2020年08月07日

明治を学ぶ13

明治政府樹立以来、鎖国をしていた朝鮮に何度も開国、国交を求めてきたがそのたびに拒まれていました。

明治8年、征韓論は明治6年の政変で一旦治まってはいたが、軍内では必ずしもそうではなかった。

欧米列強は朝鮮を開国させようと日本に圧力をかけていた。そして日本は地理的なことからすぐ隣の朝鮮を清・露の防衛線にし敵ではない存在にしたかった。

膠着した協議を有利に進展させるため、測量や航路研究を名目とし、朝鮮近海に軍艦を派遣して軍事的威圧を加える案が提出されたが、より譲歩的なものに修正可決された。しかし5月「雲揚」6月「第二丁卯(だいにていぼう)」の2隻の軍艦が朝鮮沿岸へと極秘裏に派遣されることになった。 ここでは大きな外交問題は起こらず測量を終え一旦長崎へ帰港。

9月に入って雲揚は改めて清国までの航路研究を命じられて出港。航行の途中、9月20日に朝鮮首府漢城に近い月尾島沿いに投錨。飲料水の欠乏により探水のため小舟を下ろして江華島に接近したところ島に設置されていた砲台から砲撃を受けて交戦状態となった。 先に攻撃してきたのは朝鮮で日本側は正当防衛の面目が立った。国旗を掲げ、ただちに反撃砲撃を開始し江華島砲台を破壊。どうして砲撃を行ったのか尋問するために永宗城島の要塞を占領した。これを江華島事件という。


明治9(1876)年1月、黒田清隆(幕末牛深へ来ていた)を特命全権大使とする交渉団が江華府へと派遣されると、朝鮮政府は開化派を交渉に先立つ応接の使者に派遣するなど日本側に多大な配慮を示す対応を見せた。黒田は攻撃を受けた場合の対応等も予め指示されていたが、開戦回避という一点において日朝両政府の意図は合致していたといえる。

明治9年2月26日、 黒田清隆は江華府で日朝修好条規を締結。
幕末に日本が欧米と結ばされたような不平等条約を李氏朝鮮と結んだ。自分たちがやられて嫌だったことを朝鮮でやったってことだ。だがこれは批判には値しない。明治維新で海外視察をして学んで欧米列強の真似をしただけでこの時点ではまだ欧米との不平等条約は破棄されていない。日本も生き残るのに必死だった。

条約内容。
釜山・仁川・元山の開港。
日本の領事裁判権。
関税免除。
朝鮮を独立国と認め、清の宗主権を否定。
(これには事前に江華島事件の責任追及で清に対して「宗主国を名乗るのであれば事件の責任を取れ」と主張したところ清は、「朝鮮は清の属国ではあるが、独自の内政・外交を行っているので、朝鮮に対しては責任を取れない」と返答したため「朝鮮が清朝の冊封(さくほう・君臣関係)から独立した国家主権を有する独立国であること」を明記した。これも沖縄を日本領と確定したときと同じだね。)


明治9年3月28日、政府は士族の解体を目指し廃刀令を公布。刀の携帯を禁止した。さらに士族の給料を廃止。
あれ?一回断髪令のときに別名散髪脱刀令って言ってなかった?と思うでしょう。あのとき髪は自由だよっていう条例だと書いたと思うけどこれは刀も同じ。士族は必ずしも刀持たなくていいよ、自由だよって意味。もちろんこの時に刀廃止にしたかったんだけど士族の反乱が怖くて段階的に廃止に持っていこうとしていたって事。徴兵令も完成していたし武士はもういりませんって通告だった。
まぁさすがに今回武士の魂である刀を禁止されては黙っちゃいないよね。士族の我慢限界不満爆発。全国各地で反乱が勃発。

明治9年10月24日 熊本『神風連(しんぷうれん)の乱』
10月27日 福岡『秋月の乱』
10月28日 山口『萩の乱』
全て政府軍数日で鎮圧。逆に政府軍の実践経験にもなり実力を示す形になった。

残った不平士族は続々と西郷隆盛の元へ集まってくる。士族最後の砦でした。
そして7か月続くあの西南戦争へと続くのですが、それはまた次回。  

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2020年08月06日

明治を学ぶ12

前回の記事で南の沖縄は日本領土として確定しました。
残るは北です。明治を学ぶ4の日露和親条約で一度確定しているように思えますが樺太が混在しているので、ロシアが先に開発を本格化してきたことにより樺太で日露両国の紛争が頻発していた。ロシア南下政策は不凍港(一年中凍らない港)獲得として当時最大の目標だった。
明治7(1874)年10月屯田兵制度開始。

北海道を外国に奪われないようにするのと同時に開拓(農業)する目的、そして未だくすぶる働き口を失っていた士族を派遣することにより不満のはけ口に全国から兵を派遣設けた。

明治8年5月7日、駐露全権公使・榎本武揚が交渉し樺太・千島交換条約を調印。

あれ?榎本武揚って新政府軍に反旗を翻し新選組が壊滅した函館戦争(五稜郭の戦い)で反政府軍を指揮してたよね?敗戦後投獄されてたはず。調べてみると函館戦争で新政府軍を参謀として指揮していた黒田清隆は榎本の才能を評価していたそうで、福沢諭吉らと共に助命活動を行ったそう。明治5年特赦により出獄、放免となり黒田が開拓次官を務めていた開拓使になっていて、その後みるみるうちに昇進していた。ほんと能力優れていたんだね。

そして条約の内容。
樺太をロシア領にそして千島列島を日本領へ交換するというそのままの内容。なのですがこことても難しいところ。


当時日本に広大な樺太を統治する財政的軍事的余裕はなかった。そこでイギリスが「千島列島なら周囲が海なので防衛しやすい」と助言をしたことによりこの案で条約締結を目指した。実のところイギリスの腹積もりは地図を見てもわかるようにロシアの太平洋進出を懸念し千島列島で日本を盾にして封じ込めを目論んでのことだった。

そして現在にも繋がる大事な大事な北方四島のとこ覚えておいて。
私はこのことは何度でも言うよ。千島樺太交換条約とは言うが交換とは持っている物をお互い引き換えにするから交換と言うもので、すでに持っている北方四島はもちろんこの交換条約に含まれていません。何が言いたいんだよって言われる方がいるかもしれません。だからもっとはっきり言うよ。
この条約の千島列島とは北方四島を含んでいないものを千島列島と呼んでいます。お分かりいただけますでしょうか。
日本語で千島列島と聞くと島が連なっているところ全部を思ってしまいますが、ここは違うのです。ここの解釈を日本人でも間違ってしまうのでこの認識をしっかり統一したいのです。ちなみにこれはもちろん私が個人で言っているのではなく日本政府一貫した公式見解です。これがなぜ重要なのかは後の条約に関係してくるのでまたその時に。


明治8年征韓論で西郷と板垣を、台湾出兵で木戸を失い国内政局は不安定なままだった。
1月~2月大久保は板垣木戸を呼び戻そうと伊藤博文や井上馨を仲介役に大阪の料亭「加賀伊」で説得を重ねる。これを大阪会議と言います。西郷は呼ばなかった。

明治8年2月22日、板垣退助旧愛国公党の同志に再結集を呼びかけ愛国社設立。
初の全国的な政党だったが板垣が参議に戻ることに波紋が広がり一時愛国社自然消滅。

大阪会議で大久保は憲法に基づいた政治体制に向かうことを約束。木戸・板垣は政界復帰に合意。
明治8年4月14日、漸次立憲政体樹立の詔(ぜんじりっけんせいたいのみことのり)を発布。
五箇条の御誓文の趣旨を拡充して憲法に基づいた政治体制に徐々に向かうという約束を天皇に宣言して貰った。

これにより立法機関である元老院、現在の最高裁判所にあたる大審院が設けられ、東京に府県長官を集め行う地方官会議の実施が決まった。
事前に大阪会議で木戸が書いたメモが残っている。

上から天皇陛下、内閣太政大臣参議、右から元老院、大審院、行政、下がって地方官。
このときに三権分立を考えていたんだね。何もない時代だよすごいわほんと。

政府批判の新聞報道が活発化していた。
明治8年6月28日、讒謗律(ざんぼうりつ)新聞紙条例を発布。
言論や文書を取り締まった。当時の言論人は賊軍出身者が多かった為だと言われている。
薩長土肥が軍事で政権を獲ったように負けた幕府軍会津藩・弘前藩などは言論で政府と対抗しようとしてたんですね。

前回書いていたジャーナリズムの基礎と言われている福沢諭吉の「明六雑誌」も廃刊に追い込まれた。


国の発展のため官制(営)工場や官制(営)会社をたくさん作っていたが後に政府はこれを民間へ譲ります。
この払い下げには薩長出身者への払い下げが多いとか格安だったとか問題点があったが産業を拡大するにはある程度仕方がないところもあった。
経営者は政府要人とのパイプを強くしていきこの辺りを基礎にして後に財閥となる「三井」「三菱」「住友」「安田」が大きくなっていく。

明治8年9月朝鮮と国交を結ぼうとしていた問題はまだ続いていた中、大問題が起きる。というところから次回にします。









  

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2020年08月04日

明治を学ぶ11

征韓論で大久保たちに負け下野した板垣たちは「言論」で政府に対抗しようとします。

明治7年1月「愛国公党」を結成。
中心メンバーは前参議だった板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平ら。

明治7(1874)年1月17日『民選議員設立建白書』を当時の立法機関の左院へ提出。

内容「私共が謹んで現在政権がどこにあるかを考えてみますのに、上は天皇にもなく、下は人民にもなくただ官僚に独占されています。」という現況の書き出し。
以後簡単にまとめると、支配者が独断で思いのままに事を決する専制政治を批判し、民主的な議会(国会)の開設を望むものだった。
自由民権運動の始まりだった。

政府はこの民選議員設立建白書を却下した。
しかし新聞にその内容が掲載され知識人をはじめ広く知られるようになり、国会開設の機運が高まってくる。

板垣らが「言論」で政府に対抗したのに対し、「武力」によって対抗するものが現れる。
明治7年1月14日元土佐藩士族が東京赤坂で岩倉具視を襲撃、負傷。政府に反対する者への当たりは厳しく、犯人は三日後に全員捕まり処刑された。これは襲撃された場所が赤坂の喰違い坂で起こったので喰違の変と呼ばれている。

明治7年2月さらに武力による抵抗は強まり、旧肥前藩士族約3000人が佐賀城を占拠。これを佐賀の乱という。
そのリーダーは江藤新平だったが本人は武力で対抗したいとは思ってなかったそう、不平士族がリーダーを必要とした為担いだのだった。
2月1日、旧肥前藩士族が佐賀城占拠準備。
2月10日、大久保自ら約5000の鎮圧軍を東京から佐賀へ。
2月16日、旧肥前藩士族佐賀城攻撃。18日占拠。
2月19日、政府軍佐賀城攻撃。数で圧倒政府軍優勢。
2月23日、江藤新平佐賀脱出。
2月28日、佐賀の乱終結。

3月上旬、江藤新平は鹿児島の西郷隆盛を訪ね決起を促すが西郷は動かず。

3月末、江藤新平は板垣たちの地元旧土佐へ行くが政府軍に逮捕される。
4月13日、江藤新平処刑後さらし首に。(大久保のかなりの怒りが伺える。)

言論による反政府運動もさらに加速。
明治7年3月、森有礼、西周(にしあまね)、福沢諭吉らが啓蒙雑誌「明六雑誌」を発行。
政治制度、男女同権、死刑廃止論など政治・経済・外交・言語・宗教・教育などの欧米思想の紹介・普及目的。
これがジャーナリズムの基礎となる。


明治7年4月、板垣退助は愛国公党解散後、旧土佐藩士族を集め「立志社」を結成。
天賦人権(人間は生まれながらに自由かつ平等で、降伏を追及する権利を持つ)を掲げ、国会開設・憲法制定・言論の自由などを求めた。自由民権運動の中心になっていった。

明治7年5月、大久保台湾出兵を決める。
発端は明治4年、宮古島島民遭難事件という台湾に漂流した琉球人54人が台湾先住民に殺された事件による報復。
朝鮮出兵には反対していた大久保が台湾に出兵させたのには理由が二つ。
・不平士族の不満をそらす事。いわゆるガス抜き。(木戸は征韓論と同じだと出兵に反対、辞表提出。)
・琉球は琉球王国として江戸時代薩摩藩と清国両方に属していたのを日本の領土だと外国に確定させたかった。

日本政府は、宮古島島民遭難事件に対し台湾を統治していた清に厳重に抗議したが、原住民は国家統治の及ばない者であるという清朝からの返事があり、これにより台湾出兵を正当化し行った。征韓論時の朝鮮の場合その先に清との開戦が見えていたが台湾には清との開戦は予想されなかったのも大きい。

5月22日、西郷隆盛の弟、西郷従道(つぐみち)が約3000の兵で台湾上陸。
6月5日、琉球人を殺害したパイワン族を制圧。

明治7年9月14日、大久保自ら清と戦後交渉で北京へ。台湾(地方)で戦い相手の中心(北京)へ乗り込む。この辺りは幕末日本が欧米にやられた強国のやり方をマネて見せたのだろう。数々の失敗を経てしたたかになったと思う。
清国は即時撤兵を要求。日本は交渉が妥結しない場合開戦も辞せずと伝えた。(開戦する気があったかどうかはわからない。)

10月27日、清は日本の出兵を認め、賠償金50万両(現在価値150億円)を獲得

結果、琉球の日本帰属が国際的に承認され確定
すげぇ。かっくいいってなるなこれ。大きな賭けをして勝ったって事、大久保まじすごくない?これ一人で考えたらしいよ。

というところで今回はここまで。今の日本が形になっていくのがわかる。改めて歴史って大事だなって思う、ほんとに。
  

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2020年07月30日

明治を学ぶ10

今回は征韓論からです。

明治元年(1868)対馬藩を通じて新政府樹立の親書『日韓尋交ノ為対馬守ヨリ朝鮮国礼曹ニ贈ルノ書』を李氏朝鮮へ送ったが受け取りを拒否された事に端を発する。

拒否された理由。
・朝鮮が与えた印ではなく新政府の印を使用していた。
・宗主国(清)のみ使える「皇」(皇帝の事)の文字を使用していた。

簡単に言えば朝鮮は日本より格が上だから対等に話かけるなって事だろう。
明治元年12月には木戸孝允が「使節を朝鮮に派遣して無礼を譴責し、相手が不服ならばその罪を問う」という征韓論の原型となる記述を日記に残している。木戸は征韓を行えば国内が一致団結し、古くて現代にそぐわない慣習が洗い流されるだろうと考えていた。

明治3年日本は代わる代わる外務大臣を朝鮮に派遣して国交を結ぼうとしたが朝鮮は頑としてこれに応じることはなかった。

明治4年日本は清と日清修好条規を結ぶ。建国以来初の対等条約だった。

対朝国交問題が暗礁に乗り上げていることから、むしろ、それを逆に利用して朝鮮の宗主国である清と対等の条約を取り結べば、朝鮮も日本との開国に前向きになり、あるいは日本が朝鮮の「上国」の地位が確立できるという思惑があった。
でもなぜ大国である清が画像表題並列表記でわかるように対等の条約を結んでくれたのかと言うと、清国内は西洋から入ってきたキリスト教信仰者からの反乱(太平天国の乱)が起こり西洋に不安要素があった。日本はその西洋列強の圧力に対し日清両国が協力して抵抗すべきであると何度も説得した結果だった。

しかしこれでも朝鮮は日本を受け入れることはしなかった。

明治5年日本は釜山(朝鮮)に公館を設置。(最近PS4のゲームで話題の対馬が江戸時代朝鮮と交易があったのでその対馬藩の事務所があった場所を日本の事務所に代えた。)

明治6年4月、5月釜山で官憲の先導によるボイコットが行なわれ6月には日本公館への物資搬入を妨害。門前に無法の国と掲示した。また朝鮮大院君は「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」という布告を出した。当時外交官はこの乱暴な布告をみてすぐさま日本に帰国し、事の次第を政府に報告した。

朝鮮内で排日の風がますます強まり、新政府内において征韓論が沸騰した。
閣議で取り上げられ強行派の板垣退助は留民保護のためにすぐ軍を送るべきと主張したが、西郷は全権大使を派遣して交渉すべきと主張。士族の不満解消の背景があり特使を送り挑発して開戦の口実を作りたかった。

5月29日大久保利通帰国。
ここで岩倉使節団の帰国要請のところと繋がります。
7月23日木戸孝允帰国。

8月17日閣議において西郷遣使が内決されたが、岩倉帰国後に再討議されることとなった。

9月13日岩倉具視帰国。
1年9か月訪問国12か国に及ぶ岩倉使節団終了。

10月14日朝鮮問題に関する閣議が開催され、西郷は遣使即行を主張し、西郷の使節派遣は西郷自身も失敗(自身が殺害されることも)を予想した上で開戦を期した主張であり、交渉不成功の場合は政府は面子上開戦を覚悟しなければならないものだった。さらに朝鮮の先に清との開戦もありえため、岩倉・木戸・大久保は内治優先論の立場からこれに反対し、三条や参議大木らもその意見に同調するようになった。この日は決定には至らず。

10月15日に再度閣議が開催され、参議各々に意見を陳述させ、三条・岩倉の間で協議が行われた。西郷の圧力とそれに伴う軍の暴発を恐れた三条は、太政大臣としての自らの権限で西郷の即時派遣を決定した。

10月17日反発した岩倉・大久保・木戸が辞表を提出。

10月18日収拾に窮した三条は病に倒れ太政大臣辞意を表明。

10月19日岩倉が太政大臣代理となる。

10月23日即時派遣か、岩倉自身の考えである遣使延期かという2つの意見を上奏(天皇に意見を申し述べる)した。このとき西郷たちは立ち会えず意見を述べることができなかった。

10月24日明治天皇は遣使延期を決定。大久保・木戸の辞表は却下。政変に破れた西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野し大久保中心の政権になった(西郷派の士官で辞職したものは100名、土佐藩出身の士官40名が辞職して帰郷している)。

同郷で維新に力を合わせてきた同士だった西郷と大久保はこれで大きく決裂した。
ここまでが『明治6年の政変』である。

西郷とともに下野した板垣退助らはこの後、反政府活動を行うようになります。自由民権運動とか特に学校で習うから聞いたことない人いないでしょう。その辺りに入っていきます。それではまた次回。
  

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2020年07月25日

明治を学ぶ9

国内の話から続き。
明治6年(1873)3月19日(国内1月19日付)海外大久保・木戸帰国要請の書簡が届く。

国内留守政府大蔵省のトップ長州・井上馨は予算配分時に同じ長州・山縣有朋の陸軍省に要求通り満額配分を行った。

しかし肥前・江藤新平の司法省、肥前・大木喬任(たかとう)の文部省の予算を半減。これに大反発。
陸軍の予算が増えた分教育司法予算が減らされたわけである。

この混乱の中さらに留守政府は参議(政府の中の重要な役職)を増やした。
明治6年政変と呼ばれる人事を簡単に流れを書いておく。
留守政府の構成は太政大臣(三条実美)の下に参議があり、その参議のメンバーは西郷隆盛(薩摩)、板垣退助(土佐)、大隈重信(土佐)だった。

この重要な参議に先ほどの江藤新平(肥前)、大木喬任(肥前)、左院議長・後藤象二郎(肥前)を追加。
政府内で土肥(土佐と肥前)の割合を増やし薩長土肥のバランスが崩れた。
こうならないために事前に視察組と留守政府は大きな改革をしないと取り決めを行っていたのに。
ここで不思議に思うでしょう。留守政府には薩摩の西郷隆盛がいたのになぜこんなことが起こってしまったのか。

新政府の乱れた私生活に西郷は不信感を持っていたそうだ。しかも留守政府とはいえ国内の事を決定する力を持っているのになぜ視察組の言う事ばかり聞いていないといけないのかと。

おそらく私の感想としては戊辰戦争の最後の五稜郭の戦いに参加していないころから新政府とは溝があったのかもしれないと思っています。もしくはただ争いごと(戦争までいかなくても)や対立とかが好きなのかなって印象。


今度はさらに税制の改革まで行いました。
明治6年7月28日地租改正
内容
土地の所有者に「地券」を発行。
収穫量から土地価格を決定。
土地価格の3%を金で納めさせる。これまで『米』で納税させていたものを『金(おかね)』に変えた。米本位から金本位制に代えた大きな出来事。
お米の豊作不作に関わらず政府の収入を安定させるというメリットがあった一方、不作だった時の農民は高利貸しからお金を借りて納めたそうだ。さらに米の需要が下がったため価格が下落しても納める額は変わらないなど農民の不満が爆発して全国で一揆が続発した。

何度も書くよ。視察組と留守政府は大きな改革をしないと取り決めを行っていたのに、
これにて明治政府の三大改革と言われる学制(学校制度)・徴兵令(兵制度)・地租改正(税制)が整った。

政府は徴兵制で不満を持っていた士族と農民の結びつきを恐れ税率を2.5%に減税。
減税はしたものの一番恐れている薩摩士族の不満は西郷の元へ届いていた。

この不満を逸らせる目的で当時鎖国状態だった李氏朝鮮を討伐しようとする征韓論が起こってくるのです。これが最大の留守政府と視察組との溝になっていくのですがここは大変重要で西郷のクライマックスとも言えるのでまた次回に。




  

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2020年07月23日

明治を学ぶ8

岩倉使節団は明治5年11月16日フランスに入国し明治6年1月1日をベルサイユ宮殿で迎えた。

日本国内。
明治5年11月、徴兵告諭
徴兵が必要な理由を国民へ伝えた。

現代語訳
 わが国の兵制は,国民すべてが兵士になった。(略)明治維新で列藩で領土を朝廷に返還し、郡県制に復した。世襲で働かずに暮らしている武士は、俸禄を減らし刀剣を腰からはずすことを許し、士農工商の四民にようやく自由の権利を得させようとしている。これは上下の身分差をなくし人権を平等にしようとする方法で、武士と農民を一体化するものである。(略)この世にある物すべて、税のかからないものはなく、その税は国費にあてられる。だから人間である以上、心身ともに尽くして国に報いねばならない。西洋人はこれを血税といっている。その生き血で国に尽くすという意味である。(略)西洋諸国では数百年来研究・実践して兵制を定めた。(略)従って今、その長所を取りいれて日本古来の軍制を補い、陸海の二軍を常備し、全国民の20歳以上の男子はすべて兵籍に編入し,国家の危急に備えるべきである。

明治6年1月10日、徴兵令公布

長州・大村益次郎が考案。長州・山縣有朋主導・実現。
内容
20歳以上の男子は徴兵検査合格者の中から3年間の兵役。現役兵はくじにより決まる。
今まで戦は武士の専売特許だったものを全国民に背負わせた国民皆兵の制度。
モデルはフランス軍。1800年代はナポレオンの時代でブームが起こりたくさんの国がフランスを模範としていた。

ナポレオン式は「攻め」の軍隊だった為、日本の地形に基づく「守り」の軍隊には向いていなかった。後の明治中期にはプロイセン(ドイツ)型に移行していく。

この徴兵制には抜け道があった。
徴兵制の免役規定。
・身長が155㎝未満。
・官吏医科学生、海陸軍生徒。
・世帯主、相続者(長男、養子など)。
・代人料270円(現在価値550万円)を納めたもの。

長男以外は婿養子や縁組が急増し断絶家が復活したなど各地で徴兵逃れが多くあった。

徴兵令により農家の労働力が減り、なお且つ徴兵告諭の一節「西洋人はこれを血税といっている」を「兵役に出ると西洋人に血を抜かれる」と誤解した庶民が各地で徴兵反対の「血税一揆」が起こる。

この一揆に、国を守ってきたのは自分たちだと、自分たちの存在意義を奪われてしまうと士族も加わる。

徴兵令がもたらしたものは190万人の士族の失職への不満や庶民の政治への意識だった。


明治4年7月9日司法省の設置。
司法省初代長官(肥前)江藤新平。
裁判制度・警察制度を作り近代的な法治国家を目指した。

明治6年2月7日仇討禁止令
武士の特権であった復讐仇討を禁止した。
江戸幕府時代仇討とは誰でも切って良いわけではなく、武士は事前に届け出を幕府に出して許可が下りれば仇討を行っていた。
海外諸国との不平等条約改正の為にも仇討を無くす必要があった。仇討があると治外法権撤廃を海外諸国が認めてくれなかった。
だがこれも士族の不満を加速されるものとなった。

明治6年(1873)2月24日キリスト教解禁
経緯として前年岩倉使節団が欧米各国から弾圧を非難された為本国へ打電し解禁の流れ。
江戸幕府慶長の全国禁教令(1614)より続いたキリスト教弾圧は終わった。

天草のキリスト教弾圧で言えば1637年天草島原の乱が起こりましたね。これによりこのブログで当初書いていた遠見番所が1641年から天草各地に設置され1799年江戸幕府命で牛深御番所が牛深に置かれた。


岩倉使節団に話を戻します。
明治6年2月~ヨーロッパ各国(ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・イタリア・オーストリア・スイス)を視察。
使節団はこの中で日本の目指すモデル国をようやく見つけた。それがドイツだった。
3月9日ドイツ着。
3月12日ビスマルクと会見。
当時ドイツ帝国は明治4年に300の小国を統一した新しい国だった。そして周りにはヨーロッパ各国が取り巻いている。
明治新政府も270の藩を統一誕生したばかり。欧米諸国から圧力かけられている状況も同じ。多くの共通点があった。
ビスマルクは条約改正よりも富国政策に重点を置いた方が良い、強い国になれば自ずと条約改正できると助言。
岩倉使節団のクライマックスはビスマルクと会ったこの時点であった。

一方国内に戻ると3月19日(国内1月19日付)大久保・木戸帰国要請の書簡が届く。国内予算編成で大蔵省と各省が対立。国が機能しないほどの大混乱が起こっていた。・・・の話はまた次回。

ふえぇまだ明治6年やで。頑張っていきましょう。  

Posted by hirok○ at 07:59Comments(0)明治~

2020年07月13日

明治を学ぶ7

岩倉使節団大久保と伊藤が天皇の委任状を貰うため一か月以上かけて一時帰国したところから続きます。

留守政府外務卿(がいむきょう・現在の外務大臣)であった副島種臣と外務大輔(がいむたいふ・現在の外務省次官)寺島宗則らが委任状を出す事に出発前の約束と違う、条約改正はまだ準備不足だと猛反対。

外交はそんな簡単にうまくはいかないと2か月にも及ぶ大激論となった。
このとき大久保は追い詰められ切腹する覚悟をしたらしいが副島らはそんなことは私らには関係ないと突っぱねたそうだ。

結果、
明治5年5月14日
寺島宗則が使節団に参加する条件で明治天皇の委任状がようやく渡された。

5月17日
伊藤・大久保・寺島アメリカへ出発。

この間アメリカに残った使節団はニューヨークでブロードウェイを見たりナイアガラの滝や五大湖・ボストンなどの観光を行っていた。
岩倉や木戸たちは観光だけではなく当時日本に無かった連邦議会を視察。
ここで岩倉はアメリカの共和制を見て、いろんな公職や法令を多数決で決めるのは一見すると公平で素晴らしいものに見えるが選ばれる議員がすべて優秀な優れている人材であるかはわからないと疑問を持った。優れた政策が退けられ愚策が採択される可能性があると思ったそうだ。(うわーこれ現代でも鳩〇さんの民主党のとき俺も民主主義の欠陥って思ったことやん)

6月17日
大久保たちが使節団に合流、アメリカと条約改正交渉に臨んだ。
日本側は治外法権の撤廃、関税自主権を要求に対し米フィッシュ国務長官は日本の司法制度は前近代的だと一蹴し決裂。
日本はまだ近代国家として認められないとはっきり言ってなめられていた、馬鹿にされていたのでしょう。アメリカにその他の国と条約交渉しても同じ結果だろうとも言われる。現在でも同じように沖縄の治外法権とか地位協定とか何十年も変えられないですよね。これが外交の難しさですよね。委任状を持ってくれば変えれると簡単に考えていた大久保たちは経験無かった為考えが甘かったですね。結果から言うとこの時点では慶喜と一緒のような気がしますね。
この日の木戸孝允は日記に『五千里の海を渡り三千里の陸路を越えてきたが全て水泡に帰した』と書き悔し涙を流したとか。

大久保たちは外交交渉の厳しさを思い知らされ条約改正交渉を諦めた。

7月3日ボストンからイギリスへ出発。
7月14日にイギリス入国。だがアメリカ滞在が予定より大幅に長引いたため予定していたビクトリア女王が夏季休暇に入って謁見できず。

当時のイギリスは産業革命を終え多くの植民地を持ち最大の先進国だった。
大久保は「イギリスは外国から原料を輸入して製品を輸出している。イギリスの富国の理由が理解できた」と書き残している。領土が狭く同じ島国。日本が目指す所ではないかと考えた。しかしイギリス視察を行っていくと「イギリスは海外植民地もたくさん持っていて産業も確立していて今の日本との差があまりにも大きすぎる。イギリスの後を追うのは難しい」との声が出はじめる。
そんな中イギリス滞在中各個人が旅費を預けていた銀行が破綻。総額2万5千ドル(現在価値約5億円)が消えるトラブルにあう。踏んだり蹴ったりである。

このときのヨーロッパ日本人留学生が作った歌
条約は 結びそこない 金とられ 世間に対して なんといわくら

うまい!と今では笑っちゃいますが当事者は笑えないですよね。

11月16日イギリス出国さらなるモデル国を探してヨーロッパ大陸を目指した。

一方国内では。
明治5年8月2日学制発布。
留守政府文部大輔江藤新平は寺子屋や藩の学校を廃止して全国に小中大学校を作った。
政府のスローガン『各村に不学の家なし』の元に国民皆学を目指し富国のためには教育は欠かせない、国の体制制度を理解させる為精力的に頑張った。
明治6年までに小学校2700校。就学率約35パーセントにまでなった。

しかし学校建設は地元負担。月約50銭(現在価値約1万円)の授業料。子供の労働力を取られるなどの不満が出る。

明治5年9月15日新橋~横浜間に鉄道開通。
それまで徒歩丸1日だったものが50分で行くことができるようになった。

10月4日富岡製糸場操業。
フランスの技術を導入し世界最大規模の工場だった。ちな新1万円札の渋沢栄一は富岡製糸場の設置主任やったんやで。
その他紡績工場や造船所などの官営工場を次々に作り工業の近代化が一気に進んだ。

庶民の生活にも西洋化が進んだ。
明治5年横浜にガス灯が点いた。それまで夜はロウソクしかなかった為、夜明るいのはとても驚いたそうだ。

食生活も大きな変化があった。
日本人の体形が小さいのは肉を食べないからだと政府が肉食を奨励した。これまで肉食べてなかったっていうのは驚き。

牛鍋が出て明治5年明治天皇が初めて肉を食した。
牛乳は明治3年明治天皇が毎日飲んでいると報道、庶民に広がった。

近代国家の体制を整えるための禁止事項。
混浴、人前で裸になること、入れ墨。
江戸時代の女性は人前で裸になるのを恥ずかしく思わなかった。ある意味日本人全体がおおらかだったが外国人からすると不思議だったそうだ。

明治5年11月9日 改暦の布告
内容。
太陰暦をやめて太陽暦にする。
明治5年12月3日を明治6年1月1日にする。

太陰暦(旧暦)は1年355日。なので3年ごとに1年が閏月増え13か月になる。
目的は貿易・外交で日付けの不都合が生じないようアメリカ・ヨーロッパと合わせる為。海外諸国と肩を並べるためであった。
これと同時に一日の時間も不定時法から1日24時間の定時法へ変わった。
これまでの日本は暗くなったら一日終わりで次第に次の日になるという考え方だった。

ここまで生活様式を大きく変えることを施行まで3週間と急いだ理由を当時財務を担当していた大隈重信が後年語った。

明治5年の12月を無くすことにより12月の給料を支払わなくて済む。さらにそのまま行くと明治6年は閏月があるのでその1か月分の給料も支払わなくて済むと考えたからだ。せこいw

一方本来この年に帰国予定だった岩倉使節団は明治5年11月16日フランスに入国。彼らの旅もまた次回に続きます。




  

Posted by hirok○ at 21:54Comments(0)明治~

2020年07月05日

明治を学ぶ6

前回は断髪令のとこでしたね。

ちなみに断髪令(明治4年8月9日)は好きな髪型にしていいですよと言う意味で、ちょんまげだめですよって意味と勘違いされることが未だに多くて現在でもちょんまげすると捕まるなんて言われたりします。今私がバリバリのではありませんが軽いちょんまげにしたくて今鎖骨ぐらいまで髪伸ばしてるんですがそう言われることが実際ありました。確認のため書きますがちょんまげにしても違法ではなく捕まりません。当たり前。

当時は断髪令に反対して一揆を起こした人が裁かれたっていうことはあったみたいなのでそれを勘違いされたのでしょう。岩倉使節団の岩倉具視は断髪令の後(明治4年11月12日)海外視察に行っているのですが出発当初はちょんまげ姿で海外を見ているうちに海外の文化を取り入れシカゴで断髪したそうだ。政府要人が断髪令の後断髪してないのが証拠ですね。

岩倉使節団(真ん中が岩倉具視)

一応書いておくか、この断髪令で一番有名なのが『散切り頭をたたいてみれば文明開化の音がする。』これは省略型で全文載せると
『半髪頭をたたいてみれば、因循姑息(いんじゅんこそく)な音がする。総髪頭をたたいてみれば、王政復古の音がする。ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする。』だそう。

『ちょんまげ頭の人は、古い習慣ややり方にとらわれて改めない人。長い髪の総髪頭は、まだ王政復古の頃で止まっている人。それに対して、まげを切った頭の人こそ文明開化の波に乗り、進んでいる人だ。』という意味。こういう言葉を流行らせて一般に普及させようとしたんですね。

断髪令との関係では、明治5年4月5日に東京府が「女子断髪禁止令」を出している。
これは断髪令の趣旨を「女子も散髪しないといけない」と誤解した女性が男性同様の短髪にすることがあったためだという。

第4回で少し触れてはいましたがここで岩倉使節団についてもう少し深く学びたいと思います。
上載した写真は5人は左から順に木戸孝允、山口尚芳(ますか)、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通。
目的は新政府もどのようにして新しい国の体制を作ったらいいのかわからなかったので理想の国家像を学ぶのが一つ。政治・行政・法律や近代技術の視察ですね。
これと並び大きな目的が江戸幕府が海外諸国(米・英・仏・露・蘭)と結んでいた不平等条約の改正するための予備交渉だった。

国内が目まぐるしく変わっている中で政府主要人物たちが国内にいないのは不安ですよね。
なので使節団は留守中の政府との取り決めをしていました。

使節団は目的を逸脱しない。
留守政府は大きな改革をしない。
重要な件はお互い報告する。

岩倉使節団はこの5名だけではなく政府役人46名、留学生61名合計107名でまず明治4年11月12日サンフランシスコへ旅立った。
この留学生の中に今度5千円札に描かれる津田塾大学の創立者津田梅子もいます。

サンフランシスコからアメリカ大陸を横断しワシントンを目指す中、土地を奪われたアメリカ先住民を見て「現実世界は弱肉強食、欧米諸国のやり方はそういうものだ」と認識しました。

明治5年1月21日ワシントンに到着。

ホワイトハウスにてクラント大統領に謁見。

条約改正の予備交渉をする目的だったが、駐在大使の森有礼が伊藤博文に条約改正の本交渉をするべきだと提言。これに使節団が賛同し米国に交渉した。しかし米国は「元首である天皇の許可を得ているのか?」と問われタジタジ。新政府初外交の大失態(笑)。慌てて
明治5年2月12日天皇の委任状を貰いに大久保利通・伊藤博文一時帰国の途。

一方留守中政府はいかにして国を守るか考え軍隊の近代化が必要だと考えていた。
明治5年2月28日陸軍省・海軍省を設置した。
陸軍大輔(たいふ)いわゆる次官に長州藩山縣有朋、海軍大輔に幕臣勝海舟が就任。

3月24日大久保・伊藤日本到着。ここで委任状を取ってすぐ出発の予定だったのだがこの件で留守政府と衝突してしまうのです!っていうことでなんかざわざわしてきましたね、今回はここでしみゃ。いやぁ歴史ってほんと面白い。

  

Posted by hirok○ at 04:18Comments(1)明治~

2020年06月19日

明治を学ぶ5

前回は通信網の整備で終わっていましたね。

通信と言えば郵便ですね。

明治4年3月1日
駅逓権正(えきていごんのかみ)今風に言って交通通信担当大臣・前島密(まえじまひそか)が全国に郵便局を作って郵便ポストを設置。

当時のポストは黒くて便と言う文字が描いてあるからトイレと勘違いした人が多かったそう、笑。夜見えづらい等の問題により現在の赤になったとか。

明治4年4月4日
近代的な国を目指すため国家の財政基盤強化の目的で全国統一の戸籍法制定。
徴兵・納税・教育に必要だった。

版籍奉還は行ったが、この時代まだ藩は殿様が支配していた。中央集権を目指すためこれを解体する必要があった。
明治4年7月14日廃藩置県を行う。

明治4年11月 藩は合併整理され1使3府72県になった。
1使とは北海道開拓使で3府は東京府・大阪府・京都府。

明治4年8月9日断髪令(散髪脱刀令)。
当時まだちょんまげは現役で海外からすると異質だった。平民についてはもとより刀はもてなかったので刀については華族や士族に対しての法令である。
しかし慣れ親しんだ生活はなかなか変えられない人が多く2年たっても髷文化はなかなかなくならず、明治6年3月に明治天皇が散髪したことで一気に散髪は広がったそうだ。

ふえー。もう5回もかいてるのにまだ4年しか経ってない・・・明治内容濃すぎる。きょうはここまで。  

Posted by hirok○ at 19:44Comments(0)明治~

2020年06月06日

明治を学ぶ4

戊辰戦争終結により300年続いた徳川幕府が完全に消滅。
よく教科書なんかでも見かけるので徳川慶喜の写真上げておこうかな。大正2年(1913)まで存命だったので現在106歳以上の人は会ったりしたことあるかも?って思うと江戸はそんな昔じゃない感覚になる、笑。


江戸幕府時代日本はそれぞれ藩として大名(殿様)がおり、小さな国の集合体であった。
新政府はそれらをまとめての統治を目指しました。

新政府はまず自分達から藩を解体して、他の藩に見本を示す目的で
大久保利通(薩摩藩)・木戸孝允(長州藩)・板垣退助(土佐藩)・大隈重信(肥前藩)が考案したもの、それが
明治2年6月17日 版籍奉還です。

『版』とは「土地」のこと、『籍』とは「人民」の事。上記4人『薩長土肥(さっちょうどひ)』が先頭に立ち、皆で藩の『土地』と『人民』を朝廷にお返ししますので他の藩もやりましょうという内容。

これにより274藩が奉還。藩主(大名)は新政府の役職『知藩事』に任命される。ちな給料は藩の収入の1割だったそう。え?それでもけっこう貰うんですねー。
こっから現代の知事って名前になってるんだね。


この頃近隣諸国との領土問題が起こってくる。
国の概念を考え始めるとまず第一に領土がないと国にならない事に気が付く。なので海外諸国が競って日本領土を奪いに来ている。

海外諸国も自国の領土を増やす事が国益に繋がるという考えは一緒で、新政府はまず今でいう北海道、当時は蝦夷地をロシアに取られる前に日本に確定させようとする。

明治2年(1872)7月8日 蝦夷地(えぞち)開拓使を設置。これには幕府解体後無職となった武士を士族と改め働かせ、農地開拓や天然資源獲得を目指した。
翌月8月15日 太政官布告によって蝦夷地に北海道の名前を替え、北蝦夷地は樺太と改名した。

当時の蝦夷地にはアイヌ民族が約2万人住んでいたそうですが、彼らを日本人へ組み込んだ。

1855年、幕府がロシアと結んだ条約日露和親条約では北方四島(択捉島)より下は日本、ウルップ島より上はロシア。北蝦夷地(樺太)は両国入り乱れた雑居地でよいということになっていた。
北方領土に関してはいつか書くと思いますので、今回は書きませんが一言だけ私は千島列島まですべて日本領土と考えています。理由はそのときに。

欧米列強と肩を並べるため、情報伝達手段の強化を図る。
明治2年12月25日 それまで飛脚が現役だったのですが東京-横浜間で電信が開通する。欧米は江戸時代にすでに繋がっていた。技術はイギリスから技術者を呼び3か月で整備した。


明治4年長崎-上海、長崎-ウラジオストク開通。これ電線海底ケーブル繋いだらしいよ。この時代にすげぇなまじ。
明治6年東京-長崎間が開通。これで世界と繋がったと思ったそうだ。

明治4年(1871)~6年 岩倉具視・大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・山口尚芳が世界一周をして世界の最先端を学んでくる。『岩倉使節団

文明開化が起こって国内へ急速に海外文化が入りだし生活が洋風化し始めた。新政府は外国からの国民支配を恐れたのでしょう、国民の心を一つにする政策を行う。

明治3年1月3日 大教宣布の詔を発する。
内容
神道を国教と定める。国学者による全国への強化活動(天皇を中心とした国家)。

土地、人民、精神をまとめることにより新政府の中央集権化の動きの始まりだった。

ほんと激動の時代ですね。今日はここまで。

  

Posted by hirok○ at 20:07Comments(0)明治~