2021年04月29日

女性天皇について学びたい(第五回)

今回は5代目の女性天皇である第43代元明天皇を学びます。
ここも難しく複雑なので一つ一つ把握しながら纏めます。
第42代文武天皇の皇位継承からです。

文武天皇(軽皇子)は草壁皇子の子であり、母親は持統天皇の妹である阿陪皇女であったので成長を待って皇位を譲られた。
即位は15歳であったため、持統上皇がかなり補佐をしたとされている。上皇が崩御された後は数人の大臣や草壁皇子の弟たちが補佐をして政治が行われた。

文武天皇には皇后はなく、藤原不比等の娘の宮子(みやこ)が夫人となり大宝元(701)年に首(おびと)皇子を生んだ。
慶雲4(707)年、文武天皇も若くして25歳で崩御された。

皇子が幼少であるため、祖母つまり草壁皇子の妃である阿陪皇女が天皇になり元明天皇となった。



第43代元明天皇
父親 天智天皇
母親 蘇我姪娘

天智天皇の娘であるので男系女子。持統天皇の妹。文武天皇の母親、草壁皇子の妃であった。
子から親への皇位継承というのはこれまで先例がないが、これは文武天皇の母の資格で即位したのではなく、天智天皇の子の資格で即位をしたとある。しかもこれまでの女性天皇は全て元皇后であったが、今回は元皇太子妃ということで皇后に劣る為、亡き草壁皇子を天皇と同格にすることで、その妃である元明天皇の地位を上げる措置がなされた。そして平城京遷都が行われたのである。またこの御代に古事記が完成した。

和銅七(714)年に首皇子は14歳になり元服をし皇太子となった。
先述したようにこの首皇子は藤原不比等の娘の子である。首皇子に即位させることで不比等は天皇の祖父となりより強い権力を手にする。ただ、同時期に天武天皇の孫で、文武天皇の従兄弟に当たる長屋王(ながやおう)がいて、しかも血統としては嫡流に近く、適齢で政治力もあった。
藤原氏はこの長屋王の即位を阻まなければならなかった。更なる中継ぎを要したのである。

翌年、縁起の良い亀(左目が白、右目が赤、甲羅には北斗七星、腹には紅白の斑点が八の字を形成)が献上されたことをうけ、元明天皇は譲位して上皇となり、草壁皇子と元明天皇の間に生まれた氷高皇女(ひだかのひめみこ)が即位され元正天皇となった。




第44代元正(げんしょう)天皇
父親 草壁皇子(天皇格)
母親 元明天皇

女帝が初めて二代続いたのである。女帝の娘が即位したため、一見すると男系継承が途切れたように見える。
しかしこの元正天皇は元明天皇(女帝)の娘で即位したのではなく、草壁皇子(天皇格)そしてその父である天武天皇の男系女子で皇位を受け継いでいた。

この中継ぎをしなくても首皇子が即位できれば良かったのかもしれないがその後確実に首皇子へ継承させるための藤原氏の強い意志の表れだとされている。

この元正天皇の御代に日本書紀が完成した。

霊亀二(716)年首皇子は不比等の娘である光明子(こうみょうし)を妃に迎えた。養老二(718)年阿倍内親王(あべのみめみこ)を出産。

養老七(723)年、再び縁起のいい亀が献上され、翌年年号を「神亀(じんき)」と改元し元正天皇は譲位、上皇となり24歳の首皇子が第45代聖武(しょうむ)天皇となった。
これにより藤原氏はさらに政権の中での影響力を最大限に発揮していくこととなるが、政権を支えてきた長屋王との対立が深まっていく。

というところで今回はおしまいです。
今で言うところの皇位継承順位というはっきりしたものはなく、逆にあえてはっきりさせないことで皇位継承を権力者の考えるとおりに行えるようにしていたように見受けられる。特に今回は今までにない新たな継承をしているように思えるが、条件として考えられているものは例外なくやはり男系継承ということだけだった。次回へ続く。







  

Posted by hirok○ at 06:59Comments(0)女性天皇