2020年07月30日

明治を学ぶ10

今回は征韓論からです。

明治元年(1868)対馬藩を通じて新政府樹立の親書『日韓尋交ノ為対馬守ヨリ朝鮮国礼曹ニ贈ルノ書』を李氏朝鮮へ送ったが受け取りを拒否された事に端を発する。

拒否された理由。
・朝鮮が与えた印ではなく新政府の印を使用していた。
・宗主国(清)のみ使える「皇」(皇帝の事)の文字を使用していた。

簡単に言えば朝鮮は日本より格が上だから対等に話かけるなって事だろう。
明治元年12月には木戸孝允が「使節を朝鮮に派遣して無礼を譴責し、相手が不服ならばその罪を問う」という征韓論の原型となる記述を日記に残している。木戸は征韓を行えば国内が一致団結し、古くて現代にそぐわない慣習が洗い流されるだろうと考えていた。

明治3年日本は代わる代わる外務大臣を朝鮮に派遣して国交を結ぼうとしたが朝鮮は頑としてこれに応じることはなかった。

明治4年日本は清と日清修好条規を結ぶ。建国以来初の対等条約だった。

対朝国交問題が暗礁に乗り上げていることから、むしろ、それを逆に利用して朝鮮の宗主国である清と対等の条約を取り結べば、朝鮮も日本との開国に前向きになり、あるいは日本が朝鮮の「上国」の地位が確立できるという思惑があった。
でもなぜ大国である清が画像表題並列表記でわかるように対等の条約を結んでくれたのかと言うと、清国内は西洋から入ってきたキリスト教信仰者からの反乱(太平天国の乱)が起こり西洋に不安要素があった。日本はその西洋列強の圧力に対し日清両国が協力して抵抗すべきであると何度も説得した結果だった。

しかしこれでも朝鮮は日本を受け入れることはしなかった。

明治5年日本は釜山(朝鮮)に公館を設置。(最近PS4のゲームで話題の対馬が江戸時代朝鮮と交易があったのでその対馬藩の事務所があった場所を日本の事務所に代えた。)

明治6年4月、5月釜山で官憲の先導によるボイコットが行なわれ6月には日本公館への物資搬入を妨害。門前に無法の国と掲示した。また朝鮮大院君は「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」という布告を出した。当時外交官はこの乱暴な布告をみてすぐさま日本に帰国し、事の次第を政府に報告した。

朝鮮内で排日の風がますます強まり、新政府内において征韓論が沸騰した。
閣議で取り上げられ強行派の板垣退助は留民保護のためにすぐ軍を送るべきと主張したが、西郷は全権大使を派遣して交渉すべきと主張。士族の不満解消の背景があり特使を送り挑発して開戦の口実を作りたかった。

5月29日大久保利通帰国。
ここで岩倉使節団の帰国要請のところと繋がります。
7月23日木戸孝允帰国。

8月17日閣議において西郷遣使が内決されたが、岩倉帰国後に再討議されることとなった。

9月13日岩倉具視帰国。
1年9か月訪問国12か国に及ぶ岩倉使節団終了。

10月14日朝鮮問題に関する閣議が開催され、西郷は遣使即行を主張し、西郷の使節派遣は西郷自身も失敗(自身が殺害されることも)を予想した上で開戦を期した主張であり、交渉不成功の場合は政府は面子上開戦を覚悟しなければならないものだった。さらに朝鮮の先に清との開戦もありえため、岩倉・木戸・大久保は内治優先論の立場からこれに反対し、三条や参議大木らもその意見に同調するようになった。この日は決定には至らず。

10月15日に再度閣議が開催され、参議各々に意見を陳述させ、三条・岩倉の間で協議が行われた。西郷の圧力とそれに伴う軍の暴発を恐れた三条は、太政大臣としての自らの権限で西郷の即時派遣を決定した。

10月17日反発した岩倉・大久保・木戸が辞表を提出。

10月18日収拾に窮した三条は病に倒れ太政大臣辞意を表明。

10月19日岩倉が太政大臣代理となる。

10月23日即時派遣か、岩倉自身の考えである遣使延期かという2つの意見を上奏(天皇に意見を申し述べる)した。このとき西郷たちは立ち会えず意見を述べることができなかった。

10月24日明治天皇は遣使延期を決定。大久保・木戸の辞表は却下。政変に破れた西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野し大久保中心の政権になった(西郷派の士官で辞職したものは100名、土佐藩出身の士官40名が辞職して帰郷している)。

同郷で維新に力を合わせてきた同士だった西郷と大久保はこれで大きく決裂した。
ここまでが『明治6年の政変』である。

西郷とともに下野した板垣退助らはこの後、反政府活動を行うようになります。自由民権運動とか特に学校で習うから聞いたことない人いないでしょう。その辺りに入っていきます。それではまた次回。
  

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2020年07月25日

明治を学ぶ9

国内の話から続き。
明治6年(1873)3月19日(国内1月19日付)海外大久保・木戸帰国要請の書簡が届く。

国内留守政府大蔵省のトップ長州・井上馨は予算配分時に同じ長州・山縣有朋の陸軍省に要求通り満額配分を行った。

しかし肥前・江藤新平の司法省、肥前・大木喬任(たかとう)の文部省の予算を半減。これに大反発。
陸軍の予算が増えた分教育司法予算が減らされたわけである。

この混乱の中さらに留守政府は参議(政府の中の重要な役職)を増やした。
明治6年政変と呼ばれる人事を簡単に流れを書いておく。
留守政府の構成は太政大臣(三条実美)の下に参議があり、その参議のメンバーは西郷隆盛(薩摩)、板垣退助(土佐)、大隈重信(土佐)だった。

この重要な参議に先ほどの江藤新平(肥前)、大木喬任(肥前)、左院議長・後藤象二郎(肥前)を追加。
政府内で土肥(土佐と肥前)の割合を増やし薩長土肥のバランスが崩れた。
こうならないために事前に視察組と留守政府は大きな改革をしないと取り決めを行っていたのに。
ここで不思議に思うでしょう。留守政府には薩摩の西郷隆盛がいたのになぜこんなことが起こってしまったのか。

新政府の乱れた私生活に西郷は不信感を持っていたそうだ。しかも留守政府とはいえ国内の事を決定する力を持っているのになぜ視察組の言う事ばかり聞いていないといけないのかと。

おそらく私の感想としては戊辰戦争の最後の五稜郭の戦いに参加していないころから新政府とは溝があったのかもしれないと思っています。もしくはただ争いごと(戦争までいかなくても)や対立とかが好きなのかなって印象。


今度はさらに税制の改革まで行いました。
明治6年7月28日地租改正
内容
土地の所有者に「地券」を発行。
収穫量から土地価格を決定。
土地価格の3%を金で納めさせる。これまで『米』で納税させていたものを『金(おかね)』に変えた。米本位から金本位制に代えた大きな出来事。
お米の豊作不作に関わらず政府の収入を安定させるというメリットがあった一方、不作だった時の農民は高利貸しからお金を借りて納めたそうだ。さらに米の需要が下がったため価格が下落しても納める額は変わらないなど農民の不満が爆発して全国で一揆が続発した。

何度も書くよ。視察組と留守政府は大きな改革をしないと取り決めを行っていたのに、
これにて明治政府の三大改革と言われる学制(学校制度)・徴兵令(兵制度)・地租改正(税制)が整った。

政府は徴兵制で不満を持っていた士族と農民の結びつきを恐れ税率を2.5%に減税。
減税はしたものの一番恐れている薩摩士族の不満は西郷の元へ届いていた。

この不満を逸らせる目的で当時鎖国状態だった李氏朝鮮を討伐しようとする征韓論が起こってくるのです。これが最大の留守政府と視察組との溝になっていくのですがここは大変重要で西郷のクライマックスとも言えるのでまた次回に。




  

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2020年07月23日

明治を学ぶ8

岩倉使節団は明治5年11月16日フランスに入国し明治6年1月1日をベルサイユ宮殿で迎えた。

日本国内。
明治5年11月、徴兵告諭
徴兵が必要な理由を国民へ伝えた。

現代語訳
 わが国の兵制は,国民すべてが兵士になった。(略)明治維新で列藩で領土を朝廷に返還し、郡県制に復した。世襲で働かずに暮らしている武士は、俸禄を減らし刀剣を腰からはずすことを許し、士農工商の四民にようやく自由の権利を得させようとしている。これは上下の身分差をなくし人権を平等にしようとする方法で、武士と農民を一体化するものである。(略)この世にある物すべて、税のかからないものはなく、その税は国費にあてられる。だから人間である以上、心身ともに尽くして国に報いねばならない。西洋人はこれを血税といっている。その生き血で国に尽くすという意味である。(略)西洋諸国では数百年来研究・実践して兵制を定めた。(略)従って今、その長所を取りいれて日本古来の軍制を補い、陸海の二軍を常備し、全国民の20歳以上の男子はすべて兵籍に編入し,国家の危急に備えるべきである。

明治6年1月10日、徴兵令公布

長州・大村益次郎が考案。長州・山縣有朋主導・実現。
内容
20歳以上の男子は徴兵検査合格者の中から3年間の兵役。現役兵はくじにより決まる。
今まで戦は武士の専売特許だったものを全国民に背負わせた国民皆兵の制度。
モデルはフランス軍。1800年代はナポレオンの時代でブームが起こりたくさんの国がフランスを模範としていた。

ナポレオン式は「攻め」の軍隊だった為、日本の地形に基づく「守り」の軍隊には向いていなかった。後の明治中期にはプロイセン(ドイツ)型に移行していく。

この徴兵制には抜け道があった。
徴兵制の免役規定。
・身長が155㎝未満。
・官吏医科学生、海陸軍生徒。
・世帯主、相続者(長男、養子など)。
・代人料270円(現在価値550万円)を納めたもの。

長男以外は婿養子や縁組が急増し断絶家が復活したなど各地で徴兵逃れが多くあった。

徴兵令により農家の労働力が減り、なお且つ徴兵告諭の一節「西洋人はこれを血税といっている」を「兵役に出ると西洋人に血を抜かれる」と誤解した庶民が各地で徴兵反対の「血税一揆」が起こる。

この一揆に、国を守ってきたのは自分たちだと、自分たちの存在意義を奪われてしまうと士族も加わる。

徴兵令がもたらしたものは190万人の士族の失職への不満や庶民の政治への意識だった。


明治4年7月9日司法省の設置。
司法省初代長官(肥前)江藤新平。
裁判制度・警察制度を作り近代的な法治国家を目指した。

明治6年2月7日仇討禁止令
武士の特権であった復讐仇討を禁止した。
江戸幕府時代仇討とは誰でも切って良いわけではなく、武士は事前に届け出を幕府に出して許可が下りれば仇討を行っていた。
海外諸国との不平等条約改正の為にも仇討を無くす必要があった。仇討があると治外法権撤廃を海外諸国が認めてくれなかった。
だがこれも士族の不満を加速されるものとなった。

明治6年(1873)2月24日キリスト教解禁
経緯として前年岩倉使節団が欧米各国から弾圧を非難された為本国へ打電し解禁の流れ。
江戸幕府慶長の全国禁教令(1614)より続いたキリスト教弾圧は終わった。

天草のキリスト教弾圧で言えば1637年天草島原の乱が起こりましたね。これによりこのブログで当初書いていた遠見番所が1641年から天草各地に設置され1799年江戸幕府命で牛深御番所が牛深に置かれた。


岩倉使節団に話を戻します。
明治6年2月~ヨーロッパ各国(ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・イタリア・オーストリア・スイス)を視察。
使節団はこの中で日本の目指すモデル国をようやく見つけた。それがドイツだった。
3月9日ドイツ着。
3月12日ビスマルクと会見。
当時ドイツ帝国は明治4年に300の小国を統一した新しい国だった。そして周りにはヨーロッパ各国が取り巻いている。
明治新政府も270の藩を統一誕生したばかり。欧米諸国から圧力かけられている状況も同じ。多くの共通点があった。
ビスマルクは条約改正よりも富国政策に重点を置いた方が良い、強い国になれば自ずと条約改正できると助言。
岩倉使節団のクライマックスはビスマルクと会ったこの時点であった。

一方国内に戻ると3月19日(国内1月19日付)大久保・木戸帰国要請の書簡が届く。国内予算編成で大蔵省と各省が対立。国が機能しないほどの大混乱が起こっていた。・・・の話はまた次回。

ふえぇまだ明治6年やで。頑張っていきましょう。  

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2020年07月13日

明治を学ぶ7

岩倉使節団大久保と伊藤が天皇の委任状を貰うため一か月以上かけて一時帰国したところから続きます。

留守政府外務卿(がいむきょう・現在の外務大臣)であった副島種臣と外務大輔(がいむたいふ・現在の外務省次官)寺島宗則らが委任状を出す事に出発前の約束と違う、条約改正はまだ準備不足だと猛反対。

外交はそんな簡単にうまくはいかないと2か月にも及ぶ大激論となった。
このとき大久保は追い詰められ切腹する覚悟をしたらしいが副島らはそんなことは私らには関係ないと突っぱねたそうだ。

結果、
明治5年5月14日
寺島宗則が使節団に参加する条件で明治天皇の委任状がようやく渡された。

5月17日
伊藤・大久保・寺島アメリカへ出発。

この間アメリカに残った使節団はニューヨークでブロードウェイを見たりナイアガラの滝や五大湖・ボストンなどの観光を行っていた。
岩倉や木戸たちは観光だけではなく当時日本に無かった連邦議会を視察。
ここで岩倉はアメリカの共和制を見て、いろんな公職や法令を多数決で決めるのは一見すると公平で素晴らしいものに見えるが選ばれる議員がすべて優秀な優れている人材であるかはわからないと疑問を持った。優れた政策が退けられ愚策が採択される可能性があると思ったそうだ。(うわーこれ現代でも鳩〇さんの民主党のとき俺も民主主義の欠陥って思ったことやん)

6月17日
大久保たちが使節団に合流、アメリカと条約改正交渉に臨んだ。
日本側は治外法権の撤廃、関税自主権を要求に対し米フィッシュ国務長官は日本の司法制度は前近代的だと一蹴し決裂。
日本はまだ近代国家として認められないとはっきり言ってなめられていた、馬鹿にされていたのでしょう。アメリカにその他の国と条約交渉しても同じ結果だろうとも言われる。現在でも同じように沖縄の治外法権とか地位協定とか何十年も変えられないですよね。これが外交の難しさですよね。委任状を持ってくれば変えれると簡単に考えていた大久保たちは経験無かった為考えが甘かったですね。結果から言うとこの時点では慶喜と一緒のような気がしますね。
この日の木戸孝允は日記に『五千里の海を渡り三千里の陸路を越えてきたが全て水泡に帰した』と書き悔し涙を流したとか。

大久保たちは外交交渉の厳しさを思い知らされ条約改正交渉を諦めた。

7月3日ボストンからイギリスへ出発。
7月14日にイギリス入国。だがアメリカ滞在が予定より大幅に長引いたため予定していたビクトリア女王が夏季休暇に入って謁見できず。

当時のイギリスは産業革命を終え多くの植民地を持ち最大の先進国だった。
大久保は「イギリスは外国から原料を輸入して製品を輸出している。イギリスの富国の理由が理解できた」と書き残している。領土が狭く同じ島国。日本が目指す所ではないかと考えた。しかしイギリス視察を行っていくと「イギリスは海外植民地もたくさん持っていて産業も確立していて今の日本との差があまりにも大きすぎる。イギリスの後を追うのは難しい」との声が出はじめる。
そんな中イギリス滞在中各個人が旅費を預けていた銀行が破綻。総額2万5千ドル(現在価値約5億円)が消えるトラブルにあう。踏んだり蹴ったりである。

このときのヨーロッパ日本人留学生が作った歌
条約は 結びそこない 金とられ 世間に対して なんといわくら

うまい!と今では笑っちゃいますが当事者は笑えないですよね。

11月16日イギリス出国さらなるモデル国を探してヨーロッパ大陸を目指した。

一方国内では。
明治5年8月2日学制発布。
留守政府文部大輔江藤新平は寺子屋や藩の学校を廃止して全国に小中大学校を作った。
政府のスローガン『各村に不学の家なし』の元に国民皆学を目指し富国のためには教育は欠かせない、国の体制制度を理解させる為精力的に頑張った。
明治6年までに小学校2700校。就学率約35パーセントにまでなった。

しかし学校建設は地元負担。月約50銭(現在価値約1万円)の授業料。子供の労働力を取られるなどの不満が出る。

明治5年9月15日新橋~横浜間に鉄道開通。
それまで徒歩丸1日だったものが50分で行くことができるようになった。

10月4日富岡製糸場操業。
フランスの技術を導入し世界最大規模の工場だった。ちな新1万円札の渋沢栄一は富岡製糸場の設置主任やったんやで。
その他紡績工場や造船所などの官営工場を次々に作り工業の近代化が一気に進んだ。

庶民の生活にも西洋化が進んだ。
明治5年横浜にガス灯が点いた。それまで夜はロウソクしかなかった為、夜明るいのはとても驚いたそうだ。

食生活も大きな変化があった。
日本人の体形が小さいのは肉を食べないからだと政府が肉食を奨励した。これまで肉食べてなかったっていうのは驚き。

牛鍋が出て明治5年明治天皇が初めて肉を食した。
牛乳は明治3年明治天皇が毎日飲んでいると報道、庶民に広がった。

近代国家の体制を整えるための禁止事項。
混浴、人前で裸になること、入れ墨。
江戸時代の女性は人前で裸になるのを恥ずかしく思わなかった。ある意味日本人全体がおおらかだったが外国人からすると不思議だったそうだ。

明治5年11月9日 改暦の布告
内容。
太陰暦をやめて太陽暦にする。
明治5年12月3日を明治6年1月1日にする。

太陰暦(旧暦)は1年355日。なので3年ごとに1年が閏月増え13か月になる。
目的は貿易・外交で日付けの不都合が生じないようアメリカ・ヨーロッパと合わせる為。海外諸国と肩を並べるためであった。
これと同時に一日の時間も不定時法から1日24時間の定時法へ変わった。
これまでの日本は夜が明けたら一日の始まりで暗くなったら一日終わりっていう数え方だった。

ここまで生活様式を大きく変えることを施行まで3週間と急いだ理由を当時財務を担当していた大隈重信が後年語った。

明治5年の12月を無くすことにより12月の給料を支払わなくて済む。さらにそのまま行くと明治6年は閏月があるのでその1か月分の給料も支払わなくて済むと考えたからだ。せこいw

一方本来この年に帰国予定だった岩倉使節団は明治5年11月16日フランスに入国。彼らの旅もまた次回に続きます。




  

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2020年07月05日

明治を学ぶ6

前回は断髪令のとこでしたね。

ちなみに断髪令(明治4年8月9日)は好きな髪型にしていいですよと言う意味で、ちょんまげだめですよって意味と勘違いされることが未だに多くて現在でもちょんまげすると捕まるなんて言われたりします。今私がバリバリのではありませんが軽いちょんまげにしたくて今鎖骨ぐらいまで髪伸ばしてるんですがそう言われることが実際ありました。確認のため書きますがちょんまげにしても違法ではなく捕まりません。当たり前。

当時は断髪令に反対して一揆を起こした人が裁かれたっていうことはあったみたいなのでそれを勘違いされたのでしょう。岩倉使節団の岩倉具視は断髪令の後(明治4年11月12日)海外視察に行っているのですが出発当初はちょんまげ姿で海外を見ているうちに海外の文化を取り入れシカゴで断髪したそうだ。政府要人が断髪令の後断髪してないのが証拠ですね。

岩倉使節団(真ん中が岩倉具視)

一応書いておくか、この断髪令で一番有名なのが『散切り頭をたたいてみれば文明開化の音がする。』これは省略型で全文載せると
『半髪頭をたたいてみれば、因循姑息(いんじゅんこそく)な音がする。総髪頭をたたいてみれば、王政復古の音がする。ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする。』だそう。

『ちょんまげ頭の人は、古い習慣ややり方にとらわれて改めない人。長い髪の総髪頭は、まだ王政復古の頃で止まっている人。それに対して、まげを切った頭の人こそ文明開化の波に乗り、進んでいる人だ。』という意味。こういう言葉を流行らせて一般に普及させようとしたんですね。

断髪令との関係では、明治5年4月5日に東京府が「女子断髪禁止令」を出している。
これは断髪令の趣旨を「女子も散髪しないといけない」と誤解した女性が男性同様の短髪にすることがあったためだという。

第4回で少し触れてはいましたがここで岩倉使節団についてもう少し深く学びたいと思います。
上載した写真は5人は左から順に木戸孝允、山口尚芳(ますか)、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通。
目的は新政府もどのようにして新しい国の体制を作ったらいいのかわからなかったので理想の国家像を学ぶのが一つ。政治・行政・法律や近代技術の視察ですね。
これと並び大きな目的が江戸幕府が海外諸国(米・英・仏・露・蘭)と結んでいた不平等条約の改正するための予備交渉だった。

国内が目まぐるしく変わっている中で政府主要人物たちが国内にいないのは不安ですよね。
なので使節団は留守中の政府との取り決めをしていました。

使節団は目的を逸脱しない。
留守政府は大きな改革をしない。
重要な件はお互い報告する。

岩倉使節団はこの5名だけではなく政府役人46名、留学生61名合計107名でまず明治4年11月12日サンフランシスコへ旅立った。
この留学生の中に今度5千円札に描かれる津田塾大学の創立者津田梅子もいます。

サンフランシスコからアメリカ大陸を横断しワシントンを目指す中、土地を奪われたアメリカ先住民を見て「現実世界は弱肉強食、欧米諸国のやり方はそういうものだ」と認識しました。

明治5年1月21日ワシントンに到着。

ホワイトハウスにてクラント大統領に謁見。

条約改正の予備交渉をする目的だったが、駐在大使の森有礼が伊藤博文に条約改正の本交渉をするべきだと提言。これに使節団が賛同し米国に交渉した。しかし米国は「元首である天皇の許可を得ているのか?」と問われタジタジ。新政府初外交の大失態(笑)。慌てて
明治5年2月12日天皇の委任状を貰いに大久保利通・伊藤博文一時帰国の途。

一方留守中政府はいかにして国を守るか考え軍隊の近代化が必要だと考えていた。
明治5年2月28日陸軍省・海軍省を設置した。
陸軍大輔(たいふ)いわゆる次官に長州藩山縣有朋、海軍大輔に幕臣勝海舟が就任。

3月24日大久保・伊藤日本到着。ここで委任状を取ってすぐ出発の予定だったのだがこの件で留守政府と衝突してしまうのです!っていうことでなんかざわざわしてきましたね、今回はここでしみゃ。いやぁ歴史ってほんと面白い。

  

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