2020年05月24日
明治を学ぶ2
前回明治維新の始まった慶応3年12月9日より続きます。
大政奉還で慶喜は徳川家生き残りの戦術で、討幕派の目をそらす口だけの思惑だったと書いたように、まだこの時点では政権を諦めてはいなかった。
12月9日小御所会議(新政府軍初御前会議)で徳川家完全排除の決議。
12月12日小御所会議の結論を知った慶喜は二条城から大阪城へ入る。
新政府軍と戦う戦略を練るためだと思われる。
12月16日 慶喜が欧米6か国の公使を大阪城へ招き謁見。(未だ国の代表を名乗る、諦めていない証拠)
12月21日 徳川家が官位はく奪されたことにより事実上骨抜きになったので討幕の実行延期の書が出る。(討幕の密勅の取り消し)
12月25日 しかし西郷隆盛は江戸で撹乱工作を行わせ、その術中に嵌ってしまった幕府軍(江戸警備庄内藩)が薩摩藩邸を襲撃。幕府と薩摩が交戦状態に入った。
このことは大阪の幕府軍を激昂させた。自軍を抑えきれなくなった慶喜は薩摩藩掃討を掲げ軍勢を京都へ向かわせる。
慶応4年(1868)1月2日 幕府軍艦が兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上の戦争が開始。
1月3日 慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告(名目上の戦争開始)。薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は正式に戦闘状態となり、ここからが世にいう鳥羽・伏見の戦いが始まったという事になる。
(各戦争については流れのみ記録。詳しく知りたい方はそれぞれでお願いします。)
1月6日 兵力ではまだ上回っていた幕府軍でしたが各地で敗北撤退が続き、慶喜は自軍を捨て大阪城から江戸へ退却。
天草に関してはこの1月中旬に幕府の天領だったものが薩摩・肥後藩によって接収されている。
1月15日 慶喜は幕府主戦派の中心人物を罷免。
2月12日 慶喜江戸城を出て上野寛永寺に謹慎、反抗する意思がないことを示した(敗北宣言)。
3月6日 新政府は軍議で3月15日に江戸城総攻撃することを決議。
しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、新政府に江戸城攻撃の中止を求めた。
3月13日 幕府軍の代表として勝海舟が新政府軍西郷隆盛と会談。
要求事項を伝え、諸外国との良好な関係が必要でもあったので江戸総攻撃中止の命令を出す。
4月11日 江戸城無血開城。慶喜は水戸へ謹慎出発。
4月21日 有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう)が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配となった。
ここで争いは終わるのかと思いきや、そうはいかず。
納得のいかない幕府軍残党はより一層激化。
5月~7月 長岡城の戦い
5月15日 上野戦争
8月~9月 会津の戦い (戦いのピーク)
明治2年5月まで 五稜郭の戦い
鳥羽伏見の戦いから最後の五稜郭の戦いまでを戊辰戦争と言います。
(そしてこの戊辰戦争から大東亜戦争の間亡くなられた方々の御霊が祀られてるのが靖国神社です。祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々を祀るということです。ちなみに私が靖国参拝してきた時のブログ↓(ページ下)
昭和天皇に日本の心を見た-その2)
7月17日 江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書
江戸を「東京」へ改称した。
東の京としたのは、京都に配慮しいわゆる「遷都(せんと・都を移す)」ではなく「奠都(てんと・都を定める、複数可)」としたかった為。
8月27日 明治天皇即位の大礼
9月8日 一世一元の詔
簡単な訳
祖宗の御遺訓を受けて天皇になり、御歴代の大命によって年号を改める。まことにそれは良く治まれる御代の決まり事であり、永久に変らない標準である。私は、徳の薄い者であるが、幸せなことに祖宗の御霊のお蔭をもつて、謹んで皇位をつぎ、自らすべての政を行ふに当り、年号を改めて、国内の万民とともに、何事も一新してはじめようと思う。そこで、慶応四年を改めて、明治元年とする。これから旧制度を変えて、一世一元とし、それを永久の例と定める。当局の者は、これを行う様に計らへ。
(これが元になって明治22年(1889年)の「旧皇室典範」で君主一人につき一元号が制定された。)
9月20日 明治天皇京都から江戸へ発つ、東京行幸(東幸)。
230年間天皇が京都から出たことが無かった。行列の総数は3300人。海外新聞では絵付きで紹介される世界的大ニュースとなった。
という事で今回はここまで。お疲れ様でした。
大政奉還で慶喜は徳川家生き残りの戦術で、討幕派の目をそらす口だけの思惑だったと書いたように、まだこの時点では政権を諦めてはいなかった。
12月9日小御所会議(新政府軍初御前会議)で徳川家完全排除の決議。
12月12日小御所会議の結論を知った慶喜は二条城から大阪城へ入る。
新政府軍と戦う戦略を練るためだと思われる。
12月16日 慶喜が欧米6か国の公使を大阪城へ招き謁見。(未だ国の代表を名乗る、諦めていない証拠)
12月21日 徳川家が官位はく奪されたことにより事実上骨抜きになったので討幕の実行延期の書が出る。(討幕の密勅の取り消し)
12月25日 しかし西郷隆盛は江戸で撹乱工作を行わせ、その術中に嵌ってしまった幕府軍(江戸警備庄内藩)が薩摩藩邸を襲撃。幕府と薩摩が交戦状態に入った。
このことは大阪の幕府軍を激昂させた。自軍を抑えきれなくなった慶喜は薩摩藩掃討を掲げ軍勢を京都へ向かわせる。
慶応4年(1868)1月2日 幕府軍艦が兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上の戦争が開始。
1月3日 慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告(名目上の戦争開始)。薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は正式に戦闘状態となり、ここからが世にいう鳥羽・伏見の戦いが始まったという事になる。
(各戦争については流れのみ記録。詳しく知りたい方はそれぞれでお願いします。)
1月6日 兵力ではまだ上回っていた幕府軍でしたが各地で敗北撤退が続き、慶喜は自軍を捨て大阪城から江戸へ退却。
天草に関してはこの1月中旬に幕府の天領だったものが薩摩・肥後藩によって接収されている。
1月15日 慶喜は幕府主戦派の中心人物を罷免。
2月12日 慶喜江戸城を出て上野寛永寺に謹慎、反抗する意思がないことを示した(敗北宣言)。
3月6日 新政府は軍議で3月15日に江戸城総攻撃することを決議。
しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、新政府に江戸城攻撃の中止を求めた。
3月13日 幕府軍の代表として勝海舟が新政府軍西郷隆盛と会談。
要求事項を伝え、諸外国との良好な関係が必要でもあったので江戸総攻撃中止の命令を出す。
4月11日 江戸城無血開城。慶喜は水戸へ謹慎出発。
4月21日 有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう)が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配となった。
ここで争いは終わるのかと思いきや、そうはいかず。
納得のいかない幕府軍残党はより一層激化。
5月~7月 長岡城の戦い
5月15日 上野戦争
8月~9月 会津の戦い (戦いのピーク)
明治2年5月まで 五稜郭の戦い
鳥羽伏見の戦いから最後の五稜郭の戦いまでを戊辰戦争と言います。
(そしてこの戊辰戦争から大東亜戦争の間亡くなられた方々の御霊が祀られてるのが靖国神社です。祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々を祀るということです。ちなみに私が靖国参拝してきた時のブログ↓(ページ下)
昭和天皇に日本の心を見た-その2)
7月17日 江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書
江戸を「東京」へ改称した。
東の京としたのは、京都に配慮しいわゆる「遷都(せんと・都を移す)」ではなく「奠都(てんと・都を定める、複数可)」としたかった為。
8月27日 明治天皇即位の大礼
9月8日 一世一元の詔
簡単な訳
祖宗の御遺訓を受けて天皇になり、御歴代の大命によって年号を改める。まことにそれは良く治まれる御代の決まり事であり、永久に変らない標準である。私は、徳の薄い者であるが、幸せなことに祖宗の御霊のお蔭をもつて、謹んで皇位をつぎ、自らすべての政を行ふに当り、年号を改めて、国内の万民とともに、何事も一新してはじめようと思う。そこで、慶応四年を改めて、明治元年とする。これから旧制度を変えて、一世一元とし、それを永久の例と定める。当局の者は、これを行う様に計らへ。
(これが元になって明治22年(1889年)の「旧皇室典範」で君主一人につき一元号が制定された。)
9月20日 明治天皇京都から江戸へ発つ、東京行幸(東幸)。
230年間天皇が京都から出たことが無かった。行列の総数は3300人。海外新聞では絵付きで紹介される世界的大ニュースとなった。
という事で今回はここまで。お疲れ様でした。
Posted by hirok○ at 08:28│Comments(2)
│明治~
この記事へのコメント
我が郷土の英雄、長岡藩の河合継之助も
靖国には、祭られてないのですね( ;∀;)
靖国には、祭られてないのですね( ;∀;)
Posted by 原田鈑金塗装 at 2020年06月02日 09:23
長岡藩も戊辰戦争で朝廷側と戦っているので・・・そうですね。
Posted by hirok○ at 2020年06月06日 20:11
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