2020年09月07日

明治を学ぶ22

鹿鳴館のところ(明治を学ぶ18)で明治20(1887)年9月井上馨が外務大臣を辞した。
明治21年4月、2代黒田内閣誕生(明治を学ぶ19)。このとき大隈重信が外務大臣就任。第一の目的だった条約改正の任にあたるが、
妥協案としてまたしても「外国人裁判官の任用」の条項が含まれていたことが明らかになると、もちろん大騒動となった。一旦解体したはずの自由民権運動が今度は板垣退助を擁して再燃し、政府内からも山縣有朋・後藤象二郎・伊藤博文・井上馨らが妥協案に反対する意志を示した為、条約改正交渉は中断に追い込まれた。
明治22年10月18日、馬車で外相官邸に入ろうとした大隈に爆烈弾を投げつけ、大隈が右脚切断の重傷を負うという大隈遭難事件が発生した。
10月25日、黒田内閣は総辞職を提出。天皇は大隈以外の辞職を認めたが大隈だけは退けた。これには大隈遭難事件により総辞職となったのでテロには屈しないという意思表示もあったという。
黒田内閣で言うと大日本帝国憲法公布の日(2月11日)に帝国大学令(明治を学ぶ19)など教育法令を作ってきた森有礼もまた国粋主義者により刺され死亡している。

明治22年12月24日、第3代内閣総理大臣に山縣有朋(長州)就任。大隈は入閣せず。
山縣有朋について少し振り返る。
戊辰戦争に従軍、陸軍卿になり徴兵令制定、西南戦争総指揮内務卿、初代伊藤内閣の内務相

現在では「日本陸軍の祖」と呼ばれる。

思想は超然主義(ちょうぜんしゅぎ・内閣は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張)だった為、実は国会開設には向いていなかったがしぶしぶ総理を引き受けていた。

明治23年5月12日、山縣有朋は伊藤博文を訪ねる。このとき伊藤は憲法を作ってもう役目は終えたと一切の国政に関与していなかった。
山縣「激職に堪えざる、其の一職を伊藤に委(まか)せん」と言ったそうだ。総理を代わってくれって事だ。
だが伊藤はこれを断った。

5月13日、明治天皇は山縣の議を受けるように勅語を出すも5月15日伊藤固辞する手紙を出す。
明治天皇と伊藤博文の信頼関係はとても強かった。にもかかわらず天皇陛下の命令を拒否する。普通ならあり得ない。それには明治天皇が納得するだけの理由が手紙に書いてあったそうだ。おそらくこれからもっと大きな国難(戦争)が訪れるでしょう、敗戦し国が0になっても1から再度作り上げる、そういうときこそ私の力をお使いください。天皇陛下私を信じて・・・みたいな事だと想像する。伊藤は目の前だけではなくその先をいつも俯瞰して見ることのできた政治家だったんだぁ。

明治23(1890)年7月1日、第一回衆議院議員選挙

選挙権は直接国税15円以上(現在の60~70万円)払っている25歳以上の男子

有権者数約45万人(全人口の1.1%)。

投票率93.91%(日本の総選挙史上最高値

大金を納めた人にしか選挙権がないというのは地方議会の選挙でも書いたように(明治を学ぶ15)孟子の「恒産なくして恒心なし」という考え方から来ている。決して差別意識からではなかった。

議員数300人選挙結果。


民党(今でいう野党・自由民権系)
立憲自由党(板垣) 130人
立憲改進党(大隈) 41人  計171議席(過半数超)

吏党(りとう・今でいう与党・政府派)
大政会 79人
国民自由党 5人
無所属 45人    計129議席

野党が勝ってしまって初回で逆転このままではねじれ国会になってしまう。第一回帝国議会は5か月後に控え山縣内閣は危ういものとなった。

明治政府はこれ以上自由や権利を主張する思想が広がらないように対策を練る。
そこで発布されるのが「教育勅語」だ。これもまた大テーマになるので次回にまとめます。






  

Posted by hirok○ at 08:05Comments(0)明治~