2021年05月03日

女性天皇について学びたい(第八回)最終回

前回までに我が国における女性天皇(女帝)10代8人の即位経緯を学んだので、今回まとめ考察を行う。

まず書いておかなければならないのは、現代の我が国の議会制民主主義または現行憲法下での天皇は、学んできた女性天皇たちの取り巻く環境とは全く異なるものであるという事である。

現在の憲法第4条で規定してあるように、現在の天皇は政治的権能を有しないとある。ゆえに国政に関わるものに、現在の上皇陛下はじめ皇族の方々は十分に考慮され発言されない。それは憲法を公布する側がそれを守らなければ公布される国民は誰も守らなくなるからだ。
この点を先に記述し過去の女性天皇についてまとめる。

初代女性天皇、推古天皇
欽明天皇の子であり男系女子で敏達天皇の皇后。
権力者蘇我馬子の意思。
摂政は用明天皇の男子、厩戸皇子(聖徳太子)で推古天皇より先に薨去。
推古天皇は崩御されるまで天皇。次天皇は推古天皇と敏達天皇の男子の男子(孫)。
中継ぎの形で即位しているがまだ譲位という前例が無いので譲位をしていない。このことと摂政がいることにより推古天皇は政治的権能を有していない。

2代女性天皇、皇極天皇
舒明天皇の異母兄弟の子であり男系女子で舒明天皇の皇后。
舒明天皇と皇極天皇の子である中大兄皇子が幼少だった事と、権力者蘇我氏への配慮のため中継ぎで即位。
摂政は中大兄皇子。
ここで初めての譲位。皇極天皇の弟が即位。譲位する時期を自分たちで決めることにより天皇と摂政は時期天皇の希望を通せるようになった。以降政治的権能を有してると言える。

3代女性天皇、斉明天皇
皇極天皇と同一人物なので男系女子。重祚。
次期中大兄皇子はまだ政治の実務を行いたかったのと外国情勢により即位せず、再度中継ぎで皇極天皇が即位し斉明天皇となった。
崩御されるまで天皇。後、中大兄皇子が即位。中継ぎであった。

4代女性天皇、持統天皇
天智天皇の子であり男系女子。天武天皇の皇后。
天武天皇と持統天皇の間に皇子がいて病弱だったため代行の形で即位し、その皇子がなくなるとそのまた子(孫)が育つのを待ち譲位した。中継ぎであった。

5代女性天皇、元明天皇
天智天皇の子であり男系女子。草壁皇子(天皇格)の妃(皇后格)。
先代の皇子が幼少であるため中継ぎ。権力者藤原氏の意思。中継ぎであった。

6代女性天皇、元正天皇
草壁皇子(天皇格)と元明天皇の子であるので男系女子。独身、子供なし。
権力者藤原氏の意思。
元正天皇は譲位し文武天皇と藤原宮子の子である首皇子が即位。中継ぎであった。

7代女性天皇、孝謙天皇 初の女性皇太子。
聖武天皇の子であるので男系女子。独身、子供なし。
孝謙天皇は譲位し舎人親王の皇子である大炊王が即位。中継ぎであった。

8代女性天皇、称徳天皇
孝謙天皇と同一人物なので男系女子。重祚。独身、子供なし。
称徳天皇に子供がいなかったことによる政権争いに巻き込まれ先帝を廃位し再び即位。
崩御されるまで天皇。後、白壁王が即位。天武系から天智系へ皇位が移った。近親に男系男子がいなかったことで、後継者が見つかるまでの中継ぎだったとも言える。

9代女性天皇、明正天皇
後水尾天皇の子であるので男系女子。母は徳川和子。約900年ぶりの女性天皇。
権力者徳川幕府の意思。後水尾天皇の院政。
明正天皇は譲位し、異母弟が即位。中継ぎであった。

10代女性天皇、後櫻町天皇
櫻町天皇の子であるので男系女子。皇子が5歳であったため中継ぎで即位。
明和7(1771)年後桃園天皇に譲位。
我が国における最後の女性天皇である。

上記以外の例は無いのでこれより、現代において女性天皇の実現について考えてみる。
女系についての議論は第一回に書いたように母親辿ってもどこの天皇にも行きつかないので天皇において女系という言葉自体が存在するはずがないので女系議論は終了。

次に先例から見る女性天皇になった条件。
男系女子。父親または祖父が天皇。一見すると男系女子であれば皇位継承できるように思える。愛子さまが天皇になってもおかしくはないと。

しかしそれに次の条件が加わる。皇后または皇太子妃以外が即位した場合は皇太子になった後結婚せず、さらに子供もいない。逆を言えば結婚させてもらえず、子供も作ってはならないという事だ。これは女性天皇の結婚相手が皇族以外であれば王朝交代が行われてしまうためである。同じ理由で女性宮家の創設も無理。そして次の天皇が幼少などの理由により中継ぎで即位し、加えて後継者が育つと主に譲位している。これにより譲位と言う概念が生まれた。

ここで愛子さまが天皇になる為の条件を考えてみる。
1、天皇または皇太子と結婚をするという案。ぎりぎり悠仁親王と結婚する可能性が0ではないのでこれだったら可能性はあるっていえばある。
2、天皇または皇太子と結婚をしない場合、結婚もできなければ子供も作ってはならない。これを強要するのは現代では民意が得られるわけがない。完全に無理なので可能性は0。

さらに1または2をクリアしたとしても次の天皇が幼少などの理由がなければならない。次の天皇は秋篠宮皇嗣殿下であり幼少ではない。その次の悠仁親王は現在14歳になられ、愛子さまの19歳と5歳の差しかない。現時点では中継ぎ要件も難しいように思える。
しかし将来、悠仁親王に皇子が生まれ、さらに悠仁親王が薨去された場合を考えると中継ぎ要件を満たしているようには思える。この場合ももれなく天皇または皇太子と結婚しているか、それが出来ない場合は結婚もしていなければ子供もいないという条件が付けられる。

この中継ぎ要件を満たし愛子女性天皇が即位たとしよう。しかし今度は譲位の問題が出てくる。譲位をすることで後継者の指名をすることになり政治的権力の行使に当たる問題が起きる。譲位ができないでその崩御されるまで時間が過ぎると、その時には男系男子が全くいなくなっていて手遅れになる可能性も想定しないといけない。

そしてさらに考えないといけないのは、これだけ難しい条件をクリアして愛子さまが女性天皇になっても皇室の後継者不足の問題は何も変わらないのである。

これが現時点で考えられる愛子さま女性天皇擁立論となる。

皇位継承についてはっきりと明文化されたのは明治の旧皇室典範からである。
もちろんその時も女性天皇についてはかなりの時間かけて議論されている。
帝国憲法や教育勅語を作った我が熊本の大天才である井上毅は帝国憲法を作る際に古事記や日本書紀をはじめありとあらゆる国史を読みこみ日本とはどういう国であるのか答えを出した。

その井上毅は明治18年女性も皇位継承できるという「皇室規制」という法案に対し、女性は皇位を継承できないとする旨の「謹具意見」を伊藤博文に提出。これが受け入れられ、現在まで続いているということを記録しておく。


女性天皇とは直接は関係ないが、後継者不足問題をどうするのがいいのか私も意見を言う必要があると思うので書いておく。
これまでも皇統断絶の危機は何度もあったがそのたびに乗り越えてきた。
特に皇位継承に関しては過去2000年の人達の意見でそうしてきた歴史があり、初代神武天皇より続いてきた男系継承を現代を生きる私たちの意見だけで変更しては絶対ならない。なのでまず何と言ってもその過去の事例に習うのが一番いいと思う。

ただし、私は現在悠仁親王殿下がいらっしゃるので、悠仁親王に皇子が恵まれなかったときまで対応を先延ばしにしていいと思う。
悠仁親王にたくさんの皇子生まれる可能性とかもあるしさ。

しかしそれでは無責任だって思われてしまうかもしれないので、最後に過去の事例に習う案を2つ出して今回の結論とする。

1つは、GHQに取り潰された旧宮家の復帰。これって前例がないように思えるけど、一旦臣籍降下した後、皇籍に復帰した例は4つある。
また皇族ではない者(天皇の子孫でも皇族ではない者もいた)でも男系の血の近いものを親王宣下して皇族になった事例もある。
この案でも民意が得られないかな?過去にあった事例なんやけど難しいようなら次2つ目。

現在の宮家で相続者のいない、または不在となってしまう宮家に、男系男子で継承されている旧宮家から適任者を養子に迎え親王宣下する。この事例も多数ある。この養子は男子一人でも良ければ、男系継承していてすでに結婚している夫婦でも良い。その養子に皇位継承がダメでも将来、その養子から男子が生まれたら、その男子に皇位継承権を認めるならどうだろう。

どちらにしろ皇室典範は改正しないといけないが、一度限りの特例法でも良い。
図で書くとこうなる。これしかないように思えるが、何度も言うがそれは悠仁親王に男子が生まれなかった場合への予備案である。

  

Posted by hirok○ at 14:30Comments(0)女性天皇

2021年05月02日

女性天皇について学びたい(第七回)

前回までは6~8世紀の間に集中して起きた女性天皇だった。
これからは17~18世紀とだいぶ間が空いての女性天皇、残す2例である。

第109代明正天皇が女性天皇であるのでその先代の第108代後水尾(ごみずのお)天皇から。

時代は江戸幕府徳川の時代。
第108代後水尾(ごみずのお)天皇
父親後陽成天皇
母親近衛前子

後陽成天皇の第三皇子であるので男系男子。

慶長16(1611)年後陽成天皇譲位、践祚し後水尾天皇が即位。

元和6(1620)年幕府の強い圧力により将軍徳川秀忠の娘である源和子を皇后として迎え入れた。
徳川家が天皇の外戚となることは家康の一つの夢だった。

後水尾天皇は皇后含め7名の女性との間に19皇子と17皇女の子宝に恵まれた。これより109代~112代天皇まではいずれも後水尾天皇の皇子女であり、その間51年の長きに渡って太上天皇となり院政を行った。

寛永4(1627)年、高位高徳の僧に着用が許される紫色の法衣を朝廷が勅許することが一つの収入減であったのだが、それを幕府の許可なく授けてはいけないと幕府は規定。しかしその後も後水尾天皇は慣例通り幕府の許可なく勅許を与えていたのを知った幕府はその勅許を取り消し紫衣を取り上げた。

これに朝廷は強く反発し、激怒した後水尾天皇は寛永6(1629)年に譲位を決行し、幼少の興子(おきこ)内親王を践祚させた。幕府に対して大きく不快感を表した。譲位当日公家たちも参内することを命じられるも譲位の事を知らされておらず、武家伝奏一人だけで摂家にすら知らされていなかった。極めて異例なことであった。幕府の意向を無視して行った譲位は幕府への抵抗を示す目的だった。



第109代明正(めいしょう)天皇
父親 後水尾天皇
母親 徳川和子

男系女子。称徳天皇以来約900年ぶりの女帝である。
在位当時の将軍徳川家光の姪にあたり、徳川家綱の母方の従姉。
生母は徳川和子であり徳川将軍待望の天皇になった。しかし和子が生んだ二人の皇子若くしてすでに亡くなっていたため、その後続くことはなかった。
即位したとき明正天皇はまだ5歳で天皇としての責任を果たせるはずもなく、実際は後水尾上皇の強い影響力の元、摂家らの責任の下政治が進められた。

後水尾天皇は寛永20(1643)年、明正天皇の異母弟に譲位させ後光明天皇が践祚した。

第110代後光明天皇
父親 後水尾天皇
母親 園光子(壬生院)
男系男子。

再び徳川の血をひかない天皇となり、ここに後水尾上皇の意地を垣間見ることができる。その後江戸時代を通して徳川氏の血をひく天皇は存在しない。

そして次の女性天皇は第117代後櫻町(ごさくらまち)天皇になるので第116代桃園天皇から。

第116代桃園天皇
父親 桜町天皇
母親 藤原定子
男系男子。
延享4年(1747年)、父桜町天皇の譲りを受けて即位。

宝暦12年(1762年)、22歳で崩御。 異母妹智子(としこ)が桃園天皇遺詔を受けて践祚した。



第117代後櫻町(ごさくらまち)天皇
父親 桜町天皇
母親 藤原舎子(皇太后)
男系女子。
桃園天皇崩御後、23歳で即位。我が国における最後の女性天皇である。
これは桃園天皇の皇子である英仁親王がまだ5歳であったのでその成長までの中継ぎであった。
明和7(1771)年譲位し、英仁親王が即位し第118代後桃園天皇となった。これ以降現代まで女性天皇はいない。

第118代後桃園天皇
父親 桃園天皇
母親 藤原富子
男系男子。

我が国における女性天皇(女帝)は10代8人これで以上である。
次回はまとめ感想、考察を行う予定。おそらく次回が最終回となります。  

Posted by hirok○ at 08:20Comments(0)女性天皇

2021年05月01日

女性天皇について学びたい(第六回)

第45代聖武(しょうむ)天皇

父親文武天皇
母親藤原宮子

文武天皇の子であるので、男系男子。
妃は藤原不比等の娘である光明子。

奈良時代の政権を順にまとめると、藤原不比等、長屋王、藤原四子(不比等の四人の子)、橘諸兄(たちばなのもろえ)、藤原仲麻呂、弓削道鏡、藤原百川である。藤原氏とそれ以外の氏が交互に続く。そして次の平安時代になると摂関政治の幕開け藤原氏が最盛期を迎えることとなる。

聖武天皇即位後、長屋王(天武天皇の孫)は左大臣となるが、聖武天皇(首皇子)が即位したことで、長屋王が天皇になる資格は持って居ても実現には遠いものとなった。系図参照。


長屋王と藤原氏との対立は自然な流れであった。聖武天皇の即位時に皇后と書かず妃と上記したのには理由があり、光明子の立后に長屋王は反対し対立が激化した。
藤原氏は神別氏族であり皇別氏族ではなかったので皇后を出す事の出来ない家格であったとある。前例がないため自身が皇族である長屋王が反対するのも当たり前ではある。

ここで光明子について整理する。
光明子は藤原不比等の娘で安宿媛(あすかべひめ)と言う。その母は不比等の後妻で県犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)と言う。橘三千代ははじめ美努王(みめおう)に嫁いで葛城王を生んだが、後に不比等の後妻となり安宿媛を生んだ。
美努王は敏達天皇の後裔とされている。葛城王は左大臣となり母方の姓を名乗り橘諸兄となる。その異父妹が光明子である。

神亀4(727)年聖武天皇と光明子の間に皇子が生まれ基王(もといおう)と名付けられた。そして誕生よりわずか33日で基王を皇太子とした。しかし皇太子は生後1年で落命。聖武天皇は大変悲しんだ。
長屋王が呪い殺したという噂がたち、官吏が密告(真実はわからない)を行い長屋王は謀反の嫌疑をかけられた。藤原四子の一人らが長屋王を邸宅を包囲し、弁解の余地も与えられぬまま長屋王は妻子共に自害した。長屋王の変という。
そして藤原氏に政権が集まり光明子は皇后となった。

このことにより藤原氏の権力は皇別氏族から皇后を立てるという皇室の伝統を曲げるほど強力なものだったという事が分かる。

皇太子の基王が没した後、皇太子に立てられたのは安倍皇女(あべのひめみこ)聖武天皇と光明子の娘だった。
女性が皇太子になるのは後にも先にも例がない。

聖武天皇には二番目の皇子の安積(あさか)親王がいたため、安倍皇女を中継ぎとし次に安積親王に継承させるつもりだったと思われる。
ところが安積親王までも若くしてこの世を去り、聖武天皇の皇子は一人もいなくなってしまった。

しかも聖武天皇の父である文武天皇にも他に皇子はなく、それは草壁皇子系統の断絶を意味した。そうなると四代前天武天皇まで遡り擁立するほかなかった。

政権の混乱期で、権力闘争と反乱が繰り返され、疫病や凶作が重なった。凶事が起きるたびに聖武天皇は一身に責任を感じ、仏教の力を借りて難局を乗りきろうとしたと伝えられる。東大寺を立て大仏の建立を命じた。

天平勝宝元(749)年に聖武天皇は天皇として初めて出家し譲位を行った。皇位を受け継いだのは皇太子であった安倍内親王。七代六人目となる女性天皇の誕生であった。


第46代孝謙(こうけん)天皇
父親 聖武天皇
母親 光明皇后

男系女子。独身。子供なし。

聖武天皇の命により建立された東大寺の大仏は孝謙天皇御代に完成し開眼式を行った。天皇が出家して仏に仕える身となり、仏の偉大さが広まるようになり以降、神仏習合が加速していった。

天平勝宝八(756)年聖武天皇崩御されるに際し、中務卿道祖王(なかつかさきょうふなどおう)を指定され皇太子に立てられた。これには橘諸兄の後援があったと思われている。道祖王の父は新田部親王で、そのまた父は天武天皇なので男系男子。
しかし、翌年諸兄が亡くなるとすぐ道祖王は行動が皇太子にふさわしくないとして皇太子を廃された。

次に孝謙天皇は舎人(とねり)親王の皇子である大炊王(おおいおう)を皇太子とした。

天平宝時2(758)年孝謙天皇は2年で譲位し上皇となり、大炊王が即位。第47代淳仁天皇が誕生した。

第47代淳仁(じゅんにん)天皇
父親 舎人親王
母親 当麻山背
舎人親王の父は天武天皇であるので男系男子。天武天皇の孫。
淳仁天皇は続日本記においては廃帝とある。それは次のとおりである。

淳仁天皇は藤原仲麻呂(不比等の孫)ともとより親密で、仲麻呂の子の未亡人を淳仁天皇の妃とし淳仁天皇と仲麻呂は共に住んでいた。
淳仁天皇の治世で仲麻呂は大出世し政治を自由に操った。

天平宝時5(761)年孝謙上皇は病気を治してくれた弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という僧侶と親密になると、次第に淳仁天皇と仲麻呂の政治と対立し始める。

仲麻呂が天皇を介して上皇をいさめたことにより上皇は激怒し出家する。さらに対立が深まった。

仲麻呂は新天皇擁立の謀反を企み戦争の準備を始めたが、上皇に察知され討伐の兵が向けられ一族は殺害された。これを恵美押勝(えみおしかつ)の乱という。

淳仁天皇は廃位して捕らえられ、淡路へ流された。廃位されたため太上天皇(上皇)の号を送られることはなく淡路廃帝と称され、明治の御代で淳仁とおくり名された。

天平宝時8(764)年孝謙上皇自ら復位して再び天皇となった。



第48代称徳(しょうとく)天皇
(孝謙天皇に同じ)
父親 聖武天皇
母親 光明皇后

男系女子。独身。子供なし。
八代目の女帝、皇極天皇が重祚して以来、109年ぶりの重祚となった。また上皇が天皇を廃位するのも初めての事だった。

称徳天皇が再び即位したことで、政治的立場を強めたのは道鏡であった。
天皇は道鏡を天平神護元(765)年に太政大臣禅師とし天平神護2(766)年には法王とした。女帝と法王の共治体制となると、道鏡は自らが天皇になる野望を抱くようになった。

大分県の宇佐八幡宮の神職らと道鏡の弟らが共謀し神託として「道鏡を天皇へ」という奏上をしたことにより、宇佐八幡宮神託事件が起こる。天皇はこれに関与したものは捕らえさせ流罪に、また道教には皇位を継がせない旨の詔を発した。

皇族ではない者が天皇になろうとまでしたのは、やはり称徳天皇に子供がいないことで、それはさらに天武系の子孫がいなかったという事が明白だった。その為称徳天皇が子供を作ると男系継承が崩れると考え、即位後は結婚もせず子供も作らなかった。もしくは子供を作れない年齢だったから即位できたとも考えられる。

神護景雲4(770)年称徳天皇は病床で白壁王を皇位継承に指名し52歳で崩御された。

白壁王はその年62歳という高齢で天皇に即位し光仁天皇となった。

第49代光仁(こうにん)天皇
父親 志貴皇子(しきのみこ)
母親 紀橡姫(きのとちひめ)

志貴皇子の父は天智天皇なので男系男子。
ここで系図を出す。

第48代称徳天皇は独身であり子供もいなかったので、天武系から天智系へ皇位が移った。

光仁天皇(白壁王)は天智天皇の孫でありながら、天武系の聖武天皇の娘、孝謙天皇の異母姉である井上内親王を妻とし、間に他戸親王を儲けていた。
白壁王と井上内親王の両系統の繋がりがあったため、この皇位継承が実現できたと思われる。

先祖を同じくする二つの系統が争うことなく、しかも断絶の危機にあった皇統の皇位継承を成し遂げた。

6~8世紀における10代8人の女性天皇は以上だ。
ここまでの感想は、政権を掌握したい皇族が権力闘争を行ったため、また同じように蘇我氏や藤原氏といった有力豪族の娘が皇室に入りその氏族が権力闘争を行ったため、次期天皇の流れを決めるために女性天皇で中継ぎするケースが、推古天皇、斉明天皇、称徳天皇。

天皇が若くして崩御。継がせたい親王が幼いために皇后が代理で繋ぐケース、皇極天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇。

特筆すること。
孝謙天皇(称徳天皇)以外の女性天皇は元々皇后であり、後継者にはその皇后と天皇の子、またはその孫にしたいという権力者の意思により即位している。
女性で皇太子となったのは一人孝謙天皇。これも権力者の意向で次の天皇の流れを決めるため後継者を繋ぐ目的で皇太子になった。その為、女性天皇になってから結婚をしておらず、子供もいない。

これらからわかることは皇位継承のため内乱が起こりやすく、女性天皇が即位することでそれをできるだけ避け、後継ぎを指名し譲位をするようになり皇太子の制度が出来ていった。皇位継承順位と言う制度はまだない。途絶えてもおかしくない時代に皇統を守ったこの女性天皇たちの存在は大きいと感じた。

そしてもれなくこの女性天皇になる条件であるのは男系女子(父親先祖を遡ると神武天皇)であった。

女性天皇の残る2例は17~18世紀だ。つづく。  

Posted by hirok○ at 10:40Comments(0)女性天皇