2020年10月23日
明治を学ぶ32
明治33(1900)年5月10日、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇・20歳)ご成婚。皇后は公家九条家から15歳の時だった。
なぜ結婚を急いだのかと言うと、次の世継を早く確保する為である。
皇太子(大正天皇)が病弱だったのと、家系図を見ていただいてもわかると思いますが、明治天皇は皇后との間に子供がいなかったが、5人の側室の間に男子は5名生まれました。しかし後の大正天皇以外は若くしてお亡くなりになっている。結果世継がお一人しか生存していなかったのである。
明治33年5月19日、山縣総理により軍部大臣現役武官制が成立。
内容は名前のまま、軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)の就任資格を現役の大将・中将に限定する制度である。引退した軍人や軍人でない文官が軍大臣になれない制度。明治31年の隈板内閣時(明治を学ぶ30)に軍大臣が軍人でない人物を指名しかねない事態が起こった。この時は明治天皇の勅命により桂と西郷が大臣になった。このような危機がまた起こりらないよう山縣はこの法案を急ぎで作った。ただこの制度が今後の日本の分かれ目になっていく。
本当は職業軍人でない文民が軍隊に対して最高の指揮権を持つことでシビリアンコントロール(文民統制)ができるのにも関わらずこの法案が出来たために軍が独走することとなった。つまり予算審議の中で一番重要な軍事費を国会では審議するのだが、軍人から軍大臣が出るので国会よりも軍が上位になってしまった。
明治35年1月、日清戦争で冬季寒冷地での苦戦を強いられた経験を踏まえ、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦に向けた準備をしていた。青森歩兵第五連隊が青森市街から八甲田山に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件が起こる。八甲田雪中行軍事件という。訓練への参加者210名中199名が死亡。日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。
明治35年1月30日、日英同盟締結。
イギリスの清国における権益と日本の清国・大韓帝国における権益を相互に承認。さらにどちらかが戦争になった時相手が1か国なら中立を、相手が2か国以上なら参戦など軍事同盟も結んだ。
イギリスはロシアの南下政策の盾に日本を使いたかった。このときの有名な風刺画。
火中の栗という題名ですが、イギリスがロシアが狙っている栗(朝鮮)を日本にとって来いと指図していて、アメリカは気にしてない素振りでいるようにみえるがすぐ後ろにいるという風刺画。夏目漱石はこのとき「世界を動かしているイギリスがなぜ我々のような小さな国を紳士として扱い条約を結ぶ対象にしているか、そこには大きな意味の計算がある。それを我々の国はわからないで受け入れているのだろう。」と言ったそうだ。
正直これでもイギリスが日本を選んでくれてこのときの日本人はめっちゃ喜んだだろうな。個人的にはこのままずっと頭のいいイギリスと組んでて欲しかったわ。
当時の首脳陣で言うと、総理の桂と元老の山縣は日英同盟に賛成。元老の伊藤と井上馨はロシアと条約を結んだ方がいいと考えていた。伊藤はロシアの満州支配を認める代わりに日本の朝鮮支配を認めてもらうという満韓交換論を提唱していたが締結に至らず日英同盟を結ぶこととなった。
明治35年4月、不法に駐留していた満州のロシア軍に対し日米英は圧力をかけ満州からの撤退を3回に分けて約束させる。ロシアは1回目は撤退、2回目は約束を破り撤退せず、3回目以降あいまいな答えに終始、答えを遅らせたりする。このときのロシア軍満州総司令官クロパトキンの言葉が残っている。「日本と戦争?軍事力を持って散歩するようなものだよ」敵にすらならないと思っていた。
ね?今の北方領土交渉もはぐらかしてばっかで一緒やろ?まじロシアはクソなんすわ。この時も今も日本を馬鹿にしてるんだよね。
明治36年5月、満州のロシア軍が国境を越え大韓帝国内へ軍地基地を建設。これが国内で報道されると庶民たちの間で開戦論が強くなっていく。日本人として怒るのは自然なことだと思う。
明治36年6月、東京帝大法学部教授・戸水寛人ら7人が桂総理へ日露開戦の意見書を提出。七博士意見書(しちはくしいけんしょ)という。
桂内閣の外交を軟弱であると糾弾。ロシアの満州からの完全撤退を唱え対ロシア武力強行路線の選択を迫った。
新聞各紙が掲載。世論は開戦論が主流になっていたので大反響となる。
明治37年2月3日、山東省駐在の日本領時から「旅順のロシア艦隊は修理中の1隻以外すべて出港、行方は不明」との一報。日本に戦争を仕掛けてくるのではないか?と懸念されたが実際ロシアがこのとき本当に日本を攻めようとしてたかどうかは現在もわからず裏がとれていない。これがきっかけになってしまったということはそれだけ緊迫していた状況を表している。
2月4日、緊急御前会議で開戦を決定。ついに始まってしまう。
というところで次回。
なぜ結婚を急いだのかと言うと、次の世継を早く確保する為である。
皇太子(大正天皇)が病弱だったのと、家系図を見ていただいてもわかると思いますが、明治天皇は皇后との間に子供がいなかったが、5人の側室の間に男子は5名生まれました。しかし後の大正天皇以外は若くしてお亡くなりになっている。結果世継がお一人しか生存していなかったのである。
明治33年5月19日、山縣総理により軍部大臣現役武官制が成立。
内容は名前のまま、軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)の就任資格を現役の大将・中将に限定する制度である。引退した軍人や軍人でない文官が軍大臣になれない制度。明治31年の隈板内閣時(明治を学ぶ30)に軍大臣が軍人でない人物を指名しかねない事態が起こった。この時は明治天皇の勅命により桂と西郷が大臣になった。このような危機がまた起こりらないよう山縣はこの法案を急ぎで作った。ただこの制度が今後の日本の分かれ目になっていく。
本当は職業軍人でない文民が軍隊に対して最高の指揮権を持つことでシビリアンコントロール(文民統制)ができるのにも関わらずこの法案が出来たために軍が独走することとなった。つまり予算審議の中で一番重要な軍事費を国会では審議するのだが、軍人から軍大臣が出るので国会よりも軍が上位になってしまった。
明治35年1月、日清戦争で冬季寒冷地での苦戦を強いられた経験を踏まえ、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦に向けた準備をしていた。青森歩兵第五連隊が青森市街から八甲田山に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件が起こる。八甲田雪中行軍事件という。訓練への参加者210名中199名が死亡。日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。
明治35年1月30日、日英同盟締結。
イギリスの清国における権益と日本の清国・大韓帝国における権益を相互に承認。さらにどちらかが戦争になった時相手が1か国なら中立を、相手が2か国以上なら参戦など軍事同盟も結んだ。
イギリスはロシアの南下政策の盾に日本を使いたかった。このときの有名な風刺画。
火中の栗という題名ですが、イギリスがロシアが狙っている栗(朝鮮)を日本にとって来いと指図していて、アメリカは気にしてない素振りでいるようにみえるがすぐ後ろにいるという風刺画。夏目漱石はこのとき「世界を動かしているイギリスがなぜ我々のような小さな国を紳士として扱い条約を結ぶ対象にしているか、そこには大きな意味の計算がある。それを我々の国はわからないで受け入れているのだろう。」と言ったそうだ。
正直これでもイギリスが日本を選んでくれてこのときの日本人はめっちゃ喜んだだろうな。個人的にはこのままずっと頭のいいイギリスと組んでて欲しかったわ。
当時の首脳陣で言うと、総理の桂と元老の山縣は日英同盟に賛成。元老の伊藤と井上馨はロシアと条約を結んだ方がいいと考えていた。伊藤はロシアの満州支配を認める代わりに日本の朝鮮支配を認めてもらうという満韓交換論を提唱していたが締結に至らず日英同盟を結ぶこととなった。
明治35年4月、不法に駐留していた満州のロシア軍に対し日米英は圧力をかけ満州からの撤退を3回に分けて約束させる。ロシアは1回目は撤退、2回目は約束を破り撤退せず、3回目以降あいまいな答えに終始、答えを遅らせたりする。このときのロシア軍満州総司令官クロパトキンの言葉が残っている。「日本と戦争?軍事力を持って散歩するようなものだよ」敵にすらならないと思っていた。
ね?今の北方領土交渉もはぐらかしてばっかで一緒やろ?まじロシアはクソなんすわ。この時も今も日本を馬鹿にしてるんだよね。
明治36年5月、満州のロシア軍が国境を越え大韓帝国内へ軍地基地を建設。これが国内で報道されると庶民たちの間で開戦論が強くなっていく。日本人として怒るのは自然なことだと思う。
明治36年6月、東京帝大法学部教授・戸水寛人ら7人が桂総理へ日露開戦の意見書を提出。七博士意見書(しちはくしいけんしょ)という。
桂内閣の外交を軟弱であると糾弾。ロシアの満州からの完全撤退を唱え対ロシア武力強行路線の選択を迫った。
新聞各紙が掲載。世論は開戦論が主流になっていたので大反響となる。
明治37年2月3日、山東省駐在の日本領時から「旅順のロシア艦隊は修理中の1隻以外すべて出港、行方は不明」との一報。日本に戦争を仕掛けてくるのではないか?と懸念されたが実際ロシアがこのとき本当に日本を攻めようとしてたかどうかは現在もわからず裏がとれていない。これがきっかけになってしまったということはそれだけ緊迫していた状況を表している。
2月4日、緊急御前会議で開戦を決定。ついに始まってしまう。
というところで次回。
Posted by hirok○ at 03:55│Comments(0)
│明治~
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