2020年05月31日

明治を学ぶ3

明治元年(1868)9月20日 明治天皇京都から江戸へ発つ、東京行幸(ぎょうこう)から続きます。

10月13日明治天皇東京へ入る。

1000年続いた京都からなぜ東京へ移したのか、これを考えたのが大久保利通。
出来立ての新政府が国民へのアピールの為に行ったデモンストレーションだと言われている。

ん?これは現代ではアウトかもしれないなぁ。天皇の政治利用だよね。

日本の中心が京都ではなくなる事に対して京都の公家や市民からはもちろん反発がある。伊勢神宮も書簡にて抗議した。

京都の人々への配慮で12月22日明治天皇一旦京都へ戻る(還幸)。

3月28日 改めて東京へ入る(行幸)。

これ以後天皇は現代まで東京にいらっしゃるが、
有名な話、京都の方々は現代でも天皇は東京に貸している(京都から外出している)と思っている人が多いそうだ。

天皇が住んでいる場所が都だと定義されていると僕は思っていた。だから日本の首都は?と聞かれたら誰もが東京だと言うでしょう。大阪都構想の時にも天皇は大阪にいないから都という呼び名はおかしいと思った。

しかし、現在法律上東京は首都と定義されていないらしい!これは驚きだ。

これには平成30年2月13日の国会答弁にて安倍総理が質問され答えている。
『首都を東京であると直接規定した法令はないが、東京都が日本の首都であることは、広く社会一般に受け入れられているものと考えている』

じゃあ国旗国歌法みたいにはっきり規定したほうがいいと思いになるかもしれない。でも決めないのは、やはり京都への配慮なのだと思う。こういうとこも日本的で美しいと僕は思った。


この間まだ新政府軍と旧幕府軍の争い、戊辰戦争は続いております。

旧幕府海軍副総裁、榎本武揚が軍艦8隻と旧幕臣など約2000人で函館五稜郭を占拠、独立国家を宣言。
しかし幕府軍の士気は高まらず新政府軍の攻撃に耐えられず敗北。
明治を学ぶ3


明治2年5月18日 戊辰戦争は榎本武揚の降伏により終結。榎本武揚は2年半投獄。一緒に戦った土方歳三は戦死、新選組もここで終わった。

こうやって見てもやっぱり明治維新は軍事クーデターであり革命だよね。なんで明治革命って言わないんやろなぁ。新政府も後ろめたい気持ちがあったのかもなぁ。

明治2年6月29日 明治天皇が戊辰戦争の戦死者を慰霊するために創建したものが東京招魂社。
明治12年 靖国神社へ改名。

戊辰戦争の戦死者を慰霊とは書いたが新政府軍へ反抗したものは祀られていない。よって旧幕府軍、会津藩士、新選組、後に西南戦争で戦死する西郷隆盛などの魂は祀られていない。

この点、僕は彼らも近代化日本の為に命を失った先人として一緒に祀っていただきたいと考えるが、新政府軍の末裔方々感情からしたら難しいかなとも思う。

今日はここまで。


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Posted by hirok○ at 19:29│Comments(0)明治~
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