2020年06月06日

明治を学ぶ4

戊辰戦争終結により300年続いた徳川幕府が完全に消滅。
よく教科書なんかでも見かけるので徳川慶喜の写真上げておこうかな。大正2年(1913)まで存命だったので現在106歳以上の人は会ったりしたことあるかも?って思うと江戸はそんな昔じゃない感覚になる、笑。


江戸幕府時代日本はそれぞれ藩として大名(殿様)がおり、小さな国の集合体であった。
新政府はそれらをまとめての統治を目指しました。

新政府はまず自分達から藩を解体して、他の藩に見本を示す目的で
大久保利通(薩摩藩)・木戸孝允(長州藩)・板垣退助(土佐藩)・大隈重信(肥前藩)が考案したもの、それが
明治2年6月17日 版籍奉還です。

『版』とは「土地」のこと、『籍』とは「人民」の事。上記4人『薩長土肥(さっちょうどひ)』が先頭に立ち、皆で藩の『土地』と『人民』を朝廷にお返ししますので他の藩もやりましょうという内容。

これにより274藩が奉還。藩主(大名)は新政府の役職『知藩事』に任命される。ちな給料は藩の収入の1割だったそう。え?それでもけっこう貰うんですねー。
こっから現代の知事って名前になってるんだね。


この頃近隣諸国との領土問題が起こってくる。
国の概念を考え始めるとまず第一に領土がないと国にならない事に気が付く。なので海外諸国が競って日本領土を奪いに来ている。

海外諸国も自国の領土を増やす事が国益に繋がるという考えは一緒で、新政府はまず今でいう北海道、当時は蝦夷地をロシアに取られる前に日本に確定させようとする。

明治2年(1872)7月8日 蝦夷地(えぞち)開拓使を設置。これには幕府解体後無職となった武士を士族と改め働かせ、農地開拓や天然資源獲得を目指した。
翌月8月15日 太政官布告によって蝦夷地に北海道の名前を替え、北蝦夷地は樺太と改名した。

当時の蝦夷地にはアイヌ民族が約2万人住んでいたそうですが、彼らを日本人へ組み込んだ。

1855年、幕府がロシアと結んだ条約日露和親条約では北方四島(択捉島)より下は日本、ウルップ島より上はロシア。北蝦夷地(樺太)は両国入り乱れた雑居地でよいということになっていた。
北方領土に関してはいつか書くと思いますので、今回は書きませんが一言だけ私は千島列島まですべて日本領土と考えています。理由はそのときに。

欧米列強と肩を並べるため、情報伝達手段の強化を図る。
明治2年12月25日 それまで飛脚が現役だったのですが東京-横浜間で電信が開通する。欧米は江戸時代にすでに繋がっていた。技術はイギリスから技術者を呼び3か月で整備した。


明治4年長崎-上海、長崎-ウラジオストク開通。これ電線海底ケーブル繋いだらしいよ。この時代にすげぇなまじ。
明治6年東京-長崎間が開通。これで世界と繋がったと思ったそうだ。

明治4年(1871)~6年 岩倉具視・大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・山口尚芳が世界一周をして世界の最先端を学んでくる。『岩倉使節団

文明開化が起こって国内へ急速に海外文化が入りだし生活が洋風化し始めた。新政府は外国からの国民支配を恐れたのでしょう、国民の心を一つにする政策を行う。

明治3年1月3日 大教宣布の詔を発する。
内容
神道を国教と定める。国学者による全国への強化活動(天皇を中心とした国家)。

土地、人民、精神をまとめることにより新政府の中央集権化の動きの始まりだった。

ほんと激動の時代ですね。今日はここまで。

  

Posted by hirok○ at 20:07Comments(0)明治~

2020年05月31日

明治を学ぶ3

明治元年(1868)9月20日 明治天皇京都から江戸へ発つ、東京行幸(ぎょうこう)から続きます。

10月13日明治天皇東京へ入る。

1000年続いた京都からなぜ東京へ移したのか、これを考えたのが大久保利通。
出来立ての新政府が国民へのアピールの為に行ったデモンストレーションだと言われている。

ん?これは現代ではアウトかもしれないなぁ。天皇の政治利用だよね。

日本の中心が京都ではなくなる事に対して京都の公家や市民からはもちろん反発がある。伊勢神宮も書簡にて抗議した。

京都の人々への配慮で12月22日明治天皇一旦京都へ戻る(還幸)。

3月28日 改めて東京へ入る(行幸)。

これ以後天皇は現代まで東京にいらっしゃるが、
有名な話、京都の方々は現代でも天皇は東京に貸している(京都から外出している)と思っている人が多いそうだ。

天皇が住んでいる場所が都だと定義されていると僕は思っていた。だから日本の首都は?と聞かれたら誰もが東京だと言うでしょう。大阪都構想の時にも天皇は大阪にいないから都という呼び名はおかしいと思った。

しかし、現在法律上東京は首都と定義されていないらしい!これは驚きだ。

これには平成30年2月13日の国会答弁にて安倍総理が質問され答えている。
『首都を東京であると直接規定した法令はないが、東京都が日本の首都であることは、広く社会一般に受け入れられているものと考えている』

じゃあ国旗国歌法みたいにはっきり規定したほうがいいと思いになるかもしれない。でも決めないのは、やはり京都への配慮なのだと思う。こういうとこも日本的で美しいと僕は思った。


この間まだ新政府軍と旧幕府軍の争い、戊辰戦争は続いております。

旧幕府海軍副総裁、榎本武揚が軍艦8隻と旧幕臣など約2000人で函館五稜郭を占拠、独立国家を宣言。
しかし幕府軍の士気は高まらず新政府軍の攻撃に耐えられず敗北。



明治2年5月18日 戊辰戦争は榎本武揚の降伏により終結。榎本武揚は2年半投獄。一緒に戦った土方歳三は戦死、新選組もここで終わった。

こうやって見てもやっぱり明治維新は軍事クーデターであり革命だよね。なんで明治革命って言わないんやろなぁ。新政府も後ろめたい気持ちがあったのかもなぁ。

明治2年6月29日 明治天皇が戊辰戦争の戦死者を慰霊するために創建したものが東京招魂社。
明治12年 靖国神社へ改名。

戊辰戦争の戦死者を慰霊とは書いたが新政府軍へ反抗したものは祀られていない。よって旧幕府軍、会津藩士、新選組、後に西南戦争で戦死する西郷隆盛などの魂は祀られていない。

この点、僕は彼らも近代化日本の為に命を失った先人として一緒に祀っていただきたいと考えるが、新政府軍の末裔方々感情からしたら難しいかなとも思う。

今日はここまで。  

Posted by hirok○ at 19:29Comments(0)明治~

2020年05月24日

明治を学ぶ2

前回明治維新の始まった慶応3年12月9日より続きます。

大政奉還で慶喜は徳川家生き残りの戦術で、討幕派の目をそらす口だけの思惑だったと書いたように、まだこの時点では政権を諦めてはいなかった。


12月9日小御所会議(新政府軍初御前会議)で徳川家完全排除の決議。
12月12日小御所会議の結論を知った慶喜は二条城から大阪城へ入る。
新政府軍と戦う戦略を練るためだと思われる。

12月16日 慶喜が欧米6か国の公使を大阪城へ招き謁見。(未だ国の代表を名乗る、諦めていない証拠)

12月21日 徳川家が官位はく奪されたことにより事実上骨抜きになったので討幕の実行延期の書が出る。(討幕の密勅の取り消し)
12月25日 しかし西郷隆盛は江戸で撹乱工作を行わせ、その術中に嵌ってしまった幕府軍(江戸警備庄内藩)が薩摩藩邸を襲撃。幕府と薩摩が交戦状態に入った。
このことは大阪の幕府軍を激昂させた。自軍を抑えきれなくなった慶喜は薩摩藩掃討を掲げ軍勢を京都へ向かわせる。

慶応4年(1868)1月2日 幕府軍艦が兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上の戦争が開始。
1月3日 慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告(名目上の戦争開始)。薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は正式に戦闘状態となり、ここからが世にいう鳥羽・伏見の戦いが始まったという事になる。
(各戦争については流れのみ記録。詳しく知りたい方はそれぞれでお願いします。)

1月6日 兵力ではまだ上回っていた幕府軍でしたが各地で敗北撤退が続き、慶喜は自軍を捨て大阪城から江戸へ退却。

天草に関してはこの1月中旬に幕府の天領だったものが薩摩・肥後藩によって接収されている。

1月15日 慶喜は幕府主戦派の中心人物を罷免。
2月12日 慶喜江戸城を出て上野寛永寺に謹慎、反抗する意思がないことを示した(敗北宣言)。

3月6日 新政府は軍議で3月15日に江戸城総攻撃することを決議。
しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、新政府に江戸城攻撃の中止を求めた。

3月13日 幕府軍の代表として勝海舟が新政府軍西郷隆盛と会談。
要求事項を伝え、諸外国との良好な関係が必要でもあったので江戸総攻撃中止の命令を出す。

4月11日 江戸城無血開城。慶喜は水戸へ謹慎出発。

4月21日 有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう)が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配となった。


ここで争いは終わるのかと思いきや、そうはいかず。
納得のいかない幕府軍残党はより一層激化。
5月~7月 長岡城の戦い
5月15日 上野戦争
8月~9月 会津の戦い (戦いのピーク)
明治2年5月まで 五稜郭の戦い

鳥羽伏見の戦いから最後の五稜郭の戦いまでを戊辰戦争と言います。
(そしてこの戊辰戦争から大東亜戦争の間亡くなられた方々の御霊が祀られてるのが靖国神社です。祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々を祀るということです。ちなみに私が靖国参拝してきた時のブログ↓(ページ下)
昭和天皇に日本の心を見た-その2


7月17日 江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書

江戸を「東京」へ改称した。
東の京としたのは、京都に配慮しいわゆる「遷都(せんと・都を移す)」ではなく「奠都(てんと・都を定める、複数可)」としたかった為。


8月27日 明治天皇即位の大礼
9月8日 一世一元の詔 

簡単な訳
祖宗の御遺訓を受けて天皇になり、御歴代の大命によって年号を改める。まことにそれは良く治まれる御代の決まり事であり、永久に変らない標準である。私は、徳の薄い者であるが、幸せなことに祖宗の御霊のお蔭をもつて、謹んで皇位をつぎ、自らすべての政を行ふに当り、年号を改めて、国内の万民とともに、何事も一新してはじめようと思う。そこで、慶応四年を改めて、明治元年とする。これから旧制度を変えて、一世一元とし、それを永久の例と定める。当局の者は、これを行う様に計らへ。

(これが元になって明治22年(1889年)の「旧皇室典範」で君主一人につき一元号が制定された。)


9月20日 明治天皇京都から江戸へ発つ、東京行幸(東幸)。
230年間天皇が京都から出たことが無かった。行列の総数は3300人。海外新聞では絵付きで紹介される世界的大ニュースとなった。



という事で今回はここまで。お疲れ様でした。




  

Posted by hirok○ at 08:28Comments(2)明治~

2020年05月16日

明治を学ぶ



私の家系の近世文書(手紙や通達など)が昭和初期に活字でまとめられていたので、東京の古書店から取り寄せた。

まぁ私の家系の話は別の機会として、最近また歴史を学ぶ欲が湧いてきている。明治の日本を一から学びたいなと思うようになった。

この明治時代が現代の日本の基盤を作り、その知識と教訓を得ることも自分が何者であるかに通じるはずなのにこの歳まで素通りしてきたなと反省。私の個人ノートとしてここで記録していこうと思います。はじまり。


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明治時代って言うとなんか大昔の様に感じますが、明治元年は西暦1868年なのでたったの153年前なんですよね。

まず大政奉還から。

慶応3年(1867)10月14日
徳川慶喜が政権を天皇に返上すると朝廷へ申し入れた。
この絵がよく大政奉還のときに教科書に出ていたのでみなさんもご覧になったことがあるはず。上座に座っているのは明治天皇なのかな?って思っていました。これは違うそうです。

上座に座っているのは徳川慶喜で場所は江戸城ではなく京都の二条城で、
日付は大政奉還の前日10月13日。慶喜が大政奉還の意思を諸藩重臣に伝えている場面だそう。

翌14日に京都御所にいる天皇に大政奉還を伝えた。

大政奉還建白書写し(慶喜が調停へ出した書)

現代語訳(部分省略)

200余年子孫が将軍職を受け継いでいますが、今日の時勢になりましたのも結局は私の不徳のいたす所で
恥じ恐れ入る次第です。

そこで従来の古い慣習を改め政権を朝廷にお返しし、広く天下の議論を尽くしたうえで天皇のご決断を仰ぎ

心を一つに協力して共に皇国を守っていけば必ず海外諸国と肩を並べることができるでしょう。

10月14日     慶喜


慶喜が言う今日の時勢というのは、天皇に許しを得ず勝手に諸外国と日本不利な条約を結び、薩長をはじめとする討幕の混乱のこと。

この書では慶喜がへりくだって全てを天皇に譲りますと言っているように思えますが、現代の歴史研究によると、このときも朝廷には政治を司る組織も官僚もいないので実際は政治は自分のところへ戻ってくると考えていたとのこと。大政奉還は徳川家生き残りの戦術で、討幕派の目をそらす口だけの思惑だった。


ちょっとここで天皇について疑問に思う方の為に念を押して書いておこう。現在の日本国憲法に天皇は象徴と書いてあるから戦後象徴になったと思っている人がいると思いますが、少なくとも近代日本は戦前ももちろん一貫して天皇は象徴として存在しております。ここ重要。


討幕派は幕府が無くなったものだから、戦う名目が無くなりました。ですが、このままではやがて徳川体制の復活してしまうと危機感を持っていたのが牛深へよく来ていた薩摩藩大久保利通、西郷隆盛でした。


彼らは10月13日慶喜が重臣に大政奉還の意思を伝えた日すぐ動きます。
公家だった(元朝廷)岩倉具視に接触し討幕の密勅(討幕派に朝廷から出された秘密の命令)を取り付ける。

とても簡単に訳すと、慶喜は善良な人を殺し、朝廷の言う事を聞かず悪い奴だから滅ぼし、人民を安心させよ。天皇より。

また重要なので書くと、天皇がそんな事言うの?って思いますよね。このとき天皇は14歳しかも前天皇(孝明天皇)が崩御されて数か月後でなにも経験無いのにこんな国の大事なこと言えるかな?天皇が言ったか言っていないかはわからないが、この書が存在したことは事実ですので討幕派の勢いを強めるには十分だったと想像します。

11月23日薩摩藩3000挙兵して京都へ。
ときを同じく慶喜は新体制を学者西周(にしあまね)に指示し「別紙 議題草案」を作らせます。
主な内容
天皇は象徴
大君制(大統領制のような)
2院制議会
三権分立
首都は大阪

これを通せば徳川は生き残れると考えたのでしょう。

12月8日 岩倉具視が朝廷へ復職。
12月9日 討幕派が京都御所の門を封鎖占拠。(慶喜が入ってこれないように)
そして天皇の前で新政府樹立を宣言。

これが『王政復古の大号令』
内容
慶喜の将軍職辞職を勅許(ちょっきょ・天皇の許し)
摂政関白の廃止
江戸幕府の廃止
天皇と共に新政府が政治を行う

ここが明治維新の始まりだった。つづく。


この江戸幕府が作った御番所関係史跡が牛深にはあるんだもんな。
ほんと凄いなぁ(-。-)y-゜゜゜
ぴょんぴょんウォーキングで説明も受けながら歴史探索できるよ!







  

Posted by hirok○ at 05:57Comments(2)明治~

2015年10月25日

イラレが選ぶ幕末ドラマ10選

尊王攘夷(じょうい)を唱えた幕末の志士・武市半平太(錦戸亮)は、投獄された後、主君への不敬罪で切腹を命じられた次の瞬間、彼は自分がどこかの道に寝ていることに気付き、驚く。

そこは現代の田舎の村道だった。タイムリープしたと気付いていない半平太は、見るもの全てが珍しく戸惑うばかり。やがて彼は不審者として通報され、役場の職員・晴香(比嘉愛未)がやって来てのドタバタ創作劇。

先日始まったばかりのドラマ『サムライ先生』です。幕末のお話はほんとに面白いですね。この第一話の中でほんと簡単に日本が開国に至った経緯や攘夷や勤王の説明が行われていました。全く幕末を知らない人に向けての説明だったので、ざっくりでしたがまぁこういうドラマから歴史に興味を持ってもいいかもしれません。面白かったです。


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こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

なんといってもNHK朝ドラ『あさが来た』ご覧になってらっしゃるでしょうか?



ほんと幕末はドラマになる。

主役の「あさ」こと広岡浅子。晩年に日本女子大学を設立された方。

幕末、明治の武士社会からの名残りで男性上位の世界で「女性でも負けない」と女性にも学問をと孤軍奮闘するお話。

現在の安倍内閣が提唱する「女性が輝く社会」に通じる内容。

この浅子がどうしてそのように考えるに至ったのかに大きく寄与する人物が第一週第3話から出てくる。

嫁ぎ先への挨拶の為、大坂へ出かけていたあさ。そこで一人のお侍とぶつかってしまいます。
異国の挨拶言葉を使うそのお侍さんとの出会い。あさはこのとき後に自分に大きな影響を与える人だとは気づいていなかった。

それから数年経ち再開したとき、そのお侍さんはあさに「世の中はこれから大きく変わる」と告げる。日本の開国明治維新が先に見えていた。

このお侍こそが、後にあさの商いの師匠となる五代才助なのでした。

はいここ!試験に出ますよ!(何の?w)

このブログを読んでらっしゃる方はもう気付いてるはず。

前回、前々回に書いております。幕末に牛深へ来ていた勤王の志士の中に五代才助の名あったでしょ?

現在の放送中の朝ドラも牛深を想像して見ていただけると感慨深いと思います。

前半のドラマ『サムライ先生』の事に関係させる為、少しだけ書きます。

主人公、武市半平太(たけち はんぺいた)とは吉田松陰に共鳴し土佐勤王党を結成した人物でその加盟者には坂本龍馬はじめ中岡慎太郎、岡田以蔵ら尊皇攘夷派192人がいた。

幕末に牛深へ来ていた勤王の志士の中に岡田以蔵(るろうに剣心のモデル)の暗殺仲間の土佐藩士もいる。

勝海舟、坂本龍馬が牛深へ来たことがあるのかについては調査中で関係文献はいまのところはまだ見付かっておりません。
近くを通っているのは確かなのですが、その頃の大港牛深に寄らない事の方が不自然ではあるのでなんとか文献が見つかることを待望しています。

では、中岡慎太郎はどうだろうか。

調べたことがなかったので軽く調べて見ました。

まさに薩長同盟を模索しているそのときのこと。
元治元(1864)年12月、中岡は下関で西郷吉之助(隆盛)と会っている。
それまでは薩摩に敵意を抱いていたが、西郷の人徳に触れ方向転換し薩長の和解を模索する。

中岡が初めて薩摩へ訪れたのが、慶応元(1965)年閏5月6日。(ちなみに坂本龍馬はその一ヶ月前に薩摩に入っている)。
この辺り中岡自身の手記では詳しく書かれていない。特に薩摩でのことが欠損しているそうだ。

もちろん命を狙われている人たちなので文字で残すのは簡単にはいかないことは想像できるし幕府軍への偽装も考えられなくもない。

少しだけ書かれている部分。
【四日 朝六半呼子出船、七ッ比長崎著港。

五日 晴、午時長崎を発し薄暮長島洋を通る。

六日 小雨、海門嶽下を乗り、午時鹿見島に至る。】

ここに出てくる長島はもちろん牛深のお隣の長島だろう。やはり素通りなのか?牛深に寄港していないのか?
そして薩摩で西郷に会う。その帰りは宮崎周りで大分から下関へ。

ここでその帰り船には西郷も同船していて、このときの説得により西郷は薩長和解を決めたとされている。
帰りは牛深へ寄る機会はなさそう。


中岡2回めの薩摩藩入りは慶応3(1867)年2月30日。このときは詳しく書いてある。

中岡は太宰府から陸路をとり、肥後の松橋から乗船した。そして北薩の長島を通過する。「久呂の瀬戸激潮の難所あり」と、黒之瀬戸のことを記している。そして阿久根に着くと、商人の孫兵衛宅に宿泊し、「阿久根焼酎」を飲んでいる。

黒之瀬戸についてはこのブログで数回出てきているので省略。

このときは絶対牛深へ来ることは無理だなぁ。


今回の調べはここまで。可能性を残すとすれば一回目のときかな。
幕府の施設がある場所を避けたとするなら、なぜ他の倒幕論者は牛深に潜伏したりしたのかな?

密談や話し合いはいわゆる料亭で行われる。牛深はその条件も備わっている。
大久保利通のお妾さんがいたことは事実で牛深に来ていたのは確かなのに公式文書ではなぜ牛深に来たことを発見することができないのか?その他の牛深へ来ていたとされる志士についても同様。

ここが一つでも証明する材料があれば、芋づる式に歴史が塗り替わると思うんだけどなぁ。もちろんそんな簡単には行くわけないw
今回はここまで!幕末面白い!(あ、題名に10選と書きましたが冗談です)


【絵で見る江戸時代の牛深】
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製本中でございますので只今のご注文で11月1日以降の発送になります。  


Posted by hirok○ at 04:38Comments(0)御番所第二章

2015年10月15日

結局最後は増刷決定に行き着いた



こういう日本の歴史に名を残している人たちが幕末のまさにそのとき、牛深にいた。

薩長同盟は京都で締結されたとされているが、文書によって明確に結ばれたにも関わらず原本はいまだ見つかっていない。

牛深にいたとされる木戸孝允が締結後、記憶を頼りに会談の内容を6カ条にまとめ、内容の確認のため坂本龍馬に送付した書簡(慶応2年1月23日付)によりその内容は伝わっている。

牛深に残るこの時代の近世文書はほとんどのものが世に出ていない。したがって何が残っているのかも所持している方、または所持している方でもわからないということだ。

この中にその関係文書があったとしたらどうだろう。現時点では話を大きくしすぎなのはわかっている。あくまでも可能性がないわけではない。
今だけでも夢を見ていたいな。っていうことですW


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こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

ということで、『絵で見る~』の本は完売している状態なのですが、少しづつご注文をいただくのが続き在庫がなくお断りをするケースが出てきてしまっていました。この本の予想を超える反響に大変嬉しく思っております。

増刷したくてもデータが一部壊れていまして簡単にはいかない状態でした。

そうしていたところさらにうれしいことに牛深某所より予想を超える大量注文を頂きまして、こうなったらデータの再作成をするしかないなと数日取り組みました。

100冊限定と言っていましたので、少なくともその約束を破ってしまいますので購入頂いた方にお詫びを言わないといけないなと思いまして…大変申し訳ございません。牛深の事に興味を持っていただくことは私もとても嬉しいことですのでこういう判断になりましたお許し下さい。

ということで、少し多めに100冊増刷は致しますがご予約分を渡した後、第2版は余裕が残り10冊程度ございます。

価格はまだすえおき3000円に下げました。この機会に気になってらっしゃる方はお早めにご注文ください。

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製本中でございますので只今のご注文で11月1日以降の発送になります。
よろしくお願いいたします。
  


Posted by hirok○ at 05:51Comments(0)御番所第二章

2015年10月06日

牛深が大河ドラマに!?出版のその後・・・

購入して読んで頂いた方には未公開部分や文章自体もこのブログとは随分変わっていることに気付かれたと思います。
だから実際本を手にとって頂きたかったのです。天草の図書館には全館配備されてますので興味が少しでもある方はそちらでも読むことができますよ。

出版のその後ということですが、本の最後の考察部分での幕末の事。大久保利通のお妾さんが牛深にいた事を現在でも口伝にて残されていると書いておりましたが、その部分は最近新たに私が知ったことで嬉しい方に改変しないといけないようです。

牛深八景で現在軽巡長良のことを書いておりますが、そのときに読んだ島一春さんの本「天草灘にひびけ鎮魂の譜」に手がかりが書いてありました。

そのお妾さんはおつるおばさんの叔母にあたるという。

そして旧牛深市初代市長高橋重博氏が大正7年に書いた「我が町」にこう書いてあるとのこと。(全文は載せれないので抜粋、読みやすいようにカタカナ表記を現代仮名遣いに変更)

「徳川氏の天下滅亡に近づくや(中略)当時勤王の志士諸所に起りしも薩摩の志士、浪士はいずれも事の露顕せざらんことを希(ねが)い、此の地(牛深)に潜(ひそ)む者多し。その名ある者は木戸孝允、江口早之助、野村惣七、その他大久保利通は野田屋に、田中新兵衛、黒田清隆、五代才助等は矢田家に宿したり。是(これ)は此の地が薩州より長崎に向う要所なりしを以ってなり。」


はぁ!?まじっすか!!!驚きました!

木戸孝允!?・・・長州藩士じゃん!!薩摩藩士だけじゃなく長州からも来てる!?

大久保利通はわかりきってるので省略。

田中新兵衛!?・・・土佐藩士。幕末の四大人斬りの一人。いわゆる暗殺のプロ。あの「人斬り以蔵」と共に日本史の残る暗殺を行った人じゃん!!
ということは江口早之助というのは私は全く知りませんがもしかしてあの桂早之助の事なのか?(池田屋事件で坂本龍馬を討ったとされる人物の事。)

黒田清隆!?・・・薩摩で大久保利通の次の実質NO.2で後に総理にまでなる人じゃん!

五代才助!?・・・薩摩藩士。後に外交官の役職を歴任後、大阪府判事を務めてる人。幕末のこの時期長崎海軍伝習所に所属してるな。
実は絵で見る~の製作途中で勝海舟が牛深に来たのか?どうかを海軍伝習所の実習船の全航路を細かく調べていたのですがはっきり確定するまでにはいかなかったのでその部分の記事は本編でもボツになっていたのですが、勝海舟に近い人達が牛深へは確実に来ているな。
やはり牛深へ勝海舟や坂本龍馬が来てる可能性はまた一つ上がったと思った。

これはここを突破口にもっと詳しく調べる必要がありそうですね。

上記文章を書かれた初代市長さんなのですが私が牛深のことを調べる際に拝見していた古文書はお話によるとその方から譲り受けたものが数点ありました。もしかしたらその「我が町」自体もあるかも知れません。その初代市長さんの屋敷は幕末志士がよく来ていた屋敷で隠し部屋などの造りがあったお話も聞きました。

「事の露顕せざらんことを希(ねが)い」
バレたくない事とは倒幕もしくはもっと言うと薩長同盟の確認のことじゃないのか!?
薩長同盟から倒幕、そして明治維新は牛深で打合せされていた!?

機会があればそのことも私も「我が町」読んでみたいと思います。新しい発見があればまたここで公開していきますね。


日本の歴史の重要な部分が牛深で行われていたのかも知れない。しかも大人気幕末。多くの時代劇やドラマ映画になっている部分に牛深も関係していたという私の仮説に少しずつ近づいているように思います。

NHK大河ドラマにこの部分が将来なるかもしれない。夢話じゃないように思う。

これだけの史実があって大風呂敷広げ過ぎだと思われますか?みなさんはどう思われるでしょうか?



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こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!



前半書いたように牛深史天草史どころか日本の国の歴史に関係する史実を初めて公開された本なのです。ぜひ一読を希望。

気がついたら本日の発送分で私のところにある完成本は無くなってしまいました。^^;

おそらく牛深販売所にはまだあると思いますが確認はしておりません。完全に無くなってはいないと思いますが、これよりご注文いただいたら牛深より取り寄せて熊本から発送もしくはもう在庫切れということになりますので発送までに時間がかかったり、お渡しできない事もあると思いますので、その点をご了承ください。

いまのところ印刷データの関係でトラブルが起こっていますので未解決状態のママになっておりますので増刷は考えておりません。

日本全国に牛深出身者っていらっしゃるんですね、お申込みにご自身のことをご説明してくださる方がたくさんいらっしゃって読んでて嬉しく思いました。この度は誠にありがとうございました。みなさん牛深のこと離れていても好きなんだなぁと改めて感じました。
  


Posted by hirok○ at 03:49Comments(0)御番所第二章

2015年09月07日

在庫がつきてしまいそうなのです・・・

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

「絵で見る江戸時代の牛深」の製本が完了しまして順次発送作業を行っております。

まだお手元に届いてない方もいらっしゃると思いますがもうしばらく到着までお待ちください。



牛深八景よりも大きいB5サイズ全ページフルカラー。お金かかっただけあって印刷がとても綺麗です。

実は、残り20部ぐらいになってしまいました。
東北、関東、関西、四国、長崎、大分といろんなところに牛深出身の方がいらっしゃるんですね。
遠く離れてもここを見てくださってるのが嬉しいです。
購入していただいた方本当にありがとうございましたm(__)m

ちょっと印刷データの不具合があって、その関係で今のところ全く同じものの増刷はできません。増刷をどうするのかこの辺りは少し考えます。
違う形で印刷するか、サイズ変更するか、2冊に分けるかはたまた増刷しないか今のところ未定です。

欲しいと思ってらっしゃった方にはもう届いているとは思いますが、残り少ないのでまだの方はお早めにお願い致します。
売り切れてしまってお渡しできないというのは申し訳ないので。


お申し込みはこちら↓
絵で見る江戸時代の牛深
一般発売後はネットでも3500円になりますのでお早めに!

牛深八景をお持ちでない方はセット販売もございます。↓
牛深郷土愛セット
こちらは2冊合計よりなんと800円もお得!
ちなみに牛深八景(単品)もこの期間100円引きになっております。

さらに今だけ牛深八景第九景しおり付!

ぜひ、読んでいただきたいです。


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海の日のイベントの時に海彩館が道の駅になりまして「道の駅きねん切符」なるものが発売されています。

発売日にもちろん買おうと思って海の日イベントに行って海彩館いたのにいろいろイベント参加してたら買うのを忘れてましてww

この写真の切符は後日買ったもので137番という不甲斐ない番号になってしまいました。申し訳ございません。

みなさんも記念に一枚持っていてはいかかでしょうか?

そして海彩館へ行かれましたら、フェリー乗り場隣の案内所へ行って絵で見る~や牛深八景を同時購入!とか。なんて素敵!゚+.(◕ฺ ω◕ฺ )゚+.あはは  


Posted by hirok○ at 04:31Comments(0)御番所第二章

2015年08月12日

『江戸時代の牛深』の本は都市伝説ではなかった(汗)

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

予想以上に一冊の本へ纏めるのは時間が掛かってしまいました。早くからお申込みいただいた方には大変ご迷惑をお掛けいたしました。お待たせして申し訳ございませんでした。

発売日を8月24日ということでお伝えします。
製本上がるのがスケジュール的にそのあたりだと思いますので、24日前後発送致します。それまでにお振り込みの方はお願い致します。

あ、もちろん牛深にいる私の母をご存じの方は母へ言っていただけたら送料もかかりませんのでそちらでも大丈夫ですよ。よろしくお願いいたします。

一般発売は9/1日を予定しておりますが、前後するかもしれません。
一般発売は牛深八景と同じく観光協会牛深支部でもお取り扱いをお願いしておりますので、海彩館の観光案内所でも購入頂けると思います。お誘い合わせの上何卒よろしくお願いいたします。

ということで、リアルハイヤコちゃんプロジェクトの一つとして、今回のポスターが完成いたしました。


かわいいね。もう一つのパターンはそのリアルハイヤコちゃんの写真付。そちらは八景ブログにて掲載いたします。そちらも見てね!


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随分お待たせして申し訳ありませんでした。
その分内容もたくさん詰め込みましたし、九州一の劇作家に校正してもらったし、通常3500円のところ(一般発売ではこの金額です)ネット販売は3000円まで値段を下げて(お待たせしてご迷惑をお掛けした分)お渡しさせていただきます。

江戸時代の古文書(現在未公開)のものはじめ、もちろんみなさんご存知ないお話もたくさん掲載しておりますし、ブログの未公開部分も全て読めます。仮にこの牛深の内容をご自身で調べたいと思われて、調べようとすると長崎まで行かないと読めない古文書や写真も数点ありますのでこれだけで3000円では確実に収まりません。

費用の面から考えても一家に一冊3000円はお得だと思います。

お申し込みはこちら↓
絵で見る江戸時代の牛深
一般発売後はネットでも3500円になりますのでお早めに!

牛深八景をお持ちでない方はセット販売もございます。↓
牛深郷土愛セット
こちらは2冊合計よりなんと800円もお得!
ちなみに牛深八景(単品)もこの期間100円引きになっております。

さらに牛深八景第九景しおり付!

牛深も熊本細川家と繋がっていたなんてびっくりでしょ!大人気細川さん、もっと歴史研究が進めばこれでも将来町興し出来そうじゃん!
ハイヤもこの時代に生まれたし、江戸時代の牛深を牛深出身の方はみんな興味あるはず!?
  


Posted by hirok○ at 04:24Comments(0)御番所第二章

2015年06月23日

PV(プロモーションビデオ)的なもの

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!



発売が大変遅くなっておりますが、もうしばらくお待ちください。
今お申込みいただいている方発売日が決まり次第ご連絡させていただきます。

予約販売分の発送が7月中旬から下旬ぐらい(なるべく早くいたします)。
一般発売が8月になりそうです。ここを見て頂いている方を優先して価格は予約販売の方を安く設定しております。
販売サイトも用意しておりますが、正式発売日が決まるまではお申し込みはまだメールで構いません。
hirok0130@yahoo.co.jpまで。

発売日決定後の販売サイトはこちら↓
絵で見る江戸時代の牛深
http://hirok-studio.shop-pro.jp/?pid=90981927

牛深八景絵で見る江戸時代の牛深2冊セット
http://hirok-studio.shop-pro.jp/?pid=90983092

それではPVが完成いたしましたので公開でーす。
Shall we ダンス?


  


Posted by hirok○ at 06:30Comments(0)御番所第二章


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