2015年05月12日

長崎の御番所 ㉟

『牛深御番所絵図 其の三十五』クリックにて拡大
長崎の御番所 ㉟

 長崎資料「諸官公営絵図」により、長崎港内警固に当ったそれぞれの番所写真に収め、その写真をもとに模写して、再度写真に撮ったものをここに紹介することとした。

 福岡黒田藩の西泊番所、佐賀の鍋島藩の戸町番所が長崎港口に対峙して、長崎港内を守備する形になっている絵図である。

 両番所は沖の両番所と呼ばれ、双方合わせて千人の藩士が詰めて千人番所とも呼ばれていた。

 長崎奉行所は立山役所と西役所の二つになって、立山役所は唐船を始め、諸外国オランダ、イギリス、ポルトガル、ロシア等々の来航船を警固した。

 西役所は唐船をはじめ対外交易を所轄し、長崎会所の運営を掌握する役割があった。

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寛永18年(1641)幕府は筑前藩(藩主黒田氏)に長崎港警備を命じ、さらに寛永19年(1642)佐嘉藩(藩主鍋島氏)に対しても、筑前藩と隔年交代で長崎港の警備に当たることを命じた。これにより長崎港口を押さえる西泊と戸町に番所が設けられた。 千人番所の内訳は中老以下物頭その他侍25人、足軽160人、水主320人等両番所合わせて1,000人ということである。

長崎港の警固にこれだけ人員の配置をしたということでどれほど重要視していたのかはわかる。
もちろん絵でもわかるように遠見番所だけでなく牛深と同じ御番所も設けられている。

牛深と同じく御番所の建物などはもちろん残っていないが、当時の石垣や石垣、御番所境内と掘られた石柱が残っておりもちろん県、市の文化財指定されていて説明板や石碑など整備されている。牛深にも当時の石垣などは残っているが御番所があった場所の文化財指定または御番所説明板などは設置されていない。
御番所があった場所の現在を瀬崎側から撮影。
長崎の御番所 ㉟
Aコープの建物がそのまま御番所、階段状になっている凹みに御用船が繋がれていた。


ちなみに郷土史家の方の絵の元になっている「長崎名勝図絵」の執筆は文化、文政年間(1804-1829)だと思われるが、昭和になり「長崎名勝図絵」として現代仮名遣いに詳訳されたものがある。これを研究執筆されたのが丹羽漢吉先生で、ここまで読んでくださってる方はピンと来てると思いますが、もちろん牛深遠見番役人のご子孫の方ということになる。

長崎の御番所 ㉟



長崎の御番所 ㉟


【ブログ内で公開している文章、その他イラスト、絵などについて郷土史家の方が何十年も掛けて研究した知的財産でございますので断りなく保存・転載することを一切お断りさせて頂いております】

 



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Posted by hirok○ at 20:00│Comments(0)御番所第二章
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