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連載:牛深御番所てんこ盛り!
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hirokと申します。旧牛深市出身でございます。天領時代牛深には御番所(江戸幕府の施設)があった。その歴史を学び記録するブログです。
ja
Sun, 25 Oct 2020 20:08:46 +0900
Sun, 29 Mar 2015 05:39:17 +0900
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熊本と牛深を行き来しながらイラストを描いております。油絵から水彩、デジタル、マンガといろいろ描きます。牛深に関係しないその他のイラストはまた別の機会にということで(^_-)-☆
平成26年、天草観光文化検定初級上級、上天草検定初級取得。加藤細川検定プラチナマイスター取得。
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明治を学ぶ33
明治37(1904)年2月4日、御前会議で日露開戦決定。
御前会議後明治天皇は侍従に胸中を告白。
「今期あの戦は朕が志にあらず、しかれども事すでにここに至る。これをいかんともすべからざるなり。事万一蹉跌(さてつ)を生ぜば、朕何をもってか祖宗に謝し、臣民に対するを得ん。」
(戦争になってしまって先祖にも国民にも申し分けない)
開戦時の日露軍事力比較をする。
総兵力 日本100万人。 ロシア207万人。(極東配備は12万人)
軍艦 日本24万6000トン。 ロシア51万トン。(極東配備は19万トン)
火砲 日本636門。 ロシア1万2000門。(極東配備は172門)
開戦時ロシア全体の軍事力は日本の倍以上あったが、ロシアは日本を侮っていた為極東(日本側)には軍備は薄かった。
2月6日、国交断絶の訓令電報。(ロシアとの国交断絶)
2月8日、仁川・旅順の奇襲海戦(当時の国際法では戦争を開始する前に宣戦布告を行うことを義務とする明確な決まりはなかった)。日本の目的は兵員や物資の輸送の為制海権の奪取だった。
ロシア太平洋艦隊軍艦2隻撃破。日本軍2000名上陸に成功。しかし旅順の軍艦撃破まではいかなかった。
2月10日、宣戦布告
ここでも明治天皇の考えがうかがえる。抜粋。
「朕の考えは、文明を平和的に発展させ、諸外国との友好関係を促進することによって、アジアの安定を維持し、また、各国の権利や利益を損なわないようにしながら、末永く日本帝国の将来の安全が保障されるような状況を確立することにある。今、不幸なことにロシアと戦う事になったが、これは決して朕の意志ではない。」
2月18日、3月27日、5月2日と三次にわたって旅順港閉塞作戦(りょじゅんこうへいそくさくせん)を行う。旅順港の出入り口に古い船を沈めてロシア艦隊を湾内に閉じ込めた。しかしいずれも旅順港を十分封鎖するに至らなかった。
5月1日、鴨緑江(おうりょくこう)の渡河作戦成功。韓国と清の国境の河で日本軍4万2000人とロシア軍2万6000人と戦闘態勢に入る。日本軍はわずか1日で230mの架橋を完成。全員が数時間で渡河したことに驚きロシア軍は退却した。日本軍の技術的高さがうかがえる。
5月26日、金州・南山攻略戦。世界戦史上初の塹壕戦(ざんごうせん)が行われた。塹壕とは敵の銃砲撃から身を守るために陣地の周りに掘る溝のこと。15時間の決戦で日本兵3万6000のうち4200名が死傷したがロシアの旅順への補給路を遮断することに成功。
開戦時日本は予想される戦費15億円のうち80%が不足していた。外国から借金する必要があった。同盟国イギリスは南アフリカでボーア戦争を行っていたため頼ることが出来なかった。この資金調達を任されたのが日本銀行副総裁の高橋是清だった。しかし欧米市場で探すも当面の目標1億円も日本に勝利の見込みがないと貸してくれるところはなかった。そんな中手を差し伸べたのはユダヤ人支配人の当時銀行だった。この頃からロシアではユダヤ人の虐待は行われておりそれに対する日本への応援だった。
鴨緑江の勝利など日本優勢が伝わり公債の人気が上昇。以後ドイツ、フランスでも成功する。最終的に8億円戦費の半分を調達することができた。
もともとこの戦争を日本はどちらかの国がボロボロになるまでやるつもりは無かった。日本優位な時に講和条約を結ぼうと考えていた為アメリカに仲介に入ってもらうように根回しを同時に行っていた。
開戦直後3月、伊藤博文の密使として金子堅太郎が渡米。
1年にわたり全米で講演、アメリカに日本の立場を伝えた。
「日本は領土的野心のために戦っているのではない。ペリー提督がもたらした門戸開放のために戦っている。将来は世界みな兄弟を実現させたいと日本人は思っている」
日本の正当性を主張。理念や正義感を尊ぶアメリカ国民より喝さいを浴びる。
あれ?これって今でいうロビー活動ってやつやん。今日本はこれが下手やって言われてるけどこの時はうまい事やってたんやな。伊藤博文はほんとすげぇな。
結果、金子のハーバード大の同級生であったセオドアルーズベルト大統領に日露講和仲介を内諾してもらった。
戦費の調達もできた、講和の仲介役も準備が整った。それでは再度ロシア太平洋艦隊の拠点旅順攻略を!というところで次回。
https://gobansyo.kataranna.com/e109549.html
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明治~
Sun, 25 Oct 2020 20:08:46 +0900
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明治を学ぶ32
明治33(1900)年5月10日、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇・20歳)ご成婚。皇后は公家九条家から15歳の時だった。
なぜ結婚を急いだのかと言うと、次の世継を早く確保する為である。
皇太子(大正天皇)が病弱だったのと、家系図を見ていただいてもわかると思いますが、明治天皇は皇后との間に子供がいなかったが、5人の側室の間に男子は5名生まれました。しかし後の大正天皇以外は若くしてお亡くなりになっている。結果世継がお一人しか生存していなかったのである。
明治33年5月19日、山縣総理により軍部大臣現役武官制が成立。
内容は名前のまま、軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)の就任資格を現役の大将・中将に限定する制度である。引退した軍人や軍人でない文官が軍大臣になれない制度。明治31年の隈板内閣時(明治を学ぶ30)に軍大臣が軍人でない人物を指名しかねない事態が起こった。この時は明治天皇の勅命により桂と西郷が大臣になった。このような危機がまた起こりらないよう山縣はこの法案を急ぎで作った。ただこの制度が今後の日本の分かれ目になっていく。
本当は職業軍人でない文民が軍隊に対して最高の指揮権を持つことでシビリアンコントロール(文民統制)ができるのにも関わらずこの法案が出来たために軍が独走することとなった。つまり予算審議の中で一番重要な軍事費を国会では審議するのだが、軍人から軍大臣が出るので国会よりも軍が上位になってしまった。
明治35年1月、日清戦争で冬季寒冷地での苦戦を強いられた経験を踏まえ、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦に向けた準備をしていた。青森歩兵第五連隊が青森市街から八甲田山に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件が起こる。八甲田雪中行軍事件という。訓練への参加者210名中199名が死亡。日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。
明治35年1月30日、日英同盟締結。
イギリスの清国における権益と日本の清国・大韓帝国における権益を相互に承認。さらにどちらかが戦争になった時相手が1か国なら中立を、相手が2か国以上なら参戦など軍事同盟も結んだ。
イギリスはロシアの南下政策の盾に日本を使いたかった。このときの有名な風刺画。
火中の栗という題名ですが、イギリスがロシアが狙っている栗(朝鮮)を日本にとって来いと指図していて、アメリカは気にしてない素振りでいるようにみえるがすぐ後ろにいるという風刺画。夏目漱石はこのとき「世界を動かしているイギリスがなぜ我々のような小さな国を紳士として扱い条約を結ぶ対象にしているか、そこには大きな意味の計算がある。それを我々の国はわからないで受け入れているのだろう。」と言ったそうだ。
正直これでもイギリスが日本を選んでくれてこのときの日本人はめっちゃ喜んだだろうな。個人的にはこのままずっと頭のいいイギリスと組んでて欲しかったわ。
当時の首脳陣で言うと、総理の桂と元老の山縣は日英同盟に賛成。元老の伊藤と井上馨はロシアと条約を結んだ方がいいと考えていた。伊藤はロシアの満州支配を認める代わりに日本の朝鮮支配を認めてもらうという満韓交換論を提唱していたが締結に至らず日英同盟を結ぶこととなった。
明治35年4月、不法に駐留していた満州のロシア軍に対し日米英は圧力をかけ満州からの撤退を3回に分けて約束させる。ロシアは1回目は撤退、2回目は約束を破り撤退せず、3回目以降あいまいな答えに終始、答えを遅らせたりする。このときのロシア軍満州総司令官クロパトキンの言葉が残っている。「日本と戦争?軍事力を持って散歩するようなものだよ」敵にすらならないと思っていた。
ね?今の北方領土交渉もはぐらかしてばっかで一緒やろ?まじロシアはクソなんすわ。この時も今も日本を馬鹿にしてるんだよね。
明治36年5月、満州のロシア軍が国境を越え大韓帝国内へ軍地基地を建設。これが国内で報道されると庶民たちの間で開戦論が強くなっていく。日本人として怒るのは自然なことだと思う。
明治36年6月、東京帝大法学部教授・戸水寛人ら7人が桂総理へ日露開戦の意見書を提出。七博士意見書(しちはくしいけんしょ)という。
桂内閣の外交を軟弱であると糾弾。ロシアの満州からの完全撤退を唱え対ロシア武力強行路線の選択を迫った。
新聞各紙が掲載。世論は開戦論が主流になっていたので大反響となる。
明治37年2月3日、山東省駐在の日本領時から「旅順のロシア艦隊は修理中の1隻以外すべて出港、行方は不明」との一報。日本に戦争を仕掛けてくるのではないか?と懸念されたが実際ロシアがこのとき本当に日本を攻めようとしてたかどうかは現在もわからず裏がとれていない。これがきっかけになってしまったということはそれだけ緊迫していた状況を表している。
2月4日、緊急御前会議で開戦を決定。ついに始まってしまう。
というところで次回。
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明治~
Fri, 23 Oct 2020 03:55:19 +0900
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明治を学ぶ31
明治32(1899)年7月17日、日英通商航海条約実施。
締結は明治27年(明治を学ぶ26)。27~28年にかけて同内容の条約を14カ国とも調印。
再三書いてきた徳川幕府が結ばされた治外法権の不平等条約、安政の五か国条約(1858)より41年の月日が経ってやっと撤廃できた。日本の悲願叶う。これをやる為に明治維新を起こしたと言っても過言ではなかった。関税自主権は一部回復。
7月17日、治外法権撤廃その日に横浜で米人脱走兵が日本人2名と米人を1名を殺害するミルラー事件が起こる。
これを日本で裁判し、日本の法律に基づく在留外国人の初の死刑判決となった。
6月には初の国産映画(歌舞伎)上映、8月恵比寿にビアホールが開業、10月には浅草に水族館が出来る。
日本は海外の新しい文化や技術ををすぐ取り入れて自分たちのものにし急成長していた。またこれを誇らしげに感じていた。
明治33年1月号の中央公論に当時考えられていたことが記事になっているので抜粋。
「日本の30年間の進歩は西洋の300年間の文化を超越」「今や列国に並ぶ一強国」「単に西洋諸国に教えをこう時代は去った」
過信とも思える記事が並ぶ。これぐらい日本は目覚ましい発展をとげたと自負があったのだろう。
明治33年3月、治安警察法公布。政治的集会・結社・言論活動を取り締まる法律。日清戦争後産業経済の急激な発展に伴って台頭してきた労働運動(ストライキや団体交渉)を対処する為。
様々な労働組合が出来ていたがこの法案により衰退。
財産などを社会全体の所有とし平等を目指す考え「社会主義思想」が広がり始める。
明治34年5月、日本初の社会主義政党「社会民主党」が結成される。
イギリスでの産業革命をきっかけに資本主義(マルクス)が発達するも、格差などの弊害がでたことから社会主義思想も発達、日本にもその流れがやってくる。
「人類平等」「軍備撤廃」「階級制度全廃」「土地・資本の公有」「交通機関の公有」「公平な財産の分配」「参政権の平等」「教育の公費負担」の理想を掲げた。
しかし治安警察府により結成2日後に解散。
そして国外をまた見てみよう。
日清戦争の多額の賠償金を払うため清は各国と借金をして代わりに租借地を渡すことになったのはすでに書いた(明治を学ぶ30)。
明治33年、植民地化に対抗し清国内宗教団体「義和団」が反乱を起こす。
貧しい農民による排外運動、扶清滅洋(清を助け西洋を滅ぼす)を掲げ外国人やキリスト教徒境界を襲撃。
山東省に始まった乱は北京にまで進出、日本や欧米各国の公使館地域を包囲、公使館員など4000人が籠城することとなる。
6月21日、清の実権を握っていた西太后は義和団を支持、欧米列強に宣戦布告をした。
これに対し列強は8か国連合軍を結成し派兵。
7月11日、連合軍天津占領。
8月14日、北京総攻撃。兵士約3万から4万人。そのうち日本軍が40%を占めた。
8月15日、西太后は北京を脱出し西安へ。義和団制圧。
日本は極東の憲兵として実力を評価される。列国中戦利品が最も多かった。
明治34年9月、北京議定書を締結。
賠償金4億5000万両。当時の清国国家予算の4年半分。
北京など一部都市に各国軍の駐留など。
しかし議定書にない都市(満州)にロシアは鉄道の防衛を口実に不法に軍を置き占領する。
またしても利益線を守りたい日本と摩擦を生むこととなる。
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明治~
Thu, 22 Oct 2020 12:16:37 +0900
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明治を学ぶ30
明治29(1896)年6月15日、明治三陸地震津波が起きる。
震源地三陸沖200km。地震の震度は2~3で大きい地震と感じなかった為津波非難が遅れた。震源のマグニチュードは8.2~8.5(後の関東大震災より大きい)だった。
死者約2万2千人。被害家屋1万戸以上。
このときの災害時救護活動を行ったのが日本赤十字社だった。
明治10年、西南戦争時熊本に博愛者設立。
明治20年、日本赤十字社に改称。
日清戦争後の産業革命。
明治29年、豊田佐吉が自動織機を開発。(豊田自動車の元の元)
生産性が飛躍的に向上。
明治30年、鉄鋼の国産化を目指し官営八幡製鉄所が建設開始される。34年操業。
下関条約の賠償金を金で受け取る。
明治30年10月、当時の欧米のスタンダードだった金本位制に移行。
軍艦・兵器・鉄鋼・機械・綿花を輸入。
生糸・絹製品・綿製品・石炭を輸出。
金本位制導入で貿易が飛躍的に拡大した。
朝鮮に話は戻る。
明治30年10月12日、ロシア公使館に籠る高宗に国民が反発していたので、高宗は宮殿に戻り大韓帝国に改称、独立宣言を出した。
高宗は皇帝に即位。清と同格の皇帝を名乗ることで外国に清と対等だという事を示す目的だった。
明治31年3月27日、ロシアはシベリア鉄道を満州経由でウラジオストクまで通し、大連、旅順を清より租借して念願の不凍港を手に入れた。ロシアの南下政策は朝鮮のすぐ隣まで来ていた。
ロシアは露清密約を拡大解釈し満州鉄道周辺に都市・鉱山を開発。ロシアの行政権を適用し治外法権となった。
日本からの抗議を予期したロシアは4月25日、西・ローゼン協定を日本と結び朝鮮半島内での日本の経済的優位を認めた。実質日本の朝鮮半島での影響力を確保しロシアの満州(遼東半島)進出を黙認することとなった。
ここの駆け引きは難しいけど朝鮮抑えて、清との間にロシア挟むのも一つの手だなって思ったんだろうな。日露両方WINWINだろう。ただ歴史はこのままでは終わらない。
ここで清の租借地を整理しておく。
日清戦争の多額の賠償金を払うため清はロシア、ドイツ、イギリス、フランスからお金を借りることとなった。その代りに租借地を要求され契約をする。
租借地とは国家間の合意により貸与される領土。租借国が統治権を行使することが多い。
ロシア(大連と旅順)、イギリス(香港と威海衛)、ドイツ(膠州湾・こうしゅうわん)、フランス(広州湾)となった。
明治31年2月6日、日本に初めて自動車が走る。フランスによるガソリン車だった。馬無き馬車に日本人は衝撃をうけた。しかし試走を行うも出資者は現れずフランスへ返却。6年後(明治37年)国産自動車第一号(山羽敷蒸気自動車・岡山)が出来る。初めて見たものを6年で開発する日本の技術力はこの時点ですでに備わっていた。
明治31年3月2日、維新後30年会っていなかった徳川慶喜が明治天皇と謁見する。
幕末幕臣だった勝海舟は徳川慶喜と西郷隆盛の名誉回復が苦心30年最後の仕事だと考えていて手筈を整えた。
慶喜は徳川家葵の紋の羽織姿で皇居へ。人払いをして天皇・皇后3人だけで食事をした。
謁見後明治天皇は伊藤博文に『やっと罪滅ぼしができた。お互い仕方が無かったと語り合った』と言った。
明治31年5月30日、日清戦争後の財政難を乗り切る為、第3次伊藤内閣は地租増税案を国会に出す。
これに大隈重信と板垣退助が反発。仲が悪かった二人が反増税と反藩閥政治という点で野党が合意し憲政党を設立。
選挙で勝利し初の政党内閣「隈板内閣(わいはんないかく)」が誕生する。各大臣は憲政党から選ばれるが、陸軍海軍大臣は西郷(薩摩)と桂(長州)留任となる。
伊藤は国民の多数の投票により国の決定がされるが、このときの日本臣民はまだ政治を考える能力が低くはたして本当に政党政治が正しい方向に進むのか疑問に思っていた。また明治天皇もこの内閣の政治手腕に懐疑的であった。
明治31年6月30日、隈板内閣発足同時に伊藤博文総理を辞職。これでまたゆっくり世界情勢を眺めることが出来ると考えたのでしょう。
8月19日、伊藤アジア漫遊へ出かける。大韓帝国と清へ。
8月25日、京城(ソウル)で高宗と会談。思いの外歓待をうけた。
9月15日、北京で李鴻章と会談。
9月20日、親日派・光緒帝(こうしょてい)らと会談。日本に習い清も近代化をしたかった。
しかし21日、西太合(光緒帝の叔母)が親日を激昂。改革に反対し光緒帝を幽閉した。
これをきっかけに親日派の清の学生や若手官僚は急激に近代化した明治維新を学ぶため日本への留学が増える。
明治31年11月8日、隈板内閣総辞職。
そのきかっけとなった事件。
10月31日、文部大臣尾崎行雄の共和演説事件だった。「日本が共和制ならば三井・三菱が大統領になるだろう」と言った。これは権力と政商(政府の商売)癒着を批判した発言だったが、多方面で批判が起きる。
皇室廃止が前提の発言は「不敬」と宮内省が批判、政商と繋がる新聞が批判し、党内の大臣ポスト争いに発展。憲政党内部分裂、ついに隈板内閣わずか4か月で総辞職することとなる。
実際の国柄を見て政治はしないとこうなるんだね。左の民権派が実際政権とったらこうなるのに平成でもやっちゃいましたよね私たち。明治勉強してなかったから同じ間違い繰り返してたね。でもここで学べて良かった。
第2次山縣内閣成立。政党勢力の抑え込みを行った。政党員の官僚登用制度を改正。
明治31年12月18日、憲法発布時に勝の働きにより西郷の名誉回復は行われていた西郷隆盛の像が東京上野に完成。高村光雲作。本来薩摩出身者たちは皇居の近いところに作りたかったが許されなかった。上野になったのは上野戦争(戊辰戦争内)で薩摩藩兵を西郷が指揮したことに由来する。
復権に尽力した勝海舟は除幕式には病欠、翌月明治32年1月75歳で死去。
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明治~
Tue, 20 Oct 2020 19:11:05 +0900
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明治を学ぶ29
明治28(1895)年4月17日、日清戦争の講和条約・下関条約で日本の領土になった台湾。この条約によって台湾在住者は日本人となることが決定した。
しかし台湾在住者に全く知らされずに締結されたので、後日知った現地では大反対運動が起こった。
5月23日、反対する住民や清国官僚らが台湾民主国独立宣言を発表。
24日、各国語に翻訳し駐台湾の各国領事館に通知。
25日、独立式典を実施し台湾民主国の成立を宣言した。
29日、日本軍台湾上陸すると、民主国軍は総崩れとなった。
6月3日、基隆を占拠。これにより新政府は空中分解。
4日、第一代台湾民主国総統は廈門(あもい・清国国内)に逃亡。
7日、台北占領。
17日、日本は台湾総督府設置。初代総督樺山資紀(すけのり)。
6月下旬、第二代台湾民主国総統選任。これから3か月各地で日本軍と台湾民主国の戦いは続く。
日清戦争を勝ち抜いた日本軍と、数でも劣る台湾民主国軍では実力が違っていた。10月下旬には第二代台湾民主国総統も清国へ逃亡し、日本軍は全台湾を平定した。この日本軍と台湾民主国の戦いを台湾平定と呼ぶ。
11月18日、全島平定宣言(日本軍戦死164人・病死4642人)
当時の台湾(漢民族約200~250万人・先住民族約20~30万人)
平定後も各地で反日勢力によるゲリラ戦が頻発。ヨーロッパへ売却する案まで出るくらい初期は安定しなかった為、台湾総督も28年6月~29年6月・樺山、6月~10月・桂太郎、10月~31年2月・乃木希典と入れ替わりが激しかった。
明治31年2月、四代総督・児玉源太郎、民政長官・後藤新平体制。抵抗勢力は徹底的に鎮圧し台湾に日本の予算を投資して近代化を進めるアメとムチ政策を行う。
インフラ整備(上下水道・鉄道。港湾整備・電気通信の整備)
産業振興(農業の近代化・製糖産業振興)
金融改革(台湾銀行設立・通貨の統一)
教育制度改革(小学校設置・日本語による教育)
治安の維持(アヘン撲滅・警察機構整備)
台湾は近代化をしていき生活が豊かになるにつれ日本への抵抗勢力は無くなっていく。これが成功したため現在でも台湾には親日家が多くいるのである。
そして今度は日清戦争後の朝鮮半島に移ります。
明治28年7月6日、朝鮮国内では勝者である日本側の推す大院君派の勢力が強くなり、後ろ盾となっていた清が大きな打撃を受けた高宗の妻・閔妃(みんぴ)の勢力は衰退していく。しかし三国干渉により日本の勢力が弱まったとみるや閔妃は親露政策を推し進め、ロシア軍の助力を得て権力奪還に成功し親ロシア政権を樹立する。
10月8日、親ロシア政権樹立を見ていた日本は閔妃の存在を疎ましく思い、日本公使・三浦梧楼(ごろう)が指揮し宮殿に乱入、閔妃を殺害した。乙未事変(いつびじへん)。後に三浦梧楼は日本で裁判にかけられたが証拠不十分で釈放された。
明治29年2月11日、日本の策略だと察知した高宗はロシア公使館へ逃げ込み、李氏朝鮮の政務を1年8か月ロシア公使館から執り行った。これを「露館播遷(ろかんはせん)」という。高宗がロシア公使館で政務を執り行った結果、ロシアは高宗を守る代わりに朝鮮国内の利権を獲得した。これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為で、せっかく日本が千年ぶりに清からの独立させた朝鮮だったが、僅か2年弱で事実上ロシアの属国となった。
明治29年5月、ロシア皇帝ニコライ2世の載冠式に各国が呼ばれ日本は山縣有朋が参列。
この機会に山縣は日本の利益線を守る為ロシア外相ロバノフと交渉。朝鮮半島内での両国の勢力範囲を確定させようとしたが合意に至らなかった。その裏でロシアは清と交渉していたためである。
6月3日、ロシアと清は露清密約を締結した。
下関条約の賠償金を借款供与する代わりに満州の鉄道敷設を認める。旅順・大連を他国に割譲しない。そして朝鮮・清・ロシアが日本に侵略されたときにはお互いに軍事援助を行う。
6月9日、日露間も協定を結ぶが、朝鮮内に出兵するときにはお互い事前に通告するという形式的な中身のない協定に終わった。ロシアは朝鮮を少しも手放さないでしかも満州の利権まで手に入れることになった。
日清戦争で勝ったのだから賠償金をもらうのは当たり前ででもそれが多額だったためロシア介入を許してしまったという悲劇。閔妃がいなかったら朝鮮半島も利権を奪われる事なかったなぁとか親露政権樹立前に閔妃やっちゃってたら変わってたかもしれないなとか思うね。ロシアの存在や閔妃がいたから台湾のようにうまくは行かなかったことがこの流れでわかりました。というところで次回。
https://gobansyo.kataranna.com/e109477.html
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明治~
Sat, 17 Oct 2020 17:44:47 +0900
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明治を学ぶ28
明治28(1895)年4月17日、日清戦争の講和条約・下関条約を結んだ後から続き。
大勝利をおさめた日本は清国に国家予算4倍の莫大な賠償金3億1000万円を請求する。
この賠償金を清国は払えるわけがなくヨーロッパ各国から借金することとなる。
4月23日に露仏独三国の外交要求(三国干渉)が出された。
当時のロシアは南下政策をとっており、ヨーロッパではフランスと軍事同盟を結び黒海を通り地中海へ勢力を広めようとバルカン半島を目指していた。しかし近隣ドイツは対抗策としてオーストリア・ハンガリー・イタリアと軍事同盟を締結。ロシアとドイツは対立していた。
同時進行でロシアは極東アジアでの南下政策も行っていた。日本の勢力拡大を抑えるためロシアの蔵相ウィッテがドイツとフランスに声をかけた。ドイツはロシアの目が地中海に向くよりもアジアに向いているほうが良かった為三国干渉を行う。
5月、初の対外戦争勝利に国内がわき熱狂、東京日比谷に高さ30m長さ110mの巨大な凱旋門を建設。
上野では祝勝会が開かれ、明治時代の風刺「オッペケペー節」で有名な川上音二郎が日清戦争を題材とした芝居が上演され後の大正天皇も観劇される。
敵に撃たれた陸軍兵・木口小平(きぐちこへい)がラッパを離さず戦死した逸話が広まる。軍国美談が流行。
功績をあげた軍人が授爵(爵位を受ける)する。戦争で功績をあげれば軍人が華族になれる。これが軍人の最大の名誉になっていく。
三国干渉の対応について総理・伊藤博文が「イギリス・アメリカに仲介を依頼しては?」と言うと外相・陸奥宗光は「味方についてくれるかわからない」と言い、答えを出さないまま足踏みしている間にイギリス・アメリカは中立を表明。
5月4日、賠償金さらに4600万円上乗せし、遼東半島返還した。理由には当時の日本とロシアの兵力差が圧倒的にあった為であった。日本兵20万人に対しロシア兵200万人だった。
国内では納得いかない人が続出、戦勝ムードが一気に下火に。
そこで哲学者・三宅雪嶺(みやけせつれい)の論説「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を発表したところ国民に流行。
「勝って驕(おご)らざるのみならず、胆を嘗め薪に坐して大いに実力を培養するの必要あることは国民一般の感ずるところ」(目的を達成するために苦労を耐え忍ぶこと。 )
世論がロシアを敵視していくなか政府は日清戦争の賠償金の84%を使い軍事力の増強、軍拡計画を進める。
陸軍大臣・山縣は師団数を6から12へ倍に。海軍大臣・西郷従道は戦艦6隻巡洋艦6隻を英・独・仏に発注。(この時点では日本で独自に軍艦を作る技術が無かった。)
そして台湾統治についてはまた次回。
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明治~
Tue, 13 Oct 2020 07:42:54 +0900
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明治を学ぶ27
明治27(1894)年7月25日、豊島(ほうとう)沖海戦。
東郷平八郎乗船含む日本艦隊(3隻)と清国艦隊(2隻)が仁川近くの豊島沖で衝突、撃破。
これにより清の輸送を断ち日本は勢いづいた。
しかしこのとき、イギリス船籍の貨物船と遭遇。東郷平八郎が立ち入り検査をしたところ清国の武器、1100人の清国兵が載っていた為攻撃撃沈。これはイギリスが国としてやったのかイギリス商船が商売として請け負ったのかははっきりわかっておらず、イギリスとは問題を起こしたくない首脳陣は頭を抱えた。イギリスとの関係悪化すると思われたが、日清間ではすでに戦争が始まっていたので戦闘海域にいた商船側が悪かったという認識が広まり合法で非難されることなく鎮静化した。
29日、成歓(せいかん)の戦い(陸上戦)。
朝鮮王宮占拠後の処理。清国の戦力が増す前に襲撃して勝ちを得ることにより優位に立った。
福沢諭吉はこの日の社説に「日清戦争は文野(ぶんや・文明と野蛮)の戦争なり」と寄稿し戦争熱を煽った。
8月1日、日清両国が宣戦布告。
3行目「清国に対して戦を宣す」。日本国初対外戦争。
明治天皇に関してこの時点で整理する。
立場は「大元帥」帝国憲法により「陸海軍を統帥す」となっている為宣戦布告文も出すが、「これは私の戦争ではない。大臣の戦争だ」とおっしゃった記録が残っていて戦争に消極的だった。
清国の宣戦布告文。
これによると清国の言い分は「朝鮮は清国の属国であるのにも関わらず、倭人(日本人)理由なくして漢城(ソウル)に突入して朝鮮独立を手助けしている、内政干渉を認めない。」あれ?敵国の言ってることには日本って朝鮮独立させようとしてるじゃん。植民地支配からの脱却救世主やんね。日本が言ってるんじゃないよ。敵国がだよ(2回目)。
9月8日 山縣有朋(枢密院議長)は最前線での指揮する為、陸軍第一軍司令官として朝鮮へ。大山巌(陸軍大臣)は陸軍第二軍司令官として出征。樺山資紀は海軍軍司令部長として出征。参謀総長有栖川宮熾仁親王出征。
現地に到着した山縣は第一軍将校に檄文(げきぶん)で激励する。
「決して敵の捕虜になるな。捕虜になりそうなときは潔く死を遂げ、日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うすべし」この言葉が後の悲劇、戦陣訓に繋がっていく。ただこのときの山縣は文字通り国家に命を捧げろと言う意味では言ってはおらず、当時出征して帰ってきた兵士は後にそういう心意気で戦えととらえていたと言い、むしろ逆に言われなくても祖国を守るために故郷や家族を守る為に命を懸けて戦う覚悟が出来ていたのだそうだ。国内世論が戦争に賛成していた。
9月13日、鉄道開通している最西の広島へ大本営(明治を学ぶ26)が移る。広島宇品港は大型の軍港で兵士や物資を送り出す拠点になった。
9月15日、明治天皇広島入り。
9月16日、平壌(ぴょんやん)占拠。陸軍第一軍(山縣)北上を続ける。
9月17日、黄海海戦。日本連合艦隊12隻、清国北洋艦隊14隻激突。日本側沈没艦なしに対し清国側5隻沈没。勝利し黄海の制海権を手に入れる。
10月18日~22日、広島で第7回帝国議会。臨時軍事予算承認。
戦争によって国が一つに纏まった。
11月21日、旅順(りょじゅん)を占拠。
明治28年2月5日、威海衛(いかいえい)の戦い。日本軍勝利。
2月11日、降伏を拒否していた清国司令長官・丁汝昌(てい じょしょう)服毒自殺。日本軍はさらなる進軍を継続、近代化された日本軍が中国本土へ自由に上陸出来るようになった事で、清国の首都北京と天津一帯は丸裸同然となり、ここで清国側は戦意を失った。
3月20日から下関の春帆楼において日清講和会議が始まる。
日本・総理伊藤博文、外務大臣陸奥宗光。清・全権大使李鴻章。
この戦争には約8か月、国家予算8000万円の時代に約2億円(2.5倍)の戦費がかかっていた。
動員された兵士約24万人。
死者数約1万3000人。戦死はこのうち1割(1417人)、残り9割は病死(かっけ、凍死)だった。
4月17日、日清講和条約締結。
内容(大勝利)
・清は朝鮮の独立を認める。
・台湾・澎湖(ほうこ)諸島・遼東(りょうとう)半島の割譲。
・賠償金3億1000万円。(国家予算4倍)
・揚子江(現・長江)沿岸都市開市開港。
山縣有朋
「今回の戦争では十分な結果を得た。将来アジアはますます緊迫した情勢に推移するのは避けられないゆえ、この先10年間において一大戦争を覚悟しなければならない。」(欧州大国が圧力かけてくるのがわかっていた。)
明治天皇
「戦争後講和条約結ばれた後は、友好関係を戻して周辺の国々と仲良くしていきたい。みなさんは私のこの想いを理解してほしい。」
23日に露仏独三国の外交要求(三国干渉)が出された事で、日本は止む無く遼東半島を手放した。
5月下旬に日本軍は領有権を得た台湾に上陸し、11月下旬までに全土の平定を終えた後に行政機構を敷いた。
明治29年4月1日に大本営が解散。戦争に勝利した日本はアジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、取り分けイギリスとの協調関係を築けるようになった。
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明治~
Sat, 10 Oct 2020 10:04:06 +0900
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明治を学ぶ26
明治27(1894)年3月29日、朝鮮で甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)が起こる。
このときの朝鮮閔氏(びんし)政権は農民に重税を課し、官僚は賄賂と不正収奪が横行していた。加えて明治9年の日朝修好条規(明治を学ぶ13)をはじめとした諸外国との不平等条約による政権の開国政策に不満を持っていた農民が立ち上がり、全国で反政府一揆が起こった。各地で政府軍を破り5月末には全州(地名)を占領。
これに驚いた閔氏政権は、首都(漢城・ソウル)進攻を恐れ5月30日に清国に援軍を要請。
ここで明治18年の天津条約(明治を学ぶ18)を思い出していただきたい。日清両国、お互い朝鮮半島に出兵するときは事前通告を義務付けてあったはずだったが清国は日本に通告前に出兵を行った。
これを理由に日本は6月2日に朝鮮出兵を決定。
清国は6月4日に巡洋艦2隻を仁川(じんせん)に派遣到着。
日本は4日に清国に対し即時撤兵を要求したが拒否される。
日清互いに朝鮮出兵を通告。
日本は6月6日に出兵を発動し清国軍の朝鮮撤兵を再度要求、拒否。
8日に清国軍が2000の兵を牙山(かざん)に上陸。
12日に日本軍が8000の兵を在留邦人保護を名目に軍艦「八重山」で仁川に上陸。
第一回帝国議会の山縣首相の言葉にあったように(明治を学ぶ24)日本が独立を守る為利益線として朝鮮を勢力下に置いておくことがとても大事だったのだ。その均衡が崩れそうになる。
日清両国が戦争に発展しそうになったため、慌てた閔氏政権は、農民の提案を基に全州和約を作成し和睦。
日清両国に同時撤退を要求するが拒否。日清のにらみ合いが続く。
明治27年6月、この頃日本国内では青森から広島まで鉄道が開通した。鉄道開通を急いだ理由は物流を加速化して経済を発展させることが主ではなく、兵器や全国で徴兵した兵隊の移動が重要目的だった。完全に清との戦争を想定して動いているのがわかる。そして広島には重要な軍事拠点・宇品港があった。
6月5日、軍の参謀本部に「大本営」を開設。戦争遂行のための作戦を考え命令を出す明治天皇の元に設置された最高統帥機関だった。
大本営主要人物。
参謀総長・有栖川熾仁親王、海軍大臣・西郷従道、陸軍大臣・大山巌、総理・伊藤博文。
もちろん軍事が主題ではあるが、総理の伊藤が入ることにより軍事だけではなく予算のバランスをとることが大事な政治的役目だった。
7月16日、長年交渉し続けていた日本悲願であった初の不平等条約の改正が叶う。
外務大臣・陸奥宗光とイギリス駐在公使・青木周蔵が「日英通商航海条約」を締結。
内治雑居(外国人の住居や旅行など)を認める代わりに治外法権を撤廃し、関税自主権の一部改正を調印した。
頑なに拒んできたイギリスがなぜ譲歩したかというと、この時期のアジア情勢図を見ていただきたい。
イギリスはアジア進出で他のヨーロッパとは組めない。日本の力を認めたうえで日本を味方にする狙いがあった。
逆に日本はイギリスと条約を結んだことで強い後ろ盾が期待できた。
日本軍準備は整った。
7月23日、日本軍混成第九旅団が漢城に向かい、朝鮮王宮を攻撃し占領。
国王・高宗を手中にし失脚させ、高宗の父・大院君を再び国王へ担ぎだして新政権を樹立させた。そして新政権に清軍掃討を日本に依頼させた。
高宗から依頼された清国、大院君より依頼された日本。ここに正式な名目の対立構図が出来た。
そして25日に豊島(ほうとう)沖海戦、29日に成歓の戦いが行われ交戦状態となる。
31日に清国政府が駐北京日本公使小村寿太郎に国交断絶を通告。
8月1日に日清両国が宣戦布告をし、日清戦争が勃発した。
という流れなんだけど、これさ日本と清が朝鮮に関わってるからこの戦争になったけど、それが無かったら朝鮮国内の戦争だけだった訳で全く同じこと日本であったよね?そう、甲午農民戦争って日本の明治維新(戊辰戦争)やんか。日本がたまたま島国で周りを海に囲まれてたから侵略されにくかったし、武力に特化した武士がいたから独立を守れた。ここの歴史を振り返るとほんとにそれがはっきりわかる。しかもさ、戊辰戦争時薩長に入れ知恵してたイギリスは朝鮮のときもちょっかい出して来てるやん。先見の明があるって言うか、ずるがしこいっていうかイギリスさん頭良すぎるわ。素直に凄いことは認めよう。
朝鮮が日本の様に島国だったら、朝鮮にもっと軍事力があったら、清国の属国になってなければ、朝鮮はここで近代化できていたでしょう。残念なことに歴史はそうではなかった。かわいそうではある。逆に日本は戊辰戦争の時外国攻めてこないでまじ良かったね。それ考えると恐ろしい。
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明治~
Fri, 02 Oct 2020 06:46:22 +0900
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明治を学ぶ25
明治24(1891)年5月11日、大津事件。
大国ロシアの皇太子のちのロシア皇帝ニコライ2世)が来日するとなり、不平等条約改正もしたい日本は国賓として皇族が出迎え、祝砲を上げ、特別車両、街道整備や飾りなど並外れた歓迎をする。
そういう状況の中、ロシア皇太子は滋賀県庁を出た直後に護衛巡査津田三蔵に頭を切り付けられ、重傷を負いました。通常なら戦争に発展する。皇太子は滋賀県庁で応急手当を受けたのち、京都で治療を受けることとなった。日本は、国際問題を恐れ、ただちに痛惜の念を表す勅語(天皇陛下の言葉)を発したほか、事件発生の翌日には明治天皇自ら京都で皇太子に面会するなどして、ロシアの対日感情が悪化しないよう配慮した。結果ロシアからの報復や賠償要求がなかった。
山縣辞職後の総理は大蔵大臣だった松方正義(薩摩)が4代総理を引き継いだ。
事件後の津田三蔵の処分について内閣と大審院(現在の最高裁判所)が対立。
内閣は「皇室に対する罪」を適用し「極刑」を望む。しかし5月27日に行われた裁判での判決は皇室に対する罪は不当(日本の皇室に適応する罪で拡大解釈になる)と反対し、一般謀殺未遂罪を適用。「無期懲役」の判決が下った。
行政の干渉を受けながらも司法の独立を守り、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。
日本政府内では外務大臣(青木周蔵)と内務大臣(西郷従道)が責任を負って辞職し、司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任した。 その結果、元勲級(維新功績)の閣僚が1人もいなくなり、薩長出身者が全閣僚の半数を割るなど、内閣はいつ倒れてもおかしくない状況になった。
全焼した国会議事堂(第一次仮議事堂)ですが新しく第二次仮議事堂としてが4月28日に着工。昼夜兼行の作業で第一次仮議事堂の跡地に再建され、同年10月30日に竣工した。
明治24年11月26日、第二回帝国議会開会。
この時の議席整理しておきます。
定数300人に対し
吏党(与党)、大成会52人、無所属51人、合計103議席
民党(野党)、自由党(板垣)92人、改進党(大隈)44人、自由倶楽部25人、巴倶楽部17人、合計178議席。
またしても与党が少ないねじれ国会。
民党が前内閣が約束した「政費(軍事費)節減」の公約を果たさずに海軍予算の拡張を行おうとする政府を批判した。これに激怒した海軍大臣樺山資紀がいわゆる「蛮勇演説」を行って衆議院は空転。
蛮勇演説「あなたたちは薩長政府がどうのと反発しているが、日本が今ここまで立派な国になれたのは誰のおかげなのだ」
松方総理は12月25日に初めての衆議院解散を決断した。
明治25年2月15日、第二回衆議院議員選挙。
選挙権は直接国税15円以上(現在価値60~70万円)納めた25歳以上の男子。
有権者は約43万5千人(全人口の1.1%)
どうしても過半数を取りたかった政府側は内務大臣、品川弥二郎(長州)と白根専一同次官が中心となって大規模な選挙干渉(各都道府県知事に連絡し警察が民党候補者をの選挙活動を暴力により妨害)を行った。民党関係者を中心に死者25名負傷者388名を出した。
選挙結果は吏党137議席、民党132議席。その他31議席。与党は過半数をまたしても取れなかった。
松方は同年5月の第3回帝国議会でこの選挙干渉の責任を追及され、閉会後に内閣総辞職した。
明治25年8月8日、第二次伊藤博文内閣発足。
あれだけ拒んでいた伊藤が再度総理になったという事はまたいろいろと危機的状況が続いているという事でしょう。
明治25年2月11日、陸軍少佐福島安正がシベリア単騎横断(馬による)ドイツ、ベルリンより出発。
26年6月12日ロシア、ウラジオストク到着。総日数488日、全工程約14000キロ。
目的は表向き冒険旅行だとしていたが、実はロシアとの戦争を控えた偵察だった。
偵察内容はシベリア鉄道の建設状態、地形国情の実地調査、ロシアの軍備、配置されている部隊数など。
日本もだいぶ外国から植民地として狙われるのを警戒していますね。その辺りからまた次回。
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明治~
Tue, 29 Sep 2020 05:09:51 +0900
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明治を学ぶ24
明治23(1890)年11月7日、日本初の洋風ホテル「帝国ホテル」開業。
井上馨が渋沢栄一を説得して作らせた。
11月11日、12階高層建築物、浅草「凌雲閣」開業。
初電動エレベーター設置。
12月、東京横浜間電話サービス開通。
11月24日、国会議事堂完成。
ドイツから建築家を呼ぶ。第一次仮議事堂と呼ばれる。
11月25日、第一回帝国議会。
ここでやっと近代国家として最も必要だった国会が始まる。
貴族院開設時定数251人。内閣が選出、天皇が任命。(詳しくは明治を学ぶ18)
衆議院開設時定数300人。国民の公選、任期4年。(詳しくは明治を学ぶ22)
この時点の国の機関の関係図。
第一回帝国議会の議題は国のお金の配分を考える「年度予算審議」だった。
ここで少し確認をしておこう。
この時の総理は山縣有朋だったので軍隊を重視している。そして国会内の数では衆議院(野党)が多いねじれ国会。
彼の施政方針演説はこうだ。簡単に訳す。
「幕府が鎖港政策をとって300年平和に過ごしてきた一方、我が国が300年進化を遅らせたことは残念で仕方ない。明治維新により我々が短期間でその負債を償還する努力をしてまいりました。しかし未だその半分です。最後まで力を同じ方向へ向けて共に頑張りましょう。
さて今回提出した予算についてですが、歳出の大部分を占めるのは陸海軍経費です。今現時点で再急務とするのは行政及地方の制度を整へ運用を広め、農工商を発展させ国の力を養成することが最も必要だと思います。これで国内は治まります。これと同時に独立国家を維持するためには国外の事も目を向け国の勢力を伸ばす必要があります。これが独立政府のなすべきことだと思います。
独立国家自衛の道には2つあり、第一に主権線を守護すること。第二に利益線を保護することである。主権線とは国の境界域の事で利益線とは主権線の安全を確保するのに密着関係のある区域の事である。おおよその国も主権線利益線を持たない国はありません。独立を守るためには主権線を守るだけでは十分ではなく利益線の保護も重要である。これは一朝一夕でできることではなく時間と労力がかかることであります。この趣旨に基づき巨額の金額を陸海軍経費に充てることをご理解いただき賛同してくださることを信じて疑いません。」
主権線と利益線の言葉の意味は山縣が説明していますが、具体的に書くと主権線は千島列島、北方四島、沖縄含む日本列島の事。利益線は朝鮮半島(現在の韓国と北朝鮮)と台湾のことです。
ねじれ国会ということで90日間の攻防が続きます。
民党(野党)は減税を要求。政府費用節減、地租軽減、民力休養(国民は激動についていくのに必死で休ませたい)が必要で予算案の1割以上削減を要求している。
明治24年1月20日、国会会期中漏電を起こし仮議事堂は全焼。このため貴族院議場を華族会館(旧鹿鳴館)、後に帝国ホテルへ移し、衆議院議場を東京女学館(旧工部大学校)へ移して会期続行。
3月7日、どちらも譲らない攻防は続きますが、山縣は解散をちらつかせたり、自由党の一部を買収してなんとか予算案を通す。第一回帝国議会閉会。
議会終了後伊藤博文(貴族院議長)が「天皇陛下万歳!」と叫ぶ。その他の議員も唱和した。
天皇陛下の国の議会が無事終わったことを喜んでいるのである。
これが今でも衆議院の解散時に万歳をすることに繋がっている。なんで解散して議員首になるのに万歳するんだ?ってわからない人がたくさんいますが、解散してシンプルに今期の国会終わったね、議員として役目を果たせた万歳って意味だと思います。
5月6日、「議会に自信がない」と山縣有朋辞職。
5月11日、国会終わって2か月、ロシアの皇太子が日本へやってくる・・・が!またしても大荒れの予感というところで続きは次回へ。
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Sat, 19 Sep 2020 15:52:50 +0900
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明治を学ぶ23
明治23(1890)年10月30日、教育ニ関スル勅語(教育勅語)発布。
1回目の衆議院議員選挙はいわゆる野党である「民党」が勝利。明治政府(与党)はこれ以上自由民権思想(自由や権利を主張する西欧思想)の拡大を恐れていた。明治天皇の側近元田永孚(もとだながさね・肥後)と井上毅(肥後・法制局長官)が起草。勅語ということは天皇が与えた言葉という意味で誰に与えたのかと言えば、山縣総理と芳川文部大臣へ与えたものだという形式をとった。御名御璽(ぎょめいぎょじ・天皇自筆書名と捺印)のあるものが帝国大学ほか直轄学校へ配られた。
この教育勅語は今も生きているのか生きていないのか問題についての私の意見は最後に記述する。まず、熊本の偉大な先人が起草したその中身へ。(原文では難しすぎるので文部省全文通訳より。)
「朕がおもふに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦(むつ)び合い、朋友互に信義を以って交り、へりくだって気随気儘(きずいきまま)の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまに々々天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かやうにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなほさず、汝らの祖先ののこした美風をはつきりあらはすことになる。
ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがひ守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。」
さらに訳す。
「私が思うには、皇室の御祖先が我が国をおはじめになるにあたって、その規模がまことに広大で、かついつまでも動かないようになされたこと、御祖先はまた御身をお修めになり、臣民をおいつくしみになって、万世に渡って御手本をおのこしになった。私の臣民は忠を尽くし親に孝を尽すことを心掛け、臣民すべてが皆心を一つにして、代々この美風を作り上げてきた。以上のことが我が国体の優れたところであり、我が国の教育の基づく所もまたここにある。」
さらに続いて陛下が臣民に対して話しかけるように親しげにお呼びかけになり、私たちが常に守るべき道をおさとしくださっている。
「あななたち臣民は父母に孝行を尽くし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互にむつまじくし、朋友には信義をもって交わらなければならなりません。誰に対しても身を慎んで無礼の挙動なく、常に自分を引きしめて気ままにせず、しかも世間の人に仁愛を及ぼすことが大切であります。また学問を修め業務を習って、知識才能を進め、徳ある有為の人となり、進んで公共の利益を増進し、世間に有用な業務を興すことが大切であります。また常に皇室典範・大日本帝国憲法をはじめ、その他の法令を守り、もし国に事変が起こったら、勇気を奮い一身をささげて、皇国のために尽くさなければならなりません。このようにして代々続いてきた皇祖神の命のままに天地と共に極まりない皇位の御盛運を助けるのが務であります。
なお以上の道をよく実行する者は、私の忠良な臣民であるばかりでなく、我等の祖先がのこした美風を表す者である。」
「これまで示した道は、私が新たに決めたものものではなく、皇祖皇宗の御子孫も一般の臣民も共に守るべきものである。またこの道はいにしえも今も変りがなく、かつ国の内外を問わずどこでも行われ得るものである。私はあななたたち臣民と共にこの遺訓を守り、それを実行することを切に願っている。 」
熊本の先人が残した言葉はなんと素晴らしい文章でありますか。教育勅語の石碑は阿蘇神社でも見たことありますがいろんな神社に置いてあると思います。ここでは熊本の先人ということで私も毎年初詣させていただいている熊本県護国神社の教育勅語石碑を載せておきます。
さすが、ここでは両先生のことまでしっかり残してあります。
他で見ない貴重な文章なのでこの両先生の説明文おさらい含め転載しておきます。
「井上毅先生は肥後藩士で儒学、国学を学び特に文筆に長していた。明治2年上京して司法省に入り、大久保利通、岩倉具視に重用され、有能な官僚として活躍した。特に枢密院書記官として大日本帝国憲法の制定に尽力し、法制局長官として侍講元田永孚先生と共に教育勅語の起草に心血を注ぎ、その後文部大臣となり輝く功績を遺している」
「元田永孚先生は肥後藩実学派の俊英であり、横井小楠に師事し、明治4年大久保利通に推挙されて宮内出仕となり、明治天皇の侍講、宮中顧問官、枢密院顧問官等に任ぜられ、明治天皇の御信任ことのほか厚く、聖旨により教育に関する勅語案文の起草に当り井上毅先生と共に心血を注ぎ世界普遍の道徳律を完成したのである。」
熊本先人の偉業をしっかり熊本で大事にしているのはとても嬉しい。
ということで調べてたら石碑のある場所載ってるじゃん。えーこんだけしかないの?
ちょっと待て、椿大神社は昨年普通に俺お参り行ってたじゃん。当時の写真を探した。
原文の横にこれがあった。教育勅語難しいって人はこれだけでもいいじゃない。いい石碑ですね。
今度大阪城公園の石碑も見に行くか。
話を本筋へ戻す。
この教育勅語はみなさん現在も生きているか生きていないかどちらだと思われますか?日本人の多くがもう有効でない(失効している)または重んじてはいけないまで思ってる方がいると思います。
昭和23(1948)年)敗戦後GHQにより圧力を受け、衆議院における「教育勅語等排除に関する決議」および参議院における「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって失効確認が決議されたから。
ここで発布時を思い返してもらいたい。「天皇が与えた言葉という意味で誰に与えたのかと言えば、山縣総理と芳川文部大臣へ与えたものだという形式をとった」と書いた。画像も載せたようにそこには御名御璽(天皇自筆書名と捺印)のみ。勅令(詔書)や法令時には御名御璽以外に天皇と臣民一緒に遵守するという意味から摂政や内閣、または大臣の署名捺印も必要である。
しかしこれにはない。それじゃあなぜ敗戦後国会で決議されたのか。それがこれ。
左側に記載されている大正12(1923)年11月10日に大正天皇の名と摂政宮名で国民精神作興ニ関スル詔書(こくみんせいしんさくこうにかんするしょうしょ)として教育勅語を踏襲したものが発布されたからである。
お分かりいただけたであろうか。この詔書(左側)が廃止になっただけで教育勅語(右側)は、明治天皇がお伝えになられた言葉で廃止になっていない。というか明治天皇は伝えただけで、個人的言葉なのだから命令でもなんでもなく、ましてや法律でもないので国会で廃止することなんかできるわけがなかった。ゆえに教育勅語は今も生きている。
だから僕も大声で言う。
私はこれから先も教育ニ関スル勅語をいつも心に留め大事にして、この道を体得実践できるように努めていきたいと思います。
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明治~
Thu, 10 Sep 2020 08:19:44 +0900
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明治を学ぶ22
鹿鳴館のところ(明治を学ぶ18)で明治20(1887)年9月井上馨が外務大臣を辞した。
明治21年4月、2代黒田内閣誕生(明治を学ぶ19)。このとき大隈重信が外務大臣就任。第一の目的だった条約改正の任にあたるが、
妥協案としてまたしても「外国人裁判官の任用」の条項が含まれていたことが明らかになると、もちろん大騒動となった。一旦解体したはずの自由民権運動が今度は板垣退助を擁して再燃し、政府内からも山縣有朋・後藤象二郎・伊藤博文・井上馨らが妥協案に反対する意志を示した為、条約改正交渉は中断に追い込まれた。
明治22年10月18日、馬車で外相官邸に入ろうとした大隈に爆烈弾を投げつけ、大隈が右脚切断の重傷を負うという大隈遭難事件が発生した。
10月25日、黒田内閣は総辞職を提出。天皇は大隈以外の辞職を認めたが大隈だけは退けた。これには大隈遭難事件により総辞職となったのでテロには屈しないという意思表示もあったという。
黒田内閣で言うと大日本帝国憲法公布の日(2月11日)に帝国大学令(明治を学ぶ19)など教育法令を作ってきた森有礼もまた国粋主義者により刺され死亡している。
明治22年12月24日、第3代内閣総理大臣に山縣有朋(長州)就任。大隈は入閣せず。
山縣有朋について少し振り返る。
戊辰戦争に従軍、陸軍卿になり徴兵令制定、西南戦争総指揮、内務卿、初代伊藤内閣の内務相。
現在では「日本陸軍の祖」と呼ばれる。
思想は超然主義(ちょうぜんしゅぎ・内閣は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張)だった為、実は国会開設には向いていなかったがしぶしぶ総理を引き受けていた。
明治23年5月12日、山縣有朋は伊藤博文を訪ねる。このとき伊藤は憲法を作ってもう役目は終えたと一切の国政に関与していなかった。
山縣「激職に堪えざる、其の一職を伊藤に委(まか)せん」と言ったそうだ。総理を代わってくれって事だ。
だが伊藤はこれを断った。
5月13日、明治天皇は山縣の議を受けるように勅語を出すも5月15日伊藤固辞する手紙を出す。
明治天皇と伊藤博文の信頼関係はとても強かった。にもかかわらず天皇陛下の命令を拒否する。普通ならあり得ない。それには明治天皇が納得するだけの理由が手紙に書いてあったそうだ。おそらくこれからもっと大きな国難(戦争)が訪れるでしょう、敗戦し国が0になっても1から再度作り上げる、そういうときこそ私の力をお使いください。天皇陛下私を信じて・・・みたいな事だと想像する。伊藤は目の前だけではなくその先をいつも俯瞰して見ることのできた政治家だったんだぁ。
明治23(1890)年7月1日、第一回衆議院議員選挙。
選挙権は直接国税15円以上(現在の60~70万円)払っている25歳以上の男子。
有権者数約45万人(全人口の1.1%)。
投票率93.91%(日本の総選挙史上最高値)
大金を納めた人にしか選挙権がないというのは地方議会の選挙でも書いたように(明治を学ぶ15)孟子の「恒産なくして恒心なし」という考え方から来ている。決して差別意識からではなかった。
議員数300人選挙結果。
民党(今でいう野党・自由民権系)
立憲自由党(板垣) 130人
立憲改進党(大隈) 41人 計171議席(過半数超)
吏党(りとう・今でいう与党・政府派)
大政会 79人
国民自由党 5人
無所属 45人 計129議席
野党が勝ってしまって初回で逆転このままではねじれ国会になってしまう。第一回帝国議会は5か月後に控え山縣内閣は危ういものとなった。
明治政府はこれ以上自由や権利を主張する思想が広がらないように対策を練る。
そこで発布されるのが「教育勅語」だ。これもまた大テーマになるので次回にまとめます。
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明治~
Mon, 07 Sep 2020 08:05:58 +0900
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明治を学ぶ21
明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法と同時に発布されたのが皇室典範。
伊藤博文が明治十五年ヨーロッパに赴いた際オーストリアの学者から作成を助言され作成した。
全62条からなり、皇位継承の順位や皇族の範囲などを定める。
大日本帝国憲法と皇室典範、実質的に二つの最高法典が存在した事になるが、『大日本帝国憲法』の冒頭に、『皇室典範』と『大日本帝国憲法』制定に就いての告文(こうもん:同日朝憲法公布前、天皇が賢所に報告する文章)がしたためられており、その文中に於いて、『皇室典範』は『大日本帝国憲法』よりも上位に位置付けられている。
第一章 皇位継承では、継承の順序を定め、庶系庶出(正室以外の系統出)の継承権も認め、皇嗣(こうし・皇位継承権第一位の皇族)心身の不治の重患または重大の事故あるときは皇族会議および枢密顧問に諮詢して継承の順序を換えることを得とした。
第二章 践祚(せんそ・天皇の地位を受け継ぐ事)即位では、天皇崩ずるときは皇嗣すなわち践祚し祖宗(歴代天皇)の神器を承(いをう)くとし、即位の礼および大嘗祭は京都で行うとし、また一世一元の制をとるとした。
第三章 成年立后立太子では、天皇および皇太子皇太孫の成年は満十八年とした。
第四章 敬称は、陛下と殿下を用いる。
第五章 摂政では、天皇未成年のときと、皇族会議および枢密顧問の議を経て天皇親政不能と決したときは摂政を置くとし、成年の皇太子以下の摂政の資格順序を決めた。
第六章 太傅(たいふ・未成年の時にその保育の任に当たった職)、第七章皇族では皇族の範囲を定め、皇族の婚嫁は勅許により、皇族は養子をすることができぬとした。
第八章 世伝御料(せでんごりょう・皇室の世襲財産で、土地・物件などの分割・譲与が許されないもの)、第九章皇室経費、第十章皇族訴訟及懲戒、第十一章皇族会議とした。第十二章補則では、典範を改正増補するときは皇族会議および枢密顧問に諮詢して勅定すとし、臣民の公議に付さないことにした。
皇室典範は皇室自らその家法を条定するものなり。故にこれを臣民に公布するものにあらず(伊藤憲法義解より)。として臣民には知らされなかった。
特に重要。
女性宮家・女系天皇・女性天皇の違いを理解している人の少ない事。理解していないのになんとなく女性に天皇なる資格ないのは平等じゃないとか思って女性が天皇なってもいいんじゃね?って賛成する人僕の身近でも多すぎ問題。
女性宮家とは天皇の娘が皇族以外と結婚して子供を男女関係なく産んでその子が皇位を継承する家のこと。もっと簡単に言ったら子供からしたらお母さんは天皇家の血を継いでるけど、父親は天皇家の血を継いでいない。子供のお母さん(女系)を遡ると初代神武天皇にたどり着くがお父さん(男系)を遡っても初代神武天皇に行きつかないから天皇家から見て女系と言われる。その子供が天皇になったら女系天皇。
女性天皇は天皇の娘が天皇に即位すること。もしその女性天皇が結婚して子供を産んでその子が天皇になることがあったら上の女性宮家になるので女系天皇となり天皇家男系の血は継承できなくなる。
今回ねこの第一章皇位継承第一条のみ超詳しく解説するわ。
第一条 大日本帝国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子これを継承す
この明治の皇室典範草案では女系の継承権を認め、庶出の子女は皇族として待遇しないことにしていた。しかし憲法も作った井上毅(肥後)は古事記、日本書紀をはじめとする国史に関する膨大な書物を読み込んでいた。その井上毅が女系の継承は祖宗の大憲に反するとの意見を提出した。そこで帝室典則案では女系の継承をやめ、皇庶子孫の継承を認めた。
まずここ、女系の継承は祖宗の大憲に反するってとこ。これまで天皇家は千年以上男系継承をしてきたからそれまでの天皇の決まりに反するって。千年以上続いてきたのに1,2年で考えて勝手に変えていいの?って意見。そこで伊藤博文もハッとするんでしょうね。いや待てよ、気が付いたらこれが一番大事じゃね?って。131年前にもう女系天皇議論されて答えは出てたんやで。いつまでこの問題引きずっとんねん。男系の血が最重要という事で「庶出の子女は皇族として待遇しないこと」についても同様、正室ではなくても男系の血がある子孫に継承を認めた。
ここまでだとただの男尊女卑でなんの理屈も通っていない感情論って言われてる。たぶんね、ここで止まってさ、男女平等の時代女性天皇でもいいんじゃね?って思ってる人が多いんだと思う。
いや、止まってないよって人が次に言う事。聖徳太子時代の推古天皇って女性じゃんか!だったらいいだろ!だ。
確かにその時代は推古天皇含めのべ6人女性天皇がいました。時代背景として権力闘争の煽りを受けていて、次期の男系の天皇が決まらず、女性天皇で中継ぎするケース、 天皇が若くして崩御、皇位継承権1位の親王が幼いために皇后が代理でつなぐケース。親王が生まれるまで女性天皇が中継ぎしたケースがあった。しかし実はこれらすべて男系の女性天皇だった。女系天皇は一人も存在しなかったということだ。
これに染色体遺伝学的理論を加える。
人間は一組の性染色体を持っている。性染色体は女でXXで、男でXYという状態。女の性染色体は対になっているので生殖細胞がつくられる際に交差が起きる。ところが男の性染色体であるXとYは、対になっていないため交差が起こらない。よってYは父から息子へまるまる一本、ほとんど変化することなく受け継がれる。
女性が中継ぎとして天皇の座につくことはあっても男系でつないできたのでこのY染色体は神武天皇と同じY染色体なのだ。実はこのY染色体を千数百年ずっと守ってきたという事になる。
ここまで来たら女系天皇はだめだとはっきりわかるはず。しかし現状を見てみると皇位継承できるのは秋篠宮文仁親王殿下と悠仁親王殿下と84歳の常陸宮殿下のわずか3名。将来悠仁親王殿下に万が一何かがあった場合やご結婚されて子供が女性だけだった場合どうするのか?って不安。このこと自体考えるのはご存命されているのに不敬だっていうのも自分の中にもあるけど考えないで途絶える方がまずいので考えている。
まずよく言われている現天皇陛下の娘、敬宮愛子内親王殿下が天皇になる。これね確かに男系の女性天皇ではあるけど、そのまま行ったらその子供に皇位継承権が付与されてしまうので女系の天皇が生まれてしまいます。なので女性天皇自体に反対です。もしも、仮にだよ、もちろん認めないけど、男系女性天皇を認めるなら同時に一代限りで男系男性に戻すとか中継ぎ条件を入れるべきだと思う。ここまで言ってる人じゃないと認めない。しかもそこまでして一代限り女性天皇を認めたところで男系男子の後継ぎが少ない問題は変わらないので、女性天皇は困難なうえ実利が少ない。
次、Y染色体が大事なのだから昭和の敗戦後GHQによりお取り潰しさせられた旧宮家の復活。これが一番現実的だと思っている。ただ、現在の旧宮家のほとんどが一般として生活をしているので急に皇族になったとしても国民の賛同を得られるのかも不安なので、もうちょっと踏み込んで考えて、Y染色体さえ継承できればいいので、これ以後生まれた旧宮家の男子を宮家にして教育するとか旧宮家の男子が生まれた時点で皇族の養子にする。これが一番良くない?
結局ね、なんで男系男子継承かとまとめると、「ずっと男系でやってきたから。以上。」でいいと思う。遺伝子とかわかんない大昔にさ、本能でこれやってきて繋いできた日本人すげぇってなるやろこれ。これ守らないで何守るん?
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明治~
Sun, 06 Sep 2020 07:24:16 +0900
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明治を学ぶ20
明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法発布。
全76条。欽定憲法(きんていけんぽう)国会(民主)ではなく君主が制定する憲法、国会がまだ無いのでこの作り方しかない。これで立憲君主制が成立する。
重要なところの中身を見ていきましょう。
第1章天皇。
第一条 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す。
第二条 行為は皇室典範の定むる所により皇男子孫これを継承す
第三条 天皇は神聖にして侵すべからず
第四条 天皇は国の元首にして統治権を総攬しこの憲法の条規によりこれを行う
・・・
第十一条 天皇は陸海軍を統帥す
その他省略した部分には勅命を出せるとか行政官の任命権とか外国と条約を結ぶ権利とかが書かれている。
万世一系とか皇男子孫とか詳しくは次回皇室典範やる予定なのでそちらで嫌と言うほど語る機会があると思うから今回は省略。
この憲法下では主権は天皇にあり、立法・司法・行政・外交・軍事全ての権限が天皇にあると書かれているように思われるが、また別に神聖にして侵すべからずと書いてある事により仮に天皇が命令してそれが失敗に終わった時に変更や責任の取りようがないという事になる。つまりこの憲法では政治的な決定を天皇自ら行うことは全くできないもしくは想定していないという事が通説だ。先に天皇主権とは書いたが実際は最高命令を出す主権者がその時々で変わっていたので全部天皇に主権があったとは言い切れない。特に軍関係。
なぜこのような矛盾が起きてしまったのかと言うとこの憲法は明治22年に発布されたのに対し軍法規は明治政府樹立以来早い段階で作られ、軍内の思想は固めてあった。憲法よりも早かった為憲法より軍法規が上の認識になってしまった。この矛盾が昭和まで続いて悲劇を生むことになる。ということはだよ、昭和の敗戦は大村益次郎や山縣有朋が発端になっているのかもしれませんね。もしくは早く憲法を作らなかったことにもよるかもしれない。この憲法で軍についてもしっかり明記しておいたら違ったかもな。このことからも現憲法で間違った戦争を起こさないためにさ9条に自衛の為の軍を持つ(自衛軍)とはっきり明記すべきじゃない?って思う。これが先人に学ぶってことだろ。
つくづく今の僕らの時代はこの明治期で作られているものが作用しているなぁと実感しています。この時代の人って何もないところからだから足りないとこもあるけどよくここまでできたなぁって驚きと感心したりすることの方が多い。
第2章臣民(しんみん)権利義務。
一般的に臣民とは君主国において、君主に支配される者としての人民を指す。昭和の大戦後臣民と言わなくなったので、臣民とは大日本帝国憲法下の人民ってたびたび言われたりします。でもよく考えてみて。現在も天皇を国家元首(君主)として生きている我々はすべからく臣民ではないですか。なので私は陛下に敬意を含め自分の事を国民とか市民とか言わず臣民と言っています。
第十八条 日本臣民たるの要件は法律の定むる所による
第二十、二十一条 日本臣民は法律の定むる所に従い兵役・納税の義務を有す
第二十八条 日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有する
その他省略した部分には法律の範囲内で住むところも引っ越しも自由だよとか法律に無い事で逮捕されたり家を捜索されたりしませんよとか他にはいわゆる表現の自由みたいなことも書かれています。
第3章帝国議会。
以降は国の機関について。
憲法発布と共に民権派約450人明治天皇により恩赦、勝海舟が動き西郷隆盛の名誉も回復した。明治31年2万5千人の寄付により上野に銅像完成。
国会についてもまた後日勉強していくとして今回はこれでしみゃ。学びたい事多すぎて国会までまだ行きつかないんだけどw
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明治~
Thu, 03 Sep 2020 06:02:54 +0900
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明治を学ぶ19
明治19(1886)年3月、勅令として学術を極める目的で帝国大学令が出される。帝国大学設立。
内地に7校(七帝大:東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋)、外地に2校(京城、台北)が設置された。
総称が「帝国大学」であった現在でも、「旧帝国大学」または「旧帝大」とも呼ばれていたりもしますね。
このときに京城-韓国と台北-台湾にも国立大学作っていたんだね。
「帝国主義」とは。政治・経済・軍事などの面で、他国の犠牲において自国の利益や領土を拡大しようとする思想や政策の事。この時代の欧米列強はこの考え方で日本もこれを目指さないと植民地にされてしまうと考えていた。
5月井上馨外相条約改正会議を5か国(英・蘭・仏・露・米)と秘密裏に始める。
10月24日、ノルマントン号事件。イギリス船籍の貨物船ノルマントン号が、横浜から神戸へ行く途中、和歌山沖で座礁沈没した。このとき外国人乗組員のみ助かり日本人乗客25名が全員死亡する不可解な状況が起こった。
日本中で船長の責任が問われたものの日英修好通商条約の治外法権で不問となり、船長らの人種差別的行為と不平等条約による領事裁判権に対する国民的反発が沸き起こった。
天草で関係することを書くとこのときのノルマントン号引き上げ事業に牛深町の宮川清一さんが参加されている。
おそらく漁師の潜水夫として呼ばれたのだろうが沈没地点だと思われる場所は深さ90メートルあったため人力では30メートル潜るのが限界だった。
明治20年4月22日、井上馨外相が5か国と条約改正に合意。しかし裁判に外国人判事を任用するなどの実質変わらない条約改正案の内容が公表されるとに反対運動が起こる。裏を返せば、まだ国としてなんの後ろ盾の力もない日本は条約改正したくてもできなかった。列強と対等に見られるため近代的な憲法が必要でした。
6月、伊藤博文ら「憲法草案」作り始める。
目指したものドイツ式立憲君主制。
伊藤以外の憲法草案のメンバー↓
井上毅(こわし・肥後)渡欧経験あり教育勅語草案にも参加。
伊藤巳代治(みよじ・肥前)憲法調査の為伊藤に随行。
金子堅太郎(筑前)岩倉使節団そのままハーバード卒。
8月、憲法草案完成、作った場所にちなみ「夏島草案」と呼ぶ。
9月、条約改正案に閣僚も反対し井上外相辞任せざる負えなくなった。
10月、条約改正案反対で民権運動が再燃。
12月、保安条例公布で民権運動派危険人物570人を東京から排除。
明治21年4月30日、憲法草案の審議の為、枢密院を設立。
内閣から独立した存在で直接天皇を補佐する諮問機関。初代枢密院議長に伊藤就任同時に総理辞任したため後任に黒田清隆(薩摩・幕末牛深へ来ていた)就任。
6月18日、枢密院憲法会議初日、伊藤は自分の考えを演説。
「ヨーロッパでは道徳的な基軸として宗教を持つが、我が国では宗教の力が弱く基軸とすべきは皇室あるのみ」と力説している。神道でもなく皇室だと言っているのは実質同じだと言ってもいいけどはっきり言うと皇室を中心とした皇室神道っていう分類になると思う。
10月、明治宮殿完成。(現在の皇居)表は和装、内は洋装。
11月、日墨(メキシコ)修好通商条約締結。初の完全対等条約。
明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法発布。東アジア初近代憲法を持つ国になった。
出来たばかりの新しい皇居(明治宮殿で)発布。明治天皇から憲法を渡されている人は総理の黒田。
外務大臣を辞任した井上は黒田内閣になると農商務大臣へ復帰している。
大日本帝国憲法については大テーマなのでまた次の回へ。まだ国会開設までいけませんでしたねw
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明治~
Thu, 03 Sep 2020 03:53:54 +0900
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明治を学ぶ18
明治16(1883)年7月20日、公家出身者として維新三傑と共に明治政府を支えた岩倉具視がガンで病死。
11月28日、欧米諸国との不平等条約改正に向けての切り札・欧化政策として鹿鳴館が作られる。文明開化の象徴と言われる。
外務卿井上馨主導の元、総工費18万円現在価値で36億円をかけた国賓をもてなす迎賓館だった。
当時の西欧では外交と社交が深く結びついており、円滑な外交交渉を行うには社交場が不可欠で日本が文明国であることを広く諸外国に示す目的で作った。
連日繰り広げられる舞踏会や演奏会に庶民や国粋主義者から批判の声が出はじめ、本来の目的だった条約改正も上手くいかず明治20年に井上馨は外務大臣を辞任。それと共に鹿鳴館時代は終わった。
8月、伊藤博文ヨーロッパ憲法調査から帰国。
ドイツに習い国会を二院制にしたいと考える。衆議院は選挙で選ぶとしてもう一つは貴族院を作ろうとした。
17年7月20日、貴族院を作る為「華族令」施行。
華族に5段階の爵位を設けた。内容詳しく覚える必要はないと思いますが一応メモ書きしておきます。
上から順に「公爵」「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」。
公爵―明治維新を成し遂げた大名や公家と徳川本家。(三条家、島津家、毛利家など)
侯爵―三条家以外の公家、徳川御三家。15万石以上の大名、琉球藩王、知藩事。(大久保家、木戸家など)
伯爵―大臣家、徳川御三卿、5万石以上の大名。(伊藤、板垣、大隈など)
子爵―堂上家、大名の分家など。
男爵―維新後に公家や大名になったもの。功績をあげた軍人など。
公爵と侯爵は25歳以上全員。伯爵子爵男爵は各1/5以内が議員になれた(義務)。
この華族は議員になれるだけではなく特権が与えられた。
・皇族との結婚が出来る。
・子弟は学習院へ無試験で入学できる。
・華族継続の為の資金援助を受けられるなど。
前回の最後に書いていたように、自由党板垣退助と後藤象二郎が海外へ憲法を学びに行った時の費用を政府の斡旋で用意したことにより党内が統制が聞かない状態になり分裂。さらにデフレのあおりを受け活動資金も窮迫。
明治17年10月29日、自由党解散。板垣退助の影響力がかなり低下した。
10月31日、物価が5年で1/7に下落。デフレで苦しむ農民が旧自由党員指導の下「秩父困民党」を結成。1万人が集結し政府に税率の引き下げを訴え大規模な一揆を起こす。これを秩父事件と言う。政府は警察で抑えきれず軍隊を派遣鎮圧。死刑7名4000名処罰。
一方、立憲改進党の大隈も党運営が立ち行かなくなり離党。事実上活動停止になり板垣、大隈の指導者のいなくなった自由民権運動は衰退していく。
国内は景気も悪く一揆も起こり自由民権運動も下火。そんななか朝鮮で日本も関係する問題が起こる。
明治15年7月、朝鮮の内乱時に日本の公使館が襲撃された壬午事変(じんごじへん)をきっかけに日本は朝鮮に軍が駐留して公使館守らせていた。
明治17年12月4日、親日派の金玉均(きんぎょくきん)が政権を持つ閔妃(みんぴ)打倒を企てクーデター・甲申事変(こうしんじへん)を起こす。なんとこのクーデターに日本公使館を守っていた軍が協力していて王宮を占拠したのだ。しかし朝鮮は清に援軍を要請。清に鎮圧され失敗に終わった。
この金玉均には福沢諭吉も一生懸命援助をしていて、日本と朝鮮と清は一丸となり近代化を目指し欧米列強に対抗すべきと唱えていた。だがクーデターが失敗に終わり福沢は朝鮮に絶望し怒りの感情を持つようになる。
明治18年3月16日、福沢諭吉「脱亜論」発表。日本と朝鮮と清が一丸となり欧米と対抗する考えを捨てると言った。諭吉さん結構過激w
4月18日、日清間で天津条約締結。
・日清両国は朝鮮半島から完全に撤兵。
・以後、お互い朝鮮半島に出兵するときは事前通告を義務付けた。(清は朝鮮が属国であることを理由にした出兵が不可になった)このことは日本にとって外交的勝利だった。
この一連の争いで山縣有朋を中心に将来的な清との戦争を見据えるようになり。これより10年がかりの軍拡計画が練られる。
あれ?諭吉さんあなたの考えが戦争に発展してんじゃないの?「天は人の上に~」とか言うからさ、てっきり平和主義なのかと思いきやこりゃイメージ逆転やで。やで。
国内政治に戻り一回現状整理。
16年に右大臣岩倉死去。太政大臣三条と左大臣有栖川宮は事実上引退状態。その下の参議は無力化になっていた。この状態を回避するとともに、再度薩長政権の確立を目指した制度がこちら。
明治18年12月22日、内閣制度誕生。
伊藤博文が初代内閣総理大臣になる。
各省(内閣)を取りまとめるのが総理大臣(1人)現在に近い。
初代内閣。
外務-井上馨(長州)
内務-山縣有朋(長州)
司法-山田顕義(長州)
大蔵-松方正義(薩摩)
陸軍-大山巌(薩摩)
海軍-西郷従道(薩摩)
文部-森有礼(薩摩)
農商務-谷干城(土佐)
逓信-榎本武揚(幕臣)
この割合でわかるように明治維新で血を流したのは薩長でありその地位は譲らないとの固い意志が見える。実はこれ現代まで続いてるとまでは言いませんが安倍晋三さんが残念ながらお辞めになるタイムリーなので書くと、安倍さんも長州。安倍さんまで全98代総理まで述べで数えるとなんと長州は総理を20人も輩出している。このことからもわかるように今学んでる明治時代が基礎になって僕らは今生きている。
このお札は昭和のものだから多く現存してて僕も10枚程度持っています。この伊藤博文が初代総理でそして時代はようやく待ち望んだ国会が開設されそう!ということでそのお話はまた次回に。
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明治~
Sun, 30 Aug 2020 09:12:14 +0900
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明治を学ぶ17
明治14(1881)年3月、ハワイ王国第7代国王カラカウアが来日。
当時のハワイはまだ独立国で歴史上日本を訪れた初外国の国家元首であった。
ハワイも沖縄同様に外国(アメリカ・イギリス・フランス・中国)の圧力にさらされていた。
この頃アメリカは帝国主義の下、本土からハワイへやってきて安い労働力で搾取していた。日本はというと明治元年より移民が始まり後年ではあるが明治23年にはハワイ総人口の40%が日本移民となるまでに増えていたそう。
来日の目的はと言うと、国の存亡をかけハワイ国王はアメリカではなく同じ島国の日本と共に生きたいと考えたのだ。
日本は丁重におもてなしをして歌舞伎なども見せたそうだ。そして明治天皇と会談をした。
その中でハワイから提案された一つが王位継承者のカイウラニ王女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮依仁親王)との縁組だった。これってかなりの決意でしょ。こんなにハワイから好かれていたんですね。
国が固まっていないこの時の日本はアメリカとの衝突を恐れ縁組は実現しなかった。その後の王国は来日の12年後、アメリカに政権を奪われ「ハワイ王国」という国家は無くなった。前回の君が代のとこに書いたけどこういう事なんだよね。続いてきた国家元首系統が変わると、いわゆる王朝が変われば国はまた違うものと見なされるって事。日本の場合女系天皇が誕生した時点で王朝が変わってしまう。別の国になってしまう。ここの危機意識多くの日本人が持っていないから何度も言いたい。
現在のハワイはご存じのようにアメリカの1州で、過去にこんなラブコール貰っても一緒になれなかったけど多くの日本人が親近感を持って観光で訪れているのが救いではある。
維新三傑亡き残った明治政府を一度ここで整理しておこう。
太政大臣 三条実美(さんじょう さねとみ)
左大臣 有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)
右大臣 岩倉具視
参議 大隈重信(肥前)・伊藤博文(長州)・井上馨(長州)・大木喬任(肥前)・寺島宗則(薩摩)・山縣有朋(長州)・黒田清隆(薩摩)・西郷従道(薩摩)・川村純義(薩摩)・山田顕義(長州)
維新三傑が国の土台を作ったが憲法も国会なく、例えるならまだ建物が立っていない状態の日本。
明治14年3月、大隈重信は有栖川宮熾仁親王を通じて明治天皇に早期国会開設の意見書を提出。
内容
・本年中に憲法を制定。
・明治16年に国会を開設。
・イギリス流の議院内閣制の実施。
この急進的な意見書は参議の他のメンバーには相談せず秘密裏に出したものだった。3か月後伊藤博文らはその提出を知り驚き対立が始まる。
急進的(急速)―大隈重信(肥前)。自由民権運動活動家、板垣退助や福沢諭吉ら応援。
漸進的(ゆっくり)―伊藤博文(長州)。岩倉や井上ら薩長系参議も同じ考え。
・国会開設をゆっくり進める。
・天皇の大権を確立する国家組織を主張。
明治14年7月、北海道開拓使官有物払い下げ事件。
10年間で国費1400万円をかけた開拓事業の官有物を開拓使長官だった黒田清隆(薩摩・幕末牛深へ来ていた)は同じ薩摩・五代友厚(才助・幕末牛深へ来ていた)へ38万円(しかも30年無利子ローン)で払い下げを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となった事件。(最近で言うモリカケ問題みたいなやつ。)
各地で政府批判と国会でこういう問題を議論しないといけないと国会開設要求運動が加速する。
7月21日、払い下げを閣議で議論。有栖川宮、大隈ら反対するも伊藤らは払い下げ決定。
7月30日、明治天皇東北北海道巡幸へ出発。有栖川宮・大隈・大木らが付き添う。
8月、世論沸騰させ政府を大隈が乗っ取ろうとしていると考え(政権争い)、大隈陰謀説を伊藤・井上・西郷らを中心に言い出す。
10月、三条・岩倉と薩長系参議が話し合い。
10月11日、天皇巡幸後すぐ御前会議。大隈大木は呼ばれず。
この御前会議では大隈らの追放、北海道開拓使官有物払い下げの中止、10年後に国会開設を決定した。
11日深夜伊藤・西郷は大隈邸を訪れ辞表の提出を求め、大隈辞任。大隈派の官僚も一斉追放した。
世間の政府批判の鎮静化を図り薩長の権力体制を固める目的だった。
これを「明治14年の政変」と言う。
明治14年10月12日、国会開設の勅諭を発布。
簡単に言うと、これまでの流れを1枚目で言って2枚目からが本題。
・明治23年を期して議員を召し国会を開設する。
・その組織や権限は明治天皇自ら定めて公布する。
・もし早期開設を煽り国の安定を害すれば罰する。と言う内容。
10年後の国会開設が決まり自由民権家たちが動き出す。
10月18日、板垣退助は政党「自由党」を結成。
主権在民・一院制議会・普通選挙。フランス民権思想の影響。
明治15年4月16日、大隈重信は政党「立憲改進党」を結成。
立憲君主制・二院制議会・(年齢や税金額による)制限選挙。イギリス流。
「自由」という言葉がブームになり、各地で政治演説会が開かれ多くの国民が参加するようになる。
ちな「Liberty」という英語を「自由」と訳したのも福沢諭吉。
明治14年4月6日、岐阜県の演説会場で遊説中の板垣退助が自由民権運動へ反対する小学校教員から襲撃を受ける。これを岐阜事件という。「板垣死すとも自由は死せず」の由来となったのがこの事件である。
明治15年1月、軍人の精神教育の基本「軍人勅諭」を公布。
明治11年の竹橋事件から警戒され、軍隊の中にも自由民権運動が広がっていくのを恐れた陸軍卿の山縣有朋が軍人の引き締めを行う目的で主導。これが昭和の終戦に至るまで活用された。
内容。
・天皇が軍の最高統率者であることを強調。
「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の5か条。
・上官の命令は天皇の命令。
・軍人が政治に関与すべきではない。
・軍人の命は羽毛よりも軽いと覚悟せよ。
この頃の経済はと言うと西南戦争で大量の不換紙幣(政府が発行した金や銀と交換できない紙幣)が発行されたことにより激しいインフレが起こり米が高騰し農民が困窮していた。
明治15年10月。大蔵卿松方正義により日本初の中央銀行である日本銀行設立。
不換紙幣の回収を行いインフレが収まるも行きすぎてデフレになり再度農民は困窮した。まだ日本の経済学はお子様で発展途上だった。ちなこの大蔵卿松方正義の息子が松方幸次郎で初代川崎造船所社長で絵画の世界では印象派のクロードモネやルノワールの絵画を買って日本に持ってきてくれたいわゆる松方コレクションの人で有名である。
明治15年11月、国会開設へ向け自由党板垣退助と後藤象二郎は海外へ憲法を学びに行く。
政府の斡旋で財閥三井が外遊の費用を用意したことにより党内が分裂。立憲改進党も批判し関係が悪化し対立していく。
これは結果から伊藤ら政府が仕組んだ陰謀だと言われているがその後はまた次回へ。
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明治~
Sat, 29 Aug 2020 07:49:26 +0900
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明治を学ぶ16
明治7年に琉球の日本帰属が国際的に承認され確定したと以前書いたが、この頃1つの藩として扱われていたがまだ琉球には国王がいてかつての国の機構が残っていた。
明治12年4月4日、琉球藩廃止、沖縄県設置。いわゆる琉球処分が行われ琉球王朝は消滅となる。
明治政府は琉球藩の尚泰しょうたい(国王)に清との断交を命令したが拒否。このままでは琉球を失う可能性があるということで3月27日に警察官と軍隊を送り首里城を占拠。尚泰を東京へ連行。国王不在となり琉球消滅。
ここの沖縄の人々の感情は難しいところありますが、このとき琉球がなくなるのは悲しかったとは思うが国王は日本の一つの藩として扱ってくれるのは喜んでいたと子孫が語り継いでいる。
琉球が明治政府と戦える軍事力持ってたら独立国のままだったわけで。これでもわかるように国を維持するには軍事力が必要だって事が結論なんだよな。ほんとに今の日本の平和は9条が守っているのか。自衛隊はいらないのか。普通に考えればわかると思うんだけどな。
明治12年6月4日、東京招魂社の格上げを行い「靖国神社」に改称。
明治天皇が命名。「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」
国を靖(安)んずるという意味を込めた。
明治12年コレラが大流行。
当時は原因不明で治療法もなく、(虎列刺)コレラを虎の化け物と例え恐れた。
死者数 10万人。(西南戦争両軍合算死者1万4000人よりけた違いに多い)
コレラきっかけで下水道の必要性が高まり明治17年日本初の下水道が完成する。
立っては消えを繰り返していた自由民権運動は西南戦争後に再燃する。
不平士族だけではなく地租改正で税金を納めるようになった農民も運動に参加を始める。
明治13年、国会期成同盟結成。
片岡健吉・河野広中が国会開設請願書を提出したが元老院却下。
明治13年11月3日、赤坂仮皇居で君が代初演奏。宮内省で作曲を検討。雅楽師の林廣守が作曲。
実は現在の君が代以前にも明治2年に君が代はイギリス人により作曲されたものがあるが日本らしくないとの事で定着しなかった。↓こちら
明治21年、各国に「日本礼式」として伝えられる。
平成11年、国旗国歌法で国歌として制定。
これにより教育基本法で「国を愛する態度を養う」が追加され、学習指導要領に「国歌君が代を斉唱できるように指導すること。」明記。音楽の教科書には君が代が載っていないと認可が下りないようになる。
もう少し掘り下げますか。
日本国 国歌『君が代』
君が代は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
五七五七七となっており、元は詠み人知らずの和歌である。
この和歌が最初に記載されているのは延喜5(905)年の古今和歌集であり千年以上前のものとなっている。
実は古今和歌集に記載されているものは「君が代は」のところが「我が君は」となっていて冒頭が違う。
長和2(1013)年、和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)にも同じ和歌が紹介されており、そちらの冒頭は「君が代は」になっている。古今和歌集より100数年の間に時代と共に変わっていったと思われるが、100年後も歌われる歌ということはそれはかなりの認知度だったと思われる。だってさ今想像してみ、今より100年前の歌謡曲トップ10ですら1曲もみんなわかんないでしょ?軍歌かなんかなかな?聞いても知らないと思う。
歌詞について。
もともとの古今和歌集には「祝い」の欄に記載されている。
冒頭の「君」とは自分より目上の人、親だったり祖父母だったり先生だったりしたのだと思う。だが国歌として歌う時は違う。もちろんこの場合の「君」とは単なる目上の人ではなく「天皇陛下」の事である。
「君が代は」はつまり「天皇陛下が生きていらっしゃるこの時代が」
「千代にやちよに」この場合の代(よ)とは一人の人が生きている時代の事で千代とは千人分の生きる長い間、また八千人の生きる長い間陛下には長生きしていただきたいと願うという意味である。
「さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」は小石が成長して大きな岩となり、それに苔がはえるまでの意味で、限りない悠久の年月を表現したものである。
さざれ石はいろんな神社を参拝されてる方はたくさんご覧になられたことがあると思います。
ここでは伊勢神宮のさざれ石を載せておきます。
千年以上前に作られた歌を国歌としている国は他にはなく日本の歴史がこれにも表れている。もっとわかりやすくこの歌詞をまとめると天皇陛下がいらっしゃる間日本国は続くという解釈になる。これがまさしく象徴と言う意味である。
だから逆にその先を考える。いわゆる後継ぎがいなくなったら日本は無くなるという事だ。そしてその天皇となる条件とは何かを考える。女性宮家を作ってそこから天皇が出ていいのか。女性天皇でいいのか。秋篠宮悠仁親王に男子を授からなかったときどうするのかしっかり考えてないといけない。もし男系天皇のいない日本になったら呼び名は同じ日本かもしれないが2680年続いてきた今の日本とは別の新しい国家元首の国という事になってしまうのだから。
ちなみに知らない人がいるかもしれないので書くと、天皇陛下長生きしてくださいっていう歌詞なんだからいろんな国家行事で君が代が歌われるとき天皇陛下はお歌いになられません。自分で自分長生きしてって言うのおかしいからです。
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明治~
Fri, 28 Aug 2020 10:57:39 +0900
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明治を学ぶ15
前回は西南戦争まで学びました。
これまで明治維新をおこなってきた西郷、木戸、大久保を維新三傑と呼びます。
そのうち二人がこの世を去った。西郷さんは今あるものすべて西欧化していくのには疑問を持っていた。蒸気機関鉄道が開通した時も便利にはなるが、それまで活躍していた飛脚や途中の宿場町の人々の仕事が無くなってしまう危機感を人一倍感じていて反対していた。その人たちも守りたかったんだなって思う。新しく海外から鉄砲が入って刀で切り合う時代じゃなくなってきた。自分たちの明治維新を戦って支えてくれたのは武士じゃないか。新しいものを入れすぎて武士の存在意義を失わせてはならないって強く感じていたんだろうな。その思いは伝わってくる。ほんとに残念に思います。
この内戦までは動乱期で、これから先が明治維新の本当の幕開けだと言われたりもしています。いわば明治維新第二幕とでも言いましょうか。
大久保利通は国内行政を取り仕切る内務省のトップ内務卿として、殖産行政、警察行政を担当。地方行政も監督指導する強大な権力を持つようになった。
明治11(1878)年3月11日、地方の体制等改正の儀を提案。
内容。
府県・町村議会を設置。
地方自治を認める。
地方税を制定。
そんな矢先。
明治11年5月14日、旧加賀藩(石川県)士族6名により大久保利通が暗殺された。紀尾井坂の変が起こる。
5月14日早朝、大久保は友人であった福島県令(知事)山吉盛典の帰県の挨拶を受けている。そのとき大久保は三十年計画について述べていた。これは明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として戊辰戦争や士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期として、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べた。 その後明治天皇に謁見するため、馬車で赤坂皇居へ向かった。午前8時30分ごろ紀尾井町において暗殺犯6名に襲撃され命を失った。
不平を持っていた加賀藩士族6名は斬奸状(ざんかんじょう・悪者を斬る理由を書いた書状)を持っていた。
理由。
国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。(自由民権運動)
法令を出してもすぐ変更が激しく、また官吏の登用にコネが使われている。
不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。
国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
外国との条約改正をせず、国威を貶めている。
この後6名は自首。国事犯として裁判にかけられ判決後即日斬罪(ざんざい、首切)された。
東京では盛大に大久保の葬儀が行われたが、鹿児島県には遺骨を拒否された結果、東京都港区の青山霊園に埋葬されている。
尚、襲撃された際に乗っていた馬車が、大久保家により永代供養のため五流尊瀧院(倉敷)に奉納されている。
明治維新第二幕始まったと同時に大久保は亡くなってしまった。
明治11年7月22日、大久保が生前提案していたものが法案となり地方三新法が公布される。
郡区町村編制法(地方自治)、府県会規則(初の選挙制度)、地方税規則(地方税の設置)の3つを言う。
各府県に議会を設置し初めて選挙が行われることになった。
選挙権は地租5円以上納付した満20歳以上の男子。記名投票。
被選挙権は地租10円以上納付した満25歳以上の男子。
選挙権は全人口の1%だった。全員に選挙権が無かったのには理由がある。
この考えの基礎になったのは孟子の「恒産なくして恒心なし」という言葉で、経済的な安定が無ければ道義心や良識を持つことができないという考え方によるものだった。
明治11年8月23日、西南戦争で活躍した近衛砲兵大隊を中心とした反乱、竹橋(たけばし)事件が起こる。
西南戦争の恩賞がない事への不満を天皇に直訴。上官を殺害されたがすぐ鎮圧した。
この事件後、軍がこのままではいけないという事で軍の引き締めが行われ、軍人訓戒、憲兵隊が設置された。
明治11年12月5日、陸軍省内にあった参謀本部を独立させた。天皇の直轄組織に。
軍政(人事・予算は陸軍省)と軍令(作戦命令は参謀本部)を切り離した。行政が作戦に意見を言えない制度を目指した。初代参謀本部長に山縣有朋。
山縣有朋は長州出身であったため長州出身の軍人を優先して徴用していく。長州閥(ばつ)のはじまり。
その後の統帥権(軍隊の指揮権)の独立へ向かっていく。
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明治~
Mon, 17 Aug 2020 06:23:31 +0900
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明治を学ぶ14
明治6年の政変で下野した西郷隆盛は故郷薩摩(鹿児島)へ戻った。
同じく東京にいた薩摩士族も薩摩(鹿児島)へ。
明治7年、西郷隆盛「私学校」設立。本校分校合わせて12有り県内すべての郷内に設立。生徒数約2000人。
銃や大砲の打ち方を教える軍事訓練がメインで士官養成学校だった。
西郷が作ったこの学校の綱領が残っている。
「一、道を同じうし、義相協(かな)うを以って暗に集合せり。故にこの理(ことわり)を益々研究して、道義においては一身を顧みず、必ず踏み行うべきこと。
1、王(天皇)を尊び、民を憐れむは学問の本旨。しからばこの天理を極め、人民の義務にのぞみては、一向(ひたすら)難に当たり一同の義を相立つべきこと。」
この教育理念に西郷さんの考え方が集約されていると思う。この言葉を純粋にとらえるか、またここから深読みをして鹿児島に新しい政治組織を作ろうとしているのか解釈によってまた違うものとなる。この学校の生徒たちが政治集団化していく。
鹿児島の「正副区長」「県庁の役人」「警察官」など私学校の生徒で独占された。新政府の言うことを聞かないで独立国のような振る舞いをしていた。もちろん新政府が警戒しないわけがない。
明治10年1月政府木戸孝允(長州)が火薬什器の製作所を鹿児島に置いておくのは危険。大阪へ移すべしと言ったことにより薩摩士族が激怒。
私学校生徒約20名が火薬庫を襲撃。
火薬庫襲撃事件を聞いた西郷は「ちょしもた」と叫んで急いで私学校へ戻ります。これで反政府なのがばれたとでも思ってしまったのでしょうか。
明治10年2月3日、明治政府の密偵20余名が私学校の生徒に捕らえられる。
持っていた電信文書に「ボウズヲシサツセヨ」と書いてあった。シサツとは視察か刺殺かはわからないが西郷側はこれを政府が西郷を暗殺しようとしていると解釈。挙兵する正当な理由になった。
明治10年2月14日、西郷軍鹿児島を出発。このときの大義名分は「明治政府に西郷暗殺計画の次第を問いただすために東京へ行く」事だった。西郷自身は私学校の生徒たちの暴発を止めれず行動を共にすることになった。
一方政府側、大久保利通は2月16日「西郷の心を知るものは自分以外にはいない。西郷と会って説得すれば私学校生徒を抑えられるだろう」と言って会いに行こうとしたが伊藤博文らが反対。
明治10年2月19日、鹿児島県暴徒征討発令。ここで西郷軍は正式に政府軍の敵賊軍となった。ここからが西南戦争と呼ばれる。
西郷軍が最初に向かったのは九州新政府軍の拠点「熊本鎮台司令部」があった熊本城だった。
同2月19日、熊本城内で火災が起こり、大小天守閣が焼失した。この火災の原因は今もって不明であるが関係していないと思うほうが無理がある。
2月22日、西郷軍熊本城包囲総攻撃。
西郷軍士族約1万3千人に対し新政府軍は徴兵による平民約3千人だった。
兵器については西郷軍小銃1万2千挺(ちょう)。弾薬は製造所を破壊され増産できない。大砲60門。
新政府軍小銃4万5千挺。1日20万発を製造。外国より1700万発輸入。大砲209門。
このときの武器調達の為に政府は国家予算の80%を使った。これを抑えれば国内は安定すると信じていた最後の戦いだった。
圧倒的兵器力により熊本城は陥落せず。
3月最大の激戦「田原坂の戦い」となる。
17日間の死闘。両軍死者合わせて3500人。
このとき後に総理となる犬養毅が新聞記者として政府軍(官軍)側抜刀隊に帯同して前線にいた。
記事によると西郷軍13人と対峙。抜刀隊の中に旧会津藩士がいて直ちにその13人を斬ったそうだ。その会津藩士大声で叫ぶ「戊辰の復讐、戊辰の復讐」と。
新政府軍と戦って敗れた会津藩士。今度は政府軍となり賊軍となった西郷軍を斬る。
田原坂でも新政府軍が勝った。
5月26日、木戸孝允(幕末牛深へ来ていた)43歳で病死。「西郷、もう大概にせんか!」と言い残す。
新政府軍はますます勢いを増して西郷軍を追い詰めていく。南下しながら各地で戦いは続く中、
8月21日、大久保利通上野公園で「内国勧業博覧会」開催。富国の為殖産興業の見本市を行った。
もうこの辺りでは勝ちを確信していたのでしょう。
9月1日、西郷隆盛追い詰められ鹿児島入り。包囲され城山に籠る。
24日、西郷切腹。別府晋介が介錯した後その場で自らも切腹。ここで7か月に及ぶ西南戦争が終結した。
西郷軍約3万人、戦死者約5000人。
新政府軍約6万人、戦死者約6800人。
かつての盟友で戦うというのはちょっと勉強したぐらいの僕では察するに余りある。ここのそれぞれの想いって言うのは辛すぎて受け止めきれない。ただ西郷軍が勝ってもまた違う日本になってたし、この戦争が無ければ今の日本の民主主義はない。武士がまだいて俺も刀でチャンバラやってたかもな。西郷さんが今でも慕われている理由がわかった気がしているが大久保利通の評価が低すぎてないかなって思った。お札にもなってないよね?おかしくね?ここまでの明治維新は大久保がやったことの方が多い。この大久保利通の想い人が牛深にいた。牛深ハイヤちゃんマップにも書いてあるし、ここにちょっと書いてる。次は大久保の銅像を牛深に作ったほうがいいと思った。←はいこれ俺が最初に言ったからな。将来実現させましょう。
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明治~
Fri, 07 Aug 2020 18:48:19 +0900