2015年03月30日

牛深御番所建物図 ⑤

『牛深御番所絵図 其の五』クリックにて拡大
牛深御番所建物図 ⑤

 港の御番所は牛深浦の船津地先に建設することに問題なく、用地は既に埋め立てられ、空地となっていたもので、船津の所有者から長崎奉行所が買い取った。

 牛深浦は瀬崎と船津地先の間から、始橋(はじめばし)を通り抜け奥まったところまで、岸辺の石垣はこの時代には既に築かれていた。船津側の護岸も同様のことである。

 この両岸の石垣については、先祖の人々が牛深の狭隘(きょうあい)な土地を少しでも広くしたい願いで築いたものと思われ、その努力の偉大さに界隈に生れ育った者にとって、驚愕と同時に今日なお称賛に価する。

 入江は新田の辺りまで続いて、細い川筋があり暗渠(閉水路)や交差する道路がある。

 称念寺の下辺りから、岡三区の観音様の下辺りまで「浦」と読んでいた。更に此処あたりから瀬崎まで「上げ」と言い、元の警察署あたりから岡東に向けてもんちん町があった。

 御番所の建物については、その平面図が長崎奉行所の古文書に、合間に折り込まれる形で存在する。「一枚の絵」の外観など含めて次のような建物であったと思われる。

 瓦葺き中二階の建物で、大広間、普請役の二部屋、遠見番の詰所一部屋、玄間出入口三ヶ所、建物の北側にわたり廊下と湯殿、南側に別の湯殿、西側に薪小屋、大広間の回りは廊下がめぐっていて、東向きの正面の外部に相印台、三種武器を立て置く台座があり、敷地の東側角に石燈籠、その右へ大型船への乗降り石段。さらに北側には御用船への乗降り石段、近くに防火用水桶、手桶など並べ置かれていた。大型船舶は大龍丸、小龍丸の繋船柱が南側塀の外部にあり、一定の場所が定めてあった。

 鰹釣りはこの時代一本釣りが存在していて、いわし等の生簀籠(いけすかご)が造られていた。


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牛深御番所建物図 ⑤

この絵を初めて見た時の興奮は伝えきれない。

こんな重要な絵を簡単に公開していいものか考えるべきだと思いますが、これがないと御番所の姿はわかりませんので公開しました。

古文書に基づいた造りや道具の配置を細かに見るととてもおもしろい。さらに鰹釣り用の竹生け簀も描いてあり時代の雰囲気を出す細かい演出にも着目していただきたい。後日牛深浦船津の町並みは公開。次回はその古文書にあった御番所配置見取り図です。
牛深御番所建物図 ⑤

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タグ :牛深御番所

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Posted by hirok○ at 20:00│Comments(0)御番所第二章
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