2014年12月04日

現代遠見番所最前線その4

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

遠見番所について4回目。

遠見番所最前線1回目の記事は国際的立場からの遠見番所設置。→1回目
2回目はキリスト教を排除する目的からの遠見番所設置。→2回目
3回目と4回目の今回は貿易方法からの抜け荷監視目的からの遠見番所、牛深御番所設置。→3回目

江戸時代の長崎貿易方法を簡潔にまとめています。

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海舶互市新例(1715年 - 1857年)
新井白石が金銀の海外流出量を調べ江戸幕府に報告。その量が多すぎた為国内の金銀埋蔵量が枯渇してしまうと危惧し海舶互市新例(正徳新例)を制定。定高を超える積み荷を代物替のみでの決済を公式に認めた。

中国は海禁を解いている。
でもまだまだ国内は絶賛鎖国中w
長崎以外での貿易は禁止。
1698年長崎会所(貿易機関)設立。

でも天草でも貿易やってたじゃん。もちろん牛深もやってたじゃん!
これが密貿易。当時の言葉で言えば『抜け荷』ということです。

1790年貿易半減令が出される。貿易額の制限に平行して幕府による貿易統制に力が増す。
ここで来ますよ。江戸幕府は長崎貿易の秩序を守らせる目的のため抜荷の取り締まりを厳しくする必要があった。
天草でのこの抜け荷の監視目的での最重要拠点が
1799年設置『牛深御番所』だったのだ。

ついにキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

この辺りはもっと詳しく特筆すべきことがありますので御番所の記事でまとめます、今回はおおまかな流れだけ。後日に記載いたします。

その後1857年欧米列強の圧力により安政五カ国条約が結ばれる。
ここで日本の開国。鎖国の終わりである。関税自主権がないなどのこの不平等条約を結んだことにより公武(朝廷と幕府)間の緊張がいっきに高まり、安政の大獄や桜田門外の変などの事件に発展する。

そしてそれが明治維新になるのです。
遠見番所と牛深御番所はその明治維新により役目を終えた。


少し難しくなりすぎたかもしれません。わかりづらくて申し訳ありませんが設置された流れはこんなかんじだったのです。天草のちっさな町牛深で起こった出来事ではありません。日本の国家事業だったのだ。

今回の現代遠見番所最前線全4回わかりづれーよ!って言う方の為に言いたいこと。

一言でまとめます!

『天草遠見番所、牛深御番所は江戸徳川幕府と共に生きた!』

という事。伝わってるかなぁ?心配。
それではまた次回まで。



  


Posted by hirok○ at 02:50Comments(0)遠見番所

2014年11月30日

現代遠見番所最前線その3

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

今回は遠見番所の3回めということで前々回からの続きです。
(誤解がないように書いておきます、今書いている記事は遠見番所の事で御番所についてではありません。遠見番所と御番所を混同されないようにお願い致します。)

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江戸時代の長崎貿易方法を簡潔にまとめ記載します。
この長崎貿易方法が日本の貿易方法と思ってもらって構いません。

糸割符制度(1604年 - 1655年)
この時代の主な輸入品は生糸であった。日本はこの支払に多量の金や銀を使用していた。
この糸割符制度とは国内の金銀流出を縮小させる為の日本主導の貿易方法である。

1665年この不平等に中国商人側が反発。逆にこの制度を悪用され日本側が不利になるようになった為この制度は廃止され、いわゆる売手と買手が直接言い値を決める相対売買仕方(自由貿易)に代わる。

自由貿易により貿易量は増大したが、その支払にまた金銀の流出も増大。これを長崎奉行が抑制するために行ったのが貨物市法(1672年 - 1684年)である。

貨物市法とは目利き商人が鑑定を行い入札を行う制度で日本側が主導権を持つことが出来た。だが入札を行うということでいつの時代も同じく汚職と中国側の薄利多売で金銀流出抑制は思うようにいかずこの制度も廃止される。

定高貿易法(1685年 - 1714年)
ここからが天草にとってとても重要になります。

金・銀による貿易決済の年間取引額に一定の上限(「定高」)を設定した。
わかりやすく書くと、国や船につき取引の上限を定めた。わざわざ船で持ってきた積み荷だけどこれ以上は取引出来ませんので本国へ持って帰ってくださいってことです。

中国の時代背景は『現代遠見番所最前線その1』で書きました清(中国)の遷界令(海禁)が前年1684年に解除され清国船(唐船と呼ばれるもの)の国内出入りが急増していた。
確認しておきます。この時代はまだ日本国内は長崎でしか貿易は許されておりません。

持って帰れって言われてもなぁ・・・どうせだったら帰り道で投げ売りでも売りさばけと思うのが当たり前。
その帰り道が天草だった!

しかもその帆船が必ずといっていいほど通り立地上、シケ明けや風待ち、荷物の積み替えなどに最適だった場所。それが我らが牛深だったのです。

定高を超える積み荷に関しては銅や俵物などとの物々交換が徐々に行われるようになった。
この俵物についてはこれも重要大ですので後日に特筆致します。

続く









  
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Posted by hirok○ at 04:47Comments(0)遠見番所

2014年11月25日

現代遠見番所最前線その2

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

はじめましての方は第一回から読んでいただけると伝わりやすいと思います。

NHK大河ドラマでは勘兵衛こと如水もいまだ衰えず策士ですな。

次回はいよいよ関ヶ原ですか。楽しみ楽しみ。

ということで牛深御番所第三回はじまりはじまり~

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前回に引き続き遠見番所についての時代背景です。

1605年(徳川幕府)長崎は天領になり南蛮貿易が許された。
これは貿易での冨を幕府が独占的に得るためである。

そして海外貿易をするということは海外の宗教が入って来やすい。それを防ぐのがどうしても難しかった。
秀吉の時代からキリスト教禁教は続いてはいたが、徳川江戸幕府は1612年天領(直轄地)に対し慶長の禁教令を出す。

長崎でこの海外貿易が許されていたため、長崎への航路であった天草でキリスト教が広まっていた事もあり1637年のあの天草島原の乱が起こったことは言うまでもない。

1639年南蛮船入港禁止令。いわゆる鎖国時代に突入。

1641年ここで天草が天領になる。天草島原の乱で、原城攻撃に参加、一番乗りの武功を顕彰された鈴木重成が初代代官として任命された。

江戸幕府は外国船からのキリスト教布教を恐れ天草を直轄地にして管理しないといけなくなったのだ。

↑はいここ!

これが異国船監視の為の理由の一つ!
遠見番所の設置に繋がるのである!

1641年に富岡、大江崎、魚貫崎に遠見番所が設置された。(天草の他の遠見番所設置年代は第一回を御覧ください)


1600年台関ヶ原の戦いの余韻で混乱していた日本国内。その影響もありこの辺りの貿易方法は年代により移り変わりが激しいので記録のために次回纏めておきます。  
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Posted by hirok○ at 05:26Comments(0)遠見番所

2014年11月15日

現代遠見番所最前線その1

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

第二回の今回は遠見番所設置に至るまでの背景を書いていきます。

前回は簡単に異国船対策のためと書きました。
そのもう少し詳しいお話でございます。


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ちょうどNHKの黒田官兵衛では秀吉が亡くなり関ヶ原の戦いが起ころうとしていますね。
そして徳川家の時代が始まるわけですが、ここが牛深御番所に関わるところ、つまり江戸幕府のお話でございます。

わかりやすくその大河ドラマに関連させますと、そのお話でも出てきておりましたように、秀吉は2度にわたり朝鮮出兵を行いました。

朝鮮出兵と書きましたが戦った相手は李氏朝鮮(朝鮮半島は制圧)と主に明(中国)との戦争ですね。

結果から言いますとこの朝鮮出兵途中で日本で命令を出していた秀吉が亡くなってしまったため日本軍は撤退しました。敗戦ではありません。そして朝鮮半島を制圧したことを加藤清正がお祝いしたものが熊本市のお祭りである藤崎宮秋季例大祭いわゆる『ぼした祭り』です。

遠見番所が整備されるこの西暦1600年初めというのはお分かりのように中国(明)とは講和も結んでおりませんので国交がない。なので中国との貿易をする事は日本国内では犯罪であった。

その後中国(明)は1636年に滅ぼされ清朝となる。
個人的にはこの時期に秀吉全盛期だったら日本はどうなっていたのか想像してみると面白い。
脱線しそうなので戻しますw
この清朝が対立していた国内勢力が日本との密貿易で力をつけていた為、その内紛のごたごたにより1661年に清は遷界令(海禁)を行いました。

これで当時日本と中国両国間は表面上海外貿易は出来ないということになった。

そこでその違反船を見つけるものーーー
これが遠見番所である。

あー面白くなってきましたねー!これが遠見番所が設置された大きな理由の一つ。中国とか日本とかそんな大きな話に関係していてこれだけでも牛深が重要なの伝わってますでしょうか?まだまだ続き書きたいですけどまた次回に!

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Posted by hirok○ at 02:35Comments(0)遠見番所

2014年10月29日

その名は牛深御番所!

こんにちわ!

はじめましての人ははじめまして!



第一回ということでこのブログでの第一目標を書いておきます。



『牛深御番所の認識を高めること』です。



もちろん現時点では私も全く知識がありません。

私自身勉強していく過程を公開することによりご説明ができるかなと思っています。



牛深においてこの『牛深御番所』のことはほとんど知られておらず、なんとなく遠見番所は知られている感じは受けますが、それはその他の天草地域にも遠見番所がある為であるためだろうなと思っている。



その認識度合いからすると遠見番所の方が重要だから覚えられている?!と印象を受ける人が多いでしょう。ですがその内容を知っていくと、御番所と遠見番所は重要度が全く違い御番所はとても重要だったという事がわかる。おそらくその御番所が一部でも現存するなら文化庁指定史跡になることは間違いなかったでしょう。わかりやすく言うと国の重要文化財だってことです。



そしてその認識の低さの理由に旧牛深市にはいわゆる市の歴史を編纂した『牛深市史』が無かった事が大きいと思う。市民が自分の住んでいるところの歴史を気軽に学ぶことが出来なかったことは旧市の担当者だった方々もみなさん残念でならないと仰っている。



個人的には牛深といえば『御番所』ってなるぐらいの素材でもあると信じている。

昨年から天草検定が開催されていますが、この検定テキストには現在牛深御番所なんて言葉は一言も載っていない。こういうところにも載ることが当たり前になる未来を夢見て勉強して公開していきます。



なに分江戸時代のことになるので表現が難しく伝わりにくい事が多いと予想されます。できるだけわかりやすく書く予定ではありますが、わからねーよとか意味がわかんないなど気軽に言ってもらって構いません。



ご質問には私がわからなくても郷土史家の方々にお聞きして改めてご説明させていただこうと思っておりますので根気よく読んでいただけたらなぁと思っております。

それでは始まります。





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天草初代代官鈴木重成は、江戸幕府による主導のもと異国船対策として遠見番制度を設けました。

(遠見番所のその細かい背景はまた別の機会に書きます、今回は触りだけに留めます)



寛永18年(西暦1641年、以降4桁の数字は西暦)富岡、大江崎、魚貫崎に遠見番所(見晴らしの良い所から海を監視するもの)が設置され、萬時3年(1660)に高浜村大野崎、亨保2年(1717)に崎津とともに増設されたものが牛深遠見番所です。



その遠見番所があった現遠見山(銀杏山)の中腹には中継地点として中番所がありました。現在中番所跡ということで展望できる建物がございますが正確にはその場所ではなかったとのことで、水道山から頂上へ向かう道路整備のためその場所は無くなってしまったとの事。(中番所についても後日詳細記事書きます)



そして寛政11年(1799)4月22日現在の船津地先(現在のAコープ、Aコープより以前は漁業組合)に長崎奉行直轄『牛深御番所』正式名が新設された。



まず第一回目なのでこの名称についてである。

歴史書や現在の歴史説明板には『牛深湊御番所』や『牛深湊見張御番所』などと表記されていたりします。海彩館での表記もそうなっている。これらは当時より牛深を単に牛深と言うより、港としての牛深が良く知られていたためわかりやすく唱えた愛称のようなものだっただろうとのこと。



ここでその時代の公式文書をお見せします。







この文書は俵物(今回省略これも後日記載します)に関する世話役への呼出状である。

いやぁ、それにしても文字が美しすぎる。芸術品として眺めたい古文書である。



黄色で囲った部分『牛深御番所』と書いてあるのがわかると思います。これが公式で使われていた名称です。



最後の個人名の世話役のところを見ても久玉村中原新吾と書いてあり、牛深が久玉村だったというのが改めて分かる面白い。関連→牛深第七景



享和2年(1802)にはその世話役が牛深村庄屋長岡惣左衛門嬉七郎と他の文章に見えている事により上の文章は御番所新設初期の頃のものと推定できる。





というところで第一回目は終わりにしたいと思います。いやぁやはり伝わりにくくなってますね。説明不足で申し訳ありません。少しずつ説明を増やしていきたいと思いますので次回もまたお付き合いくださいませ。



  


Posted by hirok○ at 05:16Comments(2)遠見番所