2020年08月07日

明治を学ぶ14

明治6年の政変で下野した西郷隆盛は故郷薩摩(鹿児島)へ戻った。
同じく東京にいた薩摩士族も薩摩(鹿児島)へ。

明治7年、西郷隆盛「私学校」設立。本校分校合わせて12有り県内すべての郷内に設立。生徒数約2000人。
銃や大砲の打ち方を教える軍事訓練がメインで士官養成学校だった。

西郷が作ったこの学校の綱領が残っている。
「一、道を同じうし、義相協(かな)うを以って暗に集合せり。故にこの理(ことわり)を益々研究して、道義においては一身を顧みず、必ず踏み行うべきこと。
1、王(天皇)を尊び、民を憐れむは学問の本旨。しからばこの天理を極め、人民の義務にのぞみては、一向(ひたすら)難に当たり一同の義を相立つべきこと。」

この教育理念に西郷さんの考え方が集約されていると思う。この言葉を純粋にとらえるか、またここから深読みをして鹿児島に新しい政治組織を作ろうとしているのか解釈によってまた違うものとなる。この学校の生徒たちが政治集団化していく。

鹿児島の「正副区長」「県庁の役人」「警察官」など私学校の生徒で独占された。新政府の言うことを聞かないで独立国のような振る舞いをしていた。もちろん新政府が警戒しないわけがない。

明治10年1月政府木戸孝允(長州)が火薬什器の製作所を鹿児島に置いておくのは危険。大阪へ移すべしと言ったことにより薩摩士族が激怒。
私学校生徒約20名が火薬庫を襲撃

火薬庫襲撃事件を聞いた西郷は「ちょしもた」と叫んで急いで私学校へ戻ります。これで反政府なのがばれたとでも思ってしまったのでしょうか。

明治10年2月3日、明治政府の密偵20余名が私学校の生徒に捕らえられる。
持っていた電信文書に「ボウズヲシサツセヨ」と書いてあった。シサツとは視察か刺殺かはわからないが西郷側はこれを政府が西郷を暗殺しようとしていると解釈。挙兵する正当な理由になった。

明治10年2月14日、西郷軍鹿児島を出発。このときの大義名分は「明治政府に西郷暗殺計画の次第を問いただすために東京へ行く」事だった。西郷自身は私学校の生徒たちの暴発を止めれず行動を共にすることになった。

一方政府側、大久保利通は2月16日「西郷の心を知るものは自分以外にはいない。西郷と会って説得すれば私学校生徒を抑えられるだろう」と言って会いに行こうとしたが伊藤博文らが反対。

明治10年2月19日、鹿児島県暴徒征討発令。ここで西郷軍は正式に政府軍の敵賊軍となった。ここからが西南戦争と呼ばれる。

西郷軍が最初に向かったのは九州新政府軍の拠点「熊本鎮台司令部」があった熊本城だった。
同2月19日、熊本城内で火災が起こり、大小天守閣が焼失した。この火災の原因は今もって不明であるが関係していないと思うほうが無理がある。

2月22日、西郷軍熊本城包囲総攻撃。
西郷軍士族約1万3千人に対し新政府軍は徴兵による平民約3千人だった。
兵器については西郷軍小銃1万2千挺(ちょう)。弾薬は製造所を破壊され増産できない。大砲60門。
新政府軍小銃4万5千挺。1日20万発を製造。外国より1700万発輸入。大砲209門。
このときの武器調達の為に政府は国家予算の80%を使った。これを抑えれば国内は安定すると信じていた最後の戦いだった。

圧倒的兵器力により熊本城は陥落せず。

3月最大の激戦「田原坂の戦い」となる。
17日間の死闘。両軍死者合わせて3500人。

このとき後に総理となる犬養毅が新聞記者として政府軍(官軍)側抜刀隊に帯同して前線にいた。
記事によると西郷軍13人と対峙。抜刀隊の中に旧会津藩士がいて直ちにその13人を斬ったそうだ。その会津藩士大声で叫ぶ「戊辰の復讐、戊辰の復讐」と。

新政府軍と戦って敗れた会津藩士。今度は政府軍となり賊軍となった西郷軍を斬る。
田原坂でも新政府軍が勝った。

5月26日、木戸孝允(幕末牛深へ来ていた)43歳で病死。「西郷、もう大概にせんか!」と言い残す。

新政府軍はますます勢いを増して西郷軍を追い詰めていく。南下しながら各地で戦いは続く中、
8月21日、大久保利通上野公園で「内国勧業博覧会」開催。富国の為殖産興業の見本市を行った。
もうこの辺りでは勝ちを確信していたのでしょう。

9月1日、西郷隆盛追い詰められ鹿児島入り。包囲され城山に籠る。
24日、西郷切腹。別府晋介が介錯した後その場で自らも切腹。ここで7か月に及ぶ西南戦争が終結した。

西郷軍約3万人、戦死者約5000人。
新政府軍約6万人、戦死者約6800人。

かつての盟友で戦うというのはちょっと勉強したぐらいの僕では察するに余りある。ここのそれぞれの想いって言うのは辛すぎて受け止めきれない。ただ西郷軍が勝ってもまた違う日本になってたし、この戦争が無ければ今の日本の民主主義はない。武士がまだいて俺も刀でチャンバラやってたかもな。西郷さんが今でも慕われている理由がわかった気がしているが大久保利通の評価が低すぎてないかなって思った。お札にもなってないよね?おかしくね?ここまでの明治維新は大久保がやったことの方が多い。この大久保利通の想い人が牛深にいた。牛深ハイヤちゃんマップにも書いてあるし、ここにちょっと書いてる。次は大久保の銅像を牛深に作ったほうがいいと思った。←はいこれ俺が最初に言ったからな。将来実現させましょう。

  

Posted by hirok○ at 18:48Comments(0)明治~

2020年08月07日

明治を学ぶ13

明治政府樹立以来、鎖国をしていた朝鮮に何度も開国、国交を求めてきたがそのたびに拒まれていました。

明治8年、征韓論は明治6年の政変で一旦治まってはいたが、軍内では必ずしもそうではなかった。

欧米列強は朝鮮を開国させようと日本に圧力をかけていた。そして日本は地理的なことからすぐ隣の朝鮮を清・露の防衛線にし敵ではない存在にしたかった。

膠着した協議を有利に進展させるため、測量や航路研究を名目とし、朝鮮近海に軍艦を派遣して軍事的威圧を加える案が提出されたが、より譲歩的なものに修正可決された。しかし5月「雲揚」6月「第二丁卯(だいにていぼう)」の2隻の軍艦が朝鮮沿岸へと極秘裏に派遣されることになった。 ここでは大きな外交問題は起こらず測量を終え一旦長崎へ帰港。

9月に入って雲揚は改めて清国までの航路研究を命じられて出港。航行の途中、9月20日に朝鮮首府漢城に近い月尾島沿いに投錨。飲料水の欠乏により探水のため小舟を下ろして江華島に接近したところ島に設置されていた砲台から砲撃を受けて交戦状態となった。 先に攻撃してきたのは朝鮮で日本側は正当防衛の面目が立った。国旗を掲げ、ただちに反撃砲撃を開始し江華島砲台を破壊。どうして砲撃を行ったのか尋問するために永宗城島の要塞を占領した。これを江華島事件という。


明治9(1876)年1月、黒田清隆(幕末牛深へ来ていた)を特命全権大使とする交渉団が江華府へと派遣されると、朝鮮政府は開化派を交渉に先立つ応接の使者に派遣するなど日本側に多大な配慮を示す対応を見せた。黒田は攻撃を受けた場合の対応等も予め指示されていたが、開戦回避という一点において日朝両政府の意図は合致していたといえる。

明治9年2月26日、 黒田清隆は江華府で日朝修好条規を締結。
幕末に日本が欧米と結ばされたような不平等条約を李氏朝鮮と結んだ。自分たちがやられて嫌だったことを朝鮮でやったってことだ。だがこれは批判には値しない。明治維新で海外視察をして学んで欧米列強の真似をしただけでこの時点ではまだ欧米との不平等条約は破棄されていない。日本も生き残るのに必死だった。

条約内容。
釜山・仁川・元山の開港。
日本の領事裁判権。
関税免除。
朝鮮を独立国と認め、清の宗主権を否定。
(これには事前に江華島事件の責任追及で清に対して「宗主国を名乗るのであれば事件の責任を取れ」と主張したところ清は、「朝鮮は清の属国ではあるが、独自の内政・外交を行っているので、朝鮮に対しては責任を取れない」と返答したため「朝鮮が清朝の冊封(さくほう・君臣関係)から独立した国家主権を有する独立国であること」を明記した。これも沖縄を日本領と確定したときと同じだね。)


明治9年3月28日、政府は士族の解体を目指し廃刀令を公布。刀の携帯を禁止した。さらに士族の給料を廃止。
あれ?一回断髪令のときに別名散髪脱刀令って言ってなかった?と思うでしょう。あのとき髪は自由だよっていう条例だと書いたと思うけどこれは刀も同じ。士族は必ずしも刀持たなくていいよ、自由だよって意味。もちろんこの時に刀廃止にしたかったんだけど士族の反乱が怖くて段階的に廃止に持っていこうとしていたって事。徴兵令も完成していたし武士はもういりませんって通告だった。
まぁさすがに今回武士の魂である刀を禁止されては黙っちゃいないよね。士族の我慢限界不満爆発。全国各地で反乱が勃発。

明治9年10月24日 熊本『神風連(しんぷうれん)の乱』
10月27日 福岡『秋月の乱』
10月28日 山口『萩の乱』
全て政府軍数日で鎮圧。逆に政府軍の実践経験にもなり実力を示す形になった。

残った不平士族は続々と西郷隆盛の元へ集まってくる。士族最後の砦でした。
そして7か月続くあの西南戦争へと続くのですが、それはまた次回。  

Posted by hirok○ at 16:07Comments(0)明治~