2015年04月30日

唐船の長崎送り ㉓

『牛深御番所絵図 其の二十三』クリックにて拡大


 牛深御番所は、積載物資の有無に関わらず唐船を長崎へ長崎へと送っていた。

 長崎送りの唐船は大龍丸の付き添いにより、人質数人を確保し船の逃亡を防止し、長崎野母遠見番所へ椛島番所を経由し、その沖合いで受渡す仕組みになっていた。

 野母遠見番所は直ちに、長崎港のそれぞれの番所へ伝達し奉行所へ連携した。

 長崎送りの唐船は、報告のための査察調書が作られる。①来朝船か、長崎よりの帰還船かの別、②信牌(しんぱい(長崎奉行発行の通商照票))の所持、不所持、③長崎入津の目的、乗組員数、④唐船の要望、港内での監視番船、停泊中の唐船夜回り、などの委細についての事項を満たすものであった。

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信牌についてもう少し記載。
海舶互市新例によって、唐船に持参が義務付けられた、長崎への入港許可証。
wikiより転載
新井白石は、1715年2月14日(正徳5年1月11日)、国際貿易額を制限するために海舶互市新例を制定した。この中で、中国船の長崎来航数を年間30隻と定め(かつ出港地別にも隻数が定められた)、また来航した中国船のうち、新令に違反しないことを誓約した者だけに信牌を発行し、以降は信牌を持った者に限り貿易を認めることとした。中国船の所持する信牌は、奉行所が持つ「割符留帳(わっぷとめちょう)」と照合された。

この信牌は実質的には江戸幕府の管理下にあったが、形式的には唐通事が交付するものとした。これは清の反発を恐れたためである。中国では、伝統的に信牌とは朝貢国に対して与えるものであった。従って、幕府が中国船に信牌を交付すると、中国が日本に朝貢したかのように見えるため、摩擦の発生が予想された。実際に、信牌を得られなかった中国商人が、信牌を入手した中国商人を、清朝に対する反逆者であると訴える事件が起こっている。結果として、清朝政府は信牌を没収し、一時貿易が停滞した。白石はこれを予想しており、信牌は幕府が交付したものではないため、日本への服属を意味しないと抗議を行い、清も2年後の1717年(享保2年)にはこれを認めている。

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面白いわ。中国はこの頃からというよりこれ以前よりももっと前の金印にしろ魏志倭人伝の頃から日本に対してこういう態度とってたんだな。これは今でも変わらずw


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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章