゃないと認めない。しかもそこまでして一代限り女性天皇を認めたところで男系男子の後継ぎが少ない問題は変わらないので、女性天皇は困難なうえ実利が少ない。
次、Y染色体が大事なのだから昭和の敗戦後GHQによりお取り潰しさせられた旧宮家の復活。これが一番現実的だと思っている。ただ、現在の旧宮家のほとんどが一般として生活をしているので急に皇族になったとしても国民の賛同を得られるのかも不安なので、もうちょっと踏み込んで考えて、Y染色体さえ継承できればいいので、これ以後生まれた旧宮家の男子を宮家にして教育するとか旧宮家の男子が生まれた時点で皇族の養子にする。これが一番良くない?


結局ね、なんで男系男子継承かとまとめると、「ずっと男系でやってきたから。以上。」でいいと思う。遺伝子とかわかんない大昔にさ、本能でこれやってきて繋いできた日本人すげぇってなるやろこれ。これ守らないで何守るん?  

Posted by hirok○ at 07:24Comments(0)明治~

2020年09月03日

明治を学ぶ20

明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法発布。
全76条。欽定憲法(きんていけんぽう)国会(民主)ではなく君主が制定する憲法、国会がまだ無いのでこの作り方しかない。これで立憲君主制が成立する。

重要なところの中身を見ていきましょう。
第1章天皇

第一条 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す。
第二条 行為は皇室典範の定むる所により皇男子孫これを継承す
第三条 天皇は神聖にして侵すべからず
第四条 天皇は国の元首にして統治権を総攬しこの憲法の条規によりこれを行う
・・・
第十一条 天皇は陸海軍を統帥す

その他省略した部分には勅命を出せるとか行政官の任命権とか外国と条約を結ぶ権利とかが書かれている。
万世一系とか皇男子孫とか詳しくは次回皇室典範やる予定なのでそちらで嫌と言うほど語る機会があると思うから今回は省略。
この憲法下では主権は天皇にあり、立法・司法・行政・外交・軍事全ての権限が天皇にあると書かれているように思われるが、また別に神聖にして侵すべからずと書いてある事により仮に天皇が命令してそれが失敗に終わった時に変更や責任の取りようがないという事になる。つまりこの憲法では政治的な決定を天皇自ら行うことは全くできないもしくは想定していないという事が通説だ。先に天皇主権とは書いたが実際は最高命令を出す主権者がその時々で変わっていたので全部天皇に主権があったとは言い切れない。特に軍関係。
なぜこのような矛盾が起きてしまったのかと言うとこの憲法は明治22年に発布されたのに対し軍法規は明治政府樹立以来早い段階で作られ、軍内の思想は固めてあった。憲法よりも早かった為憲法より軍法規が上の認識になってしまった。この矛盾が昭和まで続いて悲劇を生むことになる。ということはだよ、昭和の敗戦は大村益次郎や山縣有朋が発端になっているのかもしれませんね。もしくは早く憲法を作らなかったことにもよるかもしれない。この憲法で軍についてもしっかり明記しておいたら違ったかもな。このことからも現憲法で間違った戦争を起こさないためにさ9条に自衛の為の軍を持つ(自衛軍)とはっきり明記すべきじゃない?って思う。これが先人に学ぶってことだろ。
つくづく今の僕らの時代はこの明治期で作られているものが作用しているなぁと実感しています。この時代の人って何もないところからだから足りないとこもあるけどよくここまでできたなぁって驚きと感心したりすることの方が多い。

第2章臣民(しんみん)権利義務。
一般的に臣民とは君主国において、君主に支配される者としての人民を指す。昭和の大戦後臣民と言わなくなったので、臣民とは大日本帝国憲法下の人民ってたびたび言われたりします。でもよく考えてみて。現在も天皇を国家元首(君主)として生きている我々はすべからく臣民ではないですか。なので私は陛下に敬意を含め自分の事を国民とか市民とか言わず臣民と言っています。

第十八条 日本臣民たるの要件は法律の定むる所による
第二十、二十一条 日本臣民は法律の定むる所に従い兵役・納税の義務を有す
第二十八条 日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有する
その他省略した部分には法律の範囲内で住むところも引っ越しも自由だよとか法律に無い事で逮捕されたり家を捜索されたりしませんよとか他にはいわゆる表現の自由みたいなことも書かれています。


第3章帝国議会
以降は国の機関について。

憲法発布と共に民権派約450人明治天皇により恩赦、勝海舟が動き西郷隆盛の名誉も回復した。明治31年2万5千人の寄付により上野に銅像完成。

国会についてもまた後日勉強していくとして今回はこれでしみゃ。学びたい事多すぎて国会までまだ行きつかないんだけどw  

Posted by hirok○ at 06:02Comments(0)明治~

2020年09月03日

明治を学ぶ19

明治19(1886)年3月、勅令として学術を極める目的で帝国大学令が出される。帝国大学設立
内地に7校(七帝大:東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋)、外地に2校(京城、台北)が設置された。
総称が「帝国大学」であった現在でも、「旧帝国大学」または「旧帝大」とも呼ばれていたりもしますね。
このときに京城-韓国と台北-台湾にも国立大学作っていたんだね。

「帝国主義」とは。政治・経済・軍事などの面で、他国の犠牲において自国の利益や領土を拡大しようとする思想や政策の事。この時代の欧米列強はこの考え方で日本もこれを目指さないと植民地にされてしまうと考えていた。

5月井上馨外相条約改正会議を5か国(英・蘭・仏・露・米)と秘密裏に始める。

10月24日、ノルマントン号事件。イギリス船籍の貨物船ノルマントン号が、横浜から神戸へ行く途中、和歌山沖で座礁沈没した。このとき外国人乗組員のみ助かり日本人乗客25名が全員死亡する不可解な状況が起こった。
日本中で船長の責任が問われたものの日英修好通商条約の治外法権で不問となり、船長らの人種差別的行為と不平等条約による領事裁判権に対する国民的反発が沸き起こった。
天草で関係することを書くとこのときのノルマントン号引き上げ事業に牛深町の宮川清一さんが参加されている。
おそらく漁師の潜水夫として呼ばれたのだろうが沈没地点だと思われる場所は深さ90メートルあったため人力では30メートル潜るのが限界だった。

明治20年4月22日、井上馨外相が5か国と条約改正に合意。しかし裁判に外国人判事を任用するなどの実質変わらない条約改正案の内容が公表されるとに反対運動が起こる。裏を返せば、まだ国としてなんの後ろ盾の力もない日本は条約改正したくてもできなかった。列強と対等に見られるため近代的な憲法が必要でした。

6月、伊藤博文ら「憲法草案」作り始める。
目指したものドイツ式立憲君主制。
伊藤以外の憲法草案のメンバー↓
井上毅(こわし・肥後)渡欧経験あり教育勅語草案にも参加。
伊藤巳代治(みよじ・肥前)憲法調査の為伊藤に随行。
金子堅太郎(筑前)岩倉使節団そのままハーバード卒。

8月、憲法草案完成、作った場所にちなみ「夏島草案」と呼ぶ。

9月、条約改正案に閣僚も反対し井上外相辞任せざる負えなくなった。

10月、条約改正案反対で民権運動が再燃。

12月、保安条例公布で民権運動派危険人物570人を東京から排除。

明治21年4月30日、憲法草案の審議の為、枢密院を設立。
内閣から独立した存在で直接天皇を補佐する諮問機関。初代枢密院議長に伊藤就任同時に総理辞任したため後任に黒田清隆(薩摩・幕末牛深へ来ていた)就任。

6月18日、枢密院憲法会議初日、伊藤は自分の考えを演説。
「ヨーロッパでは道徳的な基軸として宗教を持つが、我が国では宗教の力が弱く基軸とすべきは皇室あるのみ」と力説している。神道でもなく皇室だと言っているのは実質同じだと言ってもいいけどはっきり言うと皇室を中心とした皇室神道っていう分類になると思う。

10月、明治宮殿完成。(現在の皇居)表は和装、内は洋装。

11月、日墨(メキシコ)修好通商条約締結。初の完全対等条約。

明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法発布。東アジア初近代憲法を持つ国になった。

出来たばかりの新しい皇居(明治宮殿で)発布。明治天皇から憲法を渡されている人は総理の黒田。


外務大臣を辞任した井上は黒田内閣になると農商務大臣へ復帰している。
大日本帝国憲法については大テーマなのでまた次の回へ。まだ国会開設までいけませんでしたねw


  

Posted by hirok○ at 03:53Comments(0)明治~