2020年09月10日

明治を学ぶ23

明治23(1890)年10月30日、教育ニ関スル勅語(教育勅語)発布。

1回目の衆議院議員選挙はいわゆる野党である「民党」が勝利。明治政府(与党)はこれ以上自由民権思想(自由や権利を主張する西欧思想)の拡大を恐れていた。明治天皇の側近元田永孚(もとだながさね・肥後)と井上毅(肥後・法制局長官)が起草。勅語ということは天皇が与えた言葉という意味で誰に与えたのかと言えば、山縣総理と芳川文部大臣へ与えたものだという形式をとった。御名御璽(ぎょめいぎょじ・天皇自筆書名と捺印)のあるものが帝国大学ほか直轄学校へ配られた。

この教育勅語は今も生きているのか生きていないのか問題についての私の意見は最後に記述する。まず、熊本の偉大な先人が起草したその中身へ。(原文では難しすぎるので文部省全文通訳より。)

「朕がおもふに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦(むつ)び合い、朋友互に信義を以って交り、へりくだって気随気儘(きずいきまま)の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまに々々天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かやうにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなほさず、汝らの祖先ののこした美風をはつきりあらはすことになる。
 ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがひ守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。」

さらに訳す。
「私が思うには、皇室の御祖先が我が国をおはじめになるにあたって、その規模がまことに広大で、かついつまでも動かないようになされたこと、御祖先はまた御身をお修めになり、臣民をおいつくしみになって、万世に渡って御手本をおのこしになった。私の臣民は忠を尽くし親に孝を尽すことを心掛け、臣民すべてが皆心を一つにして、代々この美風を作り上げてきた。以上のことが我が国体の優れたところであり、我が国の教育の基づく所もまたここにある。」

さらに続いて陛下が臣民に対して話しかけるように親しげにお呼びかけになり、私たちが常に守るべき道をおさとしくださっている。

あななたち臣民は父母に孝行を尽くし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互にむつまじくし、朋友には信義をもって交わらなければならなりません。誰に対しても身を慎んで無礼の挙動なく、常に自分を引きしめて気ままにせず、しかも世間の人に仁愛を及ぼすことが大切であります。また学問を修め業務を習って、知識才能を進め、徳ある有為の人となり、進んで公共の利益を増進し、世間に有用な業務を興すことが大切であります。また常に皇室典範・大日本帝国憲法をはじめ、その他の法令を守り、もし国に事変が起こったら、勇気を奮い一身をささげて、皇国のために尽くさなければならなりません。このようにして代々続いてきた皇祖神の命のままに天地と共に極まりない皇位の御盛運を助けるのが務であります。
なお以上の道をよく実行する者は、私の忠良な臣民であるばかりでなく、我等の祖先がのこした美風を表す者である。」
「これまで示した道は、私が新たに決めたものものではなく、皇祖皇宗の御子孫も一般の臣民も共に守るべきものである。またこの道はいにしえも今も変りがなく、かつ国の内外を問わずどこでも行われ得るものである。私はあななたたち臣民と共にこの遺訓を守り、それを実行することを切に願っている。 」

熊本の先人が残した言葉はなんと素晴らしい文章でありますか。教育勅語の石碑は阿蘇神社でも見たことありますがいろんな神社に置いてあると思います。ここでは熊本の先人ということで私も毎年初詣させていただいている熊本県護国神社の教育勅語石碑を載せておきます。

さすが、ここでは両先生のことまでしっかり残してあります。
他で見ない貴重な文章なのでこの両先生の説明文おさらい含め転載しておきます。
「井上毅先生は肥後藩士で儒学、国学を学び特に文筆に長していた。明治2年上京して司法省に入り、大久保利通、岩倉具視に重用され、有能な官僚として活躍した。特に枢密院書記官として大日本帝国憲法の制定に尽力し、法制局長官として侍講元田永孚先生と共に教育勅語の起草に心血を注ぎ、その後文部大臣となり輝く功績を遺している」
「元田永孚先生は肥後藩実学派の俊英であり、横井小楠に師事し、明治4年大久保利通に推挙されて宮内出仕となり、明治天皇の侍講、宮中顧問官、枢密院顧問官等に任ぜられ、明治天皇の御信任ことのほか厚く、聖旨により教育に関する勅語案文の起草に当り井上毅先生と共に心血を注ぎ世界普遍の道徳律を完成したのである。」

熊本先人の偉業をしっかり熊本で大事にしているのはとても嬉しい。
ということで調べてたら石碑のある場所載ってるじゃん。えーこんだけしかないの?

ちょっと待て、椿大神社は昨年普通に俺お参り行ってたじゃん。当時の写真を探した。

原文の横にこれがあった。教育勅語難しいって人はこれだけでもいいじゃない。いい石碑ですね。
今度大阪城公園の石碑も見に行くか。

話を本筋へ戻す。
この教育勅語はみなさん現在も生きているか生きていないかどちらだと思われますか?日本人の多くがもう有効でない(失効している)または重んじてはいけないまで思ってる方がいると思います。
昭和23(1948)年)敗戦後GHQにより圧力を受け、衆議院における「教育勅語等排除に関する決議」および参議院における「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって失効確認が決議されたから。

ここで発布時を思い返してもらいたい。「天皇が与えた言葉という意味で誰に与えたのかと言えば、山縣総理と芳川文部大臣へ与えたものだという形式をとった」と書いた。画像も載せたようにそこには御名御璽(天皇自筆書名と捺印)のみ。勅令(詔書)や法令時には御名御璽以外に天皇と臣民一緒に遵守するという意味から摂政や内閣、または大臣の署名捺印も必要である。
しかしこれにはない。それじゃあなぜ敗戦後国会で決議されたのか。それがこれ。

左側に記載されている大正12(1923)年11月10日に大正天皇の名と摂政宮名で国民精神作興ニ関スル詔書(こくみんせいしんさくこうにかんするしょうしょ)として教育勅語を踏襲したものが発布されたからである。

お分かりいただけたであろうか。この詔書(左側)が廃止になっただけで教育勅語(右側)は、明治天皇がお伝えになられた言葉で廃止になっていない。というか明治天皇は伝えただけで、個人的言葉なのだから命令でもなんでもなく、ましてや法律でもないので国会で廃止することなんかできるわけがなかった。ゆえに教育勅語は今も生きている

だから僕も大声で言う。
私はこれから先も教育ニ関スル勅語をいつも心に留め大事にして、この道を体得実践できるように努めていきたいと思います。


  

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2020年09月07日

明治を学ぶ22

鹿鳴館のところ(明治を学ぶ18)で明治20(1887)年9月井上馨が外務大臣を辞した。
明治21年4月、2代黒田内閣誕生(明治を学ぶ19)。このとき大隈重信が外務大臣就任。第一の目的だった条約改正の任にあたるが、
妥協案としてまたしても「外国人裁判官の任用」の条項が含まれていたことが明らかになると、もちろん大騒動となった。一旦解体したはずの自由民権運動が今度は板垣退助を擁して再燃し、政府内からも山縣有朋・後藤象二郎・伊藤博文・井上馨らが妥協案に反対する意志を示した為、条約改正交渉は中断に追い込まれた。
明治22年10月18日、馬車で外相官邸に入ろうとした大隈に爆烈弾を投げつけ、大隈が右脚切断の重傷を負うという大隈遭難事件が発生した。
10月25日、黒田内閣は総辞職を提出。天皇は大隈以外の辞職を認めたが大隈だけは退けた。これには大隈遭難事件により総辞職となったのでテロには屈しないという意思表示もあったという。
黒田内閣で言うと大日本帝国憲法公布の日(2月11日)に帝国大学令(明治を学ぶ19)など教育法令を作ってきた森有礼もまた国粋主義者により刺され死亡している。

明治22年12月24日、第3代内閣総理大臣に山縣有朋(長州)就任。大隈は入閣せず。
山縣有朋について少し振り返る。
戊辰戦争に従軍、陸軍卿になり徴兵令制定、西南戦争総指揮内務卿、初代伊藤内閣の内務相

現在では「日本陸軍の祖」と呼ばれる。

思想は超然主義(ちょうぜんしゅぎ・内閣は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張)だった為、実は国会開設には向いていなかったがしぶしぶ総理を引き受けていた。

明治23年5月12日、山縣有朋は伊藤博文を訪ねる。このとき伊藤は憲法を作ってもう役目は終えたと一切の国政に関与していなかった。
山縣「激職に堪えざる、其の一職を伊藤に委(まか)せん」と言ったそうだ。総理を代わってくれって事だ。
だが伊藤はこれを断った。

5月13日、明治天皇は山縣の議を受けるように勅語を出すも5月15日伊藤固辞する手紙を出す。
明治天皇と伊藤博文の信頼関係はとても強かった。にもかかわらず天皇陛下の命令を拒否する。普通ならあり得ない。それには明治天皇が納得するだけの理由が手紙に書いてあったそうだ。おそらくこれからもっと大きな国難(戦争)が訪れるでしょう、敗戦し国が0になっても1から再度作り上げる、そういうときこそ私の力をお使いください。天皇陛下私を信じて・・・みたいな事だと想像する。伊藤は目の前だけではなくその先をいつも俯瞰して見ることのできた政治家だったんだぁ。

明治23(1890)年7月1日、第一回衆議院議員選挙

選挙権は直接国税15円以上(現在の60~70万円)払っている25歳以上の男子

有権者数約45万人(全人口の1.1%)。

投票率93.91%(日本の総選挙史上最高値

大金を納めた人にしか選挙権がないというのは地方議会の選挙でも書いたように(明治を学ぶ15)孟子の「恒産なくして恒心なし」という考え方から来ている。決して差別意識からではなかった。

議員数300人選挙結果。


民党(今でいう野党・自由民権系)
立憲自由党(板垣) 130人
立憲改進党(大隈) 41人  計171議席(過半数超)

吏党(りとう・今でいう与党・政府派)
大政会 79人
国民自由党 5人
無所属 45人    計129議席

野党が勝ってしまって初回で逆転このままではねじれ国会になってしまう。第一回帝国議会は5か月後に控え山縣内閣は危ういものとなった。

明治政府はこれ以上自由や権利を主張する思想が広がらないように対策を練る。
そこで発布されるのが「教育勅語」だ。これもまた大テーマになるので次回にまとめます。






  

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2020年09月06日

明治を学ぶ21

明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法と同時に発布されたのが皇室典範
伊藤博文が明治十五年ヨーロッパに赴いた際オーストリアの学者から作成を助言され作成した。
全62条からなり、皇位継承の順位や皇族の範囲などを定める。

大日本帝国憲法と皇室典範、実質的に二つの最高法典が存在した事になるが、『大日本帝国憲法』の冒頭に、『皇室典範』と『大日本帝国憲法』制定に就いての告文(こうもん:同日朝憲法公布前、天皇が賢所に報告する文章)がしたためられており、その文中に於いて、『皇室典範』は『大日本帝国憲法』よりも上位に位置付けられている。

第一章 皇位継承では、継承の順序を定め、庶系庶出(正室以外の系統出)の継承権も認め、皇嗣(こうし・皇位継承権第一位の皇族)心身の不治の重患または重大の事故あるときは皇族会議および枢密顧問に諮詢して継承の順序を換えることを得とした。
第二章 践祚(せんそ・天皇の地位を受け継ぐ事)即位では、天皇崩ずるときは皇嗣すなわち践祚し祖宗(歴代天皇)の神器を承(いをう)くとし、即位の礼および大嘗祭は京都で行うとし、また一世一元の制をとるとした。
第三章 成年立后立太子では、天皇および皇太子皇太孫の成年は満十八年とした。
第四章 敬称は、陛下と殿下を用いる。
第五章 摂政では、天皇未成年のときと、皇族会議および枢密顧問の議を経て天皇親政不能と決したときは摂政を置くとし、成年の皇太子以下の摂政の資格順序を決めた。
第六章 太傅(たいふ・未成年の時にその保育の任に当たった職)、第七章皇族では皇族の範囲を定め、皇族の婚嫁は勅許により、皇族は養子をすることができぬとした。
第八章 世伝御料(せでんごりょう・皇室の世襲財産で、土地・物件などの分割・譲与が許されないもの)、第九章皇室経費、第十章皇族訴訟及懲戒、第十一章皇族会議とした。第十二章補則では、典範を改正増補するときは皇族会議および枢密顧問に諮詢して勅定すとし、臣民の公議に付さないことにした。

皇室典範は皇室自らその家法を条定するものなり。故にこれを臣民に公布するものにあらず(伊藤憲法義解より)。として臣民には知らされなかった。


特に重要
女性宮家・女系天皇・女性天皇の違いを理解している人の少ない事。理解していないのになんとなく女性に天皇なる資格ないのは平等じゃないとか思って女性が天皇なってもいいんじゃね?って賛成する人僕の身近でも多すぎ問題。

女性宮家とは天皇の娘が皇族以外と結婚して子供を男女関係なく産んでその子が皇位を継承する家のこと。もっと簡単に言ったら子供からしたらお母さんは天皇家の血を継いでるけど、父親は天皇家の血を継いでいない。子供のお母さん(女系)を遡ると初代神武天皇にたどり着くがお父さん(男系)を遡っても初代神武天皇に行きつかないから天皇家から見て女系と言われる。その子供が天皇になったら女系天皇。
女性天皇は天皇の娘が天皇に即位すること。もしその女性天皇が結婚して子供を産んでその子が天皇になることがあったら上の女性宮家になるので女系天皇となり天皇家男系の血は継承できなくなる。

今回ねこの第一章皇位継承第一条のみ超詳しく解説するわ。

第一条 大日本帝国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子これを継承す

この明治の皇室典範草案では女系の継承権を認め、庶出の子女は皇族として待遇しないことにしていた。しかし憲法も作った井上毅(肥後)は古事記、日本書紀をはじめとする国史に関する膨大な書物を読み込んでいた。その井上毅が女系の継承は祖宗の大憲に反するとの意見を提出した。そこで帝室典則案では女系の継承をやめ、皇庶子孫の継承を認めた。

まずここ、女系の継承は祖宗の大憲に反するってとこ。これまで天皇家は千年以上男系継承をしてきたからそれまでの天皇の決まりに反するって。千年以上続いてきたのに1,2年で考えて勝手に変えていいの?って意見。そこで伊藤博文もハッとするんでしょうね。いや待てよ、気が付いたらこれが一番大事じゃね?って。131年前にもう女系天皇議論されて答えは出てたんやで。いつまでこの問題引きずっとんねん。男系の血が最重要という事で「庶出の子女は皇族として待遇しないこと」についても同様、正室ではなくても男系の血がある子孫に継承を認めた

ここまでだとただの男尊女卑でなんの理屈も通っていない感情論って言われてる。たぶんね、ここで止まってさ、男女平等の時代女性天皇でもいいんじゃね?って思ってる人が多いんだと思う。

いや、止まってないよって人が次に言う事。聖徳太子時代の推古天皇って女性じゃんか!だったらいいだろ!だ。
確かにその時代は推古天皇含めのべ6人女性天皇がいました。時代背景として権力闘争の煽りを受けていて、次期の男系の天皇が決まらず、女性天皇で中継ぎするケース、 天皇が若くして崩御、皇位継承権1位の親王が幼いために皇后が代理でつなぐケース。親王が生まれるまで女性天皇が中継ぎしたケースがあった。しかし実はこれらすべて男系の女性天皇だった。女系天皇は一人も存在しなかったということだ。

これに染色体遺伝学的理論を加える。
人間は一組の性染色体を持っている。性染色体は女でXXで、男でXYという状態。女の性染色体は対になっているので生殖細胞がつくられる際に交差が起きる。ところが男の性染色体であるXとYは、対になっていないため交差が起こらない。よってYは父から息子へまるまる一本、ほとんど変化することなく受け継がれる。
女性が中継ぎとして天皇の座につくことはあっても男系でつないできたのでこのY染色体は神武天皇と同じY染色体なのだ。実はこのY染色体を千数百年ずっと守ってきたという事になる。

ここまで来たら女系天皇はだめだとはっきりわかるはず。しかし現状を見てみると皇位継承できるのは秋篠宮文仁親王殿下と悠仁親王殿下と84歳の常陸宮殿下のわずか3名。将来悠仁親王殿下に万が一何かがあった場合やご結婚されて子供が女性だけだった場合どうするのか?って不安。このこと自体考えるのはご存命されているのに不敬だっていうのも自分の中にもあるけど考えないで途絶える方がまずいので考えている。

まずよく言われている現天皇陛下の娘、敬宮愛子内親王殿下が天皇になる。これね確かに男系の女性天皇ではあるけど、そのまま行ったらその子供に皇位継承権が付与されてしまうので女系の天皇が生まれてしまいます。なので女性天皇自体に反対です。もしも、仮にだよ、もちろん認めないけど、男系女性天皇を認めるなら同時に一代限りで男系男性に戻すとか中継ぎ条件を入れるべきだと思う。ここまで言ってる人じゃないと認めない。しかもそこまでして一代限り女性天皇を認めたところで男系男子の後継ぎが少ない問題は変わらないので、女性天皇は困難なうえ実利が少ない。
次、Y染色体が大事なのだから昭和の敗戦後GHQによりお取り潰しさせられた旧宮家の復活。これが一番現実的だと思っている。ただ、現在の旧宮家のほとんどが一般として生活をしているので急に皇族になったとしても国民の賛同を得られるのかも不安なので、もうちょっと踏み込んで考えて、Y染色体さえ継承できればいいので、これ以後生まれた旧宮家の男子を宮家にして教育するとか旧宮家の男子が生まれた時点で皇族の養子にする。これが一番良くない?


結局ね、なんで男系男子継承かとまとめると、「ずっと男系でやってきたから。以上。」でいいと思う。遺伝子とかわかんない大昔にさ、本能でこれやってきて繋いできた日本人すげぇってなるやろこれ。これ守らないで何守るん?  

Posted by hirok○ at 07:24Comments(0)明治~

2020年09月03日

明治を学ぶ20

明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法発布。
全76条。欽定憲法(きんていけんぽう)国会(民主)ではなく君主が制定する憲法、国会がまだ無いのでこの作り方しかない。これで立憲君主制が成立する。

重要なところの中身を見ていきましょう。
第1章天皇

第一条 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す。
第二条 行為は皇室典範の定むる所により皇男子孫これを継承す
第三条 天皇は神聖にして侵すべからず
第四条 天皇は国の元首にして統治権を総攬しこの憲法の条規によりこれを行う
・・・
第十一条 天皇は陸海軍を統帥す

その他省略した部分には勅命を出せるとか行政官の任命権とか外国と条約を結ぶ権利とかが書かれている。
万世一系とか皇男子孫とか詳しくは次回皇室典範やる予定なのでそちらで嫌と言うほど語る機会があると思うから今回は省略。
この憲法下では主権は天皇にあり、立法・司法・行政・外交・軍事全ての権限が天皇にあると書かれているように思われるが、また別に神聖にして侵すべからずと書いてある事により仮に天皇が命令してそれが失敗に終わった時に変更や責任の取りようがないという事になる。つまりこの憲法では政治的な決定を天皇自ら行うことは全くできないもしくは想定していないという事が通説だ。先に天皇主権とは書いたが実際は最高命令を出す主権者がその時々で変わっていたので全部天皇に主権があったとは言い切れない。特に軍関係。
なぜこのような矛盾が起きてしまったのかと言うとこの憲法は明治22年に発布されたのに対し軍法規は明治政府樹立以来早い段階で作られ、軍内の思想は固めてあった。憲法よりも早かった為憲法より軍法規が上の認識になってしまった。この矛盾が昭和まで続いて悲劇を生むことになる。ということはだよ、昭和の敗戦は大村益次郎や山縣有朋が発端になっているのかもしれませんね。もしくは早く憲法を作らなかったことにもよるかもしれない。この憲法で軍についてもしっかり明記しておいたら違ったかもな。このことからも現憲法で間違った戦争を起こさないためにさ9条に自衛の為の軍を持つ(自衛軍)とはっきり明記すべきじゃない?って思う。これが先人に学ぶってことだろ。
つくづく今の僕らの時代はこの明治期で作られているものが作用しているなぁと実感しています。この時代の人って何もないところからだから足りないとこもあるけどよくここまでできたなぁって驚きと感心したりすることの方が多い。

第2章臣民(しんみん)権利義務。
一般的に臣民とは君主国において、君主に支配される者としての人民を指す。昭和の大戦後臣民と言わなくなったので、臣民とは大日本帝国憲法下の人民ってたびたび言われたりします。でもよく考えてみて。現在も天皇を国家元首(君主)として生きている我々はすべからく臣民ではないですか。なので私は陛下に敬意を含め自分の事を国民とか市民とか言わず臣民と言っています。

第十八条 日本臣民たるの要件は法律の定むる所による
第二十、二十一条 日本臣民は法律の定むる所に従い兵役・納税の義務を有す
第二十八条 日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有する
その他省略した部分には法律の範囲内で住むところも引っ越しも自由だよとか法律に無い事で逮捕されたり家を捜索されたりしませんよとか他にはいわゆる表現の自由みたいなことも書かれています。


第3章帝国議会
以降は国の機関について。

憲法発布と共に民権派約450人明治天皇により恩赦、勝海舟が動き西郷隆盛の名誉も回復した。明治31年2万5千人の寄付により上野に銅像完成。

国会についてもまた後日勉強していくとして今回はこれでしみゃ。学びたい事多すぎて国会までまだ行きつかないんだけどw  

Posted by hirok○ at 06:02Comments(0)明治~

2020年09月03日

明治を学ぶ19

明治19(1886)年3月、勅令として学術を極める目的で帝国大学令が出される。帝国大学設立
内地に7校(七帝大:東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋)、外地に2校(京城、台北)が設置された。
総称が「帝国大学」であった現在でも、「旧帝国大学」または「旧帝大」とも呼ばれていたりもしますね。
このときに京城-韓国と台北-台湾にも国立大学作っていたんだね。

「帝国主義」とは。政治・経済・軍事などの面で、他国の犠牲において自国の利益や領土を拡大しようとする思想や政策の事。この時代の欧米列強はこの考え方で日本もこれを目指さないと植民地にされてしまうと考えていた。

5月井上馨外相条約改正会議を5か国(英・蘭・仏・露・米)と秘密裏に始める。

10月24日、ノルマントン号事件。イギリス船籍の貨物船ノルマントン号が、横浜から神戸へ行く途中、和歌山沖で座礁沈没した。このとき外国人乗組員のみ助かり日本人乗客25名が全員死亡する不可解な状況が起こった。
日本中で船長の責任が問われたものの日英修好通商条約の治外法権で不問となり、船長らの人種差別的行為と不平等条約による領事裁判権に対する国民的反発が沸き起こった。
天草で関係することを書くとこのときのノルマントン号引き上げ事業に牛深町の宮川清一さんが参加されている。
おそらく漁師の潜水夫として呼ばれたのだろうが沈没地点だと思われる場所は深さ90メートルあったため人力では30メートル潜るのが限界だった。

明治20年4月22日、井上馨外相が5か国と条約改正に合意。しかし裁判に外国人判事を任用するなどの実質変わらない条約改正案の内容が公表されるとに反対運動が起こる。裏を返せば、まだ国としてなんの後ろ盾の力もない日本は条約改正したくてもできなかった。列強と対等に見られるため近代的な憲法が必要でした。

6月、伊藤博文ら「憲法草案」作り始める。
目指したものドイツ式立憲君主制。
伊藤以外の憲法草案のメンバー↓
井上毅(こわし・肥後)渡欧経験あり教育勅語草案にも参加。
伊藤巳代治(みよじ・肥前)憲法調査の為伊藤に随行。
金子堅太郎(筑前)岩倉使節団そのままハーバード卒。

8月、憲法草案完成、作った場所にちなみ「夏島草案」と呼ぶ。

9月、条約改正案に閣僚も反対し井上外相辞任せざる負えなくなった。

10月、条約改正案反対で民権運動が再燃。

12月、保安条例公布で民権運動派危険人物570人を東京から排除。

明治21年4月30日、憲法草案の審議の為、枢密院を設立。
内閣から独立した存在で直接天皇を補佐する諮問機関。初代枢密院議長に伊藤就任同時に総理辞任したため後任に黒田清隆(薩摩・幕末牛深へ来ていた)就任。

6月18日、枢密院憲法会議初日、伊藤は自分の考えを演説。
「ヨーロッパでは道徳的な基軸として宗教を持つが、我が国では宗教の力が弱く基軸とすべきは皇室あるのみ」と力説している。神道でもなく皇室だと言っているのは実質同じだと言ってもいいけどはっきり言うと皇室を中心とした皇室神道っていう分類になると思う。

10月、明治宮殿完成。(現在の皇居)表は和装、内は洋装。

11月、日墨(メキシコ)修好通商条約締結。初の完全対等条約。

明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法発布。東アジア初近代憲法を持つ国になった。

出来たばかりの新しい皇居(明治宮殿で)発布。明治天皇から憲法を渡されている人は総理の黒田。


外務大臣を辞任した井上は黒田内閣になると農商務大臣へ復帰している。
大日本帝国憲法については大テーマなのでまた次の回へ。まだ国会開設までいけませんでしたねw


  

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2020年08月30日

明治を学ぶ18

明治16(1883)年7月20日、公家出身者として維新三傑と共に明治政府を支えた岩倉具視がガンで病死。

11月28日、欧米諸国との不平等条約改正に向けての切り札・欧化政策として鹿鳴館が作られる。文明開化の象徴と言われる。

外務卿井上馨主導の元、総工費18万円現在価値で36億円をかけた国賓をもてなす迎賓館だった。
当時の西欧では外交と社交が深く結びついており、円滑な外交交渉を行うには社交場が不可欠で日本が文明国であることを広く諸外国に示す目的で作った。

連日繰り広げられる舞踏会や演奏会に庶民や国粋主義者から批判の声が出はじめ、本来の目的だった条約改正も上手くいかず明治20年に井上馨は外務大臣を辞任。それと共に鹿鳴館時代は終わった。

8月、伊藤博文ヨーロッパ憲法調査から帰国。
ドイツに習い国会を二院制にしたいと考える。衆議院は選挙で選ぶとしてもう一つは貴族院を作ろうとした。

17年7月20日、貴族院を作る為「華族令」施行。
華族に5段階の爵位を設けた。内容詳しく覚える必要はないと思いますが一応メモ書きしておきます。
上から順に「公爵」「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」。

公爵―明治維新を成し遂げた大名や公家と徳川本家。(三条家、島津家、毛利家など)
侯爵―三条家以外の公家、徳川御三家。15万石以上の大名、琉球藩王、知藩事。(大久保家、木戸家など)
伯爵―大臣家、徳川御三卿、5万石以上の大名。(伊藤、板垣、大隈など)
子爵―堂上家、大名の分家など。
男爵―維新後に公家や大名になったもの。功績をあげた軍人など。

公爵と侯爵は25歳以上全員。伯爵子爵男爵は各1/5以内が議員になれた(義務)。
この華族は議員になれるだけではなく特権が与えられた。
・皇族との結婚が出来る。
・子弟は学習院へ無試験で入学できる。
・華族継続の為の資金援助を受けられるなど。

前回の最後に書いていたように、自由党板垣退助と後藤象二郎が海外へ憲法を学びに行った時の費用を政府の斡旋で用意したことにより党内が統制が聞かない状態になり分裂。さらにデフレのあおりを受け活動資金も窮迫。
明治17年10月29日、自由党解散。板垣退助の影響力がかなり低下した。

10月31日、物価が5年で1/7に下落。デフレで苦しむ農民が旧自由党員指導の下「秩父困民党」を結成。1万人が集結し政府に税率の引き下げを訴え大規模な一揆を起こす。これを秩父事件と言う。政府は警察で抑えきれず軍隊を派遣鎮圧。死刑7名4000名処罰。

一方、立憲改進党の大隈も党運営が立ち行かなくなり離党。事実上活動停止になり板垣、大隈の指導者のいなくなった自由民権運動は衰退していく。

国内は景気も悪く一揆も起こり自由民権運動も下火。そんななか朝鮮で日本も関係する問題が起こる。
明治15年7月、朝鮮の内乱時に日本の公使館が襲撃された壬午事変(じんごじへん)をきっかけに日本は朝鮮に軍が駐留して公使館守らせていた。

明治17年12月4日、親日派の金玉均(きんぎょくきん)が政権を持つ閔妃(みんぴ)打倒を企てクーデター・甲申事変(こうしんじへん)を起こす。なんとこのクーデターに日本公使館を守っていた軍が協力していて王宮を占拠したのだ。しかし朝鮮は清に援軍を要請。清に鎮圧され失敗に終わった。
この金玉均には福沢諭吉も一生懸命援助をしていて、日本と朝鮮と清は一丸となり近代化を目指し欧米列強に対抗すべきと唱えていた。だがクーデターが失敗に終わり福沢は朝鮮に絶望し怒りの感情を持つようになる。

明治18年3月16日、福沢諭吉「脱亜論」発表。日本と朝鮮と清が一丸となり欧米と対抗する考えを捨てると言った。諭吉さん結構過激w

4月18日、日清間で天津条約締結。
・日清両国は朝鮮半島から完全に撤兵。
・以後、お互い朝鮮半島に出兵するときは事前通告を義務付けた。(清は朝鮮が属国であることを理由にした出兵が不可になった)このことは日本にとって外交的勝利だった。

この一連の争いで山縣有朋を中心に将来的な清との戦争を見据えるようになり。これより10年がかりの軍拡計画が練られる。

あれ?諭吉さんあなたの考えが戦争に発展してんじゃないの?「天は人の上に~」とか言うからさ、てっきり平和主義なのかと思いきやこりゃイメージ逆転やで。やで。

国内政治に戻り一回現状整理。
16年に右大臣岩倉死去。太政大臣三条と左大臣有栖川宮は事実上引退状態。その下の参議は無力化になっていた。この状態を回避するとともに、再度薩長政権の確立を目指した制度がこちら。
明治18年12月22日、内閣制度誕生
伊藤博文が初代内閣総理大臣になる。
各省(内閣)を取りまとめるのが総理大臣(1人)現在に近い。
初代内閣。
外務-井上馨(長州)
内務-山縣有朋(長州)
司法-山田顕義(長州)
大蔵-松方正義(薩摩)
陸軍-大山巌(薩摩)
海軍-西郷従道(薩摩)
文部-森有礼(薩摩)
農商務-谷干城(土佐)
逓信-榎本武揚(幕臣)

この割合でわかるように明治維新で血を流したのは薩長でありその地位は譲らないとの固い意志が見える。実はこれ現代まで続いてるとまでは言いませんが安倍晋三さんが残念ながらお辞めになるタイムリーなので書くと、安倍さんも長州。安倍さんまで全98代総理まで述べで数えるとなんと長州は総理を20人も輩出している。このことからもわかるように今学んでる明治時代が基礎になって僕らは今生きている。


このお札は昭和のものだから多く現存してて僕も10枚程度持っています。この伊藤博文が初代総理でそして時代はようやく待ち望んだ国会が開設されそう!ということでそのお話はまた次回に。



  

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2020年08月29日

明治を学ぶ17

明治14(1881)年3月、ハワイ王国第7代国王カラカウアが来日。
当時のハワイはまだ独立国で歴史上日本を訪れた初外国の国家元首であった。

ハワイも沖縄同様に外国(アメリカ・イギリス・フランス・中国)の圧力にさらされていた。
この頃アメリカは帝国主義の下、本土からハワイへやってきて安い労働力で搾取していた。日本はというと明治元年より移民が始まり後年ではあるが明治23年にはハワイ総人口の40%が日本移民となるまでに増えていたそう。

来日の目的はと言うと、国の存亡をかけハワイ国王はアメリカではなく同じ島国の日本と共に生きたいと考えたのだ。
日本は丁重におもてなしをして歌舞伎なども見せたそうだ。そして明治天皇と会談をした。
その中でハワイから提案された一つが王位継承者のカイウラニ王女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮依仁親王)との縁組だった。これってかなりの決意でしょ。こんなにハワイから好かれていたんですね。

国が固まっていないこの時の日本はアメリカとの衝突を恐れ縁組は実現しなかった。その後の王国は来日の12年後、アメリカに政権を奪われ「ハワイ王国」という国家は無くなった。前回の君が代のとこに書いたけどこういう事なんだよね。続いてきた国家元首系統が変わると、いわゆる王朝が変われば国はまた違うものと見なされるって事。日本の場合女系天皇が誕生した時点で王朝が変わってしまう。別の国になってしまう。ここの危機意識多くの日本人が持っていないから何度も言いたい。

現在のハワイはご存じのようにアメリカの1州で、過去にこんなラブコール貰っても一緒になれなかったけど多くの日本人が親近感を持って観光で訪れているのが救いではある。


維新三傑亡き残った明治政府を一度ここで整理しておこう。

太政大臣 三条実美(さんじょう さねとみ)
左大臣 有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)
右大臣 岩倉具視

参議 大隈重信(肥前)・伊藤博文(長州)・井上馨(長州)・大木喬任(肥前)・寺島宗則(薩摩)・山縣有朋(長州)・黒田清隆(薩摩)・西郷従道(薩摩)・川村純義(薩摩)・山田顕義(長州)

維新三傑が国の土台を作ったが憲法も国会なく、例えるならまだ建物が立っていない状態の日本。

明治14年3月、大隈重信は有栖川宮熾仁親王を通じて明治天皇に早期国会開設の意見書を提出。
内容
・本年中に憲法を制定。
・明治16年に国会を開設。
・イギリス流の議院内閣制の実施。
この急進的な意見書は参議の他のメンバーには相談せず秘密裏に出したものだった。3か月後伊藤博文らはその提出を知り驚き対立が始まる。

急進的(急速)―大隈重信(肥前)。自由民権運動活動家、板垣退助や福沢諭吉ら応援。

漸進的(ゆっくり)―伊藤博文(長州)。岩倉や井上ら薩長系参議も同じ考え。
・国会開設をゆっくり進める。
・天皇の大権を確立する国家組織を主張。

明治14年7月、北海道開拓使官有物払い下げ事件。
10年間で国費1400万円をかけた開拓事業の官有物を開拓使長官だった黒田清隆(薩摩・幕末牛深へ来ていた)は同じ薩摩・五代友厚(才助・幕末牛深へ来ていた)へ38万円(しかも30年無利子ローン)で払い下げを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となった事件。(最近で言うモリカケ問題みたいなやつ。)

各地で政府批判と国会でこういう問題を議論しないといけないと国会開設要求運動が加速する。

7月21日、払い下げを閣議で議論。有栖川宮、大隈ら反対するも伊藤らは払い下げ決定。

7月30日、明治天皇東北北海道巡幸へ出発。有栖川宮・大隈・大木らが付き添う。
8月、世論沸騰させ政府を大隈が乗っ取ろうとしていると考え(政権争い)、大隈陰謀説を伊藤・井上・西郷らを中心に言い出す。

10月、三条・岩倉と薩長系参議が話し合い。

10月11日、天皇巡幸後すぐ御前会議。大隈大木は呼ばれず。
この御前会議では大隈らの追放、北海道開拓使官有物払い下げの中止、10年後に国会開設を決定した。

11日深夜伊藤・西郷は大隈邸を訪れ辞表の提出を求め、大隈辞任。大隈派の官僚も一斉追放した。
世間の政府批判の鎮静化を図り薩長の権力体制を固める目的だった。
これを「明治14年の政変」と言う。

明治14年10月12日、国会開設の勅諭を発布。

簡単に言うと、これまでの流れを1枚目で言って2枚目からが本題。
・明治23年を期して議員を召し国会を開設する。
・その組織や権限は明治天皇自ら定めて公布する。
・もし早期開設を煽り国の安定を害すれば罰する。と言う内容。

10年後の国会開設が決まり自由民権家たちが動き出す。
10月18日、板垣退助は政党「自由党」を結成。
主権在民・一院制議会・普通選挙。フランス民権思想の影響。

明治15年4月16日、大隈重信は政党「立憲改進党」を結成。
立憲君主制・二院制議会・(年齢や税金額による)制限選挙。イギリス流。

「自由」という言葉がブームになり、各地で政治演説会が開かれ多くの国民が参加するようになる。
ちな「Liberty」という英語を「自由」と訳したのも福沢諭吉。

明治14年4月6日、岐阜県の演説会場で遊説中の板垣退助が自由民権運動へ反対する小学校教員から襲撃を受ける。これを岐阜事件という。「板垣死すとも自由は死せず」の由来となったのがこの事件である。


明治15年1月、軍人の精神教育の基本「軍人勅諭」を公布。
明治11年の竹橋事件から警戒され、軍隊の中にも自由民権運動が広がっていくのを恐れた陸軍卿の山縣有朋が軍人の引き締めを行う目的で主導。これが昭和の終戦に至るまで活用された。
内容。
・天皇が軍の最高統率者であることを強調。
「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の5か条。
・上官の命令は天皇の命令。
・軍人が政治に関与すべきではない。
・軍人の命は羽毛よりも軽いと覚悟せよ。

この頃の経済はと言うと西南戦争で大量の不換紙幣(政府が発行した金や銀と交換できない紙幣)が発行されたことにより激しいインフレが起こり米が高騰し農民が困窮していた。

明治15年10月。大蔵卿松方正義により日本初の中央銀行である日本銀行設立

不換紙幣の回収を行いインフレが収まるも行きすぎてデフレになり再度農民は困窮した。まだ日本の経済学はお子様で発展途上だった。ちなこの大蔵卿松方正義の息子が松方幸次郎で初代川崎造船所社長で絵画の世界では印象派のクロードモネやルノワールの絵画を買って日本に持ってきてくれたいわゆる松方コレクションの人で有名である。

明治15年11月、国会開設へ向け自由党板垣退助と後藤象二郎は海外へ憲法を学びに行く。
政府の斡旋で財閥三井が外遊の費用を用意したことにより党内が分裂。立憲改進党も批判し関係が悪化し対立していく。
これは結果から伊藤ら政府が仕組んだ陰謀だと言われているがその後はまた次回へ。















  

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2020年08月28日

明治を学ぶ16

明治7年に琉球の日本帰属が国際的に承認され確定したと以前書いたが、この頃1つの藩として扱われていたがまだ琉球には国王がいてかつての国の機構が残っていた。

明治12年4月4日、琉球藩廃止、沖縄県設置。いわゆる琉球処分が行われ琉球王朝は消滅となる。
明治政府は琉球藩の尚泰しょうたい(国王)に清との断交を命令したが拒否。このままでは琉球を失う可能性があるということで3月27日に警察官と軍隊を送り首里城を占拠。尚泰を東京へ連行。国王不在となり琉球消滅。

ここの沖縄の人々の感情は難しいところありますが、このとき琉球がなくなるのは悲しかったとは思うが国王は日本の一つの藩として扱ってくれるのは喜んでいたと子孫が語り継いでいる。
琉球が明治政府と戦える軍事力持ってたら独立国のままだったわけで。これでもわかるように国を維持するには軍事力が必要だって事が結論なんだよな。ほんとに今の日本の平和は9条が守っているのか。自衛隊はいらないのか。普通に考えればわかると思うんだけどな。

明治12年6月4日、東京招魂社の格上げを行い「靖国神社」に改称。
明治天皇が命名。「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」
国を靖(安)んずるという意味を込めた。

明治12年コレラが大流行。

当時は原因不明で治療法もなく、(虎列刺)コレラを虎の化け物と例え恐れた。
死者数 10万人。(西南戦争両軍合算死者1万4000人よりけた違いに多い)
コレラきっかけで下水道の必要性が高まり明治17年日本初の下水道が完成する。

立っては消えを繰り返していた自由民権運動は西南戦争後に再燃する。
不平士族だけではなく地租改正で税金を納めるようになった農民も運動に参加を始める。

明治13年、国会期成同盟結成。
片岡健吉・河野広中が国会開設請願書を提出したが元老院却下。

明治13年11月3日、赤坂仮皇居で君が代初演奏。宮内省で作曲を検討。雅楽師の林廣守が作曲。
実は現在の君が代以前にも明治2年に君が代はイギリス人により作曲されたものがあるが日本らしくないとの事で定着しなかった。↓こちら


明治21年、各国に「日本礼式」として伝えられる。

平成11年、国旗国歌法で国歌として制定。
これにより教育基本法で「国を愛する態度を養う」が追加され、学習指導要領に「国歌君が代を斉唱できるように指導すること。」明記。音楽の教科書には君が代が載っていないと認可が下りないようになる。

もう少し掘り下げますか。
日本国 国歌『君が代』

君が代は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

五七五七七となっており、元は詠み人知らずの和歌である。
この和歌が最初に記載されているのは延喜5(905)年の古今和歌集であり千年以上前のものとなっている。

実は古今和歌集に記載されているものは「君が代は」のところが「我が君は」となっていて冒頭が違う。

長和2(1013)年、和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)にも同じ和歌が紹介されており、そちらの冒頭は「君が代は」になっている。古今和歌集より100数年の間に時代と共に変わっていったと思われるが、100年後も歌われる歌ということはそれはかなりの認知度だったと思われる。だってさ今想像してみ、今より100年前の歌謡曲トップ10ですら1曲もみんなわかんないでしょ?軍歌かなんかなかな?聞いても知らないと思う。

歌詞について。
もともとの古今和歌集には「祝い」の欄に記載されている。
冒頭の「君」とは自分より目上の人、親だったり祖父母だったり先生だったりしたのだと思う。だが国歌として歌う時は違う。もちろんこの場合の「君」とは単なる目上の人ではなく「天皇陛下」の事である。

「君が代は」はつまり「天皇陛下が生きていらっしゃるこの時代が」

「千代にやちよに」この場合の代(よ)とは一人の人が生きている時代の事で千代とは千人分の生きる長い間、また八千人の生きる長い間陛下には長生きしていただきたいと願うという意味である。

「さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」は小石が成長して大きな岩となり、それに苔がはえるまでの意味で、限りない悠久の年月を表現したものである。
さざれ石はいろんな神社を参拝されてる方はたくさんご覧になられたことがあると思います。
ここでは伊勢神宮のさざれ石を載せておきます。


千年以上前に作られた歌を国歌としている国は他にはなく日本の歴史がこれにも表れている。もっとわかりやすくこの歌詞をまとめると天皇陛下がいらっしゃる間日本国は続くという解釈になる。これがまさしく象徴と言う意味である。
だから逆にその先を考える。いわゆる後継ぎがいなくなったら日本は無くなるという事だ。そしてその天皇となる条件とは何かを考える。女性宮家を作ってそこから天皇が出ていいのか。女性天皇でいいのか。秋篠宮悠仁親王に男子を授からなかったときどうするのかしっかり考えてないといけない。もし男系天皇のいない日本になったら呼び名は同じ日本かもしれないが2680年続いてきた今の日本とは別の新しい国家元首の国という事になってしまうのだから。

ちなみに知らない人がいるかもしれないので書くと、天皇陛下長生きしてくださいっていう歌詞なんだからいろんな国家行事で君が代が歌われるとき天皇陛下はお歌いになられません。自分で自分長生きしてって言うのおかしいからです。


  

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2020年08月17日

明治を学ぶ15

前回は西南戦争まで学びました。

これまで明治維新をおこなってきた西郷木戸大久保維新三傑と呼びます。

そのうち二人がこの世を去った。西郷さんは今あるものすべて西欧化していくのには疑問を持っていた。蒸気機関鉄道が開通した時も便利にはなるが、それまで活躍していた飛脚や途中の宿場町の人々の仕事が無くなってしまう危機感を人一倍感じていて反対していた。その人たちも守りたかったんだなって思う。新しく海外から鉄砲が入って刀で切り合う時代じゃなくなってきた。自分たちの明治維新を戦って支えてくれたのは武士じゃないか。新しいものを入れすぎて武士の存在意義を失わせてはならないって強く感じていたんだろうな。その思いは伝わってくる。ほんとに残念に思います。

この内戦までは動乱期で、これから先が明治維新の本当の幕開けだと言われたりもしています。いわば明治維新第二幕とでも言いましょうか。

大久保利通は国内行政を取り仕切る内務省のトップ内務卿として、殖産行政、警察行政を担当。地方行政も監督指導する強大な権力を持つようになった。

明治11(1878)年3月11日、地方の体制等改正の儀を提案。
内容。
府県・町村議会を設置。
地方自治を認める。
地方税を制定。

そんな矢先。
明治11年5月14日、旧加賀藩(石川県)士族6名により大久保利通暗殺された。紀尾井坂の変が起こる。


5月14日早朝、大久保は友人であった福島県令(知事)山吉盛典の帰県の挨拶を受けている。そのとき大久保は三十年計画について述べていた。これは明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として戊辰戦争や士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期として、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べた。 その後明治天皇に謁見するため、馬車で赤坂皇居へ向かった。午前8時30分ごろ紀尾井町において暗殺犯6名に襲撃され命を失った。

不平を持っていた加賀藩士族6名は斬奸状(ざんかんじょう・悪者を斬る理由を書いた書状)を持っていた。
理由。
国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。(自由民権運動)
法令を出してもすぐ変更が激しく、また官吏の登用にコネが使われている。
不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。
国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
外国との条約改正をせず、国威を貶めている。

この後6名は自首。国事犯として裁判にかけられ判決後即日斬罪(ざんざい、首切)された。
東京では盛大に大久保の葬儀が行われたが、鹿児島県には遺骨を拒否された結果、東京都港区の青山霊園に埋葬されている。
尚、襲撃された際に乗っていた馬車が、大久保家により永代供養のため五流尊瀧院(倉敷)に奉納されている。


明治維新第二幕始まったと同時に大久保は亡くなってしまった。

明治11年7月22日、大久保が生前提案していたものが法案となり地方三新法が公布される。
郡区町村編制法(地方自治)、府県会規則(初の選挙制度)、地方税規則(地方税の設置)の3つを言う。

各府県に議会を設置し初めて選挙が行われることになった。
選挙権は地租5円以上納付した満20歳以上の男子。記名投票。
被選挙権は地租10円以上納付した満25歳以上の男子。

選挙権は全人口の1%だった。全員に選挙権が無かったのには理由がある。
この考えの基礎になったのは孟子の「恒産なくして恒心なし」という言葉で、経済的な安定が無ければ道義心や良識を持つことができないという考え方によるものだった。

明治11年8月23日、西南戦争で活躍した近衛砲兵大隊を中心とした反乱、竹橋(たけばし)事件が起こる。
西南戦争の恩賞がない事への不満を天皇に直訴。上官を殺害されたがすぐ鎮圧した。
この事件後、軍がこのままではいけないという事で軍の引き締めが行われ、軍人訓戒憲兵隊が設置された。


明治11年12月5日、陸軍省内にあった参謀本部を独立させた。天皇の直轄組織に。
軍政(人事・予算は陸軍省)と軍令(作戦命令は参謀本部)を切り離した。行政が作戦に意見を言えない制度を目指した。初代参謀本部長に山縣有朋。

山縣有朋は長州出身であったため長州出身の軍人を優先して徴用していく。長州閥(ばつ)のはじまり。
その後の統帥権(軍隊の指揮権)の独立へ向かっていく。


  

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2020年08月07日

明治を学ぶ14

明治6年の政変で下野した西郷隆盛は故郷薩摩(鹿児島)へ戻った。
同じく東京にいた薩摩士族も薩摩(鹿児島)へ。

明治7年、西郷隆盛「私学校」設立。本校分校合わせて12有り県内すべての郷内に設立。生徒数約2000人。
銃や大砲の打ち方を教える軍事訓練がメインで士官養成学校だった。

西郷が作ったこの学校の綱領が残っている。
「一、道を同じうし、義相協(かな)うを以って暗に集合せり。故にこの理(ことわり)を益々研究して、道義においては一身を顧みず、必ず踏み行うべきこと。
1、王(天皇)を尊び、民を憐れむは学問の本旨。しからばこの天理を極め、人民の義務にのぞみては、一向(ひたすら)難に当たり一同の義を相立つべきこと。」

この教育理念に西郷さんの考え方が集約されていると思う。この言葉を純粋にとらえるか、またここから深読みをして鹿児島に新しい政治組織を作ろうとしているのか解釈によってまた違うものとなる。この学校の生徒たちが政治集団化していく。

鹿児島の「正副区長」「県庁の役人」「警察官」など私学校の生徒で独占された。新政府の言うことを聞かないで独立国のような振る舞いをしていた。もちろん新政府が警戒しないわけがない。

明治10年1月政府木戸孝允(長州)が火薬什器の製作所を鹿児島に置いておくのは危険。大阪へ移すべしと言ったことにより薩摩士族が激怒。
私学校生徒約20名が火薬庫を襲撃

火薬庫襲撃事件を聞いた西郷は「ちょしもた」と叫んで急いで私学校へ戻ります。これで反政府なのがばれたとでも思ってしまったのでしょうか。

明治10年2月3日、明治政府の密偵20余名が私学校の生徒に捕らえられる。
持っていた電信文書に「ボウズヲシサツセヨ」と書いてあった。シサツとは視察か刺殺かはわからないが西郷側はこれを政府が西郷を暗殺しようとしていると解釈。挙兵する正当な理由になった。

明治10年2月14日、西郷軍鹿児島を出発。このときの大義名分は「明治政府に西郷暗殺計画の次第を問いただすために東京へ行く」事だった。西郷自身は私学校の生徒たちの暴発を止めれず行動を共にすることになった。

一方政府側、大久保利通は2月16日「西郷の心を知るものは自分以外にはいない。西郷と会って説得すれば私学校生徒を抑えられるだろう」と言って会いに行こうとしたが伊藤博文らが反対。

明治10年2月19日、鹿児島県暴徒征討発令。ここで西郷軍は正式に政府軍の敵賊軍となった。ここからが西南戦争と呼ばれる。

西郷軍が最初に向かったのは九州新政府軍の拠点「熊本鎮台司令部」があった熊本城だった。
同2月19日、熊本城内で火災が起こり、大小天守閣が焼失した。この火災の原因は今もって不明であるが関係していないと思うほうが無理がある。

2月22日、西郷軍熊本城包囲総攻撃。
西郷軍士族約1万3千人に対し新政府軍は徴兵による平民約3千人だった。
兵器については西郷軍小銃1万2千挺(ちょう)。弾薬は製造所を破壊され増産できない。大砲60門。
新政府軍小銃4万5千挺。1日20万発を製造。外国より1700万発輸入。大砲209門。
このときの武器調達の為に政府は国家予算の80%を使った。これを抑えれば国内は安定すると信じていた最後の戦いだった。

圧倒的兵器力により熊本城は陥落せず。

3月最大の激戦「田原坂の戦い」となる。
17日間の死闘。両軍死者合わせて3500人。

このとき後に総理となる犬養毅が新聞記者として政府軍(官軍)側抜刀隊に帯同して前線にいた。
記事によると西郷軍13人と対峙。抜刀隊の中に旧会津藩士がいて直ちにその13人を斬ったそうだ。その会津藩士大声で叫ぶ「戊辰の復讐、戊辰の復讐」と。

新政府軍と戦って敗れた会津藩士。今度は政府軍となり賊軍となった西郷軍を斬る。
田原坂でも新政府軍が勝った。

5月26日、木戸孝允(幕末牛深へ来ていた)43歳で病死。「西郷、もう大概にせんか!」と言い残す。

新政府軍はますます勢いを増して西郷軍を追い詰めていく。南下しながら各地で戦いは続く中、
8月21日、大久保利通上野公園で「内国勧業博覧会」開催。富国の為殖産興業の見本市を行った。
もうこの辺りでは勝ちを確信していたのでしょう。

9月1日、西郷隆盛追い詰められ鹿児島入り。包囲され城山に籠る。
24日、西郷切腹。別府晋介が介錯した後その場で自らも切腹。ここで7か月に及ぶ西南戦争が終結した。

西郷軍約3万人、戦死者約5000人。
新政府軍約6万人、戦死者約6800人。

かつての盟友で戦うというのはちょっと勉強したぐらいの僕では察するに余りある。ここのそれぞれの想いって言うのは辛すぎて受け止めきれない。ただ西郷軍が勝ってもまた違う日本になってたし、この戦争が無ければ今の日本の民主主義はない。武士がまだいて俺も刀でチャンバラやってたかもな。西郷さんが今でも慕われている理由がわかった気がしているが大久保利通の評価が低すぎてないかなって思った。お札にもなってないよね?おかしくね?ここまでの明治維新は大久保がやったことの方が多い。この大久保利通の想い人が牛深にいた。牛深ハイヤちゃんマップにも書いてあるし、ここにちょっと書いてる。次は大久保の銅像を牛深に作ったほうがいいと思った。←はいこれ俺が最初に言ったからな。将来実現させましょう。

  

Posted by hirok○ at 18:48Comments(0)明治~


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