2014年11月30日

現代遠見番所最前線その3

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

今回は遠見番所の3回めということで前々回からの続きです。
(誤解がないように書いておきます、今書いている記事は遠見番所の事で御番所についてではありません。遠見番所と御番所を混同されないようにお願い致します。)

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江戸時代の長崎貿易方法を簡潔にまとめ記載します。
この長崎貿易方法が日本の貿易方法と思ってもらって構いません。

糸割符制度(1604年 - 1655年)
この時代の主な輸入品は生糸であった。日本はこの支払に多量の金や銀を使用していた。
この糸割符制度とは国内の金銀流出を縮小させる為の日本主導の貿易方法である。

1665年この不平等に中国商人側が反発。逆にこの制度を悪用され日本側が不利になるようになった為この制度は廃止され、いわゆる売手と買手が直接言い値を決める相対売買仕方(自由貿易)に代わる。

自由貿易により貿易量は増大したが、その支払にまた金銀の流出も増大。これを長崎奉行が抑制するために行ったのが貨物市法(1672年 - 1684年)である。

貨物市法とは目利き商人が鑑定を行い入札を行う制度で日本側が主導権を持つことが出来た。だが入札を行うということでいつの時代も同じく汚職と中国側の薄利多売で金銀流出抑制は思うようにいかずこの制度も廃止される。

定高貿易法(1685年 - 1714年)
ここからが天草にとってとても重要になります。

金・銀による貿易決済の年間取引額に一定の上限(「定高」)を設定した。
わかりやすく書くと、国や船につき取引の上限を定めた。わざわざ船で持ってきた積み荷だけどこれ以上は取引出来ませんので本国へ持って帰ってくださいってことです。

中国の時代背景は『現代遠見番所最前線その1』で書きました清(中国)の遷界令(海禁)が前年1684年に解除され清国船(唐船と呼ばれるもの)の国内出入りが急増していた。
確認しておきます。この時代はまだ日本国内は長崎でしか貿易は許されておりません。

持って帰れって言われてもなぁ・・・どうせだったら帰り道で投げ売りでも売りさばけと思うのが当たり前。
その帰り道が天草だった!

しかもその帆船が必ずといっていいほど通り立地上、シケ明けや風待ち、荷物の積み替えなどに最適だった場所。それが我らが牛深だったのです。

定高を超える積み荷に関しては銅や俵物などとの物々交換が徐々に行われるようになった。
この俵物についてはこれも重要大ですので後日に特筆致します。

続く

現代遠見番所最前線その3









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Posted by hirok○ at 04:47│Comments(0)遠見番所
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