2015年05月11日

伊能忠敬実測 ㉞

『牛深御番所絵図 其の三十四』クリックにて拡大


 幕府測量方は薩摩を二班に別れ測量を重ね文化七年九月三日に深海村下平に到着した。

 伊能忠敬の先触れの文書は、これより先に早くから富岡代官所に届いていて、深海村庄屋橋口嘉左ヱ門は
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こちらの部分
只今掲載見合わせ中・・・

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 この時の測量の様子を、イメージで絵図に表してみた。「日本沿海測量地図」は文政4年(1821年)に完成している。

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これも有名な伊能忠敬の絵図ですね。

日本沿海測量地図と表記してありますが、当時正式なこの地図の名前は「日本地図」となっていたため、後に呼びやすい名前が付けられたということです。教科書では上記または「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」が多いと思います。もっとわかりやすく伊能図とよばれる事もあります。

実はこの地図が日本で最初の日本地図だと思われがちだが江戸幕府は計6回日本地図を製作している。4回までは各藩に提出させた地図を組み合わせていたため、あまり正確ではなかった。伊能図が江戸最後の地図でとても正確だったため評価が高く語り継がれている。

まるごと天草本から抜粋転載します。
測量隊は薩摩から大多尾に上陸。そこから南下して牛深に回り西海岸を北上して富岡へ、さらに東に向かい本渡に、次いで上島、大矢野、最後は御所浦を測量したとのこと。
抜粋ここまで。

伊能地図牛深を載せておきます。



天草を含め九州の測量は伊能忠敬代七次測量だったが、ここで薩摩の情報を少し書いておきます。
第七時測量で種子島、屋久島の測量をおこなう予定であったが、天候が悪かったため後回しになり天草へ渡った。伊能は元々種子島、屋久島への渡航は難しいということを知っており無理して渡らなくても良いと考えていたので、天草が終わった後、断念を決めた。
だが結果的には幕府の方針で、次回代八次測量での計画に両島への渡航は組み込まれた。両島を測ろうとした理由は定かではないが、伊能に全国の測量をさせると共に、当時閉鎖的だった薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいていたのではないかと推測されている。

天草の方にはこのことまで覚えておいていただきたい。理由は一番最後の回で書きます。






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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章