2015年05月10日

千年の後まで語り継がれる ㉝

『牛深御番所絵図 其の三十三』クリックにて拡大


 久玉村ほか七ケ村の久玉組、第八代大庄屋中原新吾惟良の墓碑が無量寺墓地、中原家墓所にある。

 大庄屋は牛深御番所との外渉に終止携わったところがあった。

 中原新吾惟良の功を顧み、墓碑の板本を収めて通釈を添えることとしたい。

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いやぁ、ここも凄い回です。

先日公開済みのところで話がでました長岡興就の駕籠訴がありましたが、この久玉組大庄屋さんにも同じ様な事例があったということです。片や銅像まで立てられているのに牛深は・・・

牛深は歴史研究がほんと進んでないという現れの一つだと思います。逆を言うと港として栄えていた牛深の歴史が未研究だとするとまだ発見されていない凄い歴史が埋まっている可能性が高いということだ。

ここで全文公開はいたしませんが、上の写真の隠れている部分郷土史家の墓碑板面通釈を抜粋致します。
天草でこのことが書かれるのは初だと思います。

『ああ、この風俗の軽薄となった世に於いて長い間民に対して惻隠の心を以って臨んだ君のような人は少ないのである。君の家は代々久玉郷を正しいものにしようとした。~略~しばしば飢寒に苦しめられたのである。君はこれを憐れみ同僚と計り共に江戸に出府して幕府に哀願した。そのため租税を軽くしたので郷民安んじて生業に就き~略~文化七年十二月三日に病のために逝去した。~略~何ぞそんなに急いで天命にしたがって亡くなり長生きしなかったのかと。千年の後までも君の遺芳は伝えられるであろうに。 苓州(あまくさ) 江上源泊書き誌す』

文化七年は西暦1810年。
わかりやすく御番所と絡めると2つ目の御番所井戸ができたのが文化九年(1812)ですので時代は重なります。
この墓碑に書いてあるように千年後までこの出来事を伝えられたらいいと私も思う。






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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年05月09日

注進船出動中 ㉜

『牛深御番所絵図 其の三十二』クリックにて拡大


 魚貫崎遠見番所は自らの早駆けの乗馬によって富岡代官所へ伝達していたとしてある。

 亀浦から崎津村への渡海は通常の渡海船でなく、注進船を郡中村々の負担割で建造しており、この注進船により崎津村へ伝達した。崎津村から大江村荒尾岳へ、さらに高浜村へ、富岡町白岩崎へ庄屋手配の村継ぎを整備していた。




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注進船といういわゆる公用船が亀浦にあったという絵です。
この時代村継の伝達手段が完全に構築されていたというのが日本の統治体制の凄さと言えると思います。
この統治体制があるからこそ日本が一つの国だと認められるということですね。



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2015年05月08日

烽火台造成 ㉛

『牛深御番所絵図 其の三十一』クリックにて拡大


 遠見番所に併設する烽火台の造成の模様を描いてみた。

 烽火台はその高さ、縦横の長さなどが、どの程度のものか不明であったが、※※※※の日記に「高一丈四尺余、三間四方」とあるのでこれを参考にした。

 遠見番所では、これらの材料を普段に準備していたという。權木、薪、芽、柴、松明、松膠(しょうこう)などであり、用水などの用意も行った。伝達先きの見通しの良い山頂に設置したものである。

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天草ではこの様な形の烽火台だったのですね。

狼煙は、人や馬が手紙を運ぶよりも遠距離を高速に情報伝達できるものである。
天草と同じ目的の狼煙台で先島諸島の狼煙台は国の史跡になっているものもある。牛深の烽火台は存在していたのは確かだが現在正確な場所はわかっていない。






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2015年05月07日

魚貫崎遠見番所 ㉚

『牛深御番所絵図 其の三十』クリックにて拡大


 魚貫崎遠見番所があった遠見岳を眺望する池田区を描いてみた。

 ここの遠見番所は大江崎の番所へ、烽火伝達に毎回取りかかるところがあった。大江崎から高浜へ、高浜から富岡番所へ迅速に伝わり、崎津からの村続きによる伝達が良く行われていて、魚貫崎の烽火台はたびたび成果を上げ、その威力は自他共に認められるものになっていた。また集落の村民は烽火上げの際は招集令が布かれる仕組みがあったという。

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とうとう30まで来ましたね(*_*;
残り10です。もうしばらくお付き合いを。

魚貫崎は龍王宮、大蛇の伝説がありますがそちらも天草の歴史関係書物を御覧ください。




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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年05月06日

鶴の舞い降りる場所 ㉙

『牛深御番所絵図 其の二十九』クリックにて拡大


 古文書では桑島はクワ島、鶴崎は鶴サキとあり、大島も※に岩礁の多い地帯である。

 御番所の船舶はこの辺りでは操舵に極めて慎重であったであろうと思われる。

 須口区の鶴崎辺りを描いてみた。

 現代ではこの地で鶴の舞い降りる状況を目撃することはなく、人々は自然の中でもくもくと労働にいそしむ、若し鶴の姿をみれれば、それは素晴らしいことであるという思いがある。宮崎区の「宮崎永代萬覚帳」の土地売渡し証書には「鶴の舞ひ山」などと言う山地名がある。今日でも上空を鹿児島の甑島の方角へ連なって行く鶴の群を見たことが数回ある。このことはたまたま幸運なことであったということだろうか。

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たしかにこの名前が付けられた時は鶴が降りてきてたんだろうなと想像するのは難しくないですね。






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2015年05月05日

久玉組大庄屋 ㉘

『牛深御番所絵図 其の二十八』クリックにて拡大


 久玉町明石区光雲寺は丘の上の丘陵地である。ここの光雲寺墓石郡の一郭に、久玉組初代大庄屋中原喜内の墓標がある。

 墓碑刻名を写して見ると下の通りである。


          寛永二十

         榮松院浄林居士

          四月十八日

          俗名中原喜内(註、室不詳、大庄屋在任期間二年)

 ※※※は小西行長により炎焼破却されたとなっている。

 ところで、後に中原家の光雲寺墓所は無量寺墓地へ移転されている。

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小西行長の天草統治時代ということでこの辺りも天草の歴史を好きな方は詳しくご存知だと思います。

肥後藩を加藤清正と小西行長で半分ずつ支配した時代ですね。小西と天草五人衆との戦いなどは仏木坂の戦いや兜梅など有名な事象がたくさんありますので天草の歴史関係書物などお読みください。ここでは記載しません省略いたします。

寛永二十年は西暦1643年です。




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Posted by hirok○ at 20:00Comments(0)御番所第二章

2015年05月05日

このブログを書籍化しま-す^_^

二十年ほど前の話、旧牛深市報で御番所の記事が連載されていた。私が小中学生の頃の事だ。
当時の私には内容は全く理解できず、そのようなものが牛深にあるという記憶だけが残っていた。

私は牛深八景という歴史を調べながらその調べた場所を絵にするという活動をやっています。一区切りの終盤が見え始めた頃、その先にやはり御番所があった。

旧牛深市報の記事を読みたくなった。お話を聞いてみたくなった。私の知的好奇心はもう自分では抑えることができなくなっていた。

----------本誌序よりここまで-----------



題材の認知度が低いためにどうしても牛深八景ほど売れないっていうのは正直わかっています。
なので100冊限定にして製本したいと思います。

牛深八景を買って頂いて応援して頂いた利益をここで還元したいと思います。もちろん今までの売上はすべて大切に保管してます。
まだ価格は未定ですが、牛深八景より大きなサイズで全ページフルカラーなのに牛深八景よりは高くならないようになればいいなぁと思っております(いま必要経費計算中・・・あぁ少し超えそう(TдT))。

全50ページ前後、牛深第九景『牛深ハイヤ、牛深ハイヤ祭り』同時収録。すべて編集者を通し校正、掲載内容も再構成、ブログ未公開部分も全公開+追記多数有り。

予約特典には私のハイヤ高画質イラストをしおり代わりに封入します。

買っていただきたいって目的より、御番所の認知度を高めたいという目的が強いですので私が動く部分は無償でも構いません。むしろ赤字覚悟。
そんなに高いものでもないのでとりあえず牛深の歴史としてみなさんの本棚に一冊残して欲しいです。他では読むことができない牛深の歴史、よろしくお願い致します。

わたしも牛深の本はこれで最後になるのかな。。。これでやり切った・・・と当初の最大目的は達成すると思います。目標達成おめでとうでも、御祝儀でもどんな理由でも構いませんので何卒応援してください。

事前予約申し込みは今はメールにてお願いします。
メールアドレス→ hirok0130@yahoo.co.jp まで

先着1名さま、ハイヤコちゃんごばんくんオリジナルTシャツ(Mサイズ)プレゼント!急げ!


(まだ値段も決まっていないのにお申込みありました。ありがとうございました。これをもちまして先着一名のTシャツ締め切りいたしました。引き続きよろしくお願いします。)
連日デザインなど文章再構成を頑張っておりますっ


  


Posted by hirok○ at 17:00Comments(0)御番所第二章

2015年05月04日

牛深村庄屋墓標 ㉗

『牛深御番所絵図 其の二十七』クリックにて拡大


 牛深村庄屋の墓所は牛深小学校裏手の段々墓地にある。

 細川忠興の二男興秋は、
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こちらの部分
只今掲載見合わせ中・・・

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 時代は変わりゆくと共に、興秋は九州に逃れ更に天草へ逃れて天草郡御領村に隠遁(いんとん)した。

 東軍にあった細川忠興は肥後を襲封(しゅうほう)し、肥後藩主となり、外様大名(とざまだいみょう)を就封することになった。

 興秋は嫡子興季の代になって、御領村の大庄屋に推挙されて長年大庄屋を勤めることになる。

 御領村の大庄屋長岡家は肥後藩主細川忠興の末裔とされている。このことからすると牛深村庄屋は細川藩主の末裔に当り、このことは歴史的に見ると面白いことになる。

 その始祖は細川忠興、その室細川玉(ガラシャ婦人)ということになるのである。

 牛深村第八代庄屋長岡嬉七郎は牛深御番所の俵物(たわらもの)三品(鱶鰭(ふかひれ)、煎海鼠(いりこ)、干鮑(ほしあわび))、諸色((しょしき)干鰯(ほしいわし)、鹿尾菜(ひじき)などの海産物)の天草郡内の集荷世話人として携わっている。

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さぁ、ここも大変重要な回になっております。

なんとなく牛小へ通っていた頃その辺りにお墓あったなぁなんて思っていましたがそれが庄屋さんのお墓だったのですね!びっくり!

御領の長岡家は細川家と関係があるのは天草の歴史を知っている方であればみなさんご存知のはず。
有名な出来事を簡単に説明しますと11代目庄屋長岡興就は農民の苦しい生活を緩和すべく長崎奉行、勘定奉行、老中へと3度の駕籠訴(直訴)を行います。このおかげで新しい相続方仕法が発布された。

この出来事により天草の義民として五和支所庁舎前には駕籠訴をする興就像が建立されております。
(五和の方いらっしゃいましたらその像の写真を撮って頂けないでしょうか?記録としてここに掲載したいです)
その始祖はガラシャ婦人まで遡るということでしたが、ちなみにガラシャ婦人は明智光秀の三女ですので明智光秀までも遡れる。細川忠利は当初長岡姓を名乗っていて家康命により細川姓を名乗る。

うはぁー日本の歴史上すごい人たちばかりですね!まだまだ書きたいことありますが・・・

俵物(俵に詰められて運ばれたのでその名前が付いた)や諸色(俵物3品と区別するため呼び方を分けた)なんていうのもとっても重要事項なんですけどおおまかな内容だけでも覚えていってくださいm(__)m





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2015年05月03日

三基の墓標 ㉖

『牛深御番所絵図 其の二十六』クリックにて拡大

 天草郡内のとりわけ南部久玉組七ケ村の範域で、ただ一人山方役であった大西代蔵輝経は、魚貫村池田郷に居住し、地付役人として長年その任務に在った。

 初めての任地は肥前日見村の浦見番(うらみばん)で、後年には天草郡内野河内村(うちのかわちむら)付きの山方役であった。普段は山堂などを見守る役割にあったが入合権(いりあいけん)の紛糾する問題などが起きると、久玉組の到る処に出向いて治めた。

 魚貫町※※に※※が存在する。

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この時代のお墓は後世に伝えるために大事なことが書いてあることが多い。※※非公開が多くなって来ておりますがいつか全文公開はします。完結までとりあえずお付き合いくださいm(__)m

入会権とは山林原野において土地を総有などし、伐木・採草・キノコ狩りのなどの共同利用を行う物権のこと。



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2015年05月02日

座礁唐船樽浮引揚図 ㉕

『牛深御番所絵図 其の二十五』クリックにて拡大


 文政五年十二月六日、唐船牛深港口にて座礁破船す。庄屋所在の村々へ村継ぎ先触れ書翰を伝達し、天草郡内一円より酒樽、味噌樽を集めて地元舸子により満潮時に引揚げに成功し、牛深村の船大工で修理を行い座礁より一ヶ月後に修繕完了して長崎へ曳き送った。

 十二月十三日、長崎代官高木作右ヱ門検証すべく海路牛深着船。曳き船は地元舸子船のほか、百艘余りを揃えて長崎表へ送り届けたという。

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牛深でこういうことが起こっていたと思うとなんかとても不思議な感覚。
その時代に戻ってみたいなと思いますね。



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