2020年10月17日

明治を学ぶ29

明治28(1895)年4月17日、日清戦争の講和条約・下関条約で日本の領土になった台湾。この条約によって台湾在住者は日本人となることが決定した。

しかし台湾在住者に全く知らされずに締結されたので、後日知った現地では大反対運動が起こった。

5月23日、反対する住民や清国官僚らが台湾民主国独立宣言を発表。
24日、各国語に翻訳し駐台湾の各国領事館に通知。
25日、独立式典を実施し台湾民主国の成立を宣言した。
29日、日本軍台湾上陸すると、民主国軍は総崩れとなった。
6月3日、基隆を占拠。これにより新政府は空中分解。
4日、第一代台湾民主国総統は廈門(あもい・清国国内)に逃亡。
7日、台北占領。
17日、日本は台湾総督府設置。初代総督樺山資紀(すけのり)。
6月下旬、第二代台湾民主国総統選任。これから3か月各地で日本軍と台湾民主国の戦いは続く。
日清戦争を勝ち抜いた日本軍と、数でも劣る台湾民主国軍では実力が違っていた。10月下旬には第二代台湾民主国総統も清国へ逃亡し、日本軍は全台湾を平定した。この日本軍と台湾民主国の戦いを台湾平定と呼ぶ。
11月18日、全島平定宣言(日本軍戦死164人・病死4642人)
当時の台湾(漢民族約200~250万人・先住民族約20~30万人)

平定後も各地で反日勢力によるゲリラ戦が頻発。ヨーロッパへ売却する案まで出るくらい初期は安定しなかった為、台湾総督も28年6月~29年6月・樺山、6月~10月・桂太郎、10月~31年2月・乃木希典と入れ替わりが激しかった。

明治31年2月、四代総督・児玉源太郎、民政長官・後藤新平体制。抵抗勢力は徹底的に鎮圧し台湾に日本の予算を投資して近代化を進めるアメとムチ政策を行う。

インフラ整備(上下水道・鉄道。港湾整備・電気通信の整備)
産業振興(農業の近代化・製糖産業振興)
金融改革(台湾銀行設立・通貨の統一)
教育制度改革(小学校設置・日本語による教育)
治安の維持(アヘン撲滅・警察機構整備)
台湾は近代化をしていき生活が豊かになるにつれ日本への抵抗勢力は無くなっていく。これが成功したため現在でも台湾には親日家が多くいるのである。

そして今度は日清戦争後の朝鮮半島に移ります。
明治28年7月6日、朝鮮国内では勝者である日本側の推す大院君派の勢力が強くなり、後ろ盾となっていた清が大きな打撃を受けた高宗の妻・閔妃(みんぴ)の勢力は衰退していく。しかし三国干渉により日本の勢力が弱まったとみるや閔妃は親露政策を推し進め、ロシア軍の助力を得て権力奪還に成功し親ロシア政権を樹立する。

10月8日、親ロシア政権樹立を見ていた日本は閔妃の存在を疎ましく思い、日本公使・三浦梧楼(ごろう)が指揮し宮殿に乱入、閔妃を殺害した。乙未事変(いつびじへん)。後に三浦梧楼は日本で裁判にかけられたが証拠不十分で釈放された。

明治29年2月11日、日本の策略だと察知した高宗はロシア公使館へ逃げ込み、李氏朝鮮の政務を1年8か月ロシア公使館から執り行った。これを「露館播遷(ろかんはせん)」という。高宗がロシア公使館で政務を執り行った結果、ロシアは高宗を守る代わりに朝鮮国内の利権を獲得した。これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為で、せっかく日本が千年ぶりに清からの独立させた朝鮮だったが、僅か2年弱で事実上ロシアの属国となった。

明治29年5月、ロシア皇帝ニコライ2世の載冠式に各国が呼ばれ日本は山縣有朋が参列。
この機会に山縣は日本の利益線を守る為ロシア外相ロバノフと交渉。朝鮮半島内での両国の勢力範囲を確定させようとしたが合意に至らなかった。その裏でロシアは清と交渉していたためである。
6月3日、ロシアと清は露清密約を締結した。
下関条約の賠償金を借款供与する代わりに満州の鉄道敷設を認める。旅順・大連を他国に割譲しない。そして朝鮮・清・ロシアが日本に侵略されたときにはお互いに軍事援助を行う
6月9日、日露間も協定を結ぶが、朝鮮内に出兵するときにはお互い事前に通告するという形式的な中身のない協定に終わった。ロシアは朝鮮を少しも手放さないでしかも満州の利権まで手に入れることになった

日清戦争で勝ったのだから賠償金をもらうのは当たり前ででもそれが多額だったためロシア介入を許してしまったという悲劇。閔妃がいなかったら朝鮮半島も利権を奪われる事なかったなぁとか親露政権樹立前に閔妃やっちゃってたら変わってたかもしれないなとか思うね。ロシアの存在や閔妃がいたから台湾のようにうまくは行かなかったことがこの流れでわかりました。というところで次回。










  

Posted by hirok○ at 17:44Comments(0)明治~