2020年07月25日

明治を学ぶ9

国内の話から続き。
明治6年(1873)3月19日(国内1月19日付)海外大久保・木戸帰国要請の書簡が届く。

国内留守政府大蔵省のトップ長州・井上馨は予算配分時に同じ長州・山縣有朋の陸軍省に要求通り満額配分を行った。

しかし肥前・江藤新平の司法省、肥前・大木喬任(たかとう)の文部省の予算を半減。これに大反発。
陸軍の予算が増えた分教育司法予算が減らされたわけである。

この混乱の中さらに留守政府は参議(政府の中の重要な役職)を増やした。
明治6年政変と呼ばれる人事を簡単に流れを書いておく。
留守政府の構成は太政大臣(三条実美)の下に参議があり、その参議のメンバーは西郷隆盛(薩摩)、板垣退助(土佐)、大隈重信(土佐)だった。

この重要な参議に先ほどの江藤新平(肥前)、大木喬任(肥前)、左院議長・後藤象二郎(肥前)を追加。
政府内で土肥(土佐と肥前)の割合を増やし薩長土肥のバランスが崩れた。
こうならないために事前に視察組と留守政府は大きな改革をしないと取り決めを行っていたのに。
ここで不思議に思うでしょう。留守政府には薩摩の西郷隆盛がいたのになぜこんなことが起こってしまったのか。

新政府の乱れた私生活に西郷は不信感を持っていたそうだ。しかも留守政府とはいえ国内の事を決定する力を持っているのになぜ視察組の言う事ばかり聞いていないといけないのかと。

おそらく私の感想としては戊辰戦争の最後の五稜郭の戦いに参加していないころから新政府とは溝があったのかもしれないと思っています。もしくはただ争いごと(戦争までいかなくても)や対立とかが好きなのかなって印象。


今度はさらに税制の改革まで行いました。
明治6年7月28日地租改正
内容
土地の所有者に「地券」を発行。
収穫量から土地価格を決定。
土地価格の3%を金で納めさせる。これまで『米』で納税させていたものを『金(おかね)』に変えた。米本位から金本位制に代えた大きな出来事。
お米の豊作不作に関わらず政府の収入を安定させるというメリットがあった一方、不作だった時の農民は高利貸しからお金を借りて納めたそうだ。さらに米の需要が下がったため価格が下落しても納める額は変わらないなど農民の不満が爆発して全国で一揆が続発した。

何度も書くよ。視察組と留守政府は大きな改革をしないと取り決めを行っていたのに、
これにて明治政府の三大改革と言われる学制(学校制度)・徴兵令(兵制度)・地租改正(税制)が整った。

政府は徴兵制で不満を持っていた士族と農民の結びつきを恐れ税率を2.5%に減税。
減税はしたものの一番恐れている薩摩士族の不満は西郷の元へ届いていた。

この不満を逸らせる目的で当時鎖国状態だった李氏朝鮮を討伐しようとする征韓論が起こってくるのです。これが最大の留守政府と視察組との溝になっていくのですがここは大変重要で西郷のクライマックスとも言えるのでまた次回に。




  

Posted by hirok○ at 07:28Comments(0)明治~