2015年04月07日

長崎奉行松平いわみのかみ様、おなーりー ⑫-2

『牛深御番所絵図 其の十二拡大』クリックにて拡大
長崎奉行松平いわみのかみ様、おなーりー ⑫-2
長崎奉行松平いわみのかみ様、おなーりー ⑫-2
⑫-1の続きです。

 関船は風をうまく捕らえながら一路牛深へ。

 奉行は牛深村庄屋居宅へ、支配勘定坂本伝之助、同人見藤左ヱ門は船津の油屋へ、遠見番原才右ヱ門及び島原藩は旅籠井筒屋(はたごいづつや)、その他の者たちも井筒屋などへ、多人数の者たちが投宿の手筈で、それぞれに分散して着いた。

 九月廿八日、早朝から銀杏山登山となり、全ての者がこれに従った。前日には村方の手で遠見番所への道筋や、枝払い、場所造りなど進めていて、何時一行が来ても遺漏のないように備えていた。

 この日銀杏山は晴天で諸方良く見えて、頂上での奉行は自ら遠眼鏡(とうめがね)により遠望し、肥後方面と共に、牛深浦が近くで万事諸便利故、良い場所であると声高に意向を示した。

 施設の普請も帰還の上、取掛る旨総勢に告げることになった。

 さらに、その他の者と共に、施設間の距離の測定など、江戸表へ再び所替えの申し立ての必要から、絵図の書きとりなど、この時既に指図したものと思われる。

 山上の調査を終え、港の御番所用地の取得、仮の縄張り、船藏用地の見届けなど、精力的におしすすめて、この日は夜も庄屋宅へ役人たちが詰めかけて、いろいろな作業に携わっている。

 九月廿九日、長崎への帰還日を迎え、瀬崎岸壁に集合の打合わせ通り、奉行は島原関船により久玉村庄屋に立寄り、天草の元来た道を陸路村継ぎ籠により帰還の運びとなった。

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こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!
ここからhirok(^^♪です。

こんな牛深のお話聞いたことないでしょー?
私も面白すぎて興奮しきりです。

遠眼鏡
長崎奉行松平いわみのかみ様、おなーりー ⑫-2
1613徳川家康に献上されたのが初日本登場で後、長崎で国産が生産されたとのこと。その長崎で作られた遠眼鏡が牛深またはその他の遠見番役人でも使われていたと想像する。
ちなみにごばんくんが持っているものはこの遠眼鏡ですw

幕府の表玄関であった長崎は唯一海外貿易をやっていたため資金量が豊富にあった。
ゆえに江戸とは密接な関係で、この長崎の事を知らなければ江戸は語れないとまで言われるほどだった。

その時代の長崎奉行初め、長崎代官、諸役人、時代を動かす当時の重要人物が牛深に来ている。これは長崎県史年表にも載っている重要事柄である。もちろん牛深の役人がお出迎えお見送りしないわけがなく今回の御番所絵図十二がその姿を表している。十月三日長崎へ着いたとの記録有。

熊本県史、天草市史、旧牛深市史に記載してあって当たり前の歴史でしょう。

私はあの瀬崎に約200年前こんな出来事があったなんて思うと不思議と嬉しく感じます。


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Posted by hirok○ at 20:00│Comments(0)御番所第二章
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