2024年09月21日
勝海舟、牛深へ来たり!
こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!
随分久しぶりの様に思います。私牛深へ戻ってきておりまして、ブログも書きたいと思っておりましたが予定とはうまくいかないもので、帰ってきてから新しく牛深の歴史を調べ、書きたいことが沢山あるのですがまとめる時間が足りません。
今回書くのも、最終稿ではなくメモとしてこちらに記録いたします。
今日は本渡で仕事を片付けた後、ちょっとアーカイブスへ寄ったのですが普通に週末休館でした。これって・・・平日働いている人はいつ調べにいけばいいんでしょう?
次に河浦図書館へ行きました。
初めて行ったのですが、崎津が世界遺産になったためでしょうか?こちらの郷土資料室は充実していて、私の知らない本(過去の物)も一冊二冊じゃなく何十冊もありました。河浦図書館はまた行く必要がありそうです。絶対私しか持ってないだろうという100年以上前の本も平成になって復刻されていたり、これには驚きでした。
まさに私にとってはその空間は宝の山でした。
牛深帰ってきて、最初に勝海舟が牛深へ来たのか?とうのを確定したくて調べていました。
そのお話は大きなテーマでもありますので、またゆっくり書きます。結論だけ先に言いますと
『勝海舟は確実に牛深へ来ている。安政五年(1858年)5月18日に』
どうして確定できるのかと言うのは、またおいおい。
その中で、牛深には2回来ているのではないか?と言われていることを知りました。
先ほどの安政5年の5月は確定。もう一回は、記録によると『天草の西海岸サグチ』と書いてあるのが天草歴史家の間では牛深の須口(スグチ)だと考えられるそうです。
私としては1回は確定できたので十分だったのですが、今日河浦教育委員会が合併前に発行していたものをがあったのでこの二つの文章を見ていただきたい。


まず宿泊所と書いてある方。
安政4年に富岡へこの後牛深へ行く途中崎津へ寄ったとの事。
ポイントはここです。確かに安政4年に富岡へは行った。この後が他の史料には『サグチ』と記録されているのです。
2枚目の砲弾の話、確かにこの同時期長崎周辺では咸臨丸で砲弾射撃練習をしている。崎津でやっていてもおかしくはない。
実際やっててその話が残っていることと、吉田邸(庄屋宅)に泊った話まであるとすると、サグチは崎津の事なのか?と思った。
となると、崎津は世界遺産になったのにも関わらずw牛深から勝海舟も奪うのか?・・・ということは置いといて。
少し否定的な意見も残しておこう。
最初の宿泊所の部分に書いてある安政4年十月十日練習艦観光丸で富岡に来航・・・と書いてある。
これは間違いの可能性が高い。いくつか関係文書を探してみたのですが、実は安政4年3月に観光丸は長崎を離れ、築地で練習艦になっている。
10月に観光丸で富岡に行くことは不可能なのだ。
ただ安心して。観光丸では無理だけど入れ替わりに来たヤパン号。これがあの有名な坂本龍馬も乗っていた咸臨丸、これで富岡に来ている。これも確定できる。
富岡の寺に泊った後の行動が実は、隠密行動をしているのか?ぼかしてあるのか?わかりませんがはっきりしていない。
何度もいうように残っているのは『西海岸のサグチ』というところへ泊ったことだけ。
じゃあ、新情報がでるまでは、こう考えるのはどうだろう?
崎津に関係する話が残っている。
当時幕府の施設御番所までおかれていて歓楽街もある牛深へ行った可能性も高い。(天草へ行くのに牛深へ行かないことは当時の状況は考えにくい)
これを総合して、富岡の後、崎津へ寄って、牛深で泊ったとしたらどうだろう?
サキツとスグチと初めて聞いた乗組員が混同して、記録としてはサグチが残ったと考えたら、崎津も牛深もハッピーじゃん?
そしてこの話は、江戸幕府討幕。明治維新。日本の大きな転換点へと繋がっているのですが・・・この意味がわかる天草の方がどれほどいらっしゃるでしょうか?今後のブログにご期待あれ。
というところで、お久しぶりのブログはおしまい。牛深帰ってきてブログ書かないの?読んでたんだけどって数人言われました。実際読んでくださっていた方と直接お会いするのは恥ずかしさもあり、嬉しくもありました。また読んでいただけましたらいいなぁと思います。
はじめましての人ははじめまして!
随分久しぶりの様に思います。私牛深へ戻ってきておりまして、ブログも書きたいと思っておりましたが予定とはうまくいかないもので、帰ってきてから新しく牛深の歴史を調べ、書きたいことが沢山あるのですがまとめる時間が足りません。
今回書くのも、最終稿ではなくメモとしてこちらに記録いたします。
今日は本渡で仕事を片付けた後、ちょっとアーカイブスへ寄ったのですが普通に週末休館でした。これって・・・平日働いている人はいつ調べにいけばいいんでしょう?
次に河浦図書館へ行きました。
初めて行ったのですが、崎津が世界遺産になったためでしょうか?こちらの郷土資料室は充実していて、私の知らない本(過去の物)も一冊二冊じゃなく何十冊もありました。河浦図書館はまた行く必要がありそうです。絶対私しか持ってないだろうという100年以上前の本も平成になって復刻されていたり、これには驚きでした。
まさに私にとってはその空間は宝の山でした。
牛深帰ってきて、最初に勝海舟が牛深へ来たのか?とうのを確定したくて調べていました。
そのお話は大きなテーマでもありますので、またゆっくり書きます。結論だけ先に言いますと
『勝海舟は確実に牛深へ来ている。安政五年(1858年)5月18日に』
どうして確定できるのかと言うのは、またおいおい。
その中で、牛深には2回来ているのではないか?と言われていることを知りました。
先ほどの安政5年の5月は確定。もう一回は、記録によると『天草の西海岸サグチ』と書いてあるのが天草歴史家の間では牛深の須口(スグチ)だと考えられるそうです。
私としては1回は確定できたので十分だったのですが、今日河浦教育委員会が合併前に発行していたものをがあったのでこの二つの文章を見ていただきたい。


まず宿泊所と書いてある方。
安政4年に富岡へこの後牛深へ行く途中崎津へ寄ったとの事。
ポイントはここです。確かに安政4年に富岡へは行った。この後が他の史料には『サグチ』と記録されているのです。
2枚目の砲弾の話、確かにこの同時期長崎周辺では咸臨丸で砲弾射撃練習をしている。崎津でやっていてもおかしくはない。
実際やっててその話が残っていることと、吉田邸(庄屋宅)に泊った話まであるとすると、サグチは崎津の事なのか?と思った。
となると、崎津は世界遺産になったのにも関わらずw牛深から勝海舟も奪うのか?・・・ということは置いといて。
少し否定的な意見も残しておこう。
最初の宿泊所の部分に書いてある安政4年十月十日練習艦観光丸で富岡に来航・・・と書いてある。
これは間違いの可能性が高い。いくつか関係文書を探してみたのですが、実は安政4年3月に観光丸は長崎を離れ、築地で練習艦になっている。
10月に観光丸で富岡に行くことは不可能なのだ。
ただ安心して。観光丸では無理だけど入れ替わりに来たヤパン号。これがあの有名な坂本龍馬も乗っていた咸臨丸、これで富岡に来ている。これも確定できる。
富岡の寺に泊った後の行動が実は、隠密行動をしているのか?ぼかしてあるのか?わかりませんがはっきりしていない。
何度もいうように残っているのは『西海岸のサグチ』というところへ泊ったことだけ。
じゃあ、新情報がでるまでは、こう考えるのはどうだろう?
崎津に関係する話が残っている。
当時幕府の施設御番所までおかれていて歓楽街もある牛深へ行った可能性も高い。(天草へ行くのに牛深へ行かないことは当時の状況は考えにくい)
これを総合して、富岡の後、崎津へ寄って、牛深で泊ったとしたらどうだろう?
サキツとスグチと初めて聞いた乗組員が混同して、記録としてはサグチが残ったと考えたら、崎津も牛深もハッピーじゃん?
そしてこの話は、江戸幕府討幕。明治維新。日本の大きな転換点へと繋がっているのですが・・・この意味がわかる天草の方がどれほどいらっしゃるでしょうか?今後のブログにご期待あれ。
というところで、お久しぶりのブログはおしまい。牛深帰ってきてブログ書かないの?読んでたんだけどって数人言われました。実際読んでくださっていた方と直接お会いするのは恥ずかしさもあり、嬉しくもありました。また読んでいただけましたらいいなぁと思います。
Posted by hirok○ at 21:19│Comments(0)
│牛深御番所
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