2015年03月31日

牛深御番所建物平面図 ⑥

『牛深御番所絵図 其の六』クリックにて拡大


 牛深御番所の建物施設は、港の番所と銀杏山の中御番所(別称賄処)、頂上の遠見番所(別称居小屋(きょごや))、長手の船藏が主なものである。
 この内、中番所は増改築されて、最初のものとは違ったものになっている。

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小さくて見づらいと思いますので拡大しておきます。




下の配置図の右上が増築前の中番所、左の大きくなったものが増築後の中番所、右下が遠見番所の配置図だと思います。

ここまで細くわかったなら誰だって絵を描きたくなるなぁなんて思います。


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2015年03月30日

牛深御番所建物図 ⑤

『牛深御番所絵図 其の五』クリックにて拡大


 港の御番所は牛深浦の船津地先に建設することに問題なく、用地は既に埋め立てられ、空地となっていたもので、船津の所有者から長崎奉行所が買い取った。

 牛深浦は瀬崎と船津地先の間から、始橋(はじめばし)を通り抜け奥まったところまで、岸辺の石垣はこの時代には既に築かれていた。船津側の護岸も同様のことである。

 この両岸の石垣については、先祖の人々が牛深の狭隘(きょうあい)な土地を少しでも広くしたい願いで築いたものと思われ、その努力の偉大さに界隈に生れ育った者にとって、驚愕と同時に今日なお称賛に価する。

 入江は新田の辺りまで続いて、細い川筋があり暗渠(閉水路)や交差する道路がある。

 称念寺の下辺りから、岡三区の観音様の下辺りまで「浦」と読んでいた。更に此処あたりから瀬崎まで「上げ」と言い、元の警察署あたりから岡東に向けてもんちん町があった。

 御番所の建物については、その平面図が長崎奉行所の古文書に、合間に折り込まれる形で存在する。「一枚の絵」の外観など含めて次のような建物であったと思われる。

 瓦葺き中二階の建物で、大広間、普請役の二部屋、遠見番の詰所一部屋、玄間出入口三ヶ所、建物の北側にわたり廊下と湯殿、南側に別の湯殿、西側に薪小屋、大広間の回りは廊下がめぐっていて、東向きの正面の外部に相印台、三種武器を立て置く台座があり、敷地の東側角に石燈籠、その右へ大型船への乗降り石段。さらに北側には御用船への乗降り石段、近くに防火用水桶、手桶など並べ置かれていた。大型船舶は大龍丸、小龍丸の繋船柱が南側塀の外部にあり、一定の場所が定めてあった。

 鰹釣りはこの時代一本釣りが存在していて、いわし等の生簀籠(いけすかご)が造られていた。


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この絵を初めて見た時の興奮は伝えきれない。

こんな重要な絵を簡単に公開していいものか考えるべきだと思いますが、これがないと御番所の姿はわかりませんので公開しました。

古文書に基づいた造りや道具の配置を細かに見るととてもおもしろい。さらに鰹釣り用の竹生け簀も描いてあり時代の雰囲気を出す細かい演出にも着目していただきたい。後日牛深浦船津の町並みは公開。次回はその古文書にあった御番所配置見取り図です。


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タグ :牛深御番所


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2015年03月29日

加瀬ノ浦瀬戸ノ脇之図 ④

『牛深御番所絵図 其の四』クリックにて拡大


 牛深御番所の近世文書(江戸時代の文書)には瀬戸脇瀬戸は「小セド」となっている。
 宮崎区の「宮崎郷永代萬覚帳」では、瀬戸を後浜方向へ少し行ったところ辺りまで「瀬戸脇瀬戸」の地名となっている。
 ここらの浜辺から砂浜が広がっているが、薩摩の帆装商船が瀬戸から出入りできず、錨を打って停泊する砂浜になっていたようである。
 長手側から、細い石段を登って、更に丘の上に出ると、後浜へ降りて行く山合いの道があった。
 つまり長手側の石段の辺りから後浜への山越えを「新銀取り越え」と言っている。
 原口虎雄氏の『鹿児島県の歴史』によれば薩摩藩は贋貨幣(新銀貨)を鋳造していて、薩摩の関所は、厳しく外来者の出入りを取締まったとしている。さらに港の津口番所は陸の関所に対し海の関所と呼ばれ薩摩半島には点々と津口番所が布かれていた。

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私の子供の頃もまだ埋め立てられていなかったので砂浜だったのは覚えています。潮干狩りやってた想い出があります。
私のブログで牛深の歴史に薩摩藩が何度も出てきますが、今回も出てきたように薩摩藩の存在がこの御番所にはとても深く関係していて薩摩藩があったから牛深に御番所が出来たと言っても過言ではありません。その直接の記事はまた後日。


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2015年03月28日

番所ン墓 ③

『牛深御番所絵図 其の三』クリックにて拡大


 長手鼻から山の頂上に至る途中に墓地があり、墓地は移転した。
 移転前の墓所は加世浦区八十歳から九十歳位の人々に「番所ン墓」と呼ばれ、その口碑が伝承されている。
 この墓地を移転前のイメージで描いてみた。天草の従来の遠見番は本来任地を転々と回ることになっていたが、そうした中で八田家青木家丹羽家の歴代は他の土地へ出入りしたこともあるが、長く牛深に居住し遠見番として在任したところがある。
 そこで、この御三家を「牛深の遠見番御三家」と称したい思いである。
 「番所ン墓」を描いてみて、移転前とは異なると思われるが、このような感じであったと思われる。

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今は長手から通天橋の袂まで道路が整備されておりますが、その道路整備の為この番所ン墓は移転されたそうです。元の場所は今の金刃比羅神社辺りになるとのこと。



現在の墓地には移転時の石碑が有ります。内容が不自然ですので全文転載いたしません。一部抜き出します「安永6年風害に合い長手へ移転再建された」
移転当時は御番所の研究もほとんどされていなかったため遠見番所と御番所が混同されているように思われる。そして御番所のことだとしても長手に移転されてはおらず、長手にあったものは前回掲載した御番所船蔵である。台風など風が強いときなどに長手の船蔵に一時避難したことなどを混同しているものと思われる。

このように家族のお墓までも現在まで大事にきれいに残っており、遠見番役人が牛深にとって多大な貢献をされたのかがわかると思います。辞世の句まで残っていてとても興味深い。



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2015年03月27日

江戸時代-加世浦長手-②

『牛深御番所絵図 其の二』クリックにて拡大


 加世浦の先に長手浜がある。牛深御番所の対岸に当り「御番所船藏(ごばんしょふなぐら)」が建てられる。
 風の時、又は普段の避難用として、船舶の修理、上架、船舶の蔵入などもここで行うことになっていた。

 この位置は現在公園になっている。もとは牛深漁協の所有地で、その以前は深川鰹節工場であったところのようである。

 ここから山合いをめぐって廻り込み、瀬戸脇の方向へ行くと、海を挟んで恵比須島があり、その小島は一文字防波堤きわにあったと思われ、島には恵比須様が鎮座していたのであろう。

 長手の山の頂上は松林になっていて、近くに居住していた地付遠見番は此処に来て、遠く黒島の背後に広がる外海を見ていたという。

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現在の同場所同方向地図です。


比較してみるとわかりやすいと思います。
地図内に新銀取坂でてますね。詳しくは八景→こちら
前半部分恵比須様の漢字が「比」となっているのは郷土史家の方のお話を書き留めておりますので郷土史家の方の主張を尊重しそのように表記いたしております。現在のえびすさまの場所へ移設される前の場所がわかると思います。

次回は絵図船蔵の上に位置する遠見番役人墓地についてです。




右の第二章タグを押すとまとめて読めます。

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Posted by hirok○ at 06:59Comments(0)御番所第二章

2015年03月27日

牛深御番所絵図 ①

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これからは私が絵の説明を受け聞き取り文章化したものですので内容は郷土史家の方が調べられた歴史になります。
おそらく多くの方が初めて目にする言葉が多数あると思います。今回はこういうものがあるということだけでも理解していただけると助かります。
細かい施設や役職などは、初見では難しかったりしますので、またその一つ一つに着目する記事を予定してますので、まず少しずつ言葉に慣れていただこうと思います。
興味がある方でも私の更新に読むのが追いつかないと思います。以後このブログが存続する限り残していこうと思っておりますのでゆっくり時間あるときにでも読んで頂くことを希望致します。

それでは前回の「一枚の絵」から始まります。

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『牛深御番所絵図 其の一』
クリックにて拡大

※右下原画は作者不詳。寛政11年(西暦1799年)4月以降の作。

 この絵の中に牛深御番所の全ての施設が描かれており、その一つ一つを解説することでその全体を把握できると考えています。

 銀杏山(遠見山)の位置は、背後に村内の地名があり、桑島、大島、魚貫崎の半島、久玉村役座(やくざ)、明石、勝崎等の位置関係がわかる。

 御番所の建物は、先ず遠見御番所が山の頂上にあり、中番所(別称賄処(まかないどころ))、港内の御番所の位置、御番所付きの船舶の位置、船津地先きとされる場所が明確である。さらに同所から加世浦への道程、文化年間に設置された御用井戸の位置、地付き遠見番役人の居所も道筋でわかる。

 また、港の御番所遠見守窓(とおみまもりまど)からは、山上の遠見番所、中番所が一直線上に目視できる位置にあり、相印台(そういんだい)(合津用旗の台座)なども明確である。
 御用船(早船(はやぶね))二艘が繋がれ、大小の大型船(鯨船(くじらふね)大龍丸、小龍丸)が待桟する岸壁の位置も歴然としている。
 対岸の瀬崎には、繋船柱が連なり、村役座(許座舗(きょざほ))があり、庄屋、村役人の動行も窺える。

 牛深御番所は寛政十一年(西暦1799年)四月一日創立である。初め長崎奉行所の委託を受け、島原藩士四十名の駐屯班が駐在した。
 島原藩の駐在は二ヶ月間に亘(わた)っている。その以後に本来詰めるはずの御番所役人たちが、長崎奉行所から派遣されることになる。

 御番所の陣容については創立前の準備段階から携わってきた、普請役(幕末転名)で奉行所付き小林周介及び関口祐介の二名。船番役に船頭船番一名、船番九名合わせて十名。遠見番に触頭(ふれかしら)遠見番原才右衛門一名、遠見番一名合わせて二名、この二名は長崎在任の二名と合わせて四名。

 長崎在任二名が交代のため、牛深へ赴任のときは長崎波止場付き大型船(春龍丸(しゅんりゅうまる))などであった。またこのような場合、茂木から富岡を経由し、陸路河浦へ、陸路牛深への赴任がたびたびあった。

船番、遠見番は船津、加世浦の住居を借り、或いは間借りなどをしていた。このうち船番は全員が民間に居住していた。

 この時代、すでに長崎には多数の絵師がいて、奉行所、代官所に所属する者たち、或いは民間の絵師の手により、公的建物、外国の停泊船、港に出入りする諸地方の多数の帆装商船、港の風景が良く描かれている。

 坂道の多い長崎は山手に寺社仏閣が点在して、絵師たちの対象になる風景には事欠かなかったようで、有名な絵師もうまれた。

 絵の描き方について、一定の描き方が何とか定着するように、自分のスタイルになるように思いながら、中学以来の図画であり、工夫しながら描きつづけることにした。
 風景画の中には俯瞰(ふかん)にもとづいて、遠く近くを描く俯瞰絵図がある。遠望する風景を描くのに俯瞰絵図は最適である。
 絵図の特徴をうみ、定着するよう描くために「鳥瞰絵図」を創作したいと思った。
 高く遊飛する鳥の目で表す方法により描くことにした。以下全ての作品は鳥瞰絵図である。



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Posted by hirok○ at 06:17Comments(0)御番所第二章

2015年03月25日

一枚の絵から始まる冒険活劇-第二章-

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前回からの更新に随分期間が空いてしまいました。忘れていたわけではないです、きちんと裏では準備をしておりました。

当初の予定では前回までが「遠見番所」について。今回から本格的に「御番所」について投稿していこうと思っておりました。その流れで実際の古文書を公開しながらどんなことが起こっていたのか説明していこうとしておりましたが、またこの説明が長くなりすぎるし難しすぎるのです。

これはブログで公開しても伝わらないと試行錯誤しておりました。
完全に一人よがりになってしまうと思いまして、郷土史家の方と度重なる打ち合わせをさせていただいた結果、方向が決まりました。後半その郷土史家の方の言葉を掲載いたします。その前にまず、私の方から事前にお伝えして置かなければならないことがあります。

ブログ内で公開していく文章、その他イラスト、絵などについて郷土史家の方が何十年も掛けて研究した知的財産でございますので断りなく保存・転載することを一切お断りさせて頂きます。ただ牛深の歴史を知る上でこれから掲載説明していくものは今までの牛深には無く大変意義があるものだということは間違いないので、もっと詳しくお知りになりたいとかもっと鮮明に資料を見たいまたは公開したいなど思われる方がいらっしゃる場合はお問い合わせください。自分の故郷に興味を持って頂くことが最大の目的でございますので、ご要望にお応え出来るように対応をその都度検討いたします。

記事を書くにあたってお話を聞いただけではなく私も裏取りを行い可能であるかぎり掲載前に正確性を求めますが、全てを確認できることは不可能に近いので一旦掲載した記事について後ほど正確な情報がわかった場合、その記事の掲載見合わせや訂正変更を予告なく行う場合が予想されます。事前にその点をご理解いただいて読んでいただきたいと思います。

意味がわからないところなどございましたらコメント欄ででもお伝え頂けたら追記説明させていただこうと思いますのでお気軽にどうぞ。

それではお待ちかね、私も最後までいくのが楽しみ。『連載:牛深御番所てんこ盛り』新章、始まります。


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『一枚の絵』序にかえて   牛深在住郷土史家筆

 長崎旅行の際、県立長崎図書館を尋ねたことがある。その頃、長崎とは違い余り歴史のことを聞いたことがない牛深の江戸時代はどうだったのだろうと思っていて、長崎には牛深の歴史に関連する、色々な資料を見つけることができるかも知れないと感じていた。

 その時に同図書館の展示室を閲覧した。長崎は古くから外国に開け、中国のこと、キリシタンのこと、長崎へ行って働いた人の話、その他、長崎の近くにありながら牛深へも影響を齎(もたら)したのではないか、展示室は相当に興味深いものであった。

 最初に目に付いたものは「諸官公営絵図(しょかんこうえいえず)」の表札である。回りには資料が沢山あり、殆(ほとん)どウィンドーは長崎の歴史で満たされているようだった。絵図あり近世文書(古文書)があって、最後の列に「牛深御番所」の文字があった。
 絵図の表札は「牛深御番所」、或いは「牛深見張御番所」の文字であったかも知れないそのうちのどちらかである。
 その時、矢張り「あった!!」と思い、その発見に驚き、これは面白いと感じて、さてどうしたものかと戸惑った。

 会場の展示全部を見て廻り、「牛深」の文字のある資料は他には一点もなかった。

 同館の受付で牛深の者であることを告げると年輩の男性の方に対応された。現在資料庫が建設中で未整理のものであるが、別室でご覧戴けるので、そちらへと案内された。

 この時、一枚の絵を示され、瞬間的にこの絵を模写したいと思い、その旨を告げて、三時から翌日の午前中までかかった。鉛筆で形ばかりに描いて色合いを記憶して、そのままに持帰って牛深で完成した。

 ところで、今回今までに書きだめていた絵について説明を加えることにして、同時に牛深の郷土史の話をすることで、大変であるがその話をhirok氏に書きとり纏(まと)めて貰いたいと思い、そのようにしてみました。

 絵の全部を提供することにして、hirok氏が他に活用することも自由である約束をいたしました。

 さらに「一枚の絵」の序文をはじめ、口頭説明の話言葉であることを断りして、御理解いただきたい思いです。

--------------------郷土史家筆ここまで------------------------
 ここにいう「一枚の絵」を模写されたものが右下の写真小窓部分。全体の絵が郷土史家の方の画風に再度改められたものです。(クリックにて拡大)

※右下原画は作者不詳。寛政11年(西暦1799年)4月以降の作。

江戸時代の牛深で写真のない時代の牛深の歴史絵が存在していたのが嬉しい。絵として見るだけでなく特に歴史絵として実際の場所と照らしあわせて細くみる事が面白い。次回はこの絵の説明から入っていく訳ですが提供受けた絵は全40作あり最低でもこれから40回の連載になります。牛深の歴史は薄っぺらくない。これだけの歴史が牛深では大事にされていない。天草検定にも一言も書かれていないのはおかしい。

この絵を模写されたのが1988年でこれから長い長い一人の郷土史家の方の物語は始まりました。

比較のため現在の牛深同場所を見るのがわかりやすいと思いますので国土地理院が出している3Dマップデータより拝借し地図内に追記致します。(クリックにて拡大)



海岸線は現在多くの場所が埋め立てられ変わっております。江戸時代の絵には下須島(3Dマップ下の島)は描かれておりませんが省略されていて、無かったという意味ではありません。空を飛ぶ技術が無い時代こんな絵を描いた絵師の想像力は凄いですね。何度も言いますが江戸時代あの徳川幕府の時代ですよ。大河ドラマなどで身近に感じてる方多いはず、その時代牛深には色鮮やかな人の営みが確かにあった。

私は絵の提供、お話共に大変有り難く思っており、とても感謝の気持を伝えても伝えきれるはずもありません。
その気持を毎回の連載に込めますのでどうか最後までお付き合いのほどよろしくお願いいたします。




  
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Posted by hirok○ at 03:00Comments(0)牛深御番所御番所第二章