2020年10月25日

明治を学ぶ33

明治37(1904)年2月4日、御前会議で日露開戦決定。
御前会議後明治天皇は侍従に胸中を告白。
「今期あの戦は朕が志にあらず、しかれども事すでにここに至る。これをいかんともすべからざるなり。事万一蹉跌(さてつ)を生ぜば、朕何をもってか祖宗に謝し、臣民に対するを得ん。」
(戦争になってしまって先祖にも国民にも申し分けない)

開戦時の日露軍事力比較をする。
総兵力 日本100万人。 ロシア207万人。(極東配備は12万人)
軍艦  日本24万6000トン。 ロシア51万トン。(極東配備は19万トン)
火砲  日本636門。 ロシア1万2000門。(極東配備は172門)

開戦時ロシア全体の軍事力は日本の倍以上あったが、ロシアは日本を侮っていた為極東(日本側)には軍備は薄かった。

2月6日、国交断絶の訓令電報。(ロシアとの国交断絶)

2月8日、仁川・旅順の奇襲海戦(当時の国際法では戦争を開始する前に宣戦布告を行うことを義務とする明確な決まりはなかった)。日本の目的は兵員や物資の輸送の為制海権の奪取だった。
ロシア太平洋艦隊軍艦2隻撃破。日本軍2000名上陸に成功。しかし旅順の軍艦撃破まではいかなかった。

2月10日、宣戦布告

ここでも明治天皇の考えがうかがえる。抜粋。
「朕の考えは、文明を平和的に発展させ、諸外国との友好関係を促進することによって、アジアの安定を維持し、また、各国の権利や利益を損なわないようにしながら、末永く日本帝国の将来の安全が保障されるような状況を確立することにある。今、不幸なことにロシアと戦う事になったが、これは決して朕の意志ではない。」

2月18日、3月27日、5月2日と三次にわたって旅順港閉塞作戦(りょじゅんこうへいそくさくせん)を行う。旅順港の出入り口に古い船を沈めてロシア艦隊を湾内に閉じ込めた。しかしいずれも旅順港を十分封鎖するに至らなかった。

5月1日、鴨緑江(おうりょくこう)の渡河作戦成功。韓国と清の国境の河で日本軍4万2000人とロシア軍2万6000人と戦闘態勢に入る。日本軍はわずか1日で230mの架橋を完成。全員が数時間で渡河したことに驚きロシア軍は退却した。日本軍の技術的高さがうかがえる。



5月26日、金州・南山攻略戦。世界戦史上初の塹壕戦(ざんごうせん)が行われた。塹壕とは敵の銃砲撃から身を守るために陣地の周りに掘る溝のこと。15時間の決戦で日本兵3万6000のうち4200名が死傷したがロシアの旅順への補給路を遮断することに成功。

開戦時日本は予想される戦費15億円のうち80%が不足していた。外国から借金する必要があった。同盟国イギリスは南アフリカでボーア戦争を行っていたため頼ることが出来なかった。この資金調達を任されたのが日本銀行副総裁の高橋是清だった。しかし欧米市場で探すも当面の目標1億円も日本に勝利の見込みがないと貸してくれるところはなかった。そんな中手を差し伸べたのはユダヤ人支配人の当時銀行だった。この頃からロシアではユダヤ人の虐待は行われておりそれに対する日本への応援だった。

鴨緑江の勝利など日本優勢が伝わり公債の人気が上昇。以後ドイツ、フランスでも成功する。最終的に8億円戦費の半分を調達することができた。

もともとこの戦争を日本はどちらかの国がボロボロになるまでやるつもりは無かった。日本優位な時に講和条約を結ぼうと考えていた為アメリカに仲介に入ってもらうように根回しを同時に行っていた。

開戦直後3月、伊藤博文の密使として金子堅太郎が渡米。
1年にわたり全米で講演、アメリカに日本の立場を伝えた。
「日本は領土的野心のために戦っているのではない。ペリー提督がもたらした門戸開放のために戦っている。将来は世界みな兄弟を実現させたいと日本人は思っている」
日本の正当性を主張。理念や正義感を尊ぶアメリカ国民より喝さいを浴びる。
あれ?これって今でいうロビー活動ってやつやん。今日本はこれが下手やって言われてるけどこの時はうまい事やってたんやな。伊藤博文はほんとすげぇな。
結果、金子のハーバード大の同級生であったセオドアルーズベルト大統領に日露講和仲介を内諾してもらった。
戦費の調達もできた、講和の仲介役も準備が整った。それでは再度ロシア太平洋艦隊の拠点旅順攻略を!というところで次回。  

Posted by hirok○ at 20:08Comments(0)明治~