2020年09月10日

明治を学ぶ23

明治23(1890)年10月30日、教育ニ関スル勅語(教育勅語)発布。
明治を学ぶ23
1回目の衆議院議員選挙はいわゆる野党である「民党」が勝利。明治政府(与党)はこれ以上自由民権思想(自由や権利を主張する西欧思想)の拡大を恐れていた。明治天皇の側近元田永孚(もとだながさね・肥後)と井上毅(肥後・法制局長官)が起草。勅語ということは天皇が与えた言葉という意味で誰に与えたのかと言えば、山縣総理と芳川文部大臣へ与えたものだという形式をとった。御名御璽(ぎょめいぎょじ・天皇自筆書名と捺印)のあるものが帝国大学ほか直轄学校へ配られた。

この教育勅語は今も生きているのか生きていないのか問題についての私の意見は最後に記述する。まず、熊本の偉大な先人が起草したその中身へ。(原文では難しすぎるので文部省全文通訳より。)

「朕がおもふに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦(むつ)び合い、朋友互に信義を以って交り、へりくだって気随気儘(きずいきまま)の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまに々々天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かやうにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなほさず、汝らの祖先ののこした美風をはつきりあらはすことになる。
 ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがひ守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。」

さらに訳す。
「私が思うには、皇室の御祖先が我が国をおはじめになるにあたって、その規模がまことに広大で、かついつまでも動かないようになされたこと、御祖先はまた御身をお修めになり、臣民をおいつくしみになって、万世に渡って御手本をおのこしになった。私の臣民は忠を尽くし親に孝を尽すことを心掛け、臣民すべてが皆心を一つにして、代々この美風を作り上げてきた。以上のことが我が国体の優れたところであり、我が国の教育の基づく所もまたここにある。」

さらに続いて陛下が臣民に対して話しかけるように親しげにお呼びかけになり、私たちが常に守るべき道をおさとしくださっている。

あななたち臣民は父母に孝行を尽くし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互にむつまじくし、朋友には信義をもって交わらなければならなりません。誰に対しても身を慎んで無礼の挙動なく、常に自分を引きしめて気ままにせず、しかも世間の人に仁愛を及ぼすことが大切であります。また学問を修め業務を習って、知識才能を進め、徳ある有為の人となり、進んで公共の利益を増進し、世間に有用な業務を興すことが大切であります。また常に皇室典範・大日本帝国憲法をはじめ、その他の法令を守り、もし国に事変が起こったら、勇気を奮い一身をささげて、皇国のために尽くさなければならなりません。このようにして代々続いてきた皇祖神の命のままに天地と共に極まりない皇位の御盛運を助けるのが務であります。
なお以上の道をよく実行する者は、私の忠良な臣民であるばかりでなく、我等の祖先がのこした美風を表す者である。」
「これまで示した道は、私が新たに決めたものものではなく、皇祖皇宗の御子孫も一般の臣民も共に守るべきものである。またこの道はいにしえも今も変りがなく、かつ国の内外を問わずどこでも行われ得るものである。私はあななたたち臣民と共にこの遺訓を守り、それを実行することを切に願っている。 」

熊本の先人が残した言葉はなんと素晴らしい文章でありますか。教育勅語の石碑は阿蘇神社でも見たことありますがいろんな神社に置いてあると思います。ここでは熊本の先人ということで私も毎年初詣させていただいている熊本県護国神社の教育勅語石碑を載せておきます。
明治を学ぶ23
さすが、ここでは両先生のことまでしっかり残してあります。
他で見ない貴重な文章なのでこの両先生の説明文おさらい含め転載しておきます。
「井上毅先生は肥後藩士で儒学、国学を学び特に文筆に長していた。明治2年上京して司法省に入り、大久保利通、岩倉具視に重用され、有能な官僚として活躍した。特に枢密院書記官として大日本帝国憲法の制定に尽力し、法制局長官として侍講元田永孚先生と共に教育勅語の起草に心血を注ぎ、その後文部大臣となり輝く功績を遺している」
「元田永孚先生は肥後藩実学派の俊英であり、横井小楠に師事し、明治4年大久保利通に推挙されて宮内出仕となり、明治天皇の侍講、宮中顧問官、枢密院顧問官等に任ぜられ、明治天皇の御信任ことのほか厚く、聖旨により教育に関する勅語案文の起草に当り井上毅先生と共に心血を注ぎ世界普遍の道徳律を完成したのである。」

熊本先人の偉業をしっかり熊本で大事にしているのはとても嬉しい。
ということで調べてたら石碑のある場所載ってるじゃん。えーこんだけしかないの?
明治を学ぶ23
ちょっと待て、椿大神社は昨年普通に俺お参り行ってたじゃん。当時の写真を探した。
明治を学ぶ23
原文の横にこれがあった。教育勅語難しいって人はこれだけでもいいじゃない。いい石碑ですね。
今度大阪城公園の石碑も見に行くか。

話を本筋へ戻す。
この教育勅語はみなさん現在も生きているか生きていないかどちらだと思われますか?日本人の多くがもう有効でない(失効している)または重んじてはいけないまで思ってる方がいると思います。
昭和23(1948)年)敗戦後GHQにより圧力を受け、衆議院における「教育勅語等排除に関する決議」および参議院における「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって失効確認が決議されたから。

ここで発布時を思い返してもらいたい。「天皇が与えた言葉という意味で誰に与えたのかと言えば、山縣総理と芳川文部大臣へ与えたものだという形式をとった」と書いた。画像も載せたようにそこには御名御璽(天皇自筆書名と捺印)のみ。勅令(詔書)や法令時には御名御璽以外に天皇と臣民一緒に遵守するという意味から摂政や内閣、または大臣の署名捺印も必要である。
しかしこれにはない。それじゃあなぜ敗戦後国会で決議されたのか。それがこれ。
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左側に記載されている大正12(1923)年11月10日に大正天皇の名と摂政宮名で国民精神作興ニ関スル詔書(こくみんせいしんさくこうにかんするしょうしょ)として教育勅語を踏襲したものが発布されたからである。

お分かりいただけたであろうか。この詔書(左側)が廃止になっただけで教育勅語(右側)は、明治天皇がお伝えになられた言葉で廃止になっていない。というか明治天皇は伝えただけで、個人的言葉なのだから命令でもなんでもなく、ましてや法律でもないので国会で廃止することなんかできるわけがなかった。ゆえに教育勅語は今も生きている

だから僕も大声で言う。
私はこれから先も教育ニ関スル勅語をいつも心に留め大事にして、この道を体得実践できるように努めていきたいと思います。




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