2020年08月17日
明治を学ぶ15
前回は西南戦争まで学びました。
これまで明治維新をおこなってきた西郷、木戸、大久保を維新三傑と呼びます。
そのうち二人がこの世を去った。西郷さんは今あるものすべて西欧化していくのには疑問を持っていた。蒸気機関鉄道が開通した時も便利にはなるが、それまで活躍していた飛脚や途中の宿場町の人々の仕事が無くなってしまう危機感を人一倍感じていて反対していた。その人たちも守りたかったんだなって思う。新しく海外から鉄砲が入って刀で切り合う時代じゃなくなってきた。自分たちの明治維新を戦って支えてくれたのは武士じゃないか。新しいものを入れすぎて武士の存在意義を失わせてはならないって強く感じていたんだろうな。その思いは伝わってくる。ほんとに残念に思います。
この内戦までは動乱期で、これから先が明治維新の本当の幕開けだと言われたりもしています。いわば明治維新第二幕とでも言いましょうか。
大久保利通は国内行政を取り仕切る内務省のトップ内務卿として、殖産行政、警察行政を担当。地方行政も監督指導する強大な権力を持つようになった。
明治11(1878)年3月11日、地方の体制等改正の儀を提案。
内容。
府県・町村議会を設置。
地方自治を認める。
地方税を制定。
そんな矢先。
明治11年5月14日、旧加賀藩(石川県)士族6名により大久保利通が暗殺された。紀尾井坂の変が起こる。
5月14日早朝、大久保は友人であった福島県令(知事)山吉盛典の帰県の挨拶を受けている。そのとき大久保は三十年計画について述べていた。これは明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として戊辰戦争や士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期として、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べた。 その後明治天皇に謁見するため、馬車で赤坂皇居へ向かった。午前8時30分ごろ紀尾井町において暗殺犯6名に襲撃され命を失った。
不平を持っていた加賀藩士族6名は斬奸状(ざんかんじょう・悪者を斬る理由を書いた書状)を持っていた。
理由。
国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。(自由民権運動)
法令を出してもすぐ変更が激しく、また官吏の登用にコネが使われている。
不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。
国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
外国との条約改正をせず、国威を貶めている。
この後6名は自首。国事犯として裁判にかけられ判決後即日斬罪(ざんざい、首切)された。
東京では盛大に大久保の葬儀が行われたが、鹿児島県には遺骨を拒否された結果、東京都港区の青山霊園に埋葬されている。
尚、襲撃された際に乗っていた馬車が、大久保家により永代供養のため五流尊瀧院(倉敷)に奉納されている。
明治維新第二幕始まったと同時に大久保は亡くなってしまった。
明治11年7月22日、大久保が生前提案していたものが法案となり地方三新法が公布される。
郡区町村編制法(地方自治)、府県会規則(初の選挙制度)、地方税規則(地方税の設置)の3つを言う。
各府県に議会を設置し初めて選挙が行われることになった。
選挙権は地租5円以上納付した満20歳以上の男子。記名投票。
被選挙権は地租10円以上納付した満25歳以上の男子。
選挙権は全人口の1%だった。全員に選挙権が無かったのには理由がある。
この考えの基礎になったのは孟子の「恒産なくして恒心なし」という言葉で、経済的な安定が無ければ道義心や良識を持つことができないという考え方によるものだった。
明治11年8月23日、西南戦争で活躍した近衛砲兵大隊を中心とした反乱、竹橋(たけばし)事件が起こる。
西南戦争の恩賞がない事への不満を天皇に直訴。上官を殺害されたがすぐ鎮圧した。
この事件後、軍がこのままではいけないという事で軍の引き締めが行われ、軍人訓戒、憲兵隊が設置された。
明治11年12月5日、陸軍省内にあった参謀本部を独立させた。天皇の直轄組織に。
軍政(人事・予算は陸軍省)と軍令(作戦命令は参謀本部)を切り離した。行政が作戦に意見を言えない制度を目指した。初代参謀本部長に山縣有朋。
山縣有朋は長州出身であったため長州出身の軍人を優先して徴用していく。長州閥(ばつ)のはじまり。
その後の統帥権(軍隊の指揮権)の独立へ向かっていく。
これまで明治維新をおこなってきた西郷、木戸、大久保を維新三傑と呼びます。
そのうち二人がこの世を去った。西郷さんは今あるものすべて西欧化していくのには疑問を持っていた。蒸気機関鉄道が開通した時も便利にはなるが、それまで活躍していた飛脚や途中の宿場町の人々の仕事が無くなってしまう危機感を人一倍感じていて反対していた。その人たちも守りたかったんだなって思う。新しく海外から鉄砲が入って刀で切り合う時代じゃなくなってきた。自分たちの明治維新を戦って支えてくれたのは武士じゃないか。新しいものを入れすぎて武士の存在意義を失わせてはならないって強く感じていたんだろうな。その思いは伝わってくる。ほんとに残念に思います。
この内戦までは動乱期で、これから先が明治維新の本当の幕開けだと言われたりもしています。いわば明治維新第二幕とでも言いましょうか。
大久保利通は国内行政を取り仕切る内務省のトップ内務卿として、殖産行政、警察行政を担当。地方行政も監督指導する強大な権力を持つようになった。
明治11(1878)年3月11日、地方の体制等改正の儀を提案。
内容。
府県・町村議会を設置。
地方自治を認める。
地方税を制定。
そんな矢先。
明治11年5月14日、旧加賀藩(石川県)士族6名により大久保利通が暗殺された。紀尾井坂の変が起こる。
5月14日早朝、大久保は友人であった福島県令(知事)山吉盛典の帰県の挨拶を受けている。そのとき大久保は三十年計画について述べていた。これは明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として戊辰戦争や士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期として、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べた。 その後明治天皇に謁見するため、馬車で赤坂皇居へ向かった。午前8時30分ごろ紀尾井町において暗殺犯6名に襲撃され命を失った。
不平を持っていた加賀藩士族6名は斬奸状(ざんかんじょう・悪者を斬る理由を書いた書状)を持っていた。
理由。
国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。(自由民権運動)
法令を出してもすぐ変更が激しく、また官吏の登用にコネが使われている。
不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。
国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
外国との条約改正をせず、国威を貶めている。
この後6名は自首。国事犯として裁判にかけられ判決後即日斬罪(ざんざい、首切)された。
東京では盛大に大久保の葬儀が行われたが、鹿児島県には遺骨を拒否された結果、東京都港区の青山霊園に埋葬されている。
尚、襲撃された際に乗っていた馬車が、大久保家により永代供養のため五流尊瀧院(倉敷)に奉納されている。
明治維新第二幕始まったと同時に大久保は亡くなってしまった。
明治11年7月22日、大久保が生前提案していたものが法案となり地方三新法が公布される。
郡区町村編制法(地方自治)、府県会規則(初の選挙制度)、地方税規則(地方税の設置)の3つを言う。
各府県に議会を設置し初めて選挙が行われることになった。
選挙権は地租5円以上納付した満20歳以上の男子。記名投票。
被選挙権は地租10円以上納付した満25歳以上の男子。
選挙権は全人口の1%だった。全員に選挙権が無かったのには理由がある。
この考えの基礎になったのは孟子の「恒産なくして恒心なし」という言葉で、経済的な安定が無ければ道義心や良識を持つことができないという考え方によるものだった。
明治11年8月23日、西南戦争で活躍した近衛砲兵大隊を中心とした反乱、竹橋(たけばし)事件が起こる。
西南戦争の恩賞がない事への不満を天皇に直訴。上官を殺害されたがすぐ鎮圧した。
この事件後、軍がこのままではいけないという事で軍の引き締めが行われ、軍人訓戒、憲兵隊が設置された。
明治11年12月5日、陸軍省内にあった参謀本部を独立させた。天皇の直轄組織に。
軍政(人事・予算は陸軍省)と軍令(作戦命令は参謀本部)を切り離した。行政が作戦に意見を言えない制度を目指した。初代参謀本部長に山縣有朋。
山縣有朋は長州出身であったため長州出身の軍人を優先して徴用していく。長州閥(ばつ)のはじまり。
その後の統帥権(軍隊の指揮権)の独立へ向かっていく。
Posted by hirok○ at 06:23│Comments(0)
│明治~
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