2021年04月20日

女性天皇について学びたい(第一回)

明治を学ぶが10月で更新止まってると改めて見て時間の速さに驚いた。

何故更新が止まってしまったのかというと、自分の家系の先祖系図が書かれた古い巻物が手元に来て、その解読にかかりっきりだったからで、そちらはようやく先日一冊の本へ纏めることができました。これは先月末に兄が結婚したのでその時に二人へのプレゼントといたしまして用意した次第です。

その際、巻物調べるためにいろんな古文書や解説本を読みまくったのですが、僕の氏は皇室への厚い尊敬心が家の伝統心情となっていて、皇室と常に一体であるという思い入れが家系の特徴であると書いてあった。

こういうものを読む以前から不思議とそのような感情が僕にはあり、その血が紛れもなく流れていることを実感して嬉しく思った。

そんな中、ツイッターで女性天皇女系天皇について書いておられる方がいて、(女性、女系の違いを知っている前提で話を進めます)ふと女系って普通に議論してるけど女系って言葉自体がおかしくね?って思った。

女系って言うことはだよ、母親を遡ればすべて同じ母親になるって事やろ?現在いるどの皇族でもそれは不可能じゃん。これを女系天皇って言うの?女系天皇って不可能なのに議論に含めるの?こんな単純なことに気が付かなくて女系天皇反対って言ってる人も大声で女系天皇って言ってるおかしい状態。

もう一度言うよ。女系天皇って、そもそもそんな言葉自体が男女平等議論以前にありえないって事。

今まで考えてたつもりの僕も気が付かなかった。考え足りてないと反省。
これをきっかけで、もっと本格的に女性天皇について学んでみようと思い、定価50000円もする天皇大鑑を中古で購入した。菊の御門の入ったそれはもう立派な装丁で歴代天皇の肖像画もあり、事績も大変分厚いので読むのに大変時間を要しますが自分の日記記録としてここに書き、ゆっくり学ばせていただこうと思っております。明治を学ぶはこの後に再開します。

という事で始まり。まず皇位継承図から。女性天皇にピンクの色を載せてます。


系図でわかるように女性の天皇が即位されたのは10代。うち2代は「重祚(ちょうそ)」(一度譲位した天皇が再び即位すること)なので、実質8人である。初めての女性天皇は誰でも知っている推古天皇だ。

初回は我が国初の女性天皇である推古天皇の即位部分を学ぶ。


推古天皇の一つ前
第32代は崇峻(すしゅん)天皇。
父親 欽明天皇
母親 蘇我小姉君(おあねのきみ)

蘇我馬子の甥に当たる。
あるとき崇峻天皇のところに猪を献じたものがあった。天皇はそれを指して、「そのうちに自分の嫌いな奴をこの猪を斬るように切ってしまいたい」とおっしゃられたことを聞いた馬子は自分の事と思い、腹臣の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて崇峻天皇を殺させた。

第33代推古天皇。
父親 欽明天皇
母親 蘇我堅塩媛(きたしひめ)

男系(父方を遡ると神武天皇にたどり着く)の女性天皇である。

蘇我馬子の姪。
大変美人で18歳にして異母兄の敏達天皇の皇后になった。
この時代同母の結婚は厳しく禁じられていたが異母兄弟での結婚は普通に行われていた、もしくはあえて近い血縁関係を保とうとする考え方があったのかもしれない。26~29代もまた継体、安閑、宣化、欽明と近い血縁の皇后を迎えている。

崇峻天皇が殺され、皇位が空いたときに群臣がそろって即位を望んだが、幾たびも辞退された。しかし最後には承諾し33代推古天皇になった。実質権力を持って居た蘇我馬子の力が働いたものとみられている。しかし先代を斬らせた馬子があからさまに政治の表に立つわけにはいかずここで登場するのが31代用明天皇の男子、厩戸皇子(聖徳太子)である。その厩戸皇子に摂政をさせた。

今回は女性天皇についてなので厩戸皇子についての事績は省きます。

即位させた理由としては、政治紛争が続いていたので、中立的な女性を立て社会情勢を緩和し、慕われている推古天皇によって国民の結合を深めようとしたのだと推測されている。

現代社会において、女性に対して飯炊き女というと、女性蔑視だなどと非難を受けることもあるだろう。ここで推古天皇にまつわるお話。
推古天皇は諡名(おくりな)を豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)と言い、現代でいう所の飯炊き女である。

意味合いとしては、推古天皇は毎日早朝に起きご飯を炊き、それを神前に供える事を主たる任務としていた。この飛鳥時代にすでに主婦という考えがあり、長らくやってきたことは神事であり、現在の認識に誤解して含まれる誰にでもできるとか雑用などのような意味は含まれていなかった。事実伊勢の斎宮は皇族女性が現在も務められている。

順当にいけば摂政を務めた厩戸皇子は推古天皇崩御後に天皇になるはずでしたが、厩戸皇子が先に薨去され馬子が天皇を助けて政治をとったようである。

それから数年後75歳という当時ではすこぶる長命を全うされ推古天皇はお隠れになった。

第34代舒明(じょめい)天皇。
父親 押坂彦人大兄皇子
母親 糠手姫皇女

父親の押坂彦人大兄皇子のまたその父親は敏達天皇、母親は広姫であるので男系男子という事になる。
先に書いたように推古天皇より先に厩戸皇子が亡くなったので、後継者問題がここでも起こった。

推古天皇の夫であった敏達天皇の子、押坂彦人(おさかのひこひと)大兄皇子の子である田村皇子と厩戸皇子の子の山背大兄王(やましろのおおえのみこ)が候補者であったが、推古天皇が臨終間際この二人を呼び出し、「よく考えて謹んで行動しなさい」と微妙に判断しづらいことをおっしゃったままこの世を去ったので、大臣である蘇我蝦夷(そがのえみし)が中心となって推古天皇の言葉を検討した結果、田村皇子が選ばれ第34代舒明天皇即位となった。

ただこれは山背大兄王にとっては残念なことで、蘇我氏との軋轢になっていくのだがそれはまた次のお話。

初代女性天皇である推古天皇継承についてはこのような流れだった。
結論としては推古天皇は男系の女性天皇であり、後継者においては候補も含め男系の男子のみであった。しかもこの時代何人も異母兄弟で結婚していて血のつながりを特に重要視していたことがわかった。

  

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2020年10月25日

明治を学ぶ33

明治37(1904)年2月4日、御前会議で日露開戦決定。
御前会議後明治天皇は侍従に胸中を告白。
「今期あの戦は朕が志にあらず、しかれども事すでにここに至る。これをいかんともすべからざるなり。事万一蹉跌(さてつ)を生ぜば、朕何をもってか祖宗に謝し、臣民に対するを得ん。」
(戦争になってしまって先祖にも国民にも申し分けない)

開戦時の日露軍事力比較をする。
総兵力 日本100万人。 ロシア207万人。(極東配備は12万人)
軍艦  日本24万6000トン。 ロシア51万トン。(極東配備は19万トン)
火砲  日本636門。 ロシア1万2000門。(極東配備は172門)

開戦時ロシア全体の軍事力は日本の倍以上あったが、ロシアは日本を侮っていた為極東(日本側)には軍備は薄かった。

2月6日、国交断絶の訓令電報。(ロシアとの国交断絶)

2月8日、仁川・旅順の奇襲海戦(当時の国際法では戦争を開始する前に宣戦布告を行うことを義務とする明確な決まりはなかった)。日本の目的は兵員や物資の輸送の為制海権の奪取だった。
ロシア太平洋艦隊軍艦2隻撃破。日本軍2000名上陸に成功。しかし旅順の軍艦撃破まではいかなかった。

2月10日、宣戦布告

ここでも明治天皇の考えがうかがえる。抜粋。
「朕の考えは、文明を平和的に発展させ、諸外国との友好関係を促進することによって、アジアの安定を維持し、また、各国の権利や利益を損なわないようにしながら、末永く日本帝国の将来の安全が保障されるような状況を確立することにある。今、不幸なことにロシアと戦う事になったが、これは決して朕の意志ではない。」

2月18日、3月27日、5月2日と三次にわたって旅順港閉塞作戦(りょじゅんこうへいそくさくせん)を行う。旅順港の出入り口に古い船を沈めてロシア艦隊を湾内に閉じ込めた。しかしいずれも旅順港を十分封鎖するに至らなかった。

5月1日、鴨緑江(おうりょくこう)の渡河作戦成功。韓国と清の国境の河で日本軍4万2000人とロシア軍2万6000人と戦闘態勢に入る。日本軍はわずか1日で230mの架橋を完成。全員が数時間で渡河したことに驚きロシア軍は退却した。日本軍の技術的高さがうかがえる。



5月26日、金州・南山攻略戦。世界戦史上初の塹壕戦(ざんごうせん)が行われた。塹壕とは敵の銃砲撃から身を守るために陣地の周りに掘る溝のこと。15時間の決戦で日本兵3万6000のうち4200名が死傷したがロシアの旅順への補給路を遮断することに成功。

開戦時日本は予想される戦費15億円のうち80%が不足していた。外国から借金する必要があった。同盟国イギリスは南アフリカでボーア戦争を行っていたため頼ることが出来なかった。この資金調達を任されたのが日本銀行副総裁の高橋是清だった。しかし欧米市場で探すも当面の目標1億円も日本に勝利の見込みがないと貸してくれるところはなかった。そんな中手を差し伸べたのはユダヤ人支配人の当時銀行だった。この頃からロシアではユダヤ人の虐待は行われておりそれに対する日本への応援だった。

鴨緑江の勝利など日本優勢が伝わり公債の人気が上昇。以後ドイツ、フランスでも成功する。最終的に8億円戦費の半分を調達することができた。

もともとこの戦争を日本はどちらかの国がボロボロになるまでやるつもりは無かった。日本優位な時に講和条約を結ぼうと考えていた為アメリカに仲介に入ってもらうように根回しを同時に行っていた。

開戦直後3月、伊藤博文の密使として金子堅太郎が渡米。
1年にわたり全米で講演、アメリカに日本の立場を伝えた。
「日本は領土的野心のために戦っているのではない。ペリー提督がもたらした門戸開放のために戦っている。将来は世界みな兄弟を実現させたいと日本人は思っている」
日本の正当性を主張。理念や正義感を尊ぶアメリカ国民より喝さいを浴びる。
あれ?これって今でいうロビー活動ってやつやん。今日本はこれが下手やって言われてるけどこの時はうまい事やってたんやな。伊藤博文はほんとすげぇな。
結果、金子のハーバード大の同級生であったセオドアルーズベルト大統領に日露講和仲介を内諾してもらった。
戦費の調達もできた、講和の仲介役も準備が整った。それでは再度ロシア太平洋艦隊の拠点旅順攻略を!というところで次回。  

Posted by hirok○ at 20:08Comments(0)明治~

2020年10月23日

明治を学ぶ32

明治33(1900)年5月10日、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇・20歳)ご成婚。皇后は公家九条家から15歳の時だった。

なぜ結婚を急いだのかと言うと、次の世継を早く確保する為である。

皇太子(大正天皇)が病弱だったのと、家系図を見ていただいてもわかると思いますが、明治天皇は皇后との間に子供がいなかったが、5人の側室の間に男子は5名生まれました。しかし後の大正天皇以外は若くしてお亡くなりになっている。結果世継がお一人しか生存していなかったのである。

明治33年5月19日、山縣総理により軍部大臣現役武官制が成立。
内容は名前のまま、軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)の就任資格を現役の大将・中将に限定する制度である。引退した軍人や軍人でない文官が軍大臣になれない制度。明治31年の隈板内閣時(明治を学ぶ30)に軍大臣が軍人でない人物を指名しかねない事態が起こった。この時は明治天皇の勅命により桂と西郷が大臣になった。このような危機がまた起こりらないよう山縣はこの法案を急ぎで作った。ただこの制度が今後の日本の分かれ目になっていく。
本当は職業軍人でない文民が軍隊に対して最高の指揮権を持つことでシビリアンコントロール(文民統制)ができるのにも関わらずこの法案が出来たために軍が独走することとなった。つまり予算審議の中で一番重要な軍事費を国会では審議するのだが、軍人から軍大臣が出るので国会よりも軍が上位になってしまった。

明治35年1月、日清戦争で冬季寒冷地での苦戦を強いられた経験を踏まえ、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦に向けた準備をしていた。青森歩兵第五連隊が青森市街から八甲田山に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件が起こる。八甲田雪中行軍事件という。訓練への参加者210名中199名が死亡。日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。

明治35年1月30日、日英同盟締結。
イギリスの清国における権益と日本の清国・大韓帝国における権益を相互に承認。さらにどちらかが戦争になった時相手が1か国なら中立を、相手が2か国以上なら参戦など軍事同盟も結んだ。

イギリスはロシアの南下政策の盾に日本を使いたかった。このときの有名な風刺画。

火中の栗という題名ですが、イギリスがロシアが狙っている栗(朝鮮)を日本にとって来いと指図していて、アメリカは気にしてない素振りでいるようにみえるがすぐ後ろにいるという風刺画。夏目漱石はこのとき「世界を動かしているイギリスがなぜ我々のような小さな国を紳士として扱い条約を結ぶ対象にしているか、そこには大きな意味の計算がある。それを我々の国はわからないで受け入れているのだろう。」と言ったそうだ。

正直これでもイギリスが日本を選んでくれてこのときの日本人はめっちゃ喜んだだろうな。個人的にはこのままずっと頭のいいイギリスと組んでて欲しかったわ。

当時の首脳陣で言うと、総理の桂と元老の山縣は日英同盟に賛成。元老の伊藤と井上馨はロシアと条約を結んだ方がいいと考えていた。伊藤はロシアの満州支配を認める代わりに日本の朝鮮支配を認めてもらうという満韓交換論を提唱していたが締結に至らず日英同盟を結ぶこととなった。

明治35年4月、不法に駐留していた満州のロシア軍に対し日米英は圧力をかけ満州からの撤退を3回に分けて約束させる。ロシアは1回目は撤退、2回目は約束を破り撤退せず、3回目以降あいまいな答えに終始、答えを遅らせたりする。このときのロシア軍満州総司令官クロパトキンの言葉が残っている。「日本と戦争?軍事力を持って散歩するようなものだよ」敵にすらならないと思っていた。

ね?今の北方領土交渉もはぐらかしてばっかで一緒やろ?まじロシアはクソなんすわ。この時も今も日本を馬鹿にしてるんだよね。

明治36年5月、満州のロシア軍が国境を越え大韓帝国内へ軍地基地を建設。これが国内で報道されると庶民たちの間で開戦論が強くなっていく。日本人として怒るのは自然なことだと思う。

明治36年6月、東京帝大法学部教授・戸水寛人ら7人が桂総理へ日露開戦の意見書を提出。七博士意見書(しちはくしいけんしょ)という。
桂内閣の外交を軟弱であると糾弾。ロシアの満州からの完全撤退を唱え対ロシア武力強行路線の選択を迫った。
新聞各紙が掲載。世論は開戦論が主流になっていたので大反響となる。

明治37年2月3日、山東省駐在の日本領時から「旅順のロシア艦隊は修理中の1隻以外すべて出港、行方は不明」との一報。日本に戦争を仕掛けてくるのではないか?と懸念されたが実際ロシアがこのとき本当に日本を攻めようとしてたかどうかは現在もわからず裏がとれていない。これがきっかけになってしまったということはそれだけ緊迫していた状況を表している。
2月4日、緊急御前会議で開戦を決定。ついに始まってしまう。

というところで次回。



  

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2020年10月22日

明治を学ぶ31

明治32(1899)年7月17日、日英通商航海条約実施
締結は明治27年(明治を学ぶ26)。27~28年にかけて同内容の条約を14カ国とも調印。
再三書いてきた徳川幕府が結ばされた治外法権の不平等条約、安政の五か国条約(1858)より41年の月日が経ってやっと撤廃できた。日本の悲願叶う。これをやる為に明治維新を起こしたと言っても過言ではなかった。関税自主権は一部回復。

7月17日、治外法権撤廃その日に横浜で米人脱走兵が日本人2名と米人を1名を殺害するミルラー事件が起こる。
これを日本で裁判し、日本の法律に基づく在留外国人の初の死刑判決となった。

6月には初の国産映画(歌舞伎)上映、8月恵比寿にビアホールが開業、10月には浅草に水族館が出来る。
日本は海外の新しい文化や技術ををすぐ取り入れて自分たちのものにし急成長していた。またこれを誇らしげに感じていた。

明治33年1月号の中央公論に当時考えられていたことが記事になっているので抜粋。
「日本の30年間の進歩は西洋の300年間の文化を超越」「今や列国に並ぶ一強国」「単に西洋諸国に教えをこう時代は去った」
過信とも思える記事が並ぶ。これぐらい日本は目覚ましい発展をとげたと自負があったのだろう。

明治33年3月、治安警察法公布。政治的集会・結社・言論活動を取り締まる法律。日清戦争後産業経済の急激な発展に伴って台頭してきた労働運動(ストライキや団体交渉)を対処する為。

様々な労働組合が出来ていたがこの法案により衰退。
財産などを社会全体の所有とし平等を目指す考え「社会主義思想」が広がり始める。

明治34年5月、日本初の社会主義政党「社会民主党」が結成される。
イギリスでの産業革命をきっかけに資本主義(マルクス)が発達するも、格差などの弊害がでたことから社会主義思想も発達、日本にもその流れがやってくる。
「人類平等」「軍備撤廃」「階級制度全廃」「土地・資本の公有」「交通機関の公有」「公平な財産の分配」「参政権の平等」「教育の公費負担」の理想を掲げた。

しかし治安警察府により結成2日後に解散。

そして国外をまた見てみよう。

日清戦争の多額の賠償金を払うため清は各国と借金をして代わりに租借地を渡すことになったのはすでに書いた(明治を学ぶ30)。
明治33年、植民地化に対抗し清国内宗教団体「義和団」が反乱を起こす。

貧しい農民による排外運動、扶清滅洋(清を助け西洋を滅ぼす)を掲げ外国人やキリスト教徒境界を襲撃。
山東省に始まった乱は北京にまで進出、日本や欧米各国の公使館地域を包囲、公使館員など4000人が籠城することとなる。

6月21日、清の実権を握っていた西太后は義和団を支持、欧米列強に宣戦布告をした。
これに対し列強は8か国連合軍を結成し派兵。

7月11日、連合軍天津占領。
8月14日、北京総攻撃。兵士約3万から4万人。そのうち日本軍が40%を占めた。
8月15日、西太后は北京を脱出し西安へ。義和団制圧。
日本は極東の憲兵として実力を評価される。列国中戦利品が最も多かった。

明治34年9月、北京議定書を締結。
賠償金4億5000万両。当時の清国国家予算の4年半分。
北京など一部都市に各国軍の駐留など。

しかし議定書にない都市(満州)にロシアは鉄道の防衛を口実に不法に軍を置き占領する。
またしても利益線を守りたい日本と摩擦を生むこととなる。





  

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2020年10月20日

明治を学ぶ30

明治29(1896)年6月15日、明治三陸地震津波が起きる。

震源地三陸沖200km。地震の震度は2~3で大きい地震と感じなかった為津波非難が遅れた。震源のマグニチュードは8.2~8.5(後の関東大震災より大きい)だった。

死者約2万2千人。被害家屋1万戸以上。

このときの災害時救護活動を行ったのが日本赤十字社だった。
明治10年、西南戦争時熊本に博愛者設立。
明治20年、日本赤十字社に改称。

日清戦争後の産業革命。
明治29年、豊田佐吉が自動織機を開発。(豊田自動車の元の元)
生産性が飛躍的に向上。

明治30年、鉄鋼の国産化を目指し官営八幡製鉄所が建設開始される。34年操業。

下関条約の賠償金を金で受け取る。
明治30年10月、当時の欧米のスタンダードだった金本位制に移行。
軍艦・兵器・鉄鋼・機械・綿花を輸入。
生糸・絹製品・綿製品・石炭を輸出。
金本位制導入で貿易が飛躍的に拡大した。

朝鮮に話は戻る。
明治30年10月12日、ロシア公使館に籠る高宗に国民が反発していたので、高宗は宮殿に戻り大韓帝国に改称、独立宣言を出した。

高宗は皇帝に即位。清と同格の皇帝を名乗ることで外国に清と対等だという事を示す目的だった。

明治31年3月27日、ロシアはシベリア鉄道を満州経由でウラジオストクまで通し、大連、旅順を清より租借して念願の不凍港を手に入れた。ロシアの南下政策は朝鮮のすぐ隣まで来ていた。


ロシアは露清密約を拡大解釈し満州鉄道周辺に都市・鉱山を開発。ロシアの行政権を適用し治外法権となった。
日本からの抗議を予期したロシアは4月25日、西・ローゼン協定を日本と結び朝鮮半島内での日本の経済的優位を認めた。実質日本の朝鮮半島での影響力を確保しロシアの満州(遼東半島)進出を黙認することとなった。

ここの駆け引きは難しいけど朝鮮抑えて、清との間にロシア挟むのも一つの手だなって思ったんだろうな。日露両方WINWINだろう。ただ歴史はこのままでは終わらない。

ここで清の租借地を整理しておく。
日清戦争の多額の賠償金を払うため清はロシア、ドイツ、イギリス、フランスからお金を借りることとなった。その代りに租借地を要求され契約をする。
租借地とは国家間の合意により貸与される領土。租借国が統治権を行使することが多い。
ロシア(大連と旅順)、イギリス(香港と威海衛)、ドイツ(膠州湾・こうしゅうわん)、フランス(広州湾)となった。

明治31年2月6日、日本に初めて自動車が走る。フランスによるガソリン車だった。馬無き馬車に日本人は衝撃をうけた。しかし試走を行うも出資者は現れずフランスへ返却。6年後(明治37年)国産自動車第一号(山羽敷蒸気自動車・岡山)が出来る。初めて見たものを6年で開発する日本の技術力はこの時点ですでに備わっていた。

明治31年3月2日、維新後30年会っていなかった徳川慶喜が明治天皇と謁見する。
幕末幕臣だった勝海舟は徳川慶喜と西郷隆盛の名誉回復が苦心30年最後の仕事だと考えていて手筈を整えた。

慶喜は徳川家葵の紋の羽織姿で皇居へ。人払いをして天皇・皇后3人だけで食事をした。
謁見後明治天皇は伊藤博文に『やっと罪滅ぼしができた。お互い仕方が無かったと語り合った』と言った。

明治31年5月30日、日清戦争後の財政難を乗り切る為、第3次伊藤内閣は地租増税案を国会に出す。
これに大隈重信と板垣退助が反発。仲が悪かった二人が反増税と反藩閥政治という点で野党が合意し憲政党を設立。
選挙で勝利し初の政党内閣「隈板内閣(わいはんないかく)」が誕生する。各大臣は憲政党から選ばれるが、陸軍海軍大臣は西郷(薩摩)と桂(長州)留任となる。

伊藤は国民の多数の投票により国の決定がされるが、このときの日本臣民はまだ政治を考える能力が低くはたして本当に政党政治が正しい方向に進むのか疑問に思っていた。また明治天皇もこの内閣の政治手腕に懐疑的であった。

明治31年6月30日、隈板内閣発足同時に伊藤博文総理を辞職。これでまたゆっくり世界情勢を眺めることが出来ると考えたのでしょう。
8月19日、伊藤アジア漫遊へ出かける。大韓帝国と清へ。
8月25日、京城(ソウル)で高宗と会談。思いの外歓待をうけた。
9月15日、北京で李鴻章と会談。
9月20日、親日派・光緒帝(こうしょてい)らと会談。日本に習い清も近代化をしたかった。
しかし21日、西太合(光緒帝の叔母)が親日を激昂。改革に反対し光緒帝を幽閉した。
これをきっかけに親日派の清の学生や若手官僚は急激に近代化した明治維新を学ぶため日本への留学が増える。

明治31年11月8日、隈板内閣総辞職。
そのきかっけとなった事件。
10月31日、文部大臣尾崎行雄の共和演説事件だった。「日本が共和制ならば三井・三菱が大統領になるだろう」と言った。これは権力と政商(政府の商売)癒着を批判した発言だったが、多方面で批判が起きる。
皇室廃止が前提の発言は「不敬」と宮内省が批判、政商と繋がる新聞が批判し、党内の大臣ポスト争いに発展。憲政党内部分裂、ついに隈板内閣わずか4か月で総辞職することとなる。

実際の国柄を見て政治はしないとこうなるんだね。左の民権派が実際政権とったらこうなるのに平成でもやっちゃいましたよね私たち。明治勉強してなかったから同じ間違い繰り返してたね。でもここで学べて良かった。

第2次山縣内閣成立。政党勢力の抑え込みを行った。政党員の官僚登用制度を改正。

明治31年12月18日、憲法発布時に勝の働きにより西郷の名誉回復は行われていた西郷隆盛の像が東京上野に完成。高村光雲作。本来薩摩出身者たちは皇居の近いところに作りたかったが許されなかった。上野になったのは上野戦争(戊辰戦争内)で薩摩藩兵を西郷が指揮したことに由来する。
復権に尽力した勝海舟は除幕式には病欠、翌月明治32年1月75歳で死去。


  

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2020年10月17日

明治を学ぶ29

明治28(1895)年4月17日、日清戦争の講和条約・下関条約で日本の領土になった台湾。この条約によって台湾在住者は日本人となることが決定した。

しかし台湾在住者に全く知らされずに締結されたので、後日知った現地では大反対運動が起こった。

5月23日、反対する住民や清国官僚らが台湾民主国独立宣言を発表。
24日、各国語に翻訳し駐台湾の各国領事館に通知。
25日、独立式典を実施し台湾民主国の成立を宣言した。
29日、日本軍台湾上陸すると、民主国軍は総崩れとなった。
6月3日、基隆を占拠。これにより新政府は空中分解。
4日、第一代台湾民主国総統は廈門(あもい・清国国内)に逃亡。
7日、台北占領。
17日、日本は台湾総督府設置。初代総督樺山資紀(すけのり)。
6月下旬、第二代台湾民主国総統選任。これから3か月各地で日本軍と台湾民主国の戦いは続く。
日清戦争を勝ち抜いた日本軍と、数でも劣る台湾民主国軍では実力が違っていた。10月下旬には第二代台湾民主国総統も清国へ逃亡し、日本軍は全台湾を平定した。この日本軍と台湾民主国の戦いを台湾平定と呼ぶ。
11月18日、全島平定宣言(日本軍戦死164人・病死4642人)
当時の台湾(漢民族約200~250万人・先住民族約20~30万人)

平定後も各地で反日勢力によるゲリラ戦が頻発。ヨーロッパへ売却する案まで出るくらい初期は安定しなかった為、台湾総督も28年6月~29年6月・樺山、6月~10月・桂太郎、10月~31年2月・乃木希典と入れ替わりが激しかった。

明治31年2月、四代総督・児玉源太郎、民政長官・後藤新平体制。抵抗勢力は徹底的に鎮圧し台湾に日本の予算を投資して近代化を進めるアメとムチ政策を行う。

インフラ整備(上下水道・鉄道。港湾整備・電気通信の整備)
産業振興(農業の近代化・製糖産業振興)
金融改革(台湾銀行設立・通貨の統一)
教育制度改革(小学校設置・日本語による教育)
治安の維持(アヘン撲滅・警察機構整備)
台湾は近代化をしていき生活が豊かになるにつれ日本への抵抗勢力は無くなっていく。これが成功したため現在でも台湾には親日家が多くいるのである。

そして今度は日清戦争後の朝鮮半島に移ります。
明治28年7月6日、朝鮮国内では勝者である日本側の推す大院君派の勢力が強くなり、後ろ盾となっていた清が大きな打撃を受けた高宗の妻・閔妃(みんぴ)の勢力は衰退していく。しかし三国干渉により日本の勢力が弱まったとみるや閔妃は親露政策を推し進め、ロシア軍の助力を得て権力奪還に成功し親ロシア政権を樹立する。

10月8日、親ロシア政権樹立を見ていた日本は閔妃の存在を疎ましく思い、日本公使・三浦梧楼(ごろう)が指揮し宮殿に乱入、閔妃を殺害した。乙未事変(いつびじへん)。後に三浦梧楼は日本で裁判にかけられたが証拠不十分で釈放された。

明治29年2月11日、日本の策略だと察知した高宗はロシア公使館へ逃げ込み、李氏朝鮮の政務を1年8か月ロシア公使館から執り行った。これを「露館播遷(ろかんはせん)」という。高宗がロシア公使館で政務を執り行った結果、ロシアは高宗を守る代わりに朝鮮国内の利権を獲得した。これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為で、せっかく日本が千年ぶりに清からの独立させた朝鮮だったが、僅か2年弱で事実上ロシアの属国となった。

明治29年5月、ロシア皇帝ニコライ2世の載冠式に各国が呼ばれ日本は山縣有朋が参列。
この機会に山縣は日本の利益線を守る為ロシア外相ロバノフと交渉。朝鮮半島内での両国の勢力範囲を確定させようとしたが合意に至らなかった。その裏でロシアは清と交渉していたためである。
6月3日、ロシアと清は露清密約を締結した。
下関条約の賠償金を借款供与する代わりに満州の鉄道敷設を認める。旅順・大連を他国に割譲しない。そして朝鮮・清・ロシアが日本に侵略されたときにはお互いに軍事援助を行う
6月9日、日露間も協定を結ぶが、朝鮮内に出兵するときにはお互い事前に通告するという形式的な中身のない協定に終わった。ロシアは朝鮮を少しも手放さないでしかも満州の利権まで手に入れることになった

日清戦争で勝ったのだから賠償金をもらうのは当たり前ででもそれが多額だったためロシア介入を許してしまったという悲劇。閔妃がいなかったら朝鮮半島も利権を奪われる事なかったなぁとか親露政権樹立前に閔妃やっちゃってたら変わってたかもしれないなとか思うね。ロシアの存在や閔妃がいたから台湾のようにうまくは行かなかったことがこの流れでわかりました。というところで次回。










  

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2020年10月13日

明治を学ぶ28

明治28(1895)年4月17日、日清戦争の講和条約・下関条約を結んだ後から続き。

大勝利をおさめた日本は清国に国家予算4倍の莫大な賠償金3億1000万円を請求する。
この賠償金を清国は払えるわけがなくヨーロッパ各国から借金することとなる。

4月23日に露仏独三国の外交要求(三国干渉)が出された。

当時のロシアは南下政策をとっており、ヨーロッパではフランスと軍事同盟を結び黒海を通り地中海へ勢力を広めようとバルカン半島を目指していた。しかし近隣ドイツは対抗策としてオーストリア・ハンガリー・イタリアと軍事同盟を締結。ロシアとドイツは対立していた。
同時進行でロシアは極東アジアでの南下政策も行っていた。日本の勢力拡大を抑えるためロシアの蔵相ウィッテがドイツとフランスに声をかけた。ドイツはロシアの目が地中海に向くよりもアジアに向いているほうが良かった為三国干渉を行う。

5月、初の対外戦争勝利に国内がわき熱狂、東京日比谷に高さ30m長さ110mの巨大な凱旋門を建設。

上野では祝勝会が開かれ、明治時代の風刺「オッペケペー節」で有名な川上音二郎が日清戦争を題材とした芝居が上演され後の大正天皇も観劇される。

敵に撃たれた陸軍兵・木口小平(きぐちこへい)がラッパを離さず戦死した逸話が広まる。軍国美談が流行。


功績をあげた軍人が授爵(爵位を受ける)する。戦争で功績をあげれば軍人が華族になれる。これが軍人の最大の名誉になっていく。

三国干渉の対応について総理・伊藤博文が「イギリス・アメリカに仲介を依頼しては?」と言うと外相・陸奥宗光は「味方についてくれるかわからない」と言い、答えを出さないまま足踏みしている間にイギリス・アメリカは中立を表明。

5月4日、賠償金さらに4600万円上乗せし、遼東半島返還した。理由には当時の日本とロシアの兵力差が圧倒的にあった為であった。日本兵20万人に対しロシア兵200万人だった。

国内では納得いかない人が続出、戦勝ムードが一気に下火に。
そこで哲学者・三宅雪嶺(みやけせつれい)の論説「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を発表したところ国民に流行。
「勝って驕(おご)らざるのみならず、胆を嘗め薪に坐して大いに実力を培養するの必要あることは国民一般の感ずるところ」(目的を達成するために苦労を耐え忍ぶこと。 )

世論がロシアを敵視していくなか政府は日清戦争の賠償金の84%を使い軍事力の増強、軍拡計画を進める。
陸軍大臣・山縣は師団数を6から12へ倍に。海軍大臣・西郷従道は戦艦6隻巡洋艦6隻を英・独・仏に発注。(この時点では日本で独自に軍艦を作る技術が無かった。)

そして台湾統治についてはまた次回。





  

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2020年10月10日

明治を学ぶ27

明治27(1894)年7月25日、豊島(ほうとう)沖海戦。
東郷平八郎乗船含む日本艦隊(3隻)と清国艦隊(2隻)が仁川近くの豊島沖で衝突、撃破。
これにより清の輸送を断ち日本は勢いづいた。
しかしこのとき、イギリス船籍の貨物船と遭遇。東郷平八郎が立ち入り検査をしたところ清国の武器、1100人の清国兵が載っていた為攻撃撃沈。これはイギリスが国としてやったのかイギリス商船が商売として請け負ったのかははっきりわかっておらず、イギリスとは問題を起こしたくない首脳陣は頭を抱えた。イギリスとの関係悪化すると思われたが、日清間ではすでに戦争が始まっていたので戦闘海域にいた商船側が悪かったという認識が広まり合法で非難されることなく鎮静化した。
29日、成歓(せいかん)の戦い(陸上戦)。
朝鮮王宮占拠後の処理。清国の戦力が増す前に襲撃して勝ちを得ることにより優位に立った。
福沢諭吉はこの日の社説に「日清戦争は文野(ぶんや・文明と野蛮)の戦争なり」と寄稿し戦争熱を煽った。

8月1日、日清両国が宣戦布告

3行目「清国に対して戦を宣す」。日本国初対外戦争。
明治天皇に関してこの時点で整理する。
立場は「大元帥」帝国憲法により「陸海軍を統帥す」となっている為宣戦布告文も出すが、「これは私の戦争ではない。大臣の戦争だ」とおっしゃった記録が残っていて戦争に消極的だった。

清国の宣戦布告文。
これによると清国の言い分は「朝鮮は清国の属国であるのにも関わらず、倭人(日本人)理由なくして漢城(ソウル)に突入して朝鮮独立を手助けしている、内政干渉を認めない。」あれ?敵国の言ってることには日本って朝鮮独立させようとしてるじゃん。植民地支配からの脱却救世主やんね。日本が言ってるんじゃないよ。敵国がだよ(2回目)。

9月8日 山縣有朋(枢密院議長)は最前線での指揮する為、陸軍第一軍司令官として朝鮮へ。大山巌(陸軍大臣)は陸軍第二軍司令官として出征。樺山資紀は海軍軍司令部長として出征。参謀総長有栖川宮熾仁親王出征。
現地に到着した山縣は第一軍将校に檄文(げきぶん)で激励する。
「決して敵の捕虜になるな。捕虜になりそうなときは潔く死を遂げ、日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うすべし」この言葉が後の悲劇、戦陣訓に繋がっていく。ただこのときの山縣は文字通り国家に命を捧げろと言う意味では言ってはおらず、当時出征して帰ってきた兵士は後にそういう心意気で戦えととらえていたと言い、むしろ逆に言われなくても祖国を守るために故郷や家族を守る為に命を懸けて戦う覚悟が出来ていたのだそうだ。国内世論が戦争に賛成していた。

9月13日、鉄道開通している最西の広島へ大本営(明治を学ぶ26)が移る。広島宇品港は大型の軍港で兵士や物資を送り出す拠点になった。
9月15日、明治天皇広島入り。
9月16日、平壌(ぴょんやん)占拠。陸軍第一軍(山縣)北上を続ける。
9月17日、黄海海戦。日本連合艦隊12隻、清国北洋艦隊14隻激突。日本側沈没艦なしに対し清国側5隻沈没。勝利し黄海の制海権を手に入れる。
10月18日~22日、広島で第7回帝国議会。臨時軍事予算承認。
戦争によって国が一つに纏まった。
11月21日、旅順(りょじゅん)を占拠。
明治28年2月5日、威海衛(いかいえい)の戦い。日本軍勝利。
2月11日、降伏を拒否していた清国司令長官・丁汝昌(てい じょしょう)服毒自殺。日本軍はさらなる進軍を継続、近代化された日本軍が中国本土へ自由に上陸出来るようになった事で、清国の首都北京と天津一帯は丸裸同然となり、ここで清国側は戦意を失った。

3月20日から下関の春帆楼において日清講和会議が始まる。
日本・総理伊藤博文、外務大臣陸奥宗光。清・全権大使李鴻章。
この戦争には約8か月、国家予算8000万円の時代に約2億円(2.5倍)の戦費がかかっていた。
動員された兵士約24万人。
死者数約1万3000人。戦死はこのうち1割(1417人)、残り9割は病死(かっけ、凍死)だった。

4月17日、日清講和条約締結。
内容(大勝利)
・清は朝鮮の独立を認める。
台湾・澎湖(ほうこ)諸島・遼東(りょうとう)半島の割譲。
・賠償金3億1000万円。(国家予算4倍)
・揚子江(現・長江)沿岸都市開市開港。

山縣有朋
「今回の戦争では十分な結果を得た。将来アジアはますます緊迫した情勢に推移するのは避けられないゆえ、この先10年間において一大戦争を覚悟しなければならない。」(欧州大国が圧力かけてくるのがわかっていた。)
明治天皇
「戦争後講和条約結ばれた後は、友好関係を戻して周辺の国々と仲良くしていきたい。みなさんは私のこの想いを理解してほしい。」

23日に露仏独三国の外交要求(三国干渉)が出された事で、日本は止む無く遼東半島を手放した

5月下旬に日本軍は領有権を得た台湾に上陸し、11月下旬までに全土の平定を終えた後に行政機構を敷いた。

明治29年4月1日に大本営が解散。戦争に勝利した日本はアジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、取り分けイギリスとの協調関係を築けるようになった。

  

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2020年10月02日

明治を学ぶ26

明治27(1894)年3月29日、朝鮮甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)が起こる。

このときの朝鮮閔氏(びんし)政権は農民に重税を課し、官僚は賄賂と不正収奪が横行していた。加えて明治9年の日朝修好条規(明治を学ぶ13)をはじめとした諸外国との不平等条約による政権の開国政策に不満を持っていた農民が立ち上がり、全国で反政府一揆が起こった。各地で政府軍を破り5月末には全州(地名)を占領。
これに驚いた閔氏政権は、首都(漢城・ソウル)進攻を恐れ5月30日に清国に援軍を要請。

ここで明治18年の天津条約明治を学ぶ18)を思い出していただきたい。日清両国、お互い朝鮮半島に出兵するときは事前通告を義務付けてあったはずだったが清国は日本に通告前に出兵を行った。

これを理由に日本は6月2日に朝鮮出兵を決定。
清国は6月4日に巡洋艦2隻を仁川(じんせん)に派遣到着
日本は4日に清国に対し即時撤兵を要求したが拒否される。

日清互いに朝鮮出兵を通告。

日本は6月6日に出兵を発動し清国軍の朝鮮撤兵を再度要求、拒否。
8日に清国軍が2000の兵を牙山(かざん)に上陸。
12日に日本軍が8000の兵を在留邦人保護を名目に軍艦「八重山」で仁川に上陸。

第一回帝国議会の山縣首相の言葉にあったように(明治を学ぶ24)日本が独立を守る為利益線として朝鮮を勢力下に置いておくことがとても大事だったのだ。その均衡が崩れそうになる。

日清両国が戦争に発展しそうになったため、慌てた閔氏政権は、農民の提案を基に全州和約を作成し和睦。

日清両国に同時撤退を要求するが拒否。日清のにらみ合いが続く。

明治27年6月、この頃日本国内では青森から広島まで鉄道が開通した。鉄道開通を急いだ理由は物流を加速化して経済を発展させることが主ではなく、兵器や全国で徴兵した兵隊の移動が重要目的だった。完全に清との戦争を想定して動いているのがわかる。そして広島には重要な軍事拠点・宇品港があった。

6月5日、軍の参謀本部に「大本営」を開設。戦争遂行のための作戦を考え命令を出す明治天皇の元に設置された最高統帥機関だった。

大本営主要人物。
参謀総長・有栖川熾仁親王、海軍大臣・西郷従道、陸軍大臣・大山巌、総理・伊藤博文。
もちろん軍事が主題ではあるが、総理の伊藤が入ることにより軍事だけではなく予算のバランスをとることが大事な政治的役目だった。

7月16日、長年交渉し続けていた日本悲願であった初の不平等条約の改正が叶う。
外務大臣・陸奥宗光とイギリス駐在公使・青木周蔵が「日英通商航海条約」を締結。

内治雑居(外国人の住居や旅行など)を認める代わりに治外法権を撤廃し、関税自主権の一部改正を調印した。

頑なに拒んできたイギリスがなぜ譲歩したかというと、この時期のアジア情勢図を見ていただきたい。

イギリスはアジア進出で他のヨーロッパとは組めない。日本の力を認めたうえで日本を味方にする狙いがあった。
逆に日本はイギリスと条約を結んだことで強い後ろ盾が期待できた。

日本軍準備は整った。

7月23日、日本軍混成第九旅団が漢城に向かい、朝鮮王宮を攻撃し占領。
国王・高宗を手中にし失脚させ、高宗の父・大院君を再び国王へ担ぎだして新政権を樹立させた。そして新政権に清軍掃討を日本に依頼させた。

高宗から依頼された清国、大院君より依頼された日本。ここに正式な名目の対立構図が出来た。

そして25日に豊島(ほうとう)沖海戦、29日に成歓の戦いが行われ交戦状態となる。
31日に清国政府が駐北京日本公使小村寿太郎に国交断絶を通告。
8月1日に日清両国が宣戦布告をし、日清戦争が勃発した。


という流れなんだけど、これさ日本と清が朝鮮に関わってるからこの戦争になったけど、それが無かったら朝鮮国内の戦争だけだった訳で全く同じこと日本であったよね?そう、甲午農民戦争って日本の明治維新(戊辰戦争)やんか。日本がたまたま島国で周りを海に囲まれてたから侵略されにくかったし、武力に特化した武士がいたから独立を守れた。ここの歴史を振り返るとほんとにそれがはっきりわかる。しかもさ、戊辰戦争時薩長に入れ知恵してたイギリスは朝鮮のときもちょっかい出して来てるやん。先見の明があるって言うか、ずるがしこいっていうかイギリスさん頭良すぎるわ。素直に凄いことは認めよう。
朝鮮が日本の様に島国だったら、朝鮮にもっと軍事力があったら、清国の属国になってなければ、朝鮮はここで近代化できていたでしょう。残念なことに歴史はそうではなかった。かわいそうではある。逆に日本は戊辰戦争の時外国攻めてこないでまじ良かったね。それ考えると恐ろしい。
  

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2020年09月29日

明治を学ぶ25

明治24(1891)年5月11日、大津事件
大国ロシアの皇太子のちのロシア皇帝ニコライ2世)が来日するとなり、不平等条約改正もしたい日本は国賓として皇族が出迎え、祝砲を上げ、特別車両、街道整備や飾りなど並外れた歓迎をする。
そういう状況の中、ロシア皇太子は滋賀県庁を出た直後に護衛巡査津田三蔵に頭を切り付けられ、重傷を負いました。通常なら戦争に発展する。皇太子は滋賀県庁で応急手当を受けたのち、京都で治療を受けることとなった。日本は、国際問題を恐れ、ただちに痛惜の念を表す勅語(天皇陛下の言葉)を発したほか、事件発生の翌日には明治天皇自ら京都で皇太子に面会するなどして、ロシアの対日感情が悪化しないよう配慮した。結果ロシアからの報復や賠償要求がなかった。

山縣辞職後の総理は大蔵大臣だった松方正義(薩摩)が4代総理を引き継いだ。
事件後の津田三蔵の処分について内閣と大審院(現在の最高裁判所)が対立。
内閣は「皇室に対する罪」を適用し「極刑」を望む。しかし5月27日に行われた裁判での判決は皇室に対する罪は不当(日本の皇室に適応する罪で拡大解釈になる)と反対し、一般謀殺未遂罪を適用。「無期懲役」の判決が下った。

行政の干渉を受けながらも司法の独立を守り、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。

日本政府内では外務大臣(青木周蔵)と内務大臣(西郷従道)が責任を負って辞職し、司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任した。 その結果、元勲級(維新功績)の閣僚が1人もいなくなり、薩長出身者が全閣僚の半数を割るなど、内閣はいつ倒れてもおかしくない状況になった。

全焼した国会議事堂(第一次仮議事堂)ですが新しく第二次仮議事堂としてが4月28日に着工。昼夜兼行の作業で第一次仮議事堂の跡地に再建され、同年10月30日に竣工した。

明治24年11月26日、第二回帝国議会開会。
この時の議席整理しておきます。
定数300人に対し
吏党(与党)、大成会52人、無所属51人、合計103議席
民党(野党)、自由党(板垣)92人、改進党(大隈)44人、自由倶楽部25人、巴倶楽部17人、合計178議席。
またしても与党が少ないねじれ国会。

民党が前内閣が約束した「政費(軍事費)節減」の公約を果たさずに海軍予算の拡張を行おうとする政府を批判した。これに激怒した海軍大臣樺山資紀がいわゆる「蛮勇演説」を行って衆議院は空転。

蛮勇演説「あなたたちは薩長政府がどうのと反発しているが、日本が今ここまで立派な国になれたのは誰のおかげなのだ」

松方総理は12月25日に初めての衆議院解散を決断した。

明治25年2月15日、第二回衆議院議員選挙

選挙権は直接国税15円以上(現在価値60~70万円)納めた25歳以上の男子。
有権者は約43万5千人(全人口の1.1%)

どうしても過半数を取りたかった政府側は内務大臣、品川弥二郎(長州)と白根専一同次官が中心となって大規模な選挙干渉(各都道府県知事に連絡し警察が民党候補者をの選挙活動を暴力により妨害)を行った。民党関係者を中心に死者25名負傷者388名を出した。

選挙結果は吏党137議席、民党132議席。その他31議席。与党は過半数をまたしても取れなかった。
松方は同年5月の第3回帝国議会でこの選挙干渉の責任を追及され、閉会後に内閣総辞職した。

明治25年8月8日、第二次伊藤博文内閣発足。
あれだけ拒んでいた伊藤が再度総理になったという事はまたいろいろと危機的状況が続いているという事でしょう。

明治25年2月11日、陸軍少佐福島安正がシベリア単騎横断(馬による)ドイツ、ベルリンより出発。
26年6月12日ロシア、ウラジオストク到着。総日数488日、全工程約14000キロ。
目的は表向き冒険旅行だとしていたが、実はロシアとの戦争を控えた偵察だった。
偵察内容はシベリア鉄道の建設状態、地形国情の実地調査、ロシアの軍備、配置されている部隊数など。

日本もだいぶ外国から植民地として狙われるのを警戒していますね。その辺りからまた次回。

  

Posted by hirok○ at 05:09Comments(0)明治~


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