2015年05月27日

あとがき

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

もしタイムスリップできて何時の時代の誰に会ってみたいですか?って質問されたら僕は江戸時代の牛深遠見番役人原才右衛門に会って見たいと答える。今では憧れの存在になってしまった。

今回でホントの第二章最終回です。
非公開部分が多くて本当に申し訳なく思っております。ここまでお付き合いいただいたきありがとうございました。正直自分一人ではこれは無理だったと思う。何はともあれ最後までいけて良かった。

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『あとがき』

 牛深八景から引き続き御番所まで牛深の歴史を学びました。
 自分のルーツを探るため故郷の歴史を知るとしてきました。ここでもっと個人的なことを書くと、牛深八景は私の母方からお話を伺った牛深の歴史で今回の御番所は父方からお話を伺った牛深の歴史でした。

 この二冊が合わさって私自身を形作るものです。私自身をはっきり明文化したことになる。
 二冊の本で一区切りは付きましたがこれで終わりではありません。自分自身を知ってやっとこれで表現者としてのスタートラインに立つことが出来たと思っている。ここから僕は始まるのだ。

「学は、もって已むべからず
青は藍よりい出て藍より青く、
氷は水これを為して水よりも寒し」

 荀子の一節。学問はここまでで終わりと云う事はないので弛んではいけない。藍から生まれた青がもとの藍よりも鮮やかに青いように、水からできた氷がもとの水よりももっと冷たいように、(師を凌ぐ学の深さを持った弟子も生まれるものなのだ。)という意味。

 牛深の方にとってこの「藍より青く」という言葉は一九七二年NHK連続テレビ小説で放映されたドラマとして馴染みが深いものだと思う。私は当時生まれていなかったので近年書籍で取り寄せ読ませてもらった。(藍より青くについては牛深八景ブログにて三回に渡り考察しております。) 「藍より青く」という作品はこの荀子の一節とは無縁だそうだ。

 後に名脚本家となるその著者山田太一さんはあとがきでこう書いている。
【今の時代の自己形成が、「藍より青く」というような前世代との連続性の中で行われず、いわば「藍より赤く」といった非連続なかたちをとりがちであるという思いでした】そして【いま私たちに必要なのは、過去への生き生きとした関心であり過去との連続性の回復ではないでしょうか】と続けている。

 四十数年経った現在を生きる私も同じことを思っていた。
 私は「藍より青く」生きたい。「藍より青く」を志したい。そう強く思っている。

 ブログ「牛深御番所てんこ盛り」を読んで下さった方々に多大なる感謝を申し上げます。温かくご支援くださる故郷天草の皆さま、本を予約して頂いてくださっている方々、牛深八景、牛深御番所ブログかたらんな関係者の方々、それに、誰よりも私の活動を理解し共に歩んでもらった父と母に感謝いたします。ありがとうございました。





  


Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年05月26日

考察:牛深御番所設置

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

今回の書籍化用に御番所の歴史を学んだ事を自分の見解を含めてまとめています。
以前書いた文章を引用したりしていますので重複することもありますがこれが私の集大成です。

全三回の二回目です。掲載見合わせ中が多くてすみません、とても重要でお見せしたいのですが書籍を買っていただく方への特典といいますか配慮をさせていただきます。発売後に公開するところは公開します。


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『考察:牛深御番所設置』

 これだけの歴史があるのにも関わらず、現在の天草ではあまり語られないどころか皆無に等しい。現に近年開催されている天草検定の天草の歴史をまとめたテキストブックには御番所の文字すら無い。
 これより先の私が考察した結果は今まで言われたことはない。もちろん現在のところそれを断定できる文献も物証もあるわけではありません。
 読まれた方が「そうかも」とか「それは違うな」とかそれぞれ判断してくださって大丈夫。議論の一ネタにでもなってそこから御番所の認知度が少しでも高まればいいなぁと思います。
 今回御番所の事を学びながら、ずっと一つの疑問を考えてた。
 『なぜ牛深に御番所を作ったのか?』ということである。前述したように抜け荷対策というのは表向き間違いないだろう。でも異国船監視や抜け荷対策はそれまでの遠見番所でもやれていたはず。そもそも最初に遠見番所を作った時に牛深には遠見番所を作らなかった。絵図内でも説明された通り、舸子役が天草で一番多かった牛深は船が多く入港するのはわかっていたのにも関わらずだ。これがずっと引っかかっていた。
 そこで当時牛深に御番所を作ろうと計画しているまさにその文献を読んでその候補地に着目してみた。
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これらは長崎奉行松平石見守貴強から『日本中に出回っている唐物はどこの抜け荷から来ているものか?』について隠し事のない意見を求められたことに対する返答書である。わざわざ隠し事のないと付け加えている事を考えると、隠し事があるのではないだろうか?と奉行は感じていたのではないだろうか。江戸時代の遠見番役人や通詞(通訳)などの地役人は後に私塾を開いたりするのを見ても分かる通り聡明で賢く、本来の仕事の傍ら、絵図内説明でもありましたが今で言う探偵や警察のように聞き取りや張り込みなどの隠密活動を多方面で行っている。隠密というだけあって何を調査しているのか文献として残っているものは少ない。しかも通詞に至ってはオランダ船長と結託し検閲を受けない事を利用し自らも幕府禁制品を国内に持ち込み富を得る強かな面も見せていた。 これを前提にして、その二人の意見書を要約する。
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 これの対策案で牛深が出てくる。
【一、天草久玉山に遠見番所を設置し遠眼鏡で監視し牛深浦に(積み荷)改番所を設置して出入りする船を査察する】
【二、薩摩からの流出品は廻船によって下関を通り大坂へ入るので下関へも(積み荷)改番所を設置し出入りする船を査察すると良いが、※※非公開※※】
【三,豊前豊後の陸路は長崎地役人が廻れば摘発できる】など。
 これを読んで気が付くと思います。薩摩の抜け荷なのになぜ牛深と下関なんだ?表向きもっともらしい理由はつけてあるが直接薩摩を取り締まればいいじゃないって誰もが思うはず。
 牛深についてはこう書いてある。
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 港としては立派だがあまり力を入れる必要がないと言っているようにも受け取れる。しかも唐船漂着は長崎資料割符留帳により確認すると牛深よりも﨑津の方が多い。故に当時牛深にはいない唐通詞が﨑津には配属されている。こういう歴史が今日の世界遺産に繋がるわけですが﨑津を差し置いて唐船漂着を理由にするのは少し違和感がある。
 繰り返します意見書は地役人(旗本・御家人ではない)が書いている。しかし寛政十年(一七九八)六月、意見を出された五ヶ月後には幕府は牛深に御番所の設置を決定したのである。(地役人発案幕府執行は珍しい)

 ここで牛深ハイヤの起源(牛深八景第九景)にも関係する薩摩藩について少し説明をしたい。
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島津藩の外交は強かで、あくまでも幕府に反旗を翻す態度は見せずに軍事力を保つ絶妙なバランスを持って幕府との関係を続けていた。
 絵図内記事に関係してきます。 絵図丗四記事、「伊能忠敬が一度断念した種子島、屋久島(薩摩)を再調査させた幕府は当時閉鎖的だった薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいていたのではないかと推測されている。」
絵図廿四記事、「琉球征伐」を行い領土を拡大しさらに唐貿易を行って資金を調達している。唐貿易を行っているということは財だけではなく、武士の多い国が海外の新兵器、武器なども輸入している可能性がある。
 『江戸徳川幕府は確実に薩摩島津を警戒しその先にある徳川政権の滅亡つまり倒幕を恐れていたのだ。』
 幕府は度重なる隠密活動により実態把握を試みる。しかし薩摩藩は独特の隠密に対する対策を敷いていた。
 「御国言葉」(いわゆる方言)を特有なものにし、あくの強い訛りを藩内にて使用させ、他国者(隠密・密偵など)の潜伏を、その言葉の違いで見分けられるようにした。また絵図四、廿記事、薩摩半島には津口番所が連珠のように連なり、陸路は関所で荷物改や人の出入りを制限し他藩の者を受け入れないように体制をとっていた。
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と例えられるほど隠蔽工作には徹底していた。
 薩摩藩のことを調査したい時に幕府はどうするだろう?と考える。薩摩藩は天領ではないので幕府の施設は置けない、しかも薩摩藩を偵察する施設なんて宣戦布告するようなもので言わずもがな。ならば薩摩渡りと呼ばれている隣港、牛深にその偵察本拠地を置こう!これが御番所ではないだろうか。
 いやいやいや、文献には抜け荷対策としか書いてないじゃない。と言われることはすでに反論予想できる。薩摩と幕府の絶妙なバランス関係を理解して読んでみると、文字に残してそれが薩摩側に見つかった場合対立するのは目に見えている。故に文字に残すことが出来なかったとしたらどうだろう。 そこで抜け荷対策の意見書をもう一度見てもらいたい。下関にも御番所を置きたいと進言している。これを後の史実から見てみる。
事実江戸幕府は討伐され明治維新になる。倒幕される戊辰戦争反幕中心は御存知の通り薩摩と長州(下関含む)いわゆる薩長同盟なのだ。
 御番所設置になるその意見書は完全に薩長を警戒してることにピンポイント合致していた。
 そして薩摩を偵察する施設とした場合の牛深御番所は薩長が維新により新政府になるため自分たちで自分たちを偵察する意味合いになるので取り潰しになる。こういう風に思うとすべての点が線に繋がるように思えた。
 ここまで書きましたが、あくまでも私個人の見解で仮説である。だが歴史と言うのはこういう仮説がありそれを証明する物が出てきて正史になっていくこれの繰り返しである。こういうことを想像するのが歴史ロマンでありとても面白いのである。
 もう少し幕末維新後の興味深い牛深に関係する史実を記載しておきます。
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そんな大仕事をしている最中牛深で何をしていたのだろう。
 薩摩渡りの土地で、後に新政府中核となる西郷隆盛・大久保利通、倒幕論者平野国臣などと会っていたのではないだろうか。 文献としては残ってはいないが大久保利通は、牛深に
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そして事実、※※は幕臣であったにも関わらず維新に功労のあった志士者として明治天皇より正五位を叙せられている。 牛深御番所は幕府が行う倒幕活動の調査にはうってつけの場所であることは間違いなさそうだ。ただそれをやっていたかどうかは確証がない。



この非公開部分読みたい方は↓こちらまで。製作は終盤に来ております。もうしばらくおまちください。





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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年05月25日

天草遠見番所・牛深御番所設置背景

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

今回の書籍化用に御番所の歴史を学んだ事を自分の見解を含めてまとめてみました。
以前書いた文章を引用したりしていますので重複することもありますがこれが私の集大成です。

まとめは全三回に分けます。


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『天草遠見番所・牛深御番所設置背景』


 遠見番所や牛深御番所が当時の日本にとって大事なものであるにも関わらずいまいち語り継がれにくいのには時代により設置理由が異なるため一つに絞れず端的に説明しづらいと言うことにあると私は思う。
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 もちろん幕府がそのような政策をとったのには理由があり、時代背景と共に遠見番所設置理由を考察したい。

・一つ目は国際的立場からの日本国遠見番所設置。

 関ヶ原の戦いで徳川家康が天下を取る数年前、その前任豊臣秀吉は領土拡大を模索し朝鮮征伐を行う。朝鮮征伐と書きましたが戦った相手は李氏朝鮮(朝鮮半島は制圧)と主に明(中国)との戦争です。この戦争は道半ばで日本から命令を出していた秀吉が亡くなり日本軍は撤退しました。熊本に関係することを書くとこの戦いの後、加藤清正が朝鮮半島を制圧できたことを神前に感謝し、自ら随兵頭となって兵を百人引き連れて藤崎宮の神幸式に供奉したのが、現在の随兵行列(藤崎八幡宮秋季例大祭)の発端とされている。
 遠見番所が整備されるこの西暦一六〇〇年初めというのは上記したように中国(明)とは戦闘状態で講和も結んでおりませんので国交がない。なので中国との貿易をする事は日本国内では認められていなかった。
 その後、明は一六三六年に滅ぼされ清朝となる。
この清朝が対立していた中国国内勢力が日本との密貿易で力をつけていた為、一六六一年に清は遷界令(海禁)を行いました。これにより当時日本と中国両国間は表面上海外貿易は完全に出来ないことになった。
 そこでその違反船を見つけ日本の統治能力を内外に示す目的と海外からの侵略に備え警備を強化する目的のもの。
 これが遠見番所である。
 天草では寛永十八(一六四一)年、富岡、大江崎、魚貫崎に。萬時三年(一六六〇)に高浜村大野崎、亨保二年(一七一七)に﨑津と牛深に遠見番所が設置された。こういう理由のため江戸の帆船時代、各遠見番所が日本国防衛最前線となっていた。

・二つ目はキリスト教排除目的からの遠見番所設置。

 一六〇五年、長崎は天領(徳川幕府直轄地)になり南蛮貿易が許された。これは貿易での冨を幕府が独占的に得るためである。そして海外貿易をするということは海外の宗教が入って来やすく、海外では国を侵略するのは宗教から入るというのが植民地支配または領土拡大への布石であった。このように当時貿易での利点と宗教の副作用両方あり、複雑に絡みあっていたため宗教だけを防ぐのがどうしても難しかった。
 秀吉の時代からキリスト教禁教は続いてはいたが、徳川江戸幕府は慶長十七(一六一二)年、天領に対し慶長の禁教令を出す。
 長崎でこの海外貿易が許されていたため、長崎への航路であった天草でキリスト教が広まっていた事もあり寛永十四(一六三七)年あの天草島原の乱が起こったことは言うまでもない。 寛永十六(一六三九)年、南蛮船(ポルトガル船)入港禁止令。いわゆる鎖国時代に突入。
 寛永十八(一六四一)年、ここで天草が天領になる。天草島原の乱で、原城攻撃に参加、一番乗りの武功を顕彰された鈴木重成が初代代官として任命された。
 江戸幕府は外国船からのキリスト教布教を恐れ天草を直轄地にして管理をしないといけなくなった。
 これがキリスト教排除目的の異国船監視所、遠見番所の設置に繋がるのである。
 同寛永十八(一六四一)年、富岡、大江崎、魚貫崎に、万治三(一六六〇)年、高浜村大野崎に遠見番所が設置された。

・三つ目は貿易方法からの遠見番所設置。

 江戸時代の長崎貿易方法を簡潔にまとめます。この長崎貿易方法が日本の貿易方法と思ってもらって構いません。
 糸割符制度(一六〇四年~一六五五年)この時代の主な輸入品は生糸であった。日本はこの支払に多量の金や銀を使用していた。この糸割符制度とは国内の金銀流出を縮小させる為の日本主導の貿易方法である。
 一六五五年この不平等に中国商人側が反発。逆にこの制度を悪用され日本側が不利になるようになった為この制度は廃止され、いわゆる売手と買手が直接言い値を決める相対売買仕方(自由貿易)に代わる。
自由貿易により貿易量は増大したが、その支払にまた金銀の流出も増大。これを長崎奉行が抑制するために行ったのが貨物市法(一六七二年~一六八四年)である。
 貨物市法とは目利き商人が鑑定を行い入札を行う制度で日本側が主導権を持つことが出来た。だが入札を行うということでいつの時代も同じく汚職と中国側の薄利多売で金銀流出抑制は思うようにいかずこの制度も廃止される。
 定高貿易法(一六八五年~一七一四年)ここからが天草にとってとても重要になります。
 金・銀による貿易決済の年間取引額に一定の上限「定高」を設定した。国や船につき取引の上限を定めた。遠路遥々船で持ってきた積み荷だけどこれ以上は取引出来ませんので本国へ持ち帰ってくださいということです。
 清(中国)の遷界令(海禁)が前年一六八四年に解除され清国船(唐船)の国内出入りが急増していた。
 確認しておきます。この時代は日本国内は長崎以外での貿易は許されておりません。持って帰ってって言われてもなぁ・・・どうせだったら帰り道で投げ売りでも売りさばけと思うのが当たり前。その唐船の帰り道が天草だった。
 しかもその帆船が立地上必ずといっていいほど通り、シケ明けや風待ち、荷物の積み替えなどに最適だった場所。それが牛深だったのです。
 定高を超える積み荷に関しては銅や俵物などとの物々交換が徐々に行われるようになった。
 元禄十一(一六九八)年、長崎会所(貿易機関)設立し長崎奉行所は大いに利益を上げ、権勢をふるった。
 海舶互市新例(一七一五年~一八五七年)新井白石が金銀の海外流出量を調べ江戸幕府に報告。その量が多すぎた為国内の金銀埋蔵量が枯渇してしまうと危惧し海舶互市新例(正徳新例)を制定。定高を超える積み荷を代物替のみでの決済を公式に認めた。
 中国は海禁を解いている。でもまだまだ国内は絶賛鎖国中。長崎以外での貿易は禁止。
 だが唐船の通り道天草でも取引をする者が多くいた。これが密貿易。当時の言葉で言えば『抜け荷』ということになる。
 亨保二年(一七一七)に﨑津とともに増設されたものがここで登場、牛深遠見番所です。
 﨑津、牛深は抜け荷対策目的での設置が主のようである。牛深で狼煙を上げる必要性が薄かったのはこの為だろう。
 寛保二(一七四二)年、寛政二(一七九〇)年と貿易半減令が出される。貿易額の制限に平行して幕府による貿易統制に力が増す。
 江戸幕府は長崎貿易の秩序を守らせる目的のため抜け荷の取り締まりを厳しくする必要があった。
 天草でこの抜け荷監視目的での最重要拠点が寛政十一(一七九九)年設置『牛深御番所』だったのだ。
 それからの日本は安政五(一八五八)年欧米列強の圧力により安政五カ国条約が結ばれる。ここで日本の鎖国が完全に終わった。関税自主権がないなどのこの不平等条約を結んだことにより公武(朝廷と幕府)間の緊張がいっきに高まり、安政の大獄や桜田門外の変などの事件に発展する。
 そしてそれが大政奉還、王政復古の大号令に続き明治維新になるのです。日本の国家事業と言える遠見番所と牛深御番所はその明治維新により役目を終えた。






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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年05月17日

おおとり絵図 ㊵

『牛深御番所絵図 其の四十』クリックにて拡大


 遠見番所から南方向を眺望する視界は天草灘である。その向うは茫漠として果てしなく島礁のないままに水平線が開けている。

 ここから天草灘を東北方角へ辿ると下須島の沖合いに到り、唐船は一拠に沿岸に接近することもなく幾度となくこの間を、行ったり来たりする船影がみられ、抜荷(密貿易)取締りの任務など御番所の役割を見極めたに違いない。この遠見番所からの展望は他に比類すべきものもないくらい視界にあったと思われる。

 御番所の大龍丸、小龍丸はこの海域へ出張って唐船を確保し、或いは唐船の行き先を確認する機会を常に目論んでいたであろうと思われる。

 さらに東北方角へ辿ると薩摩長島の西部沿岸に接近し、ここから北西へ向うと下須島と戸島の間に到り、牛深港へ入る場合の唐船の航路となっている海域である。

 この海域を戻り長島西部を通り沿岸を辿ると八幡の瀬戸(黒の瀬戸)の沖合に達する。

 さらに阿久根沿岸間近に到ると、薩摩半島の西部沿岸は遠見番所、火立番所、津口番所などが連珠のように連なり、これらの番所は連係しながら漂着唐船の監視を行っていた。また甑島の平港は薩摩藩庁への物資輸送の船舶が頻繁に往来する海峡であった。

 鎖国以来東支那海、天草灘に押し寄せた唐船は薩摩半島へ漂着し、島々には実に夥しい唐物(からもの)物資が集荷する状況となり、異国船唐船の監視、措置に止まらず、国内船の『番所改め』により、切支丹、一向宗徒の潜入取締まり幕府禁制品の入境阻止を目的に藩則に基づく取締まりを行ったものである。

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こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!
ここからhirok(^^♪です。

牛深の歴史は薩摩との関係がとても大事だったと何度も書いてきた。

今回絵図最終回。次回まとめ?感想?で第二章というかこのブログは当初の目的をやり遂げたことになると思います。
みなさんはどのような感想になられましたでしょうか?

次回最終回更新は少しお時間をいただきます。





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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年05月16日

遠見御番所設立の理由 ㊴

『牛深御番所絵図 其の三十九』クリックにて拡大


 牛深遠見御番所の初めの頃は襲来同然にやって来る異国船の発見であり、防衛警固のため長崎奉行所へ注進する目的で烽火伝達、村継ぎ注進飛脚を整備することにあった。

 御番所は寛政十一年四月一日に発足したが、この頃烽火台による注進伝達を行った景跡はなく、また烽火台そのものを自ら構築したこともない。
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只今掲載見合わせ中・・・

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迅速であるべき遠見番の注進書簡はどのように伝達したか。

 御番所の発足前から再三富岡へ訪れた遠見番原才右ヱ門、支配勘定坂本伝之助は代官所及び天草郡方米藏(こめぐら)役所の当番大庄屋などとの打合せに奔走している。全ては代官所が情報を統括したと思われるが、富岡代官所と牛深御番所は公料地(天領)としての役割を共有しながら、米藏の大庄屋との打合せも郡内大庄屋への村継ぎ、注進飛脚の段取りも整備できたと思われる。

 島原藩二ヶ月の駐屯は、これらの手配のため幸いした筈である。

 この時期天草は日田郡代の兼帯領地で代官羽倉権九郎は俵物糺方として回浦を行っている。

 鎖国以来長崎港は積戻船(つみもどしふね)が未曾有の増加になり、天草灘は唐船の往来が頻発し、唐船は自国に帰らず、天草の浦々に漂来するようになった。

 長崎奉行石見守(いわみのかみ)は寛政十年九月のこの時期に牛深見分の折り富岡代官所に投宿している。これらの段取りは遠見番原才右ヱ門、支配勘定坂本伝之助の打合せ通りであったと思われる。

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こちらの絵は以前⑭の中番所で登場しているものと少しだけ違います。中番所の増築前を描かれている。終盤になる今回は遠見番所の設立意味、御番所の設立意味の説明で使われている。

このブログを描くに当たって、私も長い間ずっとなぜ御番所が牛深にできたのか?という疑問に対する答えを何度も考えた。これをはっきり示す有力な文献は今のところ見つかっていない。遠見番所については当初異国船監視のためで間違いないと私も思う。表向き御番所も同じ理由だと思われている。

ただ果たしてそうだろうか?御番所設立の目的は裏の目的があったのではないか?遠見番所で十分対応できるのに天草では牛深にのみ御番所が作られた意味。これを考えるのが歴史ロマンでありおもしろいのです。

仮説を立て後にそれを証明するものが出るとそれが正しい歴史になる。これの繰り返し。

お話をお伺いしている郷土史家の方は御番所設立直前から当初、長崎遠見番が何度も天草を訪れている事に着目し、郡内大庄屋への村継ぎ、注進飛脚の段取りの整備をしたと考えられた。

ふむ。なるほど。

藏役所が村継ぎのその役割を担ったことは今の天草の歴史では正史になっている。それを計画し整備したのは遠見番役人だった。これは面白い。信じるに足りる証明材料はあるとのこと。

もちろん私なりの仮説もあります。ですが証明するものが今のところ全くありませんし、話が大きくなりすぎますので、話半分読んでいただけるかんじで十分です。
その仮説は最後の回で感想含め記載いたします。

ふえぇー長くておそらく読んでくれる方放置で駆け抜けましたwそれにも私事ではございますが理由があり時には涙wしながら歯を食いしばりwながらパソコンカタカタしました。

次回絵図は最終。郷土史家の方の想いと私の想い受け取って!牛深の方達。






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2015年05月15日

牛深御番所長手船藏図 ㊳

『牛深御番所絵図 其の三十八』クリックにて拡大


 この場所は通天橋への取付道路で、現在長手公園になっている所である。

 船藏は他の施設とは異り平面図がないので長崎資料に調べている施設を推考できる範囲のものを描いてみることにした。

 この場所は元々牛深漁協の所有地、それ以前は深川鰹節加工場があった所である。

 牛深御番所は最初に船藏も設置した。時化の時などに上架場に船舶を引揚げ、又は台風時に船舶を船蔵へ格納した。

 普段は修理、補修、上架など船舶廻りのことは船番組が一切をまかなっていた。

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場所については以前長手の絵図がありましたので絵図②を御覧ください。こちら
ラストまでもう少しです。





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2015年05月14日

遠見番御役人の仕事ぶり ㊲

『牛深御番所絵図 其の三十七』クリックにて拡大


 (『※※※※文献名』(10の6)遠見番上司へ上申書控)
どの文献かは今は非公開

『牛深の儀は薩州之渡り口而薩州、長崎ハ僅三里相隔居申候、此処は至而宜敷湊故、薩州往返之船は番、牛深乗入申候間、廻船無絶間数多繋り居申候、別而不正之荷物或は抜俵物、積戻船も皆此浦相集り申候、殊船と船より荷物仕替候事も有之、又は此浦而日和見合せ薩州地乗込或は下之関之様致渡海候船も有之候故、殊之外繁昌之浦而御座候(以下省略)』


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古文書の文章を全文現代語訳
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こちらの部分
只今掲載見合わせ中・・・

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ちょっと意味がわかりづらいとは思いますが、もっと簡単に書きます。
牛深は鹿児島への入り口であってしかも長崎へも近く長崎ー鹿児島間往復の場合立ち寄る湊として良港ばい。
俵物の抜荷もここで違う船に移し替えたりしてますし、それよりも普通の船もここでたくさん荷替えをしてまーす。鹿児島に行くとき又は下関のように海を渡る船も、天候などの風待ちもしていて、とても賑わっているでござるでござる。

なーんて(^o^)笑。おふざけが過ぎてますがもちろん上司に報告してる文章なのでわかってるとは思いますが丁寧語ですよw怒らないで(*_*;

牛深の御番所で実存するこの文章を書いたという風景が上の絵図ですね。
実際の牛深の賑わいがわかる古文書ということですね。すげーm(__)m







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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年05月13日

阿蘭陀船ご一行お・も・て・な・し ㊱

『牛深御番所絵図 其の三十六』クリックにて拡大


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 │         │月十八日 長崎蒸気船
 │ 破損      │
 │ 滅失      │役々方ハ勿論、其外
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           阿蘭陀乗組御船揚宿ハ

           役座并ニ松屋阿蘭陀宿ハ㋯

           メ三軒一御泊り翌十九日

           御出帆右諸雑費左之通り

           弐貫四拾四匁八歩此舸子

           割壱人付五拾五匁三歩づつ

           四貫四匁七歩当口請ーーーーーーーーー
           │                 │
           │ 破損              │
           │ 滅失              │
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 上の文章は「宮崎郷永代萬覚帳」で年号不詳のもの、一部破損滅失のため、文意確定ならず絵のみ描いてみた。

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上記古文書からオランダ船が牛深に来て、その乗組員をもてなすことが牛深での公務として行われたということだろう。乗組員は役座(庄屋)と松屋に泊まり、阿蘭陀人は㋯(マルミ)という料亭に泊まった。そこではハイヤ節も踊られていただろうというのが絵にも描かれている。時代は蒸気船ということは幕末に近いと思われます。もっとわかりやすく言うと勝海舟が蒸気船で天草をぐるっと周ってる頃ですよ。

古文書のお金の勘定はおそらくその公務にこれだけお金がかかり、それを元に代官所か奉行に請求をしたものではないのかなと思う。確かにこういう歴史が在ったという証拠。

ほんとワクワクします。





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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年05月12日

長崎の御番所 ㉟

『牛深御番所絵図 其の三十五』クリックにて拡大


 長崎資料「諸官公営絵図」により、長崎港内警固に当ったそれぞれの番所写真に収め、その写真をもとに模写して、再度写真に撮ったものをここに紹介することとした。

 福岡黒田藩の西泊番所、佐賀の鍋島藩の戸町番所が長崎港口に対峙して、長崎港内を守備する形になっている絵図である。

 両番所は沖の両番所と呼ばれ、双方合わせて千人の藩士が詰めて千人番所とも呼ばれていた。

 長崎奉行所は立山役所と西役所の二つになって、立山役所は唐船を始め、諸外国オランダ、イギリス、ポルトガル、ロシア等々の来航船を警固した。

 西役所は唐船をはじめ対外交易を所轄し、長崎会所の運営を掌握する役割があった。

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寛永18年(1641)幕府は筑前藩(藩主黒田氏)に長崎港警備を命じ、さらに寛永19年(1642)佐嘉藩(藩主鍋島氏)に対しても、筑前藩と隔年交代で長崎港の警備に当たることを命じた。これにより長崎港口を押さえる西泊と戸町に番所が設けられた。 千人番所の内訳は中老以下物頭その他侍25人、足軽160人、水主320人等両番所合わせて1,000人ということである。

長崎港の警固にこれだけ人員の配置をしたということでどれほど重要視していたのかはわかる。
もちろん絵でもわかるように遠見番所だけでなく牛深と同じ御番所も設けられている。

牛深と同じく御番所の建物などはもちろん残っていないが、当時の石垣や石垣、御番所境内と掘られた石柱が残っておりもちろん県、市の文化財指定されていて説明板や石碑など整備されている。牛深にも当時の石垣などは残っているが御番所があった場所の文化財指定または御番所説明板などは設置されていない。
御番所があった場所の現在を瀬崎側から撮影。

Aコープの建物がそのまま御番所、階段状になっている凹みに御用船が繋がれていた。


ちなみに郷土史家の方の絵の元になっている「長崎名勝図絵」の執筆は文化、文政年間(1804-1829)だと思われるが、昭和になり「長崎名勝図絵」として現代仮名遣いに詳訳されたものがある。これを研究執筆されたのが丹羽漢吉先生で、ここまで読んでくださってる方はピンと来てると思いますが、もちろん牛深遠見番役人のご子孫の方ということになる。








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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年05月11日

伊能忠敬実測 ㉞

『牛深御番所絵図 其の三十四』クリックにて拡大


 幕府測量方は薩摩を二班に別れ測量を重ね文化七年九月三日に深海村下平に到着した。

 伊能忠敬の先触れの文書は、これより先に早くから富岡代官所に届いていて、深海村庄屋橋口嘉左ヱ門は
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こちらの部分
只今掲載見合わせ中・・・

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 この時の測量の様子を、イメージで絵図に表してみた。「日本沿海測量地図」は文政4年(1821年)に完成している。

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これも有名な伊能忠敬の絵図ですね。

日本沿海測量地図と表記してありますが、当時正式なこの地図の名前は「日本地図」となっていたため、後に呼びやすい名前が付けられたということです。教科書では上記または「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」が多いと思います。もっとわかりやすく伊能図とよばれる事もあります。

実はこの地図が日本で最初の日本地図だと思われがちだが江戸幕府は計6回日本地図を製作している。4回までは各藩に提出させた地図を組み合わせていたため、あまり正確ではなかった。伊能図が江戸最後の地図でとても正確だったため評価が高く語り継がれている。

まるごと天草本から抜粋転載します。
測量隊は薩摩から大多尾に上陸。そこから南下して牛深に回り西海岸を北上して富岡へ、さらに東に向かい本渡に、次いで上島、大矢野、最後は御所浦を測量したとのこと。
抜粋ここまで。

伊能地図牛深を載せておきます。



天草を含め九州の測量は伊能忠敬代七次測量だったが、ここで薩摩の情報を少し書いておきます。
第七時測量で種子島、屋久島の測量をおこなう予定であったが、天候が悪かったため後回しになり天草へ渡った。伊能は元々種子島、屋久島への渡航は難しいということを知っており無理して渡らなくても良いと考えていたので、天草が終わった後、断念を決めた。
だが結果的には幕府の方針で、次回代八次測量での計画に両島への渡航は組み込まれた。両島を測ろうとした理由は定かではないが、伊能に全国の測量をさせると共に、当時閉鎖的だった薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいていたのではないかと推測されている。

天草の方にはこのことまで覚えておいていただきたい。理由は一番最後の回で書きます。






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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章