2015年05月26日

考察:牛深御番所設置

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

今回の書籍化用に御番所の歴史を学んだ事を自分の見解を含めてまとめています。
以前書いた文章を引用したりしていますので重複することもありますがこれが私の集大成です。

全三回の二回目です。掲載見合わせ中が多くてすみません、とても重要でお見せしたいのですが書籍を買っていただく方への特典といいますか配慮をさせていただきます。発売後に公開するところは公開します。


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『考察:牛深御番所設置』

 これだけの歴史があるのにも関わらず、現在の天草ではあまり語られないどころか皆無に等しい。現に近年開催されている天草検定の天草の歴史をまとめたテキストブックには御番所の文字すら無い。
 これより先の私が考察した結果は今まで言われたことはない。もちろん現在のところそれを断定できる文献も物証もあるわけではありません。
 読まれた方が「そうかも」とか「それは違うな」とかそれぞれ判断してくださって大丈夫。議論の一ネタにでもなってそこから御番所の認知度が少しでも高まればいいなぁと思います。
 今回御番所の事を学びながら、ずっと一つの疑問を考えてた。
 『なぜ牛深に御番所を作ったのか?』ということである。前述したように抜け荷対策というのは表向き間違いないだろう。でも異国船監視や抜け荷対策はそれまでの遠見番所でもやれていたはず。そもそも最初に遠見番所を作った時に牛深には遠見番所を作らなかった。絵図内でも説明された通り、舸子役が天草で一番多かった牛深は船が多く入港するのはわかっていたのにも関わらずだ。これがずっと引っかかっていた。
 そこで当時牛深に御番所を作ろうと計画しているまさにその文献を読んでその候補地に着目してみた。
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これらは長崎奉行松平石見守貴強から『日本中に出回っている唐物はどこの抜け荷から来ているものか?』について隠し事のない意見を求められたことに対する返答書である。わざわざ隠し事のないと付け加えている事を考えると、隠し事があるのではないだろうか?と奉行は感じていたのではないだろうか。江戸時代の遠見番役人や通詞(通訳)などの地役人は後に私塾を開いたりするのを見ても分かる通り聡明で賢く、本来の仕事の傍ら、絵図内説明でもありましたが今で言う探偵や警察のように聞き取りや張り込みなどの隠密活動を多方面で行っている。隠密というだけあって何を調査しているのか文献として残っているものは少ない。しかも通詞に至ってはオランダ船長と結託し検閲を受けない事を利用し自らも幕府禁制品を国内に持ち込み富を得る強かな面も見せていた。 これを前提にして、その二人の意見書を要約する。
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 これの対策案で牛深が出てくる。
【一、天草久玉山に遠見番所を設置し遠眼鏡で監視し牛深浦に(積み荷)改番所を設置して出入りする船を査察する】
【二、薩摩からの流出品は廻船によって下関を通り大坂へ入るので下関へも(積み荷)改番所を設置し出入りする船を査察すると良いが、※※非公開※※】
【三,豊前豊後の陸路は長崎地役人が廻れば摘発できる】など。
 これを読んで気が付くと思います。薩摩の抜け荷なのになぜ牛深と下関なんだ?表向きもっともらしい理由はつけてあるが直接薩摩を取り締まればいいじゃないって誰もが思うはず。
 牛深についてはこう書いてある。
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 港としては立派だがあまり力を入れる必要がないと言っているようにも受け取れる。しかも唐船漂着は長崎資料割符留帳により確認すると牛深よりも﨑津の方が多い。故に当時牛深にはいない唐通詞が﨑津には配属されている。こういう歴史が今日の世界遺産に繋がるわけですが﨑津を差し置いて唐船漂着を理由にするのは少し違和感がある。
 繰り返します意見書は地役人(旗本・御家人ではない)が書いている。しかし寛政十年(一七九八)六月、意見を出された五ヶ月後には幕府は牛深に御番所の設置を決定したのである。(地役人発案幕府執行は珍しい)

 ここで牛深ハイヤの起源(牛深八景第九景)にも関係する薩摩藩について少し説明をしたい。
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島津藩の外交は強かで、あくまでも幕府に反旗を翻す態度は見せずに軍事力を保つ絶妙なバランスを持って幕府との関係を続けていた。
 絵図内記事に関係してきます。 絵図丗四記事、「伊能忠敬が一度断念した種子島、屋久島(薩摩)を再調査させた幕府は当時閉鎖的だった薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいていたのではないかと推測されている。」
絵図廿四記事、「琉球征伐」を行い領土を拡大しさらに唐貿易を行って資金を調達している。唐貿易を行っているということは財だけではなく、武士の多い国が海外の新兵器、武器なども輸入している可能性がある。
 『江戸徳川幕府は確実に薩摩島津を警戒しその先にある徳川政権の滅亡つまり倒幕を恐れていたのだ。』
 幕府は度重なる隠密活動により実態把握を試みる。しかし薩摩藩は独特の隠密に対する対策を敷いていた。
 「御国言葉」(いわゆる方言)を特有なものにし、あくの強い訛りを藩内にて使用させ、他国者(隠密・密偵など)の潜伏を、その言葉の違いで見分けられるようにした。また絵図四、廿記事、薩摩半島には津口番所が連珠のように連なり、陸路は関所で荷物改や人の出入りを制限し他藩の者を受け入れないように体制をとっていた。
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と例えられるほど隠蔽工作には徹底していた。
 薩摩藩のことを調査したい時に幕府はどうするだろう?と考える。薩摩藩は天領ではないので幕府の施設は置けない、しかも薩摩藩を偵察する施設なんて宣戦布告するようなもので言わずもがな。ならば薩摩渡りと呼ばれている隣港、牛深にその偵察本拠地を置こう!これが御番所ではないだろうか。
 いやいやいや、文献には抜け荷対策としか書いてないじゃない。と言われることはすでに反論予想できる。薩摩と幕府の絶妙なバランス関係を理解して読んでみると、文字に残してそれが薩摩側に見つかった場合対立するのは目に見えている。故に文字に残すことが出来なかったとしたらどうだろう。 そこで抜け荷対策の意見書をもう一度見てもらいたい。下関にも御番所を置きたいと進言している。これを後の史実から見てみる。
事実江戸幕府は討伐され明治維新になる。倒幕される戊辰戦争反幕中心は御存知の通り薩摩と長州(下関含む)いわゆる薩長同盟なのだ。
 御番所設置になるその意見書は完全に薩長を警戒してることにピンポイント合致していた。
 そして薩摩を偵察する施設とした場合の牛深御番所は薩長が維新により新政府になるため自分たちで自分たちを偵察する意味合いになるので取り潰しになる。こういう風に思うとすべての点が線に繋がるように思えた。
 ここまで書きましたが、あくまでも私個人の見解で仮説である。だが歴史と言うのはこういう仮説がありそれを証明する物が出てきて正史になっていくこれの繰り返しである。こういうことを想像するのが歴史ロマンでありとても面白いのである。
 もう少し幕末維新後の興味深い牛深に関係する史実を記載しておきます。
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そんな大仕事をしている最中牛深で何をしていたのだろう。
 薩摩渡りの土地で、後に新政府中核となる西郷隆盛・大久保利通、倒幕論者平野国臣などと会っていたのではないだろうか。 文献としては残ってはいないが大久保利通は、牛深に
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そして事実、※※は幕臣であったにも関わらず維新に功労のあった志士者として明治天皇より正五位を叙せられている。 牛深御番所は幕府が行う倒幕活動の調査にはうってつけの場所であることは間違いなさそうだ。ただそれをやっていたかどうかは確証がない。



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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章