2015年03月27日
牛深御番所絵図 ①
こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!
これからは私が絵の説明を受け聞き取り文章化したものですので内容は郷土史家の方が調べられた歴史になります。
おそらく多くの方が初めて目にする言葉が多数あると思います。今回はこういうものがあるということだけでも理解していただけると助かります。
細かい施設や役職などは、初見では難しかったりしますので、またその一つ一つに着目する記事を予定してますので、まず少しずつ言葉に慣れていただこうと思います。
興味がある方でも私の更新に読むのが追いつかないと思います。以後このブログが存続する限り残していこうと思っておりますのでゆっくり時間あるときにでも読んで頂くことを希望致します。
それでは前回の「一枚の絵」から始まります。
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『牛深御番所絵図 其の一』
クリックにて拡大
※右下原画は作者不詳。寛政11年(西暦1799年)4月以降の作。
この絵の中に牛深御番所の全ての施設が描かれており、その一つ一つを解説することでその全体を把握できると考えています。
銀杏山(遠見山)の位置は、背後に村内の地名があり、桑島、大島、魚貫崎の半島、久玉村役座(やくざ)、明石、勝崎等の位置関係がわかる。
御番所の建物は、先ず遠見御番所が山の頂上にあり、中番所(別称賄処(まかないどころ))、港内の御番所の位置、御番所付きの船舶の位置、船津地先きとされる場所が明確である。さらに同所から加世浦への道程、文化年間に設置された御用井戸の位置、地付き遠見番役人の居所も道筋でわかる。
また、港の御番所遠見守窓(とおみまもりまど)からは、山上の遠見番所、中番所が一直線上に目視できる位置にあり、相印台(そういんだい)(合津用旗の台座)なども明確である。
御用船(早船(はやぶね))二艘が繋がれ、大小の大型船(鯨船(くじらふね)大龍丸、小龍丸)が待桟する岸壁の位置も歴然としている。
対岸の瀬崎には、繋船柱が連なり、村役座(許座舗(きょざほ))があり、庄屋、村役人の動行も窺える。
牛深御番所は寛政十一年(西暦1799年)四月一日創立である。初め長崎奉行所の委託を受け、島原藩士四十名の駐屯班が駐在した。
島原藩の駐在は二ヶ月間に亘(わた)っている。その以後に本来詰めるはずの御番所役人たちが、長崎奉行所から派遣されることになる。
御番所の陣容については創立前の準備段階から携わってきた、普請役(幕末転名)で奉行所付き小林周介及び関口祐介の二名。船番役に船頭船番一名、船番九名合わせて十名。遠見番に触頭(ふれかしら)遠見番原才右衛門一名、遠見番一名合わせて二名、この二名は長崎在任の二名と合わせて四名。
長崎在任二名が交代のため、牛深へ赴任のときは長崎波止場付き大型船(春龍丸(しゅんりゅうまる))などであった。またこのような場合、茂木から富岡を経由し、陸路河浦へ、陸路牛深への赴任がたびたびあった。
船番、遠見番は船津、加世浦の住居を借り、或いは間借りなどをしていた。このうち船番は全員が民間に居住していた。
この時代、すでに長崎には多数の絵師がいて、奉行所、代官所に所属する者たち、或いは民間の絵師の手により、公的建物、外国の停泊船、港に出入りする諸地方の多数の帆装商船、港の風景が良く描かれている。
坂道の多い長崎は山手に寺社仏閣が点在して、絵師たちの対象になる風景には事欠かなかったようで、有名な絵師もうまれた。
絵の描き方について、一定の描き方が何とか定着するように、自分のスタイルになるように思いながら、中学以来の図画であり、工夫しながら描きつづけることにした。
風景画の中には俯瞰(ふかん)にもとづいて、遠く近くを描く俯瞰絵図がある。遠望する風景を描くのに俯瞰絵図は最適である。
絵図の特徴をうみ、定着するよう描くために「鳥瞰絵図」を創作したいと思った。
高く遊飛する鳥の目で表す方法により描くことにした。以下全ての作品は鳥瞰絵図である。
【ブログ内で公開している文章、その他イラスト、絵などについて郷土史家の方が何十年も掛けて研究した知的財産でございますので断りなく保存・転載することを一切お断りさせて頂いております】
はじめましての人ははじめまして!
これからは私が絵の説明を受け聞き取り文章化したものですので内容は郷土史家の方が調べられた歴史になります。
おそらく多くの方が初めて目にする言葉が多数あると思います。今回はこういうものがあるということだけでも理解していただけると助かります。
細かい施設や役職などは、初見では難しかったりしますので、またその一つ一つに着目する記事を予定してますので、まず少しずつ言葉に慣れていただこうと思います。
興味がある方でも私の更新に読むのが追いつかないと思います。以後このブログが存続する限り残していこうと思っておりますのでゆっくり時間あるときにでも読んで頂くことを希望致します。
それでは前回の「一枚の絵」から始まります。
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『牛深御番所絵図 其の一』
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※右下原画は作者不詳。寛政11年(西暦1799年)4月以降の作。
この絵の中に牛深御番所の全ての施設が描かれており、その一つ一つを解説することでその全体を把握できると考えています。
銀杏山(遠見山)の位置は、背後に村内の地名があり、桑島、大島、魚貫崎の半島、久玉村役座(やくざ)、明石、勝崎等の位置関係がわかる。
御番所の建物は、先ず遠見御番所が山の頂上にあり、中番所(別称賄処(まかないどころ))、港内の御番所の位置、御番所付きの船舶の位置、船津地先きとされる場所が明確である。さらに同所から加世浦への道程、文化年間に設置された御用井戸の位置、地付き遠見番役人の居所も道筋でわかる。
また、港の御番所遠見守窓(とおみまもりまど)からは、山上の遠見番所、中番所が一直線上に目視できる位置にあり、相印台(そういんだい)(合津用旗の台座)なども明確である。
御用船(早船(はやぶね))二艘が繋がれ、大小の大型船(鯨船(くじらふね)大龍丸、小龍丸)が待桟する岸壁の位置も歴然としている。
対岸の瀬崎には、繋船柱が連なり、村役座(許座舗(きょざほ))があり、庄屋、村役人の動行も窺える。
牛深御番所は寛政十一年(西暦1799年)四月一日創立である。初め長崎奉行所の委託を受け、島原藩士四十名の駐屯班が駐在した。
島原藩の駐在は二ヶ月間に亘(わた)っている。その以後に本来詰めるはずの御番所役人たちが、長崎奉行所から派遣されることになる。
御番所の陣容については創立前の準備段階から携わってきた、普請役(幕末転名)で奉行所付き小林周介及び関口祐介の二名。船番役に船頭船番一名、船番九名合わせて十名。遠見番に触頭(ふれかしら)遠見番原才右衛門一名、遠見番一名合わせて二名、この二名は長崎在任の二名と合わせて四名。
長崎在任二名が交代のため、牛深へ赴任のときは長崎波止場付き大型船(春龍丸(しゅんりゅうまる))などであった。またこのような場合、茂木から富岡を経由し、陸路河浦へ、陸路牛深への赴任がたびたびあった。
船番、遠見番は船津、加世浦の住居を借り、或いは間借りなどをしていた。このうち船番は全員が民間に居住していた。
この時代、すでに長崎には多数の絵師がいて、奉行所、代官所に所属する者たち、或いは民間の絵師の手により、公的建物、外国の停泊船、港に出入りする諸地方の多数の帆装商船、港の風景が良く描かれている。
坂道の多い長崎は山手に寺社仏閣が点在して、絵師たちの対象になる風景には事欠かなかったようで、有名な絵師もうまれた。
絵の描き方について、一定の描き方が何とか定着するように、自分のスタイルになるように思いながら、中学以来の図画であり、工夫しながら描きつづけることにした。
風景画の中には俯瞰(ふかん)にもとづいて、遠く近くを描く俯瞰絵図がある。遠望する風景を描くのに俯瞰絵図は最適である。
絵図の特徴をうみ、定着するよう描くために「鳥瞰絵図」を創作したいと思った。
高く遊飛する鳥の目で表す方法により描くことにした。以下全ての作品は鳥瞰絵図である。
【ブログ内で公開している文章、その他イラスト、絵などについて郷土史家の方が何十年も掛けて研究した知的財産でございますので断りなく保存・転載することを一切お断りさせて頂いております】
Posted by hirok○ at 06:17│Comments(0)
│御番所第二章
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