2020年07月13日
明治を学ぶ7
岩倉使節団大久保と伊藤が天皇の委任状を貰うため一か月以上かけて一時帰国したところから続きます。
留守政府外務卿(がいむきょう・現在の外務大臣)であった副島種臣と外務大輔(がいむたいふ・現在の外務省次官)寺島宗則らが委任状を出す事に出発前の約束と違う、条約改正はまだ準備不足だと猛反対。
外交はそんな簡単にうまくはいかないと2か月にも及ぶ大激論となった。
このとき大久保は追い詰められ切腹する覚悟をしたらしいが副島らはそんなことは私らには関係ないと突っぱねたそうだ。
結果、
明治5年5月14日
寺島宗則が使節団に参加する条件で明治天皇の委任状がようやく渡された。
5月17日
伊藤・大久保・寺島アメリカへ出発。
この間アメリカに残った使節団はニューヨークでブロードウェイを見たりナイアガラの滝や五大湖・ボストンなどの観光を行っていた。
岩倉や木戸たちは観光だけではなく当時日本に無かった連邦議会を視察。
ここで岩倉はアメリカの共和制を見て、いろんな公職や法令を多数決で決めるのは一見すると公平で素晴らしいものに見えるが選ばれる議員がすべて優秀な優れている人材であるかはわからないと疑問を持った。優れた政策が退けられ愚策が採択される可能性があると思ったそうだ。(うわーこれ現代でも鳩〇さんの民主党のとき俺も民主主義の欠陥って思ったことやん)
6月17日
大久保たちが使節団に合流、アメリカと条約改正交渉に臨んだ。
日本側は治外法権の撤廃、関税自主権を要求に対し米フィッシュ国務長官は日本の司法制度は前近代的だと一蹴し決裂。
日本はまだ近代国家として認められないとはっきり言ってなめられていた、馬鹿にされていたのでしょう。アメリカにその他の国と条約交渉しても同じ結果だろうとも言われる。現在でも同じように沖縄の治外法権とか地位協定とか何十年も変えられないですよね。これが外交の難しさですよね。委任状を持ってくれば変えれると簡単に考えていた大久保たちは経験無かった為考えが甘かったですね。結果から言うとこの時点では慶喜と一緒のような気がしますね。
この日の木戸孝允は日記に『五千里の海を渡り三千里の陸路を越えてきたが全て水泡に帰した』と書き悔し涙を流したとか。
大久保たちは外交交渉の厳しさを思い知らされ条約改正交渉を諦めた。
7月3日ボストンからイギリスへ出発。
7月14日にイギリス入国。だがアメリカ滞在が予定より大幅に長引いたため予定していたビクトリア女王が夏季休暇に入って謁見できず。
当時のイギリスは産業革命を終え多くの植民地を持ち最大の先進国だった。
大久保は「イギリスは外国から原料を輸入して製品を輸出している。イギリスの富国の理由が理解できた」と書き残している。領土が狭く同じ島国。日本が目指す所ではないかと考えた。しかしイギリス視察を行っていくと「イギリスは海外植民地もたくさん持っていて産業も確立していて今の日本との差があまりにも大きすぎる。イギリスの後を追うのは難しい」との声が出はじめる。
そんな中イギリス滞在中各個人が旅費を預けていた銀行が破綻。総額2万5千ドル(現在価値約5億円)が消えるトラブルにあう。踏んだり蹴ったりである。
このときのヨーロッパ日本人留学生が作った歌
『条約は 結びそこない 金とられ 世間に対して なんといわくら』
うまい!と今では笑っちゃいますが当事者は笑えないですよね。
11月16日イギリス出国さらなるモデル国を探してヨーロッパ大陸を目指した。
一方国内では。
明治5年8月2日学制発布。
留守政府文部大輔江藤新平は寺子屋や藩の学校を廃止して全国に小中大学校を作った。
政府のスローガン『各村に不学の家なし』の元に国民皆学を目指し富国のためには教育は欠かせない、国の体制制度を理解させる為精力的に頑張った。
明治6年までに小学校2700校。就学率約35パーセントにまでなった。
しかし学校建設は地元負担。月約50銭(現在価値約1万円)の授業料。子供の労働力を取られるなどの不満が出る。
明治5年9月15日新橋~横浜間に鉄道開通。
それまで徒歩丸1日だったものが50分で行くことができるようになった。
10月4日富岡製糸場操業。
フランスの技術を導入し世界最大規模の工場だった。ちな新1万円札の渋沢栄一は富岡製糸場の設置主任やったんやで。
その他紡績工場や造船所などの官営工場を次々に作り工業の近代化が一気に進んだ。
庶民の生活にも西洋化が進んだ。
明治5年横浜にガス灯が点いた。それまで夜はロウソクしかなかった為、夜明るいのはとても驚いたそうだ。
食生活も大きな変化があった。
日本人の体形が小さいのは肉を食べないからだと政府が肉食を奨励した。これまで肉食べてなかったっていうのは驚き。
牛鍋が出て明治5年明治天皇が初めて肉を食した。
牛乳は明治3年明治天皇が毎日飲んでいると報道、庶民に広がった。
近代国家の体制を整えるための禁止事項。
混浴、人前で裸になること、入れ墨。
江戸時代の女性は人前で裸になるのを恥ずかしく思わなかった。ある意味日本人全体がおおらかだったが外国人からすると不思議だったそうだ。
明治5年11月9日 改暦の布告。
内容。
太陰暦をやめて太陽暦にする。
明治5年12月3日を明治6年1月1日にする。
太陰暦(旧暦)は1年355日。なので3年ごとに1年が閏月増え13か月になる。
目的は貿易・外交で日付けの不都合が生じないようアメリカ・ヨーロッパと合わせる為。海外諸国と肩を並べるためであった。
これと同時に一日の時間も不定時法から1日24時間の定時法へ変わった。
これまでの日本は暗くなったら一日終わりで次第に次の日になるという考え方だった。
ここまで生活様式を大きく変えることを施行まで3週間と急いだ理由を当時財務を担当していた大隈重信が後年語った。
明治5年の12月を無くすことにより12月の給料を支払わなくて済む。さらにそのまま行くと明治6年は閏月があるのでその1か月分の給料も支払わなくて済むと考えたからだ。せこいw
一方本来この年に帰国予定だった岩倉使節団は明治5年11月16日フランスに入国。彼らの旅もまた次回に続きます。
留守政府外務卿(がいむきょう・現在の外務大臣)であった副島種臣と外務大輔(がいむたいふ・現在の外務省次官)寺島宗則らが委任状を出す事に出発前の約束と違う、条約改正はまだ準備不足だと猛反対。
外交はそんな簡単にうまくはいかないと2か月にも及ぶ大激論となった。
このとき大久保は追い詰められ切腹する覚悟をしたらしいが副島らはそんなことは私らには関係ないと突っぱねたそうだ。
結果、
明治5年5月14日
寺島宗則が使節団に参加する条件で明治天皇の委任状がようやく渡された。
5月17日
伊藤・大久保・寺島アメリカへ出発。
この間アメリカに残った使節団はニューヨークでブロードウェイを見たりナイアガラの滝や五大湖・ボストンなどの観光を行っていた。
岩倉や木戸たちは観光だけではなく当時日本に無かった連邦議会を視察。
ここで岩倉はアメリカの共和制を見て、いろんな公職や法令を多数決で決めるのは一見すると公平で素晴らしいものに見えるが選ばれる議員がすべて優秀な優れている人材であるかはわからないと疑問を持った。優れた政策が退けられ愚策が採択される可能性があると思ったそうだ。(うわーこれ現代でも鳩〇さんの民主党のとき俺も民主主義の欠陥って思ったことやん)
6月17日
大久保たちが使節団に合流、アメリカと条約改正交渉に臨んだ。
日本側は治外法権の撤廃、関税自主権を要求に対し米フィッシュ国務長官は日本の司法制度は前近代的だと一蹴し決裂。
日本はまだ近代国家として認められないとはっきり言ってなめられていた、馬鹿にされていたのでしょう。アメリカにその他の国と条約交渉しても同じ結果だろうとも言われる。現在でも同じように沖縄の治外法権とか地位協定とか何十年も変えられないですよね。これが外交の難しさですよね。委任状を持ってくれば変えれると簡単に考えていた大久保たちは経験無かった為考えが甘かったですね。結果から言うとこの時点では慶喜と一緒のような気がしますね。
この日の木戸孝允は日記に『五千里の海を渡り三千里の陸路を越えてきたが全て水泡に帰した』と書き悔し涙を流したとか。
大久保たちは外交交渉の厳しさを思い知らされ条約改正交渉を諦めた。
7月3日ボストンからイギリスへ出発。
7月14日にイギリス入国。だがアメリカ滞在が予定より大幅に長引いたため予定していたビクトリア女王が夏季休暇に入って謁見できず。
当時のイギリスは産業革命を終え多くの植民地を持ち最大の先進国だった。
大久保は「イギリスは外国から原料を輸入して製品を輸出している。イギリスの富国の理由が理解できた」と書き残している。領土が狭く同じ島国。日本が目指す所ではないかと考えた。しかしイギリス視察を行っていくと「イギリスは海外植民地もたくさん持っていて産業も確立していて今の日本との差があまりにも大きすぎる。イギリスの後を追うのは難しい」との声が出はじめる。
そんな中イギリス滞在中各個人が旅費を預けていた銀行が破綻。総額2万5千ドル(現在価値約5億円)が消えるトラブルにあう。踏んだり蹴ったりである。
このときのヨーロッパ日本人留学生が作った歌
『条約は 結びそこない 金とられ 世間に対して なんといわくら』
うまい!と今では笑っちゃいますが当事者は笑えないですよね。
11月16日イギリス出国さらなるモデル国を探してヨーロッパ大陸を目指した。
一方国内では。
明治5年8月2日学制発布。
留守政府文部大輔江藤新平は寺子屋や藩の学校を廃止して全国に小中大学校を作った。
政府のスローガン『各村に不学の家なし』の元に国民皆学を目指し富国のためには教育は欠かせない、国の体制制度を理解させる為精力的に頑張った。
明治6年までに小学校2700校。就学率約35パーセントにまでなった。
しかし学校建設は地元負担。月約50銭(現在価値約1万円)の授業料。子供の労働力を取られるなどの不満が出る。
明治5年9月15日新橋~横浜間に鉄道開通。
それまで徒歩丸1日だったものが50分で行くことができるようになった。
10月4日富岡製糸場操業。
フランスの技術を導入し世界最大規模の工場だった。ちな新1万円札の渋沢栄一は富岡製糸場の設置主任やったんやで。
その他紡績工場や造船所などの官営工場を次々に作り工業の近代化が一気に進んだ。
庶民の生活にも西洋化が進んだ。
明治5年横浜にガス灯が点いた。それまで夜はロウソクしかなかった為、夜明るいのはとても驚いたそうだ。
食生活も大きな変化があった。
日本人の体形が小さいのは肉を食べないからだと政府が肉食を奨励した。これまで肉食べてなかったっていうのは驚き。
牛鍋が出て明治5年明治天皇が初めて肉を食した。
牛乳は明治3年明治天皇が毎日飲んでいると報道、庶民に広がった。
近代国家の体制を整えるための禁止事項。
混浴、人前で裸になること、入れ墨。
江戸時代の女性は人前で裸になるのを恥ずかしく思わなかった。ある意味日本人全体がおおらかだったが外国人からすると不思議だったそうだ。
明治5年11月9日 改暦の布告。
内容。
太陰暦をやめて太陽暦にする。
明治5年12月3日を明治6年1月1日にする。
太陰暦(旧暦)は1年355日。なので3年ごとに1年が閏月増え13か月になる。
目的は貿易・外交で日付けの不都合が生じないようアメリカ・ヨーロッパと合わせる為。海外諸国と肩を並べるためであった。
これと同時に一日の時間も不定時法から1日24時間の定時法へ変わった。
これまでの日本は暗くなったら一日終わりで次第に次の日になるという考え方だった。
ここまで生活様式を大きく変えることを施行まで3週間と急いだ理由を当時財務を担当していた大隈重信が後年語った。
明治5年の12月を無くすことにより12月の給料を支払わなくて済む。さらにそのまま行くと明治6年は閏月があるのでその1か月分の給料も支払わなくて済むと考えたからだ。せこいw
一方本来この年に帰国予定だった岩倉使節団は明治5年11月16日フランスに入国。彼らの旅もまた次回に続きます。
Posted by hirok○ at 21:54│Comments(0)
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