2015年04月08日

古久玉の唐船繋ぎ ⑬

『牛深御番所絵図 其の十三』クリックにて拡大


 中御番所から古久玉の唐船繋ぎの様子を描いてみた。

 牛深御番所はこの様な場合、唐船の乗組員のうち数人を人質に確保して、逃亡できないようにして、特に唐船から出入りを監視し昼夜とも見届けた。船番組がこれに当った。

 中番所の北側は正門になっていて、頂上への登り口が正面の崖にあり、そこを登りつめると、その先に「遠見道」を開いていた。

 唐船は一隻でなく、二三隻の一団で漂着する場合が多かった。

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現在3Dマップで見るとこの辺りですね。

海岸線はほとんど埋め立てられていますのでこのマップとは違うと思いますが戸島の位置で場所を把握していただくとわかると思います。


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Posted by hirok○ at 20:00Comments(1)御番所第二章

2015年04月07日

長崎奉行松平いわみのかみ様、おなーりー ⑫-2

『牛深御番所絵図 其の十二拡大』クリックにて拡大


⑫-1の続きです。

 関船は風をうまく捕らえながら一路牛深へ。

 奉行は牛深村庄屋居宅へ、支配勘定坂本伝之助、同人見藤左ヱ門は船津の油屋へ、遠見番原才右ヱ門及び島原藩は旅籠井筒屋(はたごいづつや)、その他の者たちも井筒屋などへ、多人数の者たちが投宿の手筈で、それぞれに分散して着いた。

 九月廿八日、早朝から銀杏山登山となり、全ての者がこれに従った。前日には村方の手で遠見番所への道筋や、枝払い、場所造りなど進めていて、何時一行が来ても遺漏のないように備えていた。

 この日銀杏山は晴天で諸方良く見えて、頂上での奉行は自ら遠眼鏡(とうめがね)により遠望し、肥後方面と共に、牛深浦が近くで万事諸便利故、良い場所であると声高に意向を示した。

 施設の普請も帰還の上、取掛る旨総勢に告げることになった。

 さらに、その他の者と共に、施設間の距離の測定など、江戸表へ再び所替えの申し立ての必要から、絵図の書きとりなど、この時既に指図したものと思われる。

 山上の調査を終え、港の御番所用地の取得、仮の縄張り、船藏用地の見届けなど、精力的におしすすめて、この日は夜も庄屋宅へ役人たちが詰めかけて、いろいろな作業に携わっている。

 九月廿九日、長崎への帰還日を迎え、瀬崎岸壁に集合の打合わせ通り、奉行は島原関船により久玉村庄屋に立寄り、天草の元来た道を陸路村継ぎ籠により帰還の運びとなった。

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こんな牛深のお話聞いたことないでしょー?
私も面白すぎて興奮しきりです。

遠眼鏡

1613徳川家康に献上されたのが初日本登場で後、長崎で国産が生産されたとのこと。その長崎で作られた遠眼鏡が牛深またはその他の遠見番役人でも使われていたと想像する。
ちなみにごばんくんが持っているものはこの遠眼鏡ですw

幕府の表玄関であった長崎は唯一海外貿易をやっていたため資金量が豊富にあった。
ゆえに江戸とは密接な関係で、この長崎の事を知らなければ江戸は語れないとまで言われるほどだった。

その時代の長崎奉行初め、長崎代官、諸役人、時代を動かす当時の重要人物が牛深に来ている。これは長崎県史年表にも載っている重要事柄である。もちろん牛深の役人がお出迎えお見送りしないわけがなく今回の御番所絵図十二がその姿を表している。十月三日長崎へ着いたとの記録有。

熊本県史、天草市史、旧牛深市史に記載してあって当たり前の歴史でしょう。

私はあの瀬崎に約200年前こんな出来事があったなんて思うと不思議と嬉しく感じます。


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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年04月06日

長崎奉行松平いわみのかみ様、おなーりー ⑫-1

『牛深御番所絵図 其の⑫』クリックにて拡大



 寛政十年(1798)九月廿六日、立山奉行所(長崎)を発つ二十名ばかりの旅装の集団があった。

 長崎奉行松平石見守貴強(まつだいらいわみのかみたかます)の一団で籠を連ねてまず茂木(長崎)へ向かった。

 奉行はこれまですすめてきた九州の物資流通について、遠見番所の設立などにより、これを長崎港の警固にどう役立てるか、熟慮を重ねていたことは明白である。

 九州はもとより、瀬戸内海の主だった港や島々浦々まで、隠密調査の派遣は大がかりなものであった。

 主な三十ヶ所の港、浦を調査し、余りの膨大さに断念をした経緯(いきさつ)があり、遠見番所候補地として、最後まで残した下関の赤間と牛深浦は有力な港であった。

 島原藩関船(せきせん)で富岡へ向かい、この日富岡代官所泊りとなった。

 翌朝早く富岡を発って、村継ぎの籠で一町田へ向かった。これは可成りの強行軍であったようである。

 昼前到着の久玉村庄屋門前が集合場所にあらかじめ決めてあって、門前には既に数日前から牛深滞在の支配勘定及び側用人(そばようにん)坂本伝之助、支配勘定人見藤左ヱ門、普請役渡辺新右ヱ門、御用人野間半藏、近習小姓(きんじゅ・こしょう)ら六人、徒士(かち)五人、さらに島原藩役人たち、地元村方役人など含めると極めて多数の者たちが門前に待機していた。

 石見守一行の到着を見て、遠見番原才右ヱ門は極めて御手軽ないでたちと評している。

 この時、狩衣(かりぎぬ)の装いであったが、庄屋門前整揃いと言うことで全員が登山の手筈(てはず)であった。

 九月廿七日、久玉村は前夜大雨、今朝も小雨続き曇天となり、天候を懸念するところに西風烈しくなり、雨風交互に、その中で評議の上登山することに決まり、久玉山に向かうことになった。

 中番所仮の予定場所まで登ったところで、いよいよ風雨激しくなり休息となり、ここからは諸方は見えず、上の段の野母が幽(かす)かに見える場所も、いよいよ風激しく、常駐の番所詰めが決まることになれば、坂本伝之助、原才右ヱ門は難渋の思いで、所替えの意図をもって三度、四度、その機会を狙って奉行へ申し立てている。
 奉行の傍らに付き添い遠目鏡を支えながら、久玉山は遠見番所のみを建設し、中番所などの詰所は銀杏山に設けることに計らいたいと申し出て、伺ったが、奉行は何の意向も示さず無言のままに御意を下さなかった。

 尚も風は激しく、奉行の登山籠は空のまま谷間へ吹き転がって、漸く留めるなど騒ぎがあり、その時、このところに中番所とは惨い事と、ようやく奉行は意向を下した。

 明日銀杏山へ向かうため、直ぐに下山することになり、松明、提灯、夕暮れの中を島原藩の関船の辺りまで向かった。

                          12-2へつづく

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この十二絵図が前半のクライマックスですね。このお話とても興味ありませんか?私はとても面白いです。

今回重要人物がたくさん出てきてますがもちろん最重要人物がこちら。

松平石見守貴強(まつだいらいわみのかみたかます)
寛保2年(1742年) - 寛政11年11月25日(1799年12月21日)、旗本、明和8年(1771年)に家督を継ぐ。天明7年(1787年)大坂町奉行、寛政9年(1797年)長崎奉行となった。翌年に勘定奉行兼帯となった。寛政11年在任中に長崎で58歳で没す。

長崎奉行の前は大坂町奉行をしていたほどの重鎮。

前半少し誤解がうまれるかも知れませんので補足致します。
公開絵図は牛深の瀬崎の牛深村庄屋の絵です。お話の方は久玉村大庄屋の話です。
当初は久玉山に遠見番所と中番所を作る予定だったのが天候が悪かった為、眺めが悪く下山しもう一つの候補地牛深へ向かったというお話です。もし天気が良かったら牛深に御番所などなかったかもしれない。

次回はその牛深でのお話。勿体つけてるわけではありませんがここは詳しく説明しておく必要があると思いまして次回まで同じ絵図です。

12-2へ

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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年04月05日

上げ ⑪

『牛深御番所絵図 其の二』クリックにて拡大


 ここで「上げ」の一帯を描いてみることにした。
 「上げ」は瀬崎を含み、瀬崎の岸壁には富岡の藏役所(天草郡内の大庄屋が交替で執務する役所)の天草回船をはじめ、旅商船、潮待船、郡内外の五十集船など多数が繋船するところであった。

 玉名の高瀬は天草の庄屋、商人たちが協力して「天草問屋」を建てたところで、そこからの回船が特に牛深へ来ていた。

 その他、八代日奈久、葦北地方などの肥後船でも牛深浦は賑わった。

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現在のハイヤ通りのメイン商店街のところですね。もちろん今はないこんぴら山があり、庄屋さんの自宅の場所なども描いてあります。

現在の海岸線は埋め立て拡張されている所が多いですが、一部当時の石垣が残っているところもあります。

文中、藏役所の説明を補足します。年貢米の保管目的で始まった当初は蔵元と呼ばれ、郡会所と改称されてから大庄屋2名ずつ月番でやった後、大庄屋が1年、庄屋が1年の交代制になった。後年は代官所と村の連絡が主な役割になった機関のことをわかりやすく藏役所と表現している。

次回は牛深の歴史にとってまた凄い絵図が登場します。お楽しみに!

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2015年04月04日

萬屋襲撃事件 ⑩

『牛深御番所絵図 其の十』クリックにて拡大



 始橋(はじめばし)から「浦」を通り岡三区、岡二区辺りの様子を描いてみた。
 岡三区の観音様があり、対岸の船津側は船津郵便局辺り、更に萬屋助七の土藏造りの辺りから船津の観音様の石段の辺りまでを描いてみた。
 郵便局辺りの海岸には、海底に荷揚場用の防波堤が埋没していて、「浦」の時代は勿論それ以前の江戸時代も荷揚場であったと思われる。五十集船(いさばふね)などの繋船場所であったと思われる。

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絵図の中の下側白壁の藏があるところが、萬屋助七の藏である。
天草で名を馳せた銀主((ぎんし)いわゆる高利貸し)が数名居て、その中でも西へ廻れば牛深の助七さまの~と謳われた助七。

天明七年(1787)六月、助七宅襲撃事件が起こる。天明の大飢饉のときである。お金を返せず土地を取り上げられた百姓は徒党を組んで打ち壊しを行い借用証文を焼き捨てた。幕府は徒党を組んでの暴力を認めていなかった為、もちろん捕らえさせた。後、首謀者四人死罪、助七は過料、庄屋は叱りを受けた。



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ます】





  


Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年04月03日

観音庵 ⑨

『牛深御番所絵図 其の九』クリックにて拡大

 牛深浦の「浦」と言う時代があるので、その絵を表してみた。
 岡三区の観音庵は寛永十三年(1636)の創建で浄土宗。界隈の子供たちは此処の広場で良く遊んでいる姿があった。大戦中は柔術や、青年団のさまざまな訓練ごとが行われていた記憶があり、青年団の倶楽部が建っていた場所が「高札殿(こうさつどん)」であったと思われる。

 さらに、昭和十年、それまで自水庵であったものが称念寺と改まった。称念寺の下の余地のあるところに、富岡代官所からの「制札殿(せいさつどん)」があったということである。

 庄屋、村役人は村民たちへ、この高札殿の書いてある内容を読んで聞かせていたとされている。

 この辺りは「浦」の一部地域であり、、有名な俵屋(たわらや)は唯一、山方問屋(やまかたとんや)の業務を担っていたところと思われる。

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高札は法令(一般法、基本法)を板面に記すもの、制札は特定の相手や事柄を対象として制定された法令(特別法)を記したもの、どちらも民衆に周知させる方法であった。

この時代、字を読める人のほうが少なかった為声に出して読んで聞かせていたとのこと。

一般的な高札殿↑
よく時代劇とかで見たことあるやつ。これが今の観音保育園のとこにあったんですね!なんか凄い。
牛深での具体的な内容としては浦高、忠孝、毒薬、火付、抜荷、伴天連、切支丹訴人だった。

ちなみに明治八年この観音庵地を借用して公立牛深小学校を設立したことに始まる記録がある。潮東小の前の話である。


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2015年04月02日

商船入湊・石垣湊之図 ⑧

『牛深御番所絵図 其の八』クリックにて拡大


 御番所は御用船二艘を待桟させ、浦内に出入りする商船の積載物資の検査、幕府禁制の物資査察など昼夜を問わず行っていた。
 又、一方では地元船津の船問屋(ふなどんや)は船舶出入りがあれば番所への報告義務があった。
 船津の岸辺には地元の漁船、旅商船などが混在して繋がれていることが日常であった。

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現在地図で言うとこういうかんじですね。この地図の右側にある睦橋はもちろんまだなく睦公園もありません。

御番所の横の山は今となっては名前がわからなくなっていたが丸山と読んでいたそうだ。

これから数回この近隣の話題が続きます。


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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年04月01日

牛深御番所井戸の図 ⑦

『牛深御番所絵図 其の七』クリックにて拡大



 御番所は最初、寛政十三年(1801)に真浦の山手に御用井戸を建設し用水を確保していた。その間、御用船で正平(まさびら)の鬢掃除(びんそうじ)へ行っていたことも多かったという。
 さらに文化九年(1812)に真浦に新しく開拓し、2つ目の井戸を造り用水を確保していたという。
 賄婦(まかないふ)を雇い、水汲みは日課になっていたようである。賄婦の夫はこれを助け、井戸周りの清掃や井戸汲み、薪割りなどにたずさわり、賃銀は賄婦の手当の内より、別の女性の雇賃を含めて分前を得ていた。このようなことが許されていたと思われる。


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正平の鬢掃除とは下須島の地名です。
御用井戸は湧水量も少なく一般には開放されておらずまさしく御番所用だったそうだ。牛深町民はこの頃から水にはとても苦労していた。これから長く水不足に悩まされ現在の路木ダムまで続いたのである。

現在この井戸は両方共残っていて保存されている。

こちらが絵内左上の井戸で最初に造られた井戸。


こちらが後ほど造られた下の大きい井戸です。
牛深市の文化財より転載。

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