2015年05月16日

遠見御番所設立の理由 ㊴

『牛深御番所絵図 其の三十九』クリックにて拡大


 牛深遠見御番所の初めの頃は襲来同然にやって来る異国船の発見であり、防衛警固のため長崎奉行所へ注進する目的で烽火伝達、村継ぎ注進飛脚を整備することにあった。

 御番所は寛政十一年四月一日に発足したが、この頃烽火台による注進伝達を行った景跡はなく、また烽火台そのものを自ら構築したこともない。
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こちらの部分
只今掲載見合わせ中・・・

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迅速であるべき遠見番の注進書簡はどのように伝達したか。

 御番所の発足前から再三富岡へ訪れた遠見番原才右ヱ門、支配勘定坂本伝之助は代官所及び天草郡方米藏(こめぐら)役所の当番大庄屋などとの打合せに奔走している。全ては代官所が情報を統括したと思われるが、富岡代官所と牛深御番所は公料地(天領)としての役割を共有しながら、米藏の大庄屋との打合せも郡内大庄屋への村継ぎ、注進飛脚の段取りも整備できたと思われる。

 島原藩二ヶ月の駐屯は、これらの手配のため幸いした筈である。

 この時期天草は日田郡代の兼帯領地で代官羽倉権九郎は俵物糺方として回浦を行っている。

 鎖国以来長崎港は積戻船(つみもどしふね)が未曾有の増加になり、天草灘は唐船の往来が頻発し、唐船は自国に帰らず、天草の浦々に漂来するようになった。

 長崎奉行石見守(いわみのかみ)は寛政十年九月のこの時期に牛深見分の折り富岡代官所に投宿している。これらの段取りは遠見番原才右ヱ門、支配勘定坂本伝之助の打合せ通りであったと思われる。

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こちらの絵は以前⑭の中番所で登場しているものと少しだけ違います。中番所の増築前を描かれている。終盤になる今回は遠見番所の設立意味、御番所の設立意味の説明で使われている。

このブログを描くに当たって、私も長い間ずっとなぜ御番所が牛深にできたのか?という疑問に対する答えを何度も考えた。これをはっきり示す有力な文献は今のところ見つかっていない。遠見番所については当初異国船監視のためで間違いないと私も思う。表向き御番所も同じ理由だと思われている。

ただ果たしてそうだろうか?御番所設立の目的は裏の目的があったのではないか?遠見番所で十分対応できるのに天草では牛深にのみ御番所が作られた意味。これを考えるのが歴史ロマンでありおもしろいのです。

仮説を立て後にそれを証明するものが出るとそれが正しい歴史になる。これの繰り返し。

お話をお伺いしている郷土史家の方は御番所設立直前から当初、長崎遠見番が何度も天草を訪れている事に着目し、郡内大庄屋への村継ぎ、注進飛脚の段取りの整備をしたと考えられた。

ふむ。なるほど。

藏役所が村継ぎのその役割を担ったことは今の天草の歴史では正史になっている。それを計画し整備したのは遠見番役人だった。これは面白い。信じるに足りる証明材料はあるとのこと。

もちろん私なりの仮説もあります。ですが証明するものが今のところ全くありませんし、話が大きくなりすぎますので、話半分読んでいただけるかんじで十分です。
その仮説は最後の回で感想含め記載いたします。

ふえぇー長くておそらく読んでくれる方放置で駆け抜けましたwそれにも私事ではございますが理由があり時には涙wしながら歯を食いしばりwながらパソコンカタカタしました。

次回絵図は最終。郷土史家の方の想いと私の想い受け取って!牛深の方達。






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2015年05月15日

牛深御番所長手船藏図 ㊳

『牛深御番所絵図 其の三十八』クリックにて拡大


 この場所は通天橋への取付道路で、現在長手公園になっている所である。

 船藏は他の施設とは異り平面図がないので長崎資料に調べている施設を推考できる範囲のものを描いてみることにした。

 この場所は元々牛深漁協の所有地、それ以前は深川鰹節加工場があった所である。

 牛深御番所は最初に船藏も設置した。時化の時などに上架場に船舶を引揚げ、又は台風時に船舶を船蔵へ格納した。

 普段は修理、補修、上架など船舶廻りのことは船番組が一切をまかなっていた。

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場所については以前長手の絵図がありましたので絵図②を御覧ください。こちら
ラストまでもう少しです。





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2015年05月14日

遠見番御役人の仕事ぶり ㊲

『牛深御番所絵図 其の三十七』クリックにて拡大


 (『※※※※文献名』(10の6)遠見番上司へ上申書控)
どの文献かは今は非公開

『牛深の儀は薩州之渡り口而薩州、長崎ハ僅三里相隔居申候、此処は至而宜敷湊故、薩州往返之船は番、牛深乗入申候間、廻船無絶間数多繋り居申候、別而不正之荷物或は抜俵物、積戻船も皆此浦相集り申候、殊船と船より荷物仕替候事も有之、又は此浦而日和見合せ薩州地乗込或は下之関之様致渡海候船も有之候故、殊之外繁昌之浦而御座候(以下省略)』


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古文書の文章を全文現代語訳
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こちらの部分
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ちょっと意味がわかりづらいとは思いますが、もっと簡単に書きます。
牛深は鹿児島への入り口であってしかも長崎へも近く長崎ー鹿児島間往復の場合立ち寄る湊として良港ばい。
俵物の抜荷もここで違う船に移し替えたりしてますし、それよりも普通の船もここでたくさん荷替えをしてまーす。鹿児島に行くとき又は下関のように海を渡る船も、天候などの風待ちもしていて、とても賑わっているでござるでござる。

なーんて(^o^)笑。おふざけが過ぎてますがもちろん上司に報告してる文章なのでわかってるとは思いますが丁寧語ですよw怒らないで(*_*;

牛深の御番所で実存するこの文章を書いたという風景が上の絵図ですね。
実際の牛深の賑わいがわかる古文書ということですね。すげーm(__)m







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2015年05月13日

阿蘭陀船ご一行お・も・て・な・し ㊱

『牛深御番所絵図 其の三十六』クリックにて拡大


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 │         │月十八日 長崎蒸気船
 │ 破損      │
 │ 滅失      │役々方ハ勿論、其外
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           阿蘭陀乗組御船揚宿ハ

           役座并ニ松屋阿蘭陀宿ハ㋯

           メ三軒一御泊り翌十九日

           御出帆右諸雑費左之通り

           弐貫四拾四匁八歩此舸子

           割壱人付五拾五匁三歩づつ

           四貫四匁七歩当口請ーーーーーーーーー
           │                 │
           │ 破損              │
           │ 滅失              │
            ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 上の文章は「宮崎郷永代萬覚帳」で年号不詳のもの、一部破損滅失のため、文意確定ならず絵のみ描いてみた。

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上記古文書からオランダ船が牛深に来て、その乗組員をもてなすことが牛深での公務として行われたということだろう。乗組員は役座(庄屋)と松屋に泊まり、阿蘭陀人は㋯(マルミ)という料亭に泊まった。そこではハイヤ節も踊られていただろうというのが絵にも描かれている。時代は蒸気船ということは幕末に近いと思われます。もっとわかりやすく言うと勝海舟が蒸気船で天草をぐるっと周ってる頃ですよ。

古文書のお金の勘定はおそらくその公務にこれだけお金がかかり、それを元に代官所か奉行に請求をしたものではないのかなと思う。確かにこういう歴史が在ったという証拠。

ほんとワクワクします。





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2015年05月12日

長崎の御番所 ㉟

『牛深御番所絵図 其の三十五』クリックにて拡大


 長崎資料「諸官公営絵図」により、長崎港内警固に当ったそれぞれの番所写真に収め、その写真をもとに模写して、再度写真に撮ったものをここに紹介することとした。

 福岡黒田藩の西泊番所、佐賀の鍋島藩の戸町番所が長崎港口に対峙して、長崎港内を守備する形になっている絵図である。

 両番所は沖の両番所と呼ばれ、双方合わせて千人の藩士が詰めて千人番所とも呼ばれていた。

 長崎奉行所は立山役所と西役所の二つになって、立山役所は唐船を始め、諸外国オランダ、イギリス、ポルトガル、ロシア等々の来航船を警固した。

 西役所は唐船をはじめ対外交易を所轄し、長崎会所の運営を掌握する役割があった。

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寛永18年(1641)幕府は筑前藩(藩主黒田氏)に長崎港警備を命じ、さらに寛永19年(1642)佐嘉藩(藩主鍋島氏)に対しても、筑前藩と隔年交代で長崎港の警備に当たることを命じた。これにより長崎港口を押さえる西泊と戸町に番所が設けられた。 千人番所の内訳は中老以下物頭その他侍25人、足軽160人、水主320人等両番所合わせて1,000人ということである。

長崎港の警固にこれだけ人員の配置をしたということでどれほど重要視していたのかはわかる。
もちろん絵でもわかるように遠見番所だけでなく牛深と同じ御番所も設けられている。

牛深と同じく御番所の建物などはもちろん残っていないが、当時の石垣や石垣、御番所境内と掘られた石柱が残っておりもちろん県、市の文化財指定されていて説明板や石碑など整備されている。牛深にも当時の石垣などは残っているが御番所があった場所の文化財指定または御番所説明板などは設置されていない。
御番所があった場所の現在を瀬崎側から撮影。

Aコープの建物がそのまま御番所、階段状になっている凹みに御用船が繋がれていた。


ちなみに郷土史家の方の絵の元になっている「長崎名勝図絵」の執筆は文化、文政年間(1804-1829)だと思われるが、昭和になり「長崎名勝図絵」として現代仮名遣いに詳訳されたものがある。これを研究執筆されたのが丹羽漢吉先生で、ここまで読んでくださってる方はピンと来てると思いますが、もちろん牛深遠見番役人のご子孫の方ということになる。








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2015年05月11日

伊能忠敬実測 ㉞

『牛深御番所絵図 其の三十四』クリックにて拡大


 幕府測量方は薩摩を二班に別れ測量を重ね文化七年九月三日に深海村下平に到着した。

 伊能忠敬の先触れの文書は、これより先に早くから富岡代官所に届いていて、深海村庄屋橋口嘉左ヱ門は
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こちらの部分
只今掲載見合わせ中・・・

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 この時の測量の様子を、イメージで絵図に表してみた。「日本沿海測量地図」は文政4年(1821年)に完成している。

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これも有名な伊能忠敬の絵図ですね。

日本沿海測量地図と表記してありますが、当時正式なこの地図の名前は「日本地図」となっていたため、後に呼びやすい名前が付けられたということです。教科書では上記または「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」が多いと思います。もっとわかりやすく伊能図とよばれる事もあります。

実はこの地図が日本で最初の日本地図だと思われがちだが江戸幕府は計6回日本地図を製作している。4回までは各藩に提出させた地図を組み合わせていたため、あまり正確ではなかった。伊能図が江戸最後の地図でとても正確だったため評価が高く語り継がれている。

まるごと天草本から抜粋転載します。
測量隊は薩摩から大多尾に上陸。そこから南下して牛深に回り西海岸を北上して富岡へ、さらに東に向かい本渡に、次いで上島、大矢野、最後は御所浦を測量したとのこと。
抜粋ここまで。

伊能地図牛深を載せておきます。



天草を含め九州の測量は伊能忠敬代七次測量だったが、ここで薩摩の情報を少し書いておきます。
第七時測量で種子島、屋久島の測量をおこなう予定であったが、天候が悪かったため後回しになり天草へ渡った。伊能は元々種子島、屋久島への渡航は難しいということを知っており無理して渡らなくても良いと考えていたので、天草が終わった後、断念を決めた。
だが結果的には幕府の方針で、次回代八次測量での計画に両島への渡航は組み込まれた。両島を測ろうとした理由は定かではないが、伊能に全国の測量をさせると共に、当時閉鎖的だった薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいていたのではないかと推測されている。

天草の方にはこのことまで覚えておいていただきたい。理由は一番最後の回で書きます。






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2015年05月10日

千年の後まで語り継がれる ㉝

『牛深御番所絵図 其の三十三』クリックにて拡大


 久玉村ほか七ケ村の久玉組、第八代大庄屋中原新吾惟良の墓碑が無量寺墓地、中原家墓所にある。

 大庄屋は牛深御番所との外渉に終止携わったところがあった。

 中原新吾惟良の功を顧み、墓碑の板本を収めて通釈を添えることとしたい。

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いやぁ、ここも凄い回です。

先日公開済みのところで話がでました長岡興就の駕籠訴がありましたが、この久玉組大庄屋さんにも同じ様な事例があったということです。片や銅像まで立てられているのに牛深は・・・

牛深は歴史研究がほんと進んでないという現れの一つだと思います。逆を言うと港として栄えていた牛深の歴史が未研究だとするとまだ発見されていない凄い歴史が埋まっている可能性が高いということだ。

ここで全文公開はいたしませんが、上の写真の隠れている部分郷土史家の墓碑板面通釈を抜粋致します。
天草でこのことが書かれるのは初だと思います。

『ああ、この風俗の軽薄となった世に於いて長い間民に対して惻隠の心を以って臨んだ君のような人は少ないのである。君の家は代々久玉郷を正しいものにしようとした。~略~しばしば飢寒に苦しめられたのである。君はこれを憐れみ同僚と計り共に江戸に出府して幕府に哀願した。そのため租税を軽くしたので郷民安んじて生業に就き~略~文化七年十二月三日に病のために逝去した。~略~何ぞそんなに急いで天命にしたがって亡くなり長生きしなかったのかと。千年の後までも君の遺芳は伝えられるであろうに。 苓州(あまくさ) 江上源泊書き誌す』

文化七年は西暦1810年。
わかりやすく御番所と絡めると2つ目の御番所井戸ができたのが文化九年(1812)ですので時代は重なります。
この墓碑に書いてあるように千年後までこの出来事を伝えられたらいいと私も思う。






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2015年05月09日

注進船出動中 ㉜

『牛深御番所絵図 其の三十二』クリックにて拡大


 魚貫崎遠見番所は自らの早駆けの乗馬によって富岡代官所へ伝達していたとしてある。

 亀浦から崎津村への渡海は通常の渡海船でなく、注進船を郡中村々の負担割で建造しており、この注進船により崎津村へ伝達した。崎津村から大江村荒尾岳へ、さらに高浜村へ、富岡町白岩崎へ庄屋手配の村継ぎを整備していた。




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注進船といういわゆる公用船が亀浦にあったという絵です。
この時代村継の伝達手段が完全に構築されていたというのが日本の統治体制の凄さと言えると思います。
この統治体制があるからこそ日本が一つの国だと認められるということですね。



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2015年05月08日

烽火台造成 ㉛

『牛深御番所絵図 其の三十一』クリックにて拡大


 遠見番所に併設する烽火台の造成の模様を描いてみた。

 烽火台はその高さ、縦横の長さなどが、どの程度のものか不明であったが、※※※※の日記に「高一丈四尺余、三間四方」とあるのでこれを参考にした。

 遠見番所では、これらの材料を普段に準備していたという。權木、薪、芽、柴、松明、松膠(しょうこう)などであり、用水などの用意も行った。伝達先きの見通しの良い山頂に設置したものである。

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天草ではこの様な形の烽火台だったのですね。

狼煙は、人や馬が手紙を運ぶよりも遠距離を高速に情報伝達できるものである。
天草と同じ目的の狼煙台で先島諸島の狼煙台は国の史跡になっているものもある。牛深の烽火台は存在していたのは確かだが現在正確な場所はわかっていない。






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2015年05月07日

魚貫崎遠見番所 ㉚

『牛深御番所絵図 其の三十』クリックにて拡大


 魚貫崎遠見番所があった遠見岳を眺望する池田区を描いてみた。

 ここの遠見番所は大江崎の番所へ、烽火伝達に毎回取りかかるところがあった。大江崎から高浜へ、高浜から富岡番所へ迅速に伝わり、崎津からの村続きによる伝達が良く行われていて、魚貫崎の烽火台はたびたび成果を上げ、その威力は自他共に認められるものになっていた。また集落の村民は烽火上げの際は招集令が布かれる仕組みがあったという。

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とうとう30まで来ましたね(*_*;
残り10です。もうしばらくお付き合いを。

魚貫崎は龍王宮、大蛇の伝説がありますがそちらも天草の歴史関係書物を御覧ください。




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