2015年05月25日

天草遠見番所・牛深御番所設置背景

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

今回の書籍化用に御番所の歴史を学んだ事を自分の見解を含めてまとめてみました。
以前書いた文章を引用したりしていますので重複することもありますがこれが私の集大成です。

まとめは全三回に分けます。


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『天草遠見番所・牛深御番所設置背景』


 遠見番所や牛深御番所が当時の日本にとって大事なものであるにも関わらずいまいち語り継がれにくいのには時代により設置理由が異なるため一つに絞れず端的に説明しづらいと言うことにあると私は思う。
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こちらの部分
只今掲載見合わせ中・・・

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 もちろん幕府がそのような政策をとったのには理由があり、時代背景と共に遠見番所設置理由を考察したい。

・一つ目は国際的立場からの日本国遠見番所設置。

 関ヶ原の戦いで徳川家康が天下を取る数年前、その前任豊臣秀吉は領土拡大を模索し朝鮮征伐を行う。朝鮮征伐と書きましたが戦った相手は李氏朝鮮(朝鮮半島は制圧)と主に明(中国)との戦争です。この戦争は道半ばで日本から命令を出していた秀吉が亡くなり日本軍は撤退しました。熊本に関係することを書くとこの戦いの後、加藤清正が朝鮮半島を制圧できたことを神前に感謝し、自ら随兵頭となって兵を百人引き連れて藤崎宮の神幸式に供奉したのが、現在の随兵行列(藤崎八幡宮秋季例大祭)の発端とされている。
 遠見番所が整備されるこの西暦一六〇〇年初めというのは上記したように中国(明)とは戦闘状態で講和も結んでおりませんので国交がない。なので中国との貿易をする事は日本国内では認められていなかった。
 その後、明は一六三六年に滅ぼされ清朝となる。
この清朝が対立していた中国国内勢力が日本との密貿易で力をつけていた為、一六六一年に清は遷界令(海禁)を行いました。これにより当時日本と中国両国間は表面上海外貿易は完全に出来ないことになった。
 そこでその違反船を見つけ日本の統治能力を内外に示す目的と海外からの侵略に備え警備を強化する目的のもの。
 これが遠見番所である。
 天草では寛永十八(一六四一)年、富岡、大江崎、魚貫崎に。萬時三年(一六六〇)に高浜村大野崎、亨保二年(一七一七)に﨑津と牛深に遠見番所が設置された。こういう理由のため江戸の帆船時代、各遠見番所が日本国防衛最前線となっていた。

・二つ目はキリスト教排除目的からの遠見番所設置。

 一六〇五年、長崎は天領(徳川幕府直轄地)になり南蛮貿易が許された。これは貿易での冨を幕府が独占的に得るためである。そして海外貿易をするということは海外の宗教が入って来やすく、海外では国を侵略するのは宗教から入るというのが植民地支配または領土拡大への布石であった。このように当時貿易での利点と宗教の副作用両方あり、複雑に絡みあっていたため宗教だけを防ぐのがどうしても難しかった。
 秀吉の時代からキリスト教禁教は続いてはいたが、徳川江戸幕府は慶長十七(一六一二)年、天領に対し慶長の禁教令を出す。
 長崎でこの海外貿易が許されていたため、長崎への航路であった天草でキリスト教が広まっていた事もあり寛永十四(一六三七)年あの天草島原の乱が起こったことは言うまでもない。 寛永十六(一六三九)年、南蛮船(ポルトガル船)入港禁止令。いわゆる鎖国時代に突入。
 寛永十八(一六四一)年、ここで天草が天領になる。天草島原の乱で、原城攻撃に参加、一番乗りの武功を顕彰された鈴木重成が初代代官として任命された。
 江戸幕府は外国船からのキリスト教布教を恐れ天草を直轄地にして管理をしないといけなくなった。
 これがキリスト教排除目的の異国船監視所、遠見番所の設置に繋がるのである。
 同寛永十八(一六四一)年、富岡、大江崎、魚貫崎に、万治三(一六六〇)年、高浜村大野崎に遠見番所が設置された。

・三つ目は貿易方法からの遠見番所設置。

 江戸時代の長崎貿易方法を簡潔にまとめます。この長崎貿易方法が日本の貿易方法と思ってもらって構いません。
 糸割符制度(一六〇四年~一六五五年)この時代の主な輸入品は生糸であった。日本はこの支払に多量の金や銀を使用していた。この糸割符制度とは国内の金銀流出を縮小させる為の日本主導の貿易方法である。
 一六五五年この不平等に中国商人側が反発。逆にこの制度を悪用され日本側が不利になるようになった為この制度は廃止され、いわゆる売手と買手が直接言い値を決める相対売買仕方(自由貿易)に代わる。
自由貿易により貿易量は増大したが、その支払にまた金銀の流出も増大。これを長崎奉行が抑制するために行ったのが貨物市法(一六七二年~一六八四年)である。
 貨物市法とは目利き商人が鑑定を行い入札を行う制度で日本側が主導権を持つことが出来た。だが入札を行うということでいつの時代も同じく汚職と中国側の薄利多売で金銀流出抑制は思うようにいかずこの制度も廃止される。
 定高貿易法(一六八五年~一七一四年)ここからが天草にとってとても重要になります。
 金・銀による貿易決済の年間取引額に一定の上限「定高」を設定した。国や船につき取引の上限を定めた。遠路遥々船で持ってきた積み荷だけどこれ以上は取引出来ませんので本国へ持ち帰ってくださいということです。
 清(中国)の遷界令(海禁)が前年一六八四年に解除され清国船(唐船)の国内出入りが急増していた。
 確認しておきます。この時代は日本国内は長崎以外での貿易は許されておりません。持って帰ってって言われてもなぁ・・・どうせだったら帰り道で投げ売りでも売りさばけと思うのが当たり前。その唐船の帰り道が天草だった。
 しかもその帆船が立地上必ずといっていいほど通り、シケ明けや風待ち、荷物の積み替えなどに最適だった場所。それが牛深だったのです。
 定高を超える積み荷に関しては銅や俵物などとの物々交換が徐々に行われるようになった。
 元禄十一(一六九八)年、長崎会所(貿易機関)設立し長崎奉行所は大いに利益を上げ、権勢をふるった。
 海舶互市新例(一七一五年~一八五七年)新井白石が金銀の海外流出量を調べ江戸幕府に報告。その量が多すぎた為国内の金銀埋蔵量が枯渇してしまうと危惧し海舶互市新例(正徳新例)を制定。定高を超える積み荷を代物替のみでの決済を公式に認めた。
 中国は海禁を解いている。でもまだまだ国内は絶賛鎖国中。長崎以外での貿易は禁止。
 だが唐船の通り道天草でも取引をする者が多くいた。これが密貿易。当時の言葉で言えば『抜け荷』ということになる。
 亨保二年(一七一七)に﨑津とともに増設されたものがここで登場、牛深遠見番所です。
 﨑津、牛深は抜け荷対策目的での設置が主のようである。牛深で狼煙を上げる必要性が薄かったのはこの為だろう。
 寛保二(一七四二)年、寛政二(一七九〇)年と貿易半減令が出される。貿易額の制限に平行して幕府による貿易統制に力が増す。
 江戸幕府は長崎貿易の秩序を守らせる目的のため抜け荷の取り締まりを厳しくする必要があった。
 天草でこの抜け荷監視目的での最重要拠点が寛政十一(一七九九)年設置『牛深御番所』だったのだ。
 それからの日本は安政五(一八五八)年欧米列強の圧力により安政五カ国条約が結ばれる。ここで日本の鎖国が完全に終わった。関税自主権がないなどのこの不平等条約を結んだことにより公武(朝廷と幕府)間の緊張がいっきに高まり、安政の大獄や桜田門外の変などの事件に発展する。
 そしてそれが大政奉還、王政復古の大号令に続き明治維新になるのです。日本の国家事業と言える遠見番所と牛深御番所はその明治維新により役目を終えた。






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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章