2015年04月04日
萬屋襲撃事件 ⑩
『牛深御番所絵図 其の十』クリックにて拡大

始橋(はじめばし)から「浦」を通り岡三区、岡二区辺りの様子を描いてみた。
岡三区の観音様があり、対岸の船津側は船津郵便局辺り、更に萬屋助七の土藏造りの辺りから船津の観音様の石段の辺りまでを描いてみた。
郵便局辺りの海岸には、海底に荷揚場用の防波堤が埋没していて、「浦」の時代は勿論それ以前の江戸時代も荷揚場であったと思われる。五十集船(いさばふね)などの繋船場所であったと思われる。
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絵図の中の下側白壁の藏があるところが、萬屋助七の藏である。
天草で名を馳せた銀主((ぎんし)いわゆる高利貸し)が数名居て、その中でも西へ廻れば牛深の助七さまの~と謳われた助七。
天明七年(1787)六月、助七宅襲撃事件が起こる。天明の大飢饉のときである。お金を返せず土地を取り上げられた百姓は徒党を組んで打ち壊しを行い借用証文を焼き捨てた。幕府は徒党を組んでの暴力を認めていなかった為、もちろん捕らえさせた。後、首謀者四人死罪、助七は過料、庄屋は叱りを受けた。

【ブログ内で公開している文章、その他イラスト、絵などについて郷土史家の方が何十年も掛けて研究した知的財産でございますので断りなく保存・転載することを一切お断りさせて頂いており
ます】

始橋(はじめばし)から「浦」を通り岡三区、岡二区辺りの様子を描いてみた。
岡三区の観音様があり、対岸の船津側は船津郵便局辺り、更に萬屋助七の土藏造りの辺りから船津の観音様の石段の辺りまでを描いてみた。
郵便局辺りの海岸には、海底に荷揚場用の防波堤が埋没していて、「浦」の時代は勿論それ以前の江戸時代も荷揚場であったと思われる。五十集船(いさばふね)などの繋船場所であったと思われる。
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天明七年(1787)六月、助七宅襲撃事件が起こる。天明の大飢饉のときである。お金を返せず土地を取り上げられた百姓は徒党を組んで打ち壊しを行い借用証文を焼き捨てた。幕府は徒党を組んでの暴力を認めていなかった為、もちろん捕らえさせた。後、首謀者四人死罪、助七は過料、庄屋は叱りを受けた。

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Posted by hirok○ at 20:00│Comments(0)
│御番所第二章
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