2015年10月25日

イラレが選ぶ幕末ドラマ10選

尊王攘夷(じょうい)を唱えた幕末の志士・武市半平太(錦戸亮)は、投獄された後、主君への不敬罪で切腹を命じられた次の瞬間、彼は自分がどこかの道に寝ていることに気付き、驚く。

そこは現代の田舎の村道だった。タイムリープしたと気付いていない半平太は、見るもの全てが珍しく戸惑うばかり。やがて彼は不審者として通報され、役場の職員・晴香(比嘉愛未)がやって来てのドタバタ創作劇。

先日始まったばかりのドラマ『サムライ先生』です。幕末のお話はほんとに面白いですね。この第一話の中でほんと簡単に日本が開国に至った経緯や攘夷や勤王の説明が行われていました。全く幕末を知らない人に向けての説明だったので、ざっくりでしたがまぁこういうドラマから歴史に興味を持ってもいいかもしれません。面白かったです。


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こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

なんといってもNHK朝ドラ『あさが来た』ご覧になってらっしゃるでしょうか?



ほんと幕末はドラマになる。

主役の「あさ」こと広岡浅子。晩年に日本女子大学を設立された方。

幕末、明治の武士社会からの名残りで男性上位の世界で「女性でも負けない」と女性にも学問をと孤軍奮闘するお話。

現在の安倍内閣が提唱する「女性が輝く社会」に通じる内容。

この浅子がどうしてそのように考えるに至ったのかに大きく寄与する人物が第一週第3話から出てくる。

嫁ぎ先への挨拶の為、大坂へ出かけていたあさ。そこで一人のお侍とぶつかってしまいます。
異国の挨拶言葉を使うそのお侍さんとの出会い。あさはこのとき後に自分に大きな影響を与える人だとは気づいていなかった。

それから数年経ち再開したとき、そのお侍さんはあさに「世の中はこれから大きく変わる」と告げる。日本の開国明治維新が先に見えていた。

このお侍こそが、後にあさの商いの師匠となる五代才助なのでした。

はいここ!試験に出ますよ!(何の?w)

このブログを読んでらっしゃる方はもう気付いてるはず。

前回、前々回に書いております。幕末に牛深へ来ていた勤王の志士の中に五代才助の名あったでしょ?

現在の放送中の朝ドラも牛深を想像して見ていただけると感慨深いと思います。

前半のドラマ『サムライ先生』の事に関係させる為、少しだけ書きます。

主人公、武市半平太(たけち はんぺいた)とは吉田松陰に共鳴し土佐勤王党を結成した人物でその加盟者には坂本龍馬はじめ中岡慎太郎、岡田以蔵ら尊皇攘夷派192人がいた。

幕末に牛深へ来ていた勤王の志士の中に岡田以蔵(るろうに剣心のモデル)の暗殺仲間の土佐藩士もいる。

勝海舟、坂本龍馬が牛深へ来たことがあるのかについては調査中で関係文献はいまのところはまだ見付かっておりません。
近くを通っているのは確かなのですが、その頃の大港牛深に寄らない事の方が不自然ではあるのでなんとか文献が見つかることを待望しています。

では、中岡慎太郎はどうだろうか。

調べたことがなかったので軽く調べて見ました。

まさに薩長同盟を模索しているそのときのこと。
元治元(1864)年12月、中岡は下関で西郷吉之助(隆盛)と会っている。
それまでは薩摩に敵意を抱いていたが、西郷の人徳に触れ方向転換し薩長の和解を模索する。

中岡が初めて薩摩へ訪れたのが、慶応元(1965)年閏5月6日。(ちなみに坂本龍馬はその一ヶ月前に薩摩に入っている)。
この辺り中岡自身の手記では詳しく書かれていない。特に薩摩でのことが欠損しているそうだ。

もちろん命を狙われている人たちなので文字で残すのは簡単にはいかないことは想像できるし幕府軍への偽装も考えられなくもない。

少しだけ書かれている部分。
【四日 朝六半呼子出船、七ッ比長崎著港。

五日 晴、午時長崎を発し薄暮長島洋を通る。

六日 小雨、海門嶽下を乗り、午時鹿見島に至る。】

ここに出てくる長島はもちろん牛深のお隣の長島だろう。やはり素通りなのか?牛深に寄港していないのか?
そして薩摩で西郷に会う。その帰りは宮崎周りで大分から下関へ。

ここでその帰り船には西郷も同船していて、このときの説得により西郷は薩長和解を決めたとされている。
帰りは牛深へ寄る機会はなさそう。


中岡2回めの薩摩藩入りは慶応3(1867)年2月30日。このときは詳しく書いてある。

中岡は太宰府から陸路をとり、肥後の松橋から乗船した。そして北薩の長島を通過する。「久呂の瀬戸激潮の難所あり」と、黒之瀬戸のことを記している。そして阿久根に着くと、商人の孫兵衛宅に宿泊し、「阿久根焼酎」を飲んでいる。

黒之瀬戸についてはこのブログで数回出てきているので省略。

このときは絶対牛深へ来ることは無理だなぁ。


今回の調べはここまで。可能性を残すとすれば一回目のときかな。
幕府の施設がある場所を避けたとするなら、なぜ他の倒幕論者は牛深に潜伏したりしたのかな?

密談や話し合いはいわゆる料亭で行われる。牛深はその条件も備わっている。
大久保利通のお妾さんがいたことは事実で牛深に来ていたのは確かなのに公式文書ではなぜ牛深に来たことを発見することができないのか?その他の牛深へ来ていたとされる志士についても同様。

ここが一つでも証明する材料があれば、芋づる式に歴史が塗り替わると思うんだけどなぁ。もちろんそんな簡単には行くわけないw
今回はここまで!幕末面白い!(あ、題名に10選と書きましたが冗談です)


【絵で見る江戸時代の牛深】
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製本中でございますので只今のご注文で11月1日以降の発送になります。  


Posted by hirok○ at 04:38Comments(0)御番所第二章

2015年10月15日

結局最後は増刷決定に行き着いた



こういう日本の歴史に名を残している人たちが幕末のまさにそのとき、牛深にいた。

薩長同盟は京都で締結されたとされているが、文書によって明確に結ばれたにも関わらず原本はいまだ見つかっていない。

牛深にいたとされる木戸孝允が締結後、記憶を頼りに会談の内容を6カ条にまとめ、内容の確認のため坂本龍馬に送付した書簡(慶応2年1月23日付)によりその内容は伝わっている。

牛深に残るこの時代の近世文書はほとんどのものが世に出ていない。したがって何が残っているのかも所持している方、または所持している方でもわからないということだ。

この中にその関係文書があったとしたらどうだろう。現時点では話を大きくしすぎなのはわかっている。あくまでも可能性がないわけではない。
今だけでも夢を見ていたいな。っていうことですW


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こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

ということで、『絵で見る~』の本は完売している状態なのですが、少しづつご注文をいただくのが続き在庫がなくお断りをするケースが出てきてしまっていました。この本の予想を超える反響に大変嬉しく思っております。

増刷したくてもデータが一部壊れていまして簡単にはいかない状態でした。

そうしていたところさらにうれしいことに牛深某所より予想を超える大量注文を頂きまして、こうなったらデータの再作成をするしかないなと数日取り組みました。

100冊限定と言っていましたので、少なくともその約束を破ってしまいますので購入頂いた方にお詫びを言わないといけないなと思いまして…大変申し訳ございません。牛深の事に興味を持っていただくことは私もとても嬉しいことですのでこういう判断になりましたお許し下さい。

ということで、少し多めに100冊増刷は致しますがご予約分を渡した後、第2版は余裕が残り10冊程度ございます。

価格はまだすえおき3000円に下げました。この機会に気になってらっしゃる方はお早めにご注文ください。

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製本中でございますので只今のご注文で11月1日以降の発送になります。
よろしくお願いいたします。
  


Posted by hirok○ at 05:51Comments(0)御番所第二章

2015年10月06日

牛深が大河ドラマに!?出版のその後・・・

購入して読んで頂いた方には未公開部分や文章自体もこのブログとは随分変わっていることに気付かれたと思います。
だから実際本を手にとって頂きたかったのです。天草の図書館には全館配備されてますので興味が少しでもある方はそちらでも読むことができますよ。

出版のその後ということですが、本の最後の考察部分での幕末の事。大久保利通のお妾さんが牛深にいた事を現在でも口伝にて残されていると書いておりましたが、その部分は最近新たに私が知ったことで嬉しい方に改変しないといけないようです。

牛深八景で現在軽巡長良のことを書いておりますが、そのときに読んだ島一春さんの本「天草灘にひびけ鎮魂の譜」に手がかりが書いてありました。

そのお妾さんはおつるおばさんの叔母にあたるという。

そして旧牛深市初代市長高橋重博氏が大正7年に書いた「我が町」にこう書いてあるとのこと。(全文は載せれないので抜粋、読みやすいようにカタカナ表記を現代仮名遣いに変更)

「徳川氏の天下滅亡に近づくや(中略)当時勤王の志士諸所に起りしも薩摩の志士、浪士はいずれも事の露顕せざらんことを希(ねが)い、此の地(牛深)に潜(ひそ)む者多し。その名ある者は木戸孝允、江口早之助、野村惣七、その他大久保利通は野田屋に、田中新兵衛、黒田清隆、五代才助等は矢田家に宿したり。是(これ)は此の地が薩州より長崎に向う要所なりしを以ってなり。」


はぁ!?まじっすか!!!驚きました!

木戸孝允!?・・・長州藩士じゃん!!薩摩藩士だけじゃなく長州からも来てる!?

大久保利通はわかりきってるので省略。

田中新兵衛!?・・・土佐藩士。幕末の四大人斬りの一人。いわゆる暗殺のプロ。あの「人斬り以蔵」と共に日本史の残る暗殺を行った人じゃん!!
ということは江口早之助というのは私は全く知りませんがもしかしてあの桂早之助の事なのか?(池田屋事件で坂本龍馬を討ったとされる人物の事。)

黒田清隆!?・・・薩摩で大久保利通の次の実質NO.2で後に総理にまでなる人じゃん!

五代才助!?・・・薩摩藩士。後に外交官の役職を歴任後、大阪府判事を務めてる人。幕末のこの時期長崎海軍伝習所に所属してるな。
実は絵で見る~の製作途中で勝海舟が牛深に来たのか?どうかを海軍伝習所の実習船の全航路を細かく調べていたのですがはっきり確定するまでにはいかなかったのでその部分の記事は本編でもボツになっていたのですが、勝海舟に近い人達が牛深へは確実に来ているな。
やはり牛深へ勝海舟や坂本龍馬が来てる可能性はまた一つ上がったと思った。

これはここを突破口にもっと詳しく調べる必要がありそうですね。

上記文章を書かれた初代市長さんなのですが私が牛深のことを調べる際に拝見していた古文書はお話によるとその方から譲り受けたものが数点ありました。もしかしたらその「我が町」自体もあるかも知れません。その初代市長さんの屋敷は幕末志士がよく来ていた屋敷で隠し部屋などの造りがあったお話も聞きました。

「事の露顕せざらんことを希(ねが)い」
バレたくない事とは倒幕もしくはもっと言うと薩長同盟の確認のことじゃないのか!?
薩長同盟から倒幕、そして明治維新は牛深で打合せされていた!?

機会があればそのことも私も「我が町」読んでみたいと思います。新しい発見があればまたここで公開していきますね。


日本の歴史の重要な部分が牛深で行われていたのかも知れない。しかも大人気幕末。多くの時代劇やドラマ映画になっている部分に牛深も関係していたという私の仮説に少しずつ近づいているように思います。

NHK大河ドラマにこの部分が将来なるかもしれない。夢話じゃないように思う。

これだけの史実があって大風呂敷広げ過ぎだと思われますか?みなさんはどう思われるでしょうか?



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こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!



前半書いたように牛深史天草史どころか日本の国の歴史に関係する史実を初めて公開された本なのです。ぜひ一読を希望。

気がついたら本日の発送分で私のところにある完成本は無くなってしまいました。^^;

おそらく牛深販売所にはまだあると思いますが確認はしておりません。完全に無くなってはいないと思いますが、これよりご注文いただいたら牛深より取り寄せて熊本から発送もしくはもう在庫切れということになりますので発送までに時間がかかったり、お渡しできない事もあると思いますので、その点をご了承ください。

いまのところ印刷データの関係でトラブルが起こっていますので未解決状態のママになっておりますので増刷は考えておりません。

日本全国に牛深出身者っていらっしゃるんですね、お申込みにご自身のことをご説明してくださる方がたくさんいらっしゃって読んでて嬉しく思いました。この度は誠にありがとうございました。みなさん牛深のこと離れていても好きなんだなぁと改めて感じました。
  


Posted by hirok○ at 03:49Comments(0)御番所第二章

2015年09月07日

在庫がつきてしまいそうなのです・・・

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

「絵で見る江戸時代の牛深」の製本が完了しまして順次発送作業を行っております。

まだお手元に届いてない方もいらっしゃると思いますがもうしばらく到着までお待ちください。



牛深八景よりも大きいB5サイズ全ページフルカラー。お金かかっただけあって印刷がとても綺麗です。

実は、残り20部ぐらいになってしまいました。
東北、関東、関西、四国、長崎、大分といろんなところに牛深出身の方がいらっしゃるんですね。
遠く離れてもここを見てくださってるのが嬉しいです。
購入していただいた方本当にありがとうございましたm(__)m

ちょっと印刷データの不具合があって、その関係で今のところ全く同じものの増刷はできません。増刷をどうするのかこの辺りは少し考えます。
違う形で印刷するか、サイズ変更するか、2冊に分けるかはたまた増刷しないか今のところ未定です。

欲しいと思ってらっしゃった方にはもう届いているとは思いますが、残り少ないのでまだの方はお早めにお願い致します。
売り切れてしまってお渡しできないというのは申し訳ないので。


お申し込みはこちら↓
絵で見る江戸時代の牛深
一般発売後はネットでも3500円になりますのでお早めに!

牛深八景をお持ちでない方はセット販売もございます。↓
牛深郷土愛セット
こちらは2冊合計よりなんと800円もお得!
ちなみに牛深八景(単品)もこの期間100円引きになっております。

さらに今だけ牛深八景第九景しおり付!

ぜひ、読んでいただきたいです。


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海の日のイベントの時に海彩館が道の駅になりまして「道の駅きねん切符」なるものが発売されています。

発売日にもちろん買おうと思って海の日イベントに行って海彩館いたのにいろいろイベント参加してたら買うのを忘れてましてww

この写真の切符は後日買ったもので137番という不甲斐ない番号になってしまいました。申し訳ございません。

みなさんも記念に一枚持っていてはいかかでしょうか?

そして海彩館へ行かれましたら、フェリー乗り場隣の案内所へ行って絵で見る~や牛深八景を同時購入!とか。なんて素敵!゚+.(◕ฺ ω◕ฺ )゚+.あはは  


Posted by hirok○ at 04:31Comments(0)御番所第二章

2015年08月12日

『江戸時代の牛深』の本は都市伝説ではなかった(汗)

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

予想以上に一冊の本へ纏めるのは時間が掛かってしまいました。早くからお申込みいただいた方には大変ご迷惑をお掛けいたしました。お待たせして申し訳ございませんでした。

発売日を8月24日ということでお伝えします。
製本上がるのがスケジュール的にそのあたりだと思いますので、24日前後発送致します。それまでにお振り込みの方はお願い致します。

あ、もちろん牛深にいる私の母をご存じの方は母へ言っていただけたら送料もかかりませんのでそちらでも大丈夫ですよ。よろしくお願いいたします。

一般発売は9/1日を予定しておりますが、前後するかもしれません。
一般発売は牛深八景と同じく観光協会牛深支部でもお取り扱いをお願いしておりますので、海彩館の観光案内所でも購入頂けると思います。お誘い合わせの上何卒よろしくお願いいたします。

ということで、リアルハイヤコちゃんプロジェクトの一つとして、今回のポスターが完成いたしました。


かわいいね。もう一つのパターンはそのリアルハイヤコちゃんの写真付。そちらは八景ブログにて掲載いたします。そちらも見てね!


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随分お待たせして申し訳ありませんでした。
その分内容もたくさん詰め込みましたし、九州一の劇作家に校正してもらったし、通常3500円のところ(一般発売ではこの金額です)ネット販売は3000円まで値段を下げて(お待たせしてご迷惑をお掛けした分)お渡しさせていただきます。

江戸時代の古文書(現在未公開)のものはじめ、もちろんみなさんご存知ないお話もたくさん掲載しておりますし、ブログの未公開部分も全て読めます。仮にこの牛深の内容をご自身で調べたいと思われて、調べようとすると長崎まで行かないと読めない古文書や写真も数点ありますのでこれだけで3000円では確実に収まりません。

費用の面から考えても一家に一冊3000円はお得だと思います。

お申し込みはこちら↓
絵で見る江戸時代の牛深
一般発売後はネットでも3500円になりますのでお早めに!

牛深八景をお持ちでない方はセット販売もございます。↓
牛深郷土愛セット
こちらは2冊合計よりなんと800円もお得!
ちなみに牛深八景(単品)もこの期間100円引きになっております。

さらに牛深八景第九景しおり付!

牛深も熊本細川家と繋がっていたなんてびっくりでしょ!大人気細川さん、もっと歴史研究が進めばこれでも将来町興し出来そうじゃん!
ハイヤもこの時代に生まれたし、江戸時代の牛深を牛深出身の方はみんな興味あるはず!?
  


Posted by hirok○ at 04:24Comments(0)御番所第二章

2015年06月23日

PV(プロモーションビデオ)的なもの

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!



発売が大変遅くなっておりますが、もうしばらくお待ちください。
今お申込みいただいている方発売日が決まり次第ご連絡させていただきます。

予約販売分の発送が7月中旬から下旬ぐらい(なるべく早くいたします)。
一般発売が8月になりそうです。ここを見て頂いている方を優先して価格は予約販売の方を安く設定しております。
販売サイトも用意しておりますが、正式発売日が決まるまではお申し込みはまだメールで構いません。
hirok0130@yahoo.co.jpまで。

発売日決定後の販売サイトはこちら↓
絵で見る江戸時代の牛深
http://hirok-studio.shop-pro.jp/?pid=90981927

牛深八景絵で見る江戸時代の牛深2冊セット
http://hirok-studio.shop-pro.jp/?pid=90983092

それではPVが完成いたしましたので公開でーす。
Shall we ダンス?


  


Posted by hirok○ at 06:30Comments(0)御番所第二章

2015年05月27日

あとがき

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

もしタイムスリップできて何時の時代の誰に会ってみたいですか?って質問されたら僕は江戸時代の牛深遠見番役人原才右衛門に会って見たいと答える。今では憧れの存在になってしまった。

今回でホントの第二章最終回です。
非公開部分が多くて本当に申し訳なく思っております。ここまでお付き合いいただいたきありがとうございました。正直自分一人ではこれは無理だったと思う。何はともあれ最後までいけて良かった。

牛深LINEスタンプ発売中!

↑クリックまたはクリエイターズスタンプの検索で『ハイヤコ』、『ごばん』どちらでもOK!


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『あとがき』

 牛深八景から引き続き御番所まで牛深の歴史を学びました。
 自分のルーツを探るため故郷の歴史を知るとしてきました。ここでもっと個人的なことを書くと、牛深八景は私の母方からお話を伺った牛深の歴史で今回の御番所は父方からお話を伺った牛深の歴史でした。

 この二冊が合わさって私自身を形作るものです。私自身をはっきり明文化したことになる。
 二冊の本で一区切りは付きましたがこれで終わりではありません。自分自身を知ってやっとこれで表現者としてのスタートラインに立つことが出来たと思っている。ここから僕は始まるのだ。

「学は、もって已むべからず
青は藍よりい出て藍より青く、
氷は水これを為して水よりも寒し」

 荀子の一節。学問はここまでで終わりと云う事はないので弛んではいけない。藍から生まれた青がもとの藍よりも鮮やかに青いように、水からできた氷がもとの水よりももっと冷たいように、(師を凌ぐ学の深さを持った弟子も生まれるものなのだ。)という意味。

 牛深の方にとってこの「藍より青く」という言葉は一九七二年NHK連続テレビ小説で放映されたドラマとして馴染みが深いものだと思う。私は当時生まれていなかったので近年書籍で取り寄せ読ませてもらった。(藍より青くについては牛深八景ブログにて三回に渡り考察しております。) 「藍より青く」という作品はこの荀子の一節とは無縁だそうだ。

 後に名脚本家となるその著者山田太一さんはあとがきでこう書いている。
【今の時代の自己形成が、「藍より青く」というような前世代との連続性の中で行われず、いわば「藍より赤く」といった非連続なかたちをとりがちであるという思いでした】そして【いま私たちに必要なのは、過去への生き生きとした関心であり過去との連続性の回復ではないでしょうか】と続けている。

 四十数年経った現在を生きる私も同じことを思っていた。
 私は「藍より青く」生きたい。「藍より青く」を志したい。そう強く思っている。

 ブログ「牛深御番所てんこ盛り」を読んで下さった方々に多大なる感謝を申し上げます。温かくご支援くださる故郷天草の皆さま、本を予約して頂いてくださっている方々、牛深八景、牛深御番所ブログかたらんな関係者の方々、それに、誰よりも私の活動を理解し共に歩んでもらった父と母に感謝いたします。ありがとうございました。





  


Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年05月26日

考察:牛深御番所設置

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

今回の書籍化用に御番所の歴史を学んだ事を自分の見解を含めてまとめています。
以前書いた文章を引用したりしていますので重複することもありますがこれが私の集大成です。

全三回の二回目です。掲載見合わせ中が多くてすみません、とても重要でお見せしたいのですが書籍を買っていただく方への特典といいますか配慮をさせていただきます。発売後に公開するところは公開します。


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『考察:牛深御番所設置』

 これだけの歴史があるのにも関わらず、現在の天草ではあまり語られないどころか皆無に等しい。現に近年開催されている天草検定の天草の歴史をまとめたテキストブックには御番所の文字すら無い。
 これより先の私が考察した結果は今まで言われたことはない。もちろん現在のところそれを断定できる文献も物証もあるわけではありません。
 読まれた方が「そうかも」とか「それは違うな」とかそれぞれ判断してくださって大丈夫。議論の一ネタにでもなってそこから御番所の認知度が少しでも高まればいいなぁと思います。
 今回御番所の事を学びながら、ずっと一つの疑問を考えてた。
 『なぜ牛深に御番所を作ったのか?』ということである。前述したように抜け荷対策というのは表向き間違いないだろう。でも異国船監視や抜け荷対策はそれまでの遠見番所でもやれていたはず。そもそも最初に遠見番所を作った時に牛深には遠見番所を作らなかった。絵図内でも説明された通り、舸子役が天草で一番多かった牛深は船が多く入港するのはわかっていたのにも関わらずだ。これがずっと引っかかっていた。
 そこで当時牛深に御番所を作ろうと計画しているまさにその文献を読んでその候補地に着目してみた。
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こちらの部分
只今掲載見合わせ中・・・

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これらは長崎奉行松平石見守貴強から『日本中に出回っている唐物はどこの抜け荷から来ているものか?』について隠し事のない意見を求められたことに対する返答書である。わざわざ隠し事のないと付け加えている事を考えると、隠し事があるのではないだろうか?と奉行は感じていたのではないだろうか。江戸時代の遠見番役人や通詞(通訳)などの地役人は後に私塾を開いたりするのを見ても分かる通り聡明で賢く、本来の仕事の傍ら、絵図内説明でもありましたが今で言う探偵や警察のように聞き取りや張り込みなどの隠密活動を多方面で行っている。隠密というだけあって何を調査しているのか文献として残っているものは少ない。しかも通詞に至ってはオランダ船長と結託し検閲を受けない事を利用し自らも幕府禁制品を国内に持ち込み富を得る強かな面も見せていた。 これを前提にして、その二人の意見書を要約する。
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こちらの部分
只今掲載見合わせ中・・・

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 これの対策案で牛深が出てくる。
【一、天草久玉山に遠見番所を設置し遠眼鏡で監視し牛深浦に(積み荷)改番所を設置して出入りする船を査察する】
【二、薩摩からの流出品は廻船によって下関を通り大坂へ入るので下関へも(積み荷)改番所を設置し出入りする船を査察すると良いが、※※非公開※※】
【三,豊前豊後の陸路は長崎地役人が廻れば摘発できる】など。
 これを読んで気が付くと思います。薩摩の抜け荷なのになぜ牛深と下関なんだ?表向きもっともらしい理由はつけてあるが直接薩摩を取り締まればいいじゃないって誰もが思うはず。
 牛深についてはこう書いてある。
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こちらの部分
只今掲載見合わせ中・・・

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 港としては立派だがあまり力を入れる必要がないと言っているようにも受け取れる。しかも唐船漂着は長崎資料割符留帳により確認すると牛深よりも﨑津の方が多い。故に当時牛深にはいない唐通詞が﨑津には配属されている。こういう歴史が今日の世界遺産に繋がるわけですが﨑津を差し置いて唐船漂着を理由にするのは少し違和感がある。
 繰り返します意見書は地役人(旗本・御家人ではない)が書いている。しかし寛政十年(一七九八)六月、意見を出された五ヶ月後には幕府は牛深に御番所の設置を決定したのである。(地役人発案幕府執行は珍しい)

 ここで牛深ハイヤの起源(牛深八景第九景)にも関係する薩摩藩について少し説明をしたい。
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こちらの部分
只今掲載見合わせ中・・・

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島津藩の外交は強かで、あくまでも幕府に反旗を翻す態度は見せずに軍事力を保つ絶妙なバランスを持って幕府との関係を続けていた。
 絵図内記事に関係してきます。 絵図丗四記事、「伊能忠敬が一度断念した種子島、屋久島(薩摩)を再調査させた幕府は当時閉鎖的だった薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいていたのではないかと推測されている。」
絵図廿四記事、「琉球征伐」を行い領土を拡大しさらに唐貿易を行って資金を調達している。唐貿易を行っているということは財だけではなく、武士の多い国が海外の新兵器、武器なども輸入している可能性がある。
 『江戸徳川幕府は確実に薩摩島津を警戒しその先にある徳川政権の滅亡つまり倒幕を恐れていたのだ。』
 幕府は度重なる隠密活動により実態把握を試みる。しかし薩摩藩は独特の隠密に対する対策を敷いていた。
 「御国言葉」(いわゆる方言)を特有なものにし、あくの強い訛りを藩内にて使用させ、他国者(隠密・密偵など)の潜伏を、その言葉の違いで見分けられるようにした。また絵図四、廿記事、薩摩半島には津口番所が連珠のように連なり、陸路は関所で荷物改や人の出入りを制限し他藩の者を受け入れないように体制をとっていた。
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こちらの部分
只今掲載見合わせ中・・・

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と例えられるほど隠蔽工作には徹底していた。
 薩摩藩のことを調査したい時に幕府はどうするだろう?と考える。薩摩藩は天領ではないので幕府の施設は置けない、しかも薩摩藩を偵察する施設なんて宣戦布告するようなもので言わずもがな。ならば薩摩渡りと呼ばれている隣港、牛深にその偵察本拠地を置こう!これが御番所ではないだろうか。
 いやいやいや、文献には抜け荷対策としか書いてないじゃない。と言われることはすでに反論予想できる。薩摩と幕府の絶妙なバランス関係を理解して読んでみると、文字に残してそれが薩摩側に見つかった場合対立するのは目に見えている。故に文字に残すことが出来なかったとしたらどうだろう。 そこで抜け荷対策の意見書をもう一度見てもらいたい。下関にも御番所を置きたいと進言している。これを後の史実から見てみる。
事実江戸幕府は討伐され明治維新になる。倒幕される戊辰戦争反幕中心は御存知の通り薩摩と長州(下関含む)いわゆる薩長同盟なのだ。
 御番所設置になるその意見書は完全に薩長を警戒してることにピンポイント合致していた。
 そして薩摩を偵察する施設とした場合の牛深御番所は薩長が維新により新政府になるため自分たちで自分たちを偵察する意味合いになるので取り潰しになる。こういう風に思うとすべての点が線に繋がるように思えた。
 ここまで書きましたが、あくまでも私個人の見解で仮説である。だが歴史と言うのはこういう仮説がありそれを証明する物が出てきて正史になっていくこれの繰り返しである。こういうことを想像するのが歴史ロマンでありとても面白いのである。
 もう少し幕末維新後の興味深い牛深に関係する史実を記載しておきます。
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只今掲載見合わせ中・・・

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そんな大仕事をしている最中牛深で何をしていたのだろう。
 薩摩渡りの土地で、後に新政府中核となる西郷隆盛・大久保利通、倒幕論者平野国臣などと会っていたのではないだろうか。 文献としては残ってはいないが大久保利通は、牛深に
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こちらの部分
只今掲載見合わせ中・・・

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そして事実、※※は幕臣であったにも関わらず維新に功労のあった志士者として明治天皇より正五位を叙せられている。 牛深御番所は幕府が行う倒幕活動の調査にはうってつけの場所であることは間違いなさそうだ。ただそれをやっていたかどうかは確証がない。



この非公開部分読みたい方は↓こちらまで。製作は終盤に来ております。もうしばらくおまちください。





【ブログ内で公開している文章、その他イラスト、絵などについて郷土史家の方が何十年も掛けて研究した知的財産でございますので断りなく保存・転載することを一切お断りさせて頂いております】  


Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年05月25日

天草遠見番所・牛深御番所設置背景

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

今回の書籍化用に御番所の歴史を学んだ事を自分の見解を含めてまとめてみました。
以前書いた文章を引用したりしていますので重複することもありますがこれが私の集大成です。

まとめは全三回に分けます。


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『天草遠見番所・牛深御番所設置背景』


 遠見番所や牛深御番所が当時の日本にとって大事なものであるにも関わらずいまいち語り継がれにくいのには時代により設置理由が異なるため一つに絞れず端的に説明しづらいと言うことにあると私は思う。
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こちらの部分
只今掲載見合わせ中・・・

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 もちろん幕府がそのような政策をとったのには理由があり、時代背景と共に遠見番所設置理由を考察したい。

・一つ目は国際的立場からの日本国遠見番所設置。

 関ヶ原の戦いで徳川家康が天下を取る数年前、その前任豊臣秀吉は領土拡大を模索し朝鮮征伐を行う。朝鮮征伐と書きましたが戦った相手は李氏朝鮮(朝鮮半島は制圧)と主に明(中国)との戦争です。この戦争は道半ばで日本から命令を出していた秀吉が亡くなり日本軍は撤退しました。熊本に関係することを書くとこの戦いの後、加藤清正が朝鮮半島を制圧できたことを神前に感謝し、自ら随兵頭となって兵を百人引き連れて藤崎宮の神幸式に供奉したのが、現在の随兵行列(藤崎八幡宮秋季例大祭)の発端とされている。
 遠見番所が整備されるこの西暦一六〇〇年初めというのは上記したように中国(明)とは戦闘状態で講和も結んでおりませんので国交がない。なので中国との貿易をする事は日本国内では認められていなかった。
 その後、明は一六三六年に滅ぼされ清朝となる。
この清朝が対立していた中国国内勢力が日本との密貿易で力をつけていた為、一六六一年に清は遷界令(海禁)を行いました。これにより当時日本と中国両国間は表面上海外貿易は完全に出来ないことになった。
 そこでその違反船を見つけ日本の統治能力を内外に示す目的と海外からの侵略に備え警備を強化する目的のもの。
 これが遠見番所である。
 天草では寛永十八(一六四一)年、富岡、大江崎、魚貫崎に。萬時三年(一六六〇)に高浜村大野崎、亨保二年(一七一七)に﨑津と牛深に遠見番所が設置された。こういう理由のため江戸の帆船時代、各遠見番所が日本国防衛最前線となっていた。

・二つ目はキリスト教排除目的からの遠見番所設置。

 一六〇五年、長崎は天領(徳川幕府直轄地)になり南蛮貿易が許された。これは貿易での冨を幕府が独占的に得るためである。そして海外貿易をするということは海外の宗教が入って来やすく、海外では国を侵略するのは宗教から入るというのが植民地支配または領土拡大への布石であった。このように当時貿易での利点と宗教の副作用両方あり、複雑に絡みあっていたため宗教だけを防ぐのがどうしても難しかった。
 秀吉の時代からキリスト教禁教は続いてはいたが、徳川江戸幕府は慶長十七(一六一二)年、天領に対し慶長の禁教令を出す。
 長崎でこの海外貿易が許されていたため、長崎への航路であった天草でキリスト教が広まっていた事もあり寛永十四(一六三七)年あの天草島原の乱が起こったことは言うまでもない。 寛永十六(一六三九)年、南蛮船(ポルトガル船)入港禁止令。いわゆる鎖国時代に突入。
 寛永十八(一六四一)年、ここで天草が天領になる。天草島原の乱で、原城攻撃に参加、一番乗りの武功を顕彰された鈴木重成が初代代官として任命された。
 江戸幕府は外国船からのキリスト教布教を恐れ天草を直轄地にして管理をしないといけなくなった。
 これがキリスト教排除目的の異国船監視所、遠見番所の設置に繋がるのである。
 同寛永十八(一六四一)年、富岡、大江崎、魚貫崎に、万治三(一六六〇)年、高浜村大野崎に遠見番所が設置された。

・三つ目は貿易方法からの遠見番所設置。

 江戸時代の長崎貿易方法を簡潔にまとめます。この長崎貿易方法が日本の貿易方法と思ってもらって構いません。
 糸割符制度(一六〇四年~一六五五年)この時代の主な輸入品は生糸であった。日本はこの支払に多量の金や銀を使用していた。この糸割符制度とは国内の金銀流出を縮小させる為の日本主導の貿易方法である。
 一六五五年この不平等に中国商人側が反発。逆にこの制度を悪用され日本側が不利になるようになった為この制度は廃止され、いわゆる売手と買手が直接言い値を決める相対売買仕方(自由貿易)に代わる。
自由貿易により貿易量は増大したが、その支払にまた金銀の流出も増大。これを長崎奉行が抑制するために行ったのが貨物市法(一六七二年~一六八四年)である。
 貨物市法とは目利き商人が鑑定を行い入札を行う制度で日本側が主導権を持つことが出来た。だが入札を行うということでいつの時代も同じく汚職と中国側の薄利多売で金銀流出抑制は思うようにいかずこの制度も廃止される。
 定高貿易法(一六八五年~一七一四年)ここからが天草にとってとても重要になります。
 金・銀による貿易決済の年間取引額に一定の上限「定高」を設定した。国や船につき取引の上限を定めた。遠路遥々船で持ってきた積み荷だけどこれ以上は取引出来ませんので本国へ持ち帰ってくださいということです。
 清(中国)の遷界令(海禁)が前年一六八四年に解除され清国船(唐船)の国内出入りが急増していた。
 確認しておきます。この時代は日本国内は長崎以外での貿易は許されておりません。持って帰ってって言われてもなぁ・・・どうせだったら帰り道で投げ売りでも売りさばけと思うのが当たり前。その唐船の帰り道が天草だった。
 しかもその帆船が立地上必ずといっていいほど通り、シケ明けや風待ち、荷物の積み替えなどに最適だった場所。それが牛深だったのです。
 定高を超える積み荷に関しては銅や俵物などとの物々交換が徐々に行われるようになった。
 元禄十一(一六九八)年、長崎会所(貿易機関)設立し長崎奉行所は大いに利益を上げ、権勢をふるった。
 海舶互市新例(一七一五年~一八五七年)新井白石が金銀の海外流出量を調べ江戸幕府に報告。その量が多すぎた為国内の金銀埋蔵量が枯渇してしまうと危惧し海舶互市新例(正徳新例)を制定。定高を超える積み荷を代物替のみでの決済を公式に認めた。
 中国は海禁を解いている。でもまだまだ国内は絶賛鎖国中。長崎以外での貿易は禁止。
 だが唐船の通り道天草でも取引をする者が多くいた。これが密貿易。当時の言葉で言えば『抜け荷』ということになる。
 亨保二年(一七一七)に﨑津とともに増設されたものがここで登場、牛深遠見番所です。
 﨑津、牛深は抜け荷対策目的での設置が主のようである。牛深で狼煙を上げる必要性が薄かったのはこの為だろう。
 寛保二(一七四二)年、寛政二(一七九〇)年と貿易半減令が出される。貿易額の制限に平行して幕府による貿易統制に力が増す。
 江戸幕府は長崎貿易の秩序を守らせる目的のため抜け荷の取り締まりを厳しくする必要があった。
 天草でこの抜け荷監視目的での最重要拠点が寛政十一(一七九九)年設置『牛深御番所』だったのだ。
 それからの日本は安政五(一八五八)年欧米列強の圧力により安政五カ国条約が結ばれる。ここで日本の鎖国が完全に終わった。関税自主権がないなどのこの不平等条約を結んだことにより公武(朝廷と幕府)間の緊張がいっきに高まり、安政の大獄や桜田門外の変などの事件に発展する。
 そしてそれが大政奉還、王政復古の大号令に続き明治維新になるのです。日本の国家事業と言える遠見番所と牛深御番所はその明治維新により役目を終えた。






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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年05月17日

おおとり絵図 ㊵

『牛深御番所絵図 其の四十』クリックにて拡大


 遠見番所から南方向を眺望する視界は天草灘である。その向うは茫漠として果てしなく島礁のないままに水平線が開けている。

 ここから天草灘を東北方角へ辿ると下須島の沖合いに到り、唐船は一拠に沿岸に接近することもなく幾度となくこの間を、行ったり来たりする船影がみられ、抜荷(密貿易)取締りの任務など御番所の役割を見極めたに違いない。この遠見番所からの展望は他に比類すべきものもないくらい視界にあったと思われる。

 御番所の大龍丸、小龍丸はこの海域へ出張って唐船を確保し、或いは唐船の行き先を確認する機会を常に目論んでいたであろうと思われる。

 さらに東北方角へ辿ると薩摩長島の西部沿岸に接近し、ここから北西へ向うと下須島と戸島の間に到り、牛深港へ入る場合の唐船の航路となっている海域である。

 この海域を戻り長島西部を通り沿岸を辿ると八幡の瀬戸(黒の瀬戸)の沖合に達する。

 さらに阿久根沿岸間近に到ると、薩摩半島の西部沿岸は遠見番所、火立番所、津口番所などが連珠のように連なり、これらの番所は連係しながら漂着唐船の監視を行っていた。また甑島の平港は薩摩藩庁への物資輸送の船舶が頻繁に往来する海峡であった。

 鎖国以来東支那海、天草灘に押し寄せた唐船は薩摩半島へ漂着し、島々には実に夥しい唐物(からもの)物資が集荷する状況となり、異国船唐船の監視、措置に止まらず、国内船の『番所改め』により、切支丹、一向宗徒の潜入取締まり幕府禁制品の入境阻止を目的に藩則に基づく取締まりを行ったものである。

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こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!
ここからhirok(^^♪です。

牛深の歴史は薩摩との関係がとても大事だったと何度も書いてきた。

今回絵図最終回。次回まとめ?感想?で第二章というかこのブログは当初の目的をやり遂げたことになると思います。
みなさんはどのような感想になられましたでしょうか?

次回最終回更新は少しお時間をいただきます。





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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章