2020年10月20日

明治を学ぶ30

明治29(1896)年6月15日、明治三陸地震津波が起きる。

震源地三陸沖200km。地震の震度は2~3で大きい地震と感じなかった為津波非難が遅れた。震源のマグニチュードは8.2~8.5(後の関東大震災より大きい)だった。

死者約2万2千人。被害家屋1万戸以上。

このときの災害時救護活動を行ったのが日本赤十字社だった。
明治10年、西南戦争時熊本に博愛者設立。
明治20年、日本赤十字社に改称。

日清戦争後の産業革命。
明治29年、豊田佐吉が自動織機を開発。(豊田自動車の元の元)
生産性が飛躍的に向上。

明治30年、鉄鋼の国産化を目指し官営八幡製鉄所が建設開始される。34年操業。

下関条約の賠償金を金で受け取る。
明治30年10月、当時の欧米のスタンダードだった金本位制に移行。
軍艦・兵器・鉄鋼・機械・綿花を輸入。
生糸・絹製品・綿製品・石炭を輸出。
金本位制導入で貿易が飛躍的に拡大した。

朝鮮に話は戻る。
明治30年10月12日、ロシア公使館に籠る高宗に国民が反発していたので、高宗は宮殿に戻り大韓帝国に改称、独立宣言を出した。

高宗は皇帝に即位。清と同格の皇帝を名乗ることで外国に清と対等だという事を示す目的だった。

明治31年3月27日、ロシアはシベリア鉄道を満州経由でウラジオストクまで通し、大連、旅順を清より租借して念願の不凍港を手に入れた。ロシアの南下政策は朝鮮のすぐ隣まで来ていた。
明治を学ぶ30

ロシアは露清密約を拡大解釈し満州鉄道周辺に都市・鉱山を開発。ロシアの行政権を適用し治外法権となった。
日本からの抗議を予期したロシアは4月25日、西・ローゼン協定を日本と結び朝鮮半島内での日本の経済的優位を認めた。実質日本の朝鮮半島での影響力を確保しロシアの満州(遼東半島)進出を黙認することとなった。

ここの駆け引きは難しいけど朝鮮抑えて、清との間にロシア挟むのも一つの手だなって思ったんだろうな。日露両方WINWINだろう。ただ歴史はこのままでは終わらない。

ここで清の租借地を整理しておく。
日清戦争の多額の賠償金を払うため清はロシア、ドイツ、イギリス、フランスからお金を借りることとなった。その代りに租借地を要求され契約をする。
租借地とは国家間の合意により貸与される領土。租借国が統治権を行使することが多い。
ロシア(大連と旅順)、イギリス(香港と威海衛)、ドイツ(膠州湾・こうしゅうわん)、フランス(広州湾)となった。

明治31年2月6日、日本に初めて自動車が走る。フランスによるガソリン車だった。馬無き馬車に日本人は衝撃をうけた。しかし試走を行うも出資者は現れずフランスへ返却。6年後(明治37年)国産自動車第一号(山羽敷蒸気自動車・岡山)が出来る。初めて見たものを6年で開発する日本の技術力はこの時点ですでに備わっていた。

明治31年3月2日、維新後30年会っていなかった徳川慶喜が明治天皇と謁見する。
幕末幕臣だった勝海舟は徳川慶喜と西郷隆盛の名誉回復が苦心30年最後の仕事だと考えていて手筈を整えた。

慶喜は徳川家葵の紋の羽織姿で皇居へ。人払いをして天皇・皇后3人だけで食事をした。
謁見後明治天皇は伊藤博文に『やっと罪滅ぼしができた。お互い仕方が無かったと語り合った』と言った。

明治31年5月30日、日清戦争後の財政難を乗り切る為、第3次伊藤内閣は地租増税案を国会に出す。
これに大隈重信と板垣退助が反発。仲が悪かった二人が反増税と反藩閥政治という点で野党が合意し憲政党を設立。
選挙で勝利し初の政党内閣「隈板内閣(わいはんないかく)」が誕生する。各大臣は憲政党から選ばれるが、陸軍海軍大臣は西郷(薩摩)と桂(長州)留任となる。

伊藤は国民の多数の投票により国の決定がされるが、このときの日本臣民はまだ政治を考える能力が低くはたして本当に政党政治が正しい方向に進むのか疑問に思っていた。また明治天皇もこの内閣の政治手腕に懐疑的であった。

明治31年6月30日、隈板内閣発足同時に伊藤博文総理を辞職。これでまたゆっくり世界情勢を眺めることが出来ると考えたのでしょう。
8月19日、伊藤アジア漫遊へ出かける。大韓帝国と清へ。
8月25日、京城(ソウル)で高宗と会談。思いの外歓待をうけた。
9月15日、北京で李鴻章と会談。
9月20日、親日派・光緒帝(こうしょてい)らと会談。日本に習い清も近代化をしたかった。
しかし21日、西太合(光緒帝の叔母)が親日を激昂。改革に反対し光緒帝を幽閉した。
これをきっかけに親日派の清の学生や若手官僚は急激に近代化した明治維新を学ぶため日本への留学が増える。

明治31年11月8日、隈板内閣総辞職。
そのきかっけとなった事件。
10月31日、文部大臣尾崎行雄の共和演説事件だった。「日本が共和制ならば三井・三菱が大統領になるだろう」と言った。これは権力と政商(政府の商売)癒着を批判した発言だったが、多方面で批判が起きる。
皇室廃止が前提の発言は「不敬」と宮内省が批判、政商と繋がる新聞が批判し、党内の大臣ポスト争いに発展。憲政党内部分裂、ついに隈板内閣わずか4か月で総辞職することとなる。

実際の国柄を見て政治はしないとこうなるんだね。左の民権派が実際政権とったらこうなるのに平成でもやっちゃいましたよね私たち。明治勉強してなかったから同じ間違い繰り返してたね。でもここで学べて良かった。

第2次山縣内閣成立。政党勢力の抑え込みを行った。政党員の官僚登用制度を改正。

明治31年12月18日、憲法発布時に勝の働きにより西郷の名誉回復は行われていた西郷隆盛の像が東京上野に完成。高村光雲作。本来薩摩出身者たちは皇居の近いところに作りたかったが許されなかった。上野になったのは上野戦争(戊辰戦争内)で薩摩藩兵を西郷が指揮したことに由来する。
復権に尽力した勝海舟は除幕式には病欠、翌月明治32年1月75歳で死去。




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